第7話「パパとお祖父ちゃんは私が護る… 『②救出作戦開始!』」
太平洋上を左側の主エンジンを失いながら飛行を続ける、父が操縦するジェット旅客機を不安そうに見つめて同じ速度で飛ぶニケの姿があった。
『どうしたらいいの、ママ…?』
『しっかりしなさい、ニケ! 今この地球上で、あなたしか乗員乗客全員を助ける事は出来ないのよ!』
目の前の危機に瀕して狼狽える娘を、母としての慈愛の気持ちと女神としての威厳を込めてアテナは強い調子の念波で叱咤激励した。しかし、無理もない… 人間としてのくみはまだ15歳になったばかりの少女なのだ。
つい先ほどまで学校で受けていた授業を途中で抜け出して来た、たかだか中学3年生の少女が、数百人の乗員乗客の命を救わなければならないという過酷な事態に直面し、たった一人で立ち向かっているのだ…
動揺したとしても、いったい誰が彼女を責められるだろうか?
『ごめん…ママ。そうよね… 私がやらなきゃいけないのよね。よし、頑張ってみる!』
ニケは母からかけられた言葉で落ち着きを取り戻した。
『そうよ…くみ、それでいいの。落ち着いて、みんなを助けるのよ。あなたになら出来るわ。
まず、破壊されたエンジンの状態を外から詳しく見てちょうだい。』
『うん… 今も怪物の吐き出した唾液で溶け続けてるわ… 早く何とかしないと…』
『ニケ、飛行機の翼を破壊しない様に注意して、エンジンだけを基部から切り離しなさい。あなたの瞳から放つ「ニケの青き炎」を使って。』
『わかった、ママ。やってみる…』
『ニケの青き炎』とは、先ほど巨大ムカデの怪物との戦いで使った、ニケが両目から発する青いレーザー光線の事である。その光線を使って溶け続けるジェット機の左翼エンジンだけを、翼にまで溶解が及ぶ前に切り離すようにとアテナは言っているのだ。
しかし、何といっても巨大なエンジンである。それだけでマイクロバスほどの大きさがあるだろうか。それが今、徐々に溶け進んでいくのだ。いったい、あの怪物の唾液にどれほどの溶解力があったと言うのか…? 本体が死んだ今でも、吐き出した唾液の溶解力は全く衰えを知らないかの様だった。
ニケの双眸が再び青く光り輝き始めた。ニケはエンジンと翼を繋いでいるジョイント部分に視点を合わせて出力を調整した光線を照射し続け、溶接機の様に焼き切り始めた。
「慎重に… 絶対に翼を傷付けないように…」
ニケは自分の気持ちを落ち着けようと、何度もつぶやきながら切断作業を進めていく。しかし、その間も怪物の唾液による左翼エンジンの溶解は、下の方から徐々に付け根へ向けて進んでいる。
ニケが行なっているのは、女神である彼女だからこそ出来る、まさしく神業としか言いようのない行為だった。
ニケはジェット機と同じ時速数百キロmのスピードで飛び続けながら、この難しいエンジンの切り離し作業を行なっているのだ。並みの集中力や忍耐力では不可能と言っていいだろう。
「頑張って、ニケ… いえ、私の愛しいくみ…」
母アテナは、遠い日本の地で娘の健闘を祈り続けるしかない自分を歯がゆく思った。
しかし、ニケにはそんな母の祈りがしっかりと届いていたのだ。あと少しで焼き切れるという段階まで来たところで、左翼エンジン自体の重みで残った接合部分は引き千切られる様にして翼から分離した。重いエンジン部分は、左翼から切り離された後も溶解し続けたままジェット機の後方へと飛び去って行った。すぐにも太平洋に着水し海底へと沈んでいく事だろう。
『やったわ、ママ!』
ニケは目的を達した喜びに顔を輝かせながら母アテナに念波を送った。
『よくやったわね、くみ… 』
アテナは涙を流しながら、困難をやってのけた我が娘の健闘を褒め称えた。出来る事なら今すぐ飛んで行って、愛するくみを自分の胸に抱きしめてやりたかった。
『さあ、くみ… 喜ぶのはそこまでにして。まだ終わりじゃないわ!』
アテナの激励に頷くニケ。母アテナの言う通りなのだ。熔解し続けるエンジンを切り離しはしたものの、右側の主エンジンだけでは目的地である東京の成田空港までどころか、日本近海にまで辿り着く事は出来そうにないのだ。
今のままでは、父が操縦するジェット機は多くの乗客乗員を乗せたまま太平洋の藻屑となって消え去る事は火を見るより明らかだった。
『ニケ、すぐにお父さんの所へ行きなさい。操縦席の窓の所へ。』
アテナには何か考えがあるらしかった。さっそくニケは言われた通り行動に移った。ジェット機の操縦席の窓の外側部分に取り付いたニケは、そっと中を覗き込んだ。
「パパがいた…」
ニケにとって実の父である榊原竜太郎が操縦席に座って操縦桿を握っている。隣の座席には、見覚えのある副操縦士も座っていた。
「駄目だわ…パパの隣にもう一人いる。あの人、確か…パパの後輩の齊藤さんだわ。前に一度会った事がある。齊藤さんには絶対に私の姿を見られないようにしなきゃ…」
今回のフライトでの副操縦士はくみの見知った人物だった。以前、父の職場である空港を見学した時に紹介されたのだ。二人とも真剣な表情で何かを話し合っていた。
『ママ、操縦席の窓のすぐ近くに着いたわ… 』
『分かった、私はお父さんに念波を使って話しかけてみる。お父さんとは前に念波で話した事があるのよ。精神の波長を合わせてみるわ… 』
アテナは竜太郎と以前に精神で会話をしたらしいが、果たして上手くいくのか…? ニケは操縦室の二人から見えないように隠れながら、ハラハラして待つしかなかった。
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操縦室では、機長の榊原竜太郎と副操縦士の齊藤が自分達が操縦する機体の現状を真剣に話し合っている最中だった。
「齊藤君、考えたくも無い事だが左翼のエンジンが完全に停止した挙句、遂に落下してしまった。こんな事態は私の長いパイロット経験の中でも初めてだし、無論君も同じだろう。
この事態の原因は全く持って不明だが、我々は現実として受け止めるしかない。このまま当機は右翼主エンジン一基のみで着陸まで飛行を続けるしかない。機体の緊急時マニュアルでは、片側のエンジンが停止した状態では3~4時間以内に着陸すべきとなっているが、成田空港まで後どのくらいだ。」
機長である竜太郎の問いに、緊張と不安で真っ青な顔色をした齊藤が答えた。
「はい、機長… 確かに緊急マニュアルでは、片側エンジンのみでも何とか飛行可能となっています。しかし… 」
「しかし…? どうした、続けたまえ。」
「はい… 左翼エンジンへの燃料供給は既に停止したのですが、それまでにかなりの燃料が流出してしまっています。私の計算では、右翼エンジンのみで飛行し続けたとしても、正直言って成田着陸まで燃料が持つかどうか微妙なところです。
それに、緊急マニュアルに記載されている『片側の主エンジンのみでも飛行可能』という表現は、エンジンが停止した事を想定しているんです。エンジンを丸ごと失ってしまった事など、まったくもって想定外です…」
興奮して唾をまき散らしながらしゃべる齊藤の目は血走っていた。墜落の恐怖から無理もないとは言っても、危険な兆候だと竜太郎は思った。
パイロットとしての先輩であり、上司でもある自分が落ち着かなければ当機の運命は墜落するよりも前に破滅的な終局を迎えてしまう… そう考えた竜太郎は気持ちを落ち着けて冷静な態度で斎藤に語り掛けた。
「その通りだ。当機の現状は想定の範囲を遥かに超えているんだ。ん…?」
突然、竜太郎が重要な話を途中で止めてしまったのを副操縦士の齊藤は不審に思った。
「どうしました、機長?」
何かに気を取られた表情だった竜太郎は齊藤に問われると、自分の腹を押さえながら答えた。
「いや、何でもない… 急に腹が痛み出したんだ。こんな時に悪いが、ちょっとトイレに行かせてくれ…」
心配そうな顔で自分を見つめる齊藤に無理に作った笑顔で断ってから、竜太郎は言葉通りにトイレへ行くべく操縦室を出た。
トイレまで行く途中で心配そうな表情で機長である竜太郎を見ている女性CA(客室乗務員)に対して、心配しない様に笑顔を向けて見せた。乗員には、すでに当機のエンジントラブルについては伝えてあったのだ。
トイレに入った竜太郎は、便座に腰を下ろすと静かに目を閉じた。
『アテナか…? 急にどうしたんだ? 今、私の機は大変な事になってるんだ。』
竜太郎は愛する妻アテナから自分に送られて来た念波を感じ取ったため、一人トイレに籠ったのだった。彼が女神として覚醒した妻アテナと念波で会話するのは、これが初めてでは無かったのである。
『あなた… あなたのジェット機は空を飛ぶ怪物に襲われて左翼のエンジンがやられたのよ… 今、ニケがあなたの機の外壁に取り付いて待機しているわ。』
『何? ニケが…? くみが来ているんだって? それに怪物がエンジンを…? 信じられん…』
竜太郎はアテナの説明に愕然とした。普通ならばいくら相手が妻だとは言えど、そんな荒唐無稽な話を信じる筈は無いが、自分の妻がギリシャ神話に登場する女神アテナがこの世に人間として転生した女性だと承知している竜太郎にとっては、彼女の言葉を疑う事など無かった。そして、自分の娘くみが『勝利の女神ニケ』の転生した存在だという事も彼は知っているのだ。
それだけでは無く、今、当機に乗っている父の賢生が稀代の大陰陽師であるという事実も、『怪物』という存在を理解する事に力を貸していた。竜太郎自身も少年時代に、ある程度の陰陽道に関する知識を父から学び、自身も陰陽師としての修行をした身でもあったのだ。
『落ち着いてちょうだい、あなた。すでに怪物はニケが退治したわ。そっちの方は大丈夫よ。
でも、怪物との戦闘が原因で左翼の主エンジンを失ってしまった。だから、機長のあなたに今後の判断をして欲しいのよ。外でニケがあなたの指示を待ってるわ。』
『何がどうなってるのかよく分からないが、君の言っている事は本当だろう… 私は信じるよ。君に聞くまで原因は不明だったが、確かに当機は左翼のエンジンを失ってしまったのは事実だ。今、副操縦士の斎藤君と話していたところだ。まさか、その原因が怪物によるものだったとは思いもしなかったが…』
『乗っている人達の全てが怪物の事に気付ずに無事でいられたのは、あなたのお義父様のお陰なのよ… 』
『父さんの…?』
『そう。お義父様が飛行機全体に強力な結界を張って下さってたお陰で、怪物は機体に侵入出来なかったのよ。今は疲れて眠っていらっしゃるわ… 』
『そうか… 親父が結界で…』
『それよりも、あなた。その機を何とかしないと。』
『そうだな… ニケと君は念波で話せるんだな?』
『ええ… だから私が、あなた達二人の意思を伝える中継役になるわ。』
『分かった、頼むよ。』
それを最後に、竜太郎は操縦席に戻った。彼が戻ると、すぐに副操縦士の齊藤が不安そうに言った。
「機長、機体が左に傾いています。左の推力が落ちた分、どうしてもそうなってしまいます。さっきから立て直そうとしているのですが…
このままの当機の状態では、本来の目的地の成田までたどり着けるかどころか、予定の航路がどんどん左へ…つまり西へと逸れて行きます。燃料の残量も併せて考えると…機体及び全乗客乗員の生還は難しいどころか不可能としか…」
そう正直に告げた齊藤の顔面は蒼白で、全身が小刻みに震えていた。彼は自分の中ですでに最悪の事態を想定し、逃れられぬ死を覚悟しているのだろう。
「君の言う通りだろうな… 当然考えられる事態だ。だが、このB777機は一基のエンジンが停止しても3~4時間は飛行可能なはずだぞ。マニュアル通りなら…だが。」
すでにアテナと交わした念波で自分が機長を務める機体の状況を承知している竜太郎だったが、齊藤に対し敢えて口には出さないでいた。
「はい、私も当初は機長の仰る通りにそう考えていましたが、調べて見たところ左翼のエンジンは停止したのではなくて、完全に無くなっているんです。信じられない事ですが丸ごと落下してしまった… そのため、機体のバランスが大幅に狂っているんです。このままでは、飛行を続ける事自体が絶望的な状況です… 」
「君の言う通りだと思う。まったくもって厳しい状況だな。」
そう言った竜太郎は、操縦席に座って目を瞑った。
「すまん、齊藤君。しばらく声をかけないでくれないか。何かいい策がないか集中して考えてみたいんだ。」
目を閉じたまま齊藤に告げた竜太郎は、アテナに向けて自分の心を解放した。これまでに何度も妻との間で行なって来た事だった
「分かりました、機長。ですが、燃料の残り時間も考慮して下さい。」
ぐったりと副操縦士席に座り込んだ齊藤が疲れ果てた声で返事をしたが、すでに心を集中している竜太郎の耳には入らなかった。
竜太郎はアテナに対して懸命に念じた。
『アテナ聞こえるか…? 返事をしてくれ… 』
『ええ、聞こえているわ、あなた… 』
『ニケに頼んでくれないか。あの娘が日本の学校から、私の機までの距離をわずかな時間で飛んで来た事を考慮すると、十分に検討に値する考えがあるんだ。今から私の言う事をよく聞いてくれ… 』
そう言うと竜太郎は妻アテナに自分の計画を打ち明け、彼女に細かい指示を伝えた。
『分かったかい? この計画を君からニケに伝えて欲しいんだ。』
深い洞察力を持ち、頭が良く、全面的に夫を信頼しているアテナは何の疑念も挟まずに彼に応じた。
『 …… 分かったわ、あなた。今の話を私からニケに必ず伝える。』
アテナとの念波での会話を終えた竜太郎は、閉じていた目を開くと隣でぐったりと座っている齊藤に対して話し始めた。
「齊藤君、今から私が言う話は君には理解不能かもしれないが、何も言わずに私を信じて指示に従ってくれないか。頼む…この通りだ。」
竜太郎は後輩であり、部下でもある齊藤に対して深々と頭を下げて頼み込んだ。
「や、やめて下さい…榊原さん。頭を上げて下さい、機長!
私はあなたを機長としてだけでなく、人間としても深く尊敬しているんです。どんな時でも私はあなたに従います。どうぞ、何でも指示して下さい!」
斎藤は頭を下げている竜太郎の両肩を掴んで強く揺さぶった。斎藤の発した言葉には竜太郎に対する強い信頼が込められていた。
「ありがとう… 齊藤君。私達二人でこの機を何とかしようじゃないか!」
顔を上げた竜太郎は、そう言いながら齊藤の肩を力強く叩いた。その時、齊藤の肩越しに見える操縦席の窓の隅で何かが動いた気がして、竜太郎が目を凝らすと… そこに娘のくみが…いや機体にしがみ付いているニケの顔が見えた。こちらに向けて悪戯っぽい笑顔を浮かべて手を振っている。
それを見た竜太郎は、危うく齊藤の前で声を上げるところだった。我が娘ながら、いつ見ても無邪気で愛らしく、思わず抱きしめたくなる笑顔だ。
「機長? どうかされましたか? 外に何か…?」
齊藤は窓外を見つめる竜太郎の視線に気付き、自分の後ろを振り返った。だがそこには、遥かに広がる青空と、そこに浮かぶたくさんの白い雲の群れしか見えなかった。
首を傾げながら齊藤は竜太郎の方に向き直った。そうすると、隠れていたニケが再び現れて竜太郎に向けて右手を突き出し、親指一本のみを真上に向けて立てる『サムズアップ(Thumbs up)』のポーズを取った。「OK」のサインだ。ニケは父である竜太郎に合図を送っているのだ。彼女はアテナから竜太郎が立てた計画を聞いたのだろう。
竜太郎は齊藤に気付かれない様に、ニケに向けて左目を瞑るウインクをして見せた。これは彼から娘への「GO」の合図だ。くみが幼い頃から、父娘二人の間で行われていたサインだった。竜太郎が教えたのだ。
竜太郎を見ていたニケは、父の左目のウインクを確認した。竜太郎から自分への「GO」の合図だ。
「わかった、パパ。作戦開始ね! 私が絶対にみんなを助けるわ!」
それまでニケは、父が操縦するB777機の操縦席外側の副操縦士席から見え難い位置で機体にしがみ付きながら、中にいる父達の様子を窺っていたのだ。彼女は背中に畳んでいた銀色の翼を大きく広げると、羽根を太陽に煌めかせながら飛び立った。
今…もし、竜太郎達が乗る飛行機を外から見ている者が在ったなら、銀色の小さな物体が軽やかでスピーディーに飛行機の操縦席から分離して飛び立つ姿を目に留めただろう。
だが、その銀色の物体が『勝利の女神ニケ』であるなどと誰も予想だに出来なかったに違いない。




