第7話 囮と潜入
夜更け。美咲の部屋には再び、サンドバッグを打ち込む音が規則的に響いていた。
その拳にこもるのは怒りではない。揺らぐ決意を抑え込むための、理性の作業だった。
「ガンッ」
鋭い音が響いた瞬間、サンドバッグの上部から何かが落ちた。
床に転がったのは、古びた黒い手帳。
美咲は手を止め、眉をひそめながらそれを拾い上げた。
サンドバッグの上部――父が修繕した縫い目の奥に隠されていた。
埃をかぶったその手帳は、まるで誰にも知られずに“託された遺言”のように、美咲の手の中にあった。
緊張を押し殺しながら、美咲はゆっくりとページを開いていく。
中には、見覚えのない記述がずらりと並んでいた。
事件の時系列、人物の相関、隠しメモのような走り書き。
そして――あるページで、彼女の指が止まった。
そこに書かれていたのは、ひときわ濃いインクで囲まれた一文だった。
紅月開発
資金源・実態不明。警察庁内での調査は打ち切られた。<佐伯調査分も消失>
「紅月……」
見覚えのない名前。しかし、その横に記された“佐伯”という名には覚えがあった。
それは――母、佐伯遥が生前使っていた旧姓だった。
胸がざわつく。これは偶然じゃない。父と母は別々に、だが同じ“敵”を追っていた。
翌朝。
美咲は朝一番で庁内の資料室に向かった。父のノートを根拠に、旧事件ファイルをあたる。
「紅月開発……紅月……あった。」
古い経済犯罪資料の中、関連ワードとして浮上した会社が複数。
その中に紛れて存在する、「紅月開発」の名。所在地は数度変更され、代表者の顔写真も曖昧。
実態がない“ペーパーカンパニー”の典型だ。
だが、ひとつだけ気になる記述があった。
2013年、西東京市郊外の再開発事業における裏入札疑惑あり。告発者不明のまま事件は不立件。
「2013年……母が殺された年と、同じ……」
そのとき、資料室のドアが開いた。
「やっぱり、ここか」
玲奈だった。
「昨日のあのメール、まだ警察庁には報告してないんでしょ?」
美咲は短く頷いた。
玲奈は近づいてきて、美咲の手元の資料に目を落とす。
「“紅月開発”……あんた、それ、どうやって知ったの?」
その声音には、わずかな震えが混じっていた。
美咲は、玲奈の目をまっすぐ見た。
「父のノートにあった。……母の旧姓も書いてあった。おそらく、母もこの会社を追っていた。」
沈黙が落ちた。
玲奈は、何かを迷うように一瞬だけ目を伏せると、小さく息を吐いた。
「……私も、調べさせて。」
「え?」
「この名前、ちょっとだけ覚えがある。個人的なことだけど……関係あるかもしれない。」
美咲はすぐには答えなかった。
玲奈の中に、何か揺れているものがある。普段の彼女からは想像できない、鋭くも静かな“過去”の気配。
「いいの?」と、美咲がようやく口を開いた。
「言ったじゃん。“誰かとじゃなきゃできないこともある”ってさ。」
玲奈の笑みは、どこか照れくさそうで、そして少し寂しげだった。
その瞳の奥に映っていたのは、今この場所ではない“過去”だった。
「……あの時の真相を、知りたいだけ」
その言葉に、美咲の眉がわずかに動いた。
「……あの時?」
「うん。話せるようになったら、ちゃんと話す。約束する」
玲奈はそう言って、少しだけ目をそらした。
美咲は頷いた。その頷きは、信頼というより“覚悟”の共有に近かった。
ノートに残された、父と母の執念。
それは、ふたりの命を奪った“何か”へと続く道標。
そして今、それを追うのは、美咲ひとりではなくなった。
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