第1話「壁を這う怪物との戦い」
第1話「壁を這う怪物との戦い」
「うわああああああーっ!」
突然、狂った様な絶叫と共に空から人が降ってきた…
そして、激しい音を立ててアスファルト舗装の硬い路面にぶつかる。
どどおぉーんっ! ぐっしゃあっ!
たとえ幻聴であっても誰も聞きたくなかったに違いない。
上空から落下して来た人間が路面と激突する際の衝撃音と同時に、聞くだけで胸が悪くなり吐き気のする人体の破壊される不快な音が、午後4時を少し回ったばかりでまだまだ明るい周囲のビル街に響き渡った。
ここは都心部に近いビジネス街で、様々な企業の入った複合ビルが立ち並んでいる。今、人が落下して来たのは、このビル街においては中規模程度と言える32階建ての高層ビルだった。ほとんどの企業が終業を迎える午後5時までまだ少し間のある時間帯だったが、それでもビルの真下の地上には、それなりの数の人通りがあった。
「きゃああああーっ!」
たまたま近くの歩道を歩いていた若いOLが、自分のすぐそばに落下して来た人間が路面と激突する瞬間を数mの距離で目撃し、けたたましい悲鳴を上げて飛び退いた。
可哀そうに、路面に叩きつけられた人間の真っ赤な血しぶきと割れた頭部から飛び散った灰色の脳漿や肉片などが混ざり合い、彼女の着ていた白いブラウスと鮮やかな菫色だったスカートを、ある意味独創的ともいえる複雑で不気味な色合いの模様に染め上げていた。
そのOLは自分の目の前で起こった人間の落下という現実に対する驚愕よりも、自分の着ている服が一瞬にして奇妙な色に染まったのを見た途端、ショックで膝から崩れ落ちる様にして倒れると、アスファルト舗装の歩道に直に横たわったまま気を失ってしまった。彼女の脚の間から、湯気を上げる黄色い液体がゆっくりと広がっていく。気の毒な彼女は突然目の前で起こった衝撃的な光景を目撃したショックで膀胱が緩み、失禁してしまったのだろう。無理も無い事だった。
たまたま、この瞬間に現場を通りかかっただけの何の罪もない彼女には、まったくもって気の毒としか言いようがなかった。可哀そうな彼女は、今日目にした光景を生涯忘れる事が出来なくなるに違いない。
高層ビルの上階から墜落して来た人体が路面に叩き付けられて潰れる不快な音を聞くだけでも十分なのに、こんな悲惨で悪夢のような光景は、気を失ったOLだけでは無く、その場に居合わせた誰もが自分の生涯において一度たりとも見たくは無かっただろう。だが現実は、無慈悲にも偶然居合わせただけの人々に情け容赦無く突然に襲いかかって来たのだった。
「助けてくれええええー!」
地上にいた人々が墜落現場を囲んで騒然としていた時、突然上空から耳をつんざく様な男性のけたたましい叫び声が上がり、その狂った様な声が尾を引きながら段々と大きくなって来た。
墜落現場の近辺に居合わせた人々が一斉に上を見上げた次の瞬間、何とした事だろうか、またしても別の人間が上から降って来たのだ。
一見して仕事中のビジネスマンだと思われる格好をしたその人物は、先ほどと同じく目の前に聳え立つ高層ビルの上階から転落して来たと思われた。男性は頭を下にして逆さまに落下しながら、まるでそうすれば助かるとでも信じているかの様に、翼でもない両腕と両脚を狂った様に必死でバタつかせていた
「うわっ! また人が落ちて来たあっ!」
「危ないっ!」
「逃げろおっ!」
「た、助けてえーッ!」
口々に叫びながら両手や持っていたカバンで自分の頭をかばい、慌てて逃げ惑う地上の人々… 上で何が起こったのか分からないまま、下にいる彼らはパニック状態に陥っていた。
どおおおーん! ぐっしゃあっ!
「きゃあああーっ!」
「きゅっ、救急車を呼べ!」
「バカ言うな! 助かる訳が無いだろう!」
「け、警察よ! だ、誰か! 早く警察に連絡して!」
またしてもビジネス街に凄まじい激突音が響き渡るとともに、先ほどに引き続いて多くの人々の見守る中で無残にも二人目の人体が破壊された。
踏み潰されたトマトの様に路上に横たわった人体を恐る恐る遠巻きに囲んだ人々が、口々に恐怖の叫びと苦悶の呻き声を上げた。中には、衝撃的な光景に耐え切れずに胃の内容物を路上に吐き散らしている者もいた。
不謹慎な者達はSNSに動画か画像を投稿しようとでも言うのか、スマートフォンを構えて凄惨な現場を撮影していた。
高層ビルから墜落した二人の人間が続けて激突した現場から、安全だと思える距離まで遠ざかった人々が一斉に上を見上げると、人が落ちたと思われる高層ビルの二十数階ほどの高さに相当するだろうか、地上から遥か高くに位置したビルの壁面にへばり付くようにして生物らしき何かが、ゆっくりとだが垂直の壁を明らかに自分の意志を持って這い回っていた。
人々は自分の目を疑った。壁面を這うその何かは窓と比較した大きさといい、四肢を広げた姿形といい、どう見ても人間にしか見えないのだった。。
だが、ハリウッド映画の様な特撮やCG動画でもあるまいし、人間に高層ビルの壁を這う事が出来る訳がない。しかし、地上にいる人々の見る限りでは、窓ガラスの清掃員達が使用する業務用ゴンドラ等はどこにも見当たらず、その何かは自らの身体に命綱さえ付けていない様子なのだ。
それでも、その何かは、まるで重力を無視するかのように高層ビルの壁面に張り付き、蠅かヤモリの様に自在に這っているのだった。
「な、何だよ…アレは!?」
「アイツも落ちて来るのか?」
「そもそも人間なのか? いや、そんな筈が無い!」
「バケモノよ… ば、バケモノだわっ!」
誰からともなく、人々がバケモノと呼んだその生き物(?)は、地上70mもの高さの壁を素早い動きで自在に這い回っているのだ。
すると突然、そいつの頭部の口らしき部分がパカッと大きく開いたかと思うと赤黒い色をした長いひも状の何かが勢いよく飛び出した。すると、それは近くの窓ガラスを破って室内に飛び込むのがズーム撮影をしていた者のスマホの液晶画面にハッキリと映し出された。
「やっぱり、ヤツの姿は人間の形状をしてるぞ! それなのに、何だあれ⁉ 野郎、口から何か鞭みたいなモノを吐き出しやがった!」
甲高い声でそう叫んだ若い男の傍に人が集まり、スマホの液晶画面に拡大された映像を覗き込む。若い男を見習ってスマホを上にかざす者達も現れた。
壁を這うモノが口から吐き出したのは、その場所から言っても…舌なのだろうか?
正体は不明だったが、人々がバケモノと呼んだそいつは、もはや怪物と言っても差し支えは無いだろう。いくら姿形が似てはいても、世の中にこんな人間がいる筈が無かった。
その人型をした怪物は壁を自在に這う事に加え、舌を伸ばして獲物を捕獲する姿といい、カエルかカメレオンと行動形態が似ている様に思われた。
そして怪物は、地上から固唾を飲んで見上げている人々の注視する中、ビルの窓越しに放った自分の長い舌らしき部分を使って、中にいた人間を捕まえて引きずり出し始めたではないか。胸の辺りに怪物の舌を巻き付けられて捕らわれたビジネスマン風の男性は窓枠に両手でしがみ付いて必死に抵抗している。
「やめろおーっ! やめてくれええーっ!」
しかし、狂った様に叫びながらの必死の抵抗もむなしく窓枠から引きはがされた男性は、強靭な舌で怪物の頭上に軽々と持ち上げられたかと思った次の瞬間、地上の人々が見守る遥か下の道路に向けて容赦なく放り投げられたのだった。おそらく、先ほど墜ちて来た二人も同様の目に遭ったのだろう。
「うわああああーっ! 死にたくないーっ!」
落下する男性の身体が風を切る音と、彼が上げる断末魔の叫びが地上に向かって恐ろしい速度で近付いて来た。
「さ、三人目だ! また、人が落ちてくるぞっ!」
「きゃああああーっ!」
「また人が落ちて来るぞ! 逃げろおっ!」
「早く離れろっ!」
「危ないっ!」
またしても、高層ビル下の地上にいる人々が口々に叫びながら自分の頭を抱えて逃げ惑った。
「化け物だあっ!」
「ば、化け物が人を投げ下ろしてるうっ!」
「だ、誰か警察を! いや、自衛隊だ! 自衛隊を呼べっ!」
そして地上に集まった野次馬ばかりでは無く、今度は怪物が這う高層ビルの上階の方から…いや、怪物が舌を使って人を引きずり出した部屋の中にいる人々の悲鳴が聞こえてきた。
「人殺しぃっ!」
「だ、誰かっ! 警察を呼んでくれえ!」
「助けてえっ!」
「殺されるっ!」
たった一体の怪物によって高層ビルの上方と地上にいる人々が同時にパニックに陥っていた
地上に集まっていた人々の大半はパニックを起こしてその場から逃げ出していたが、中には手に持ったスマホで遥か上方で起こる惨事を撮影している野次馬精神の旺盛な者や、冷静に警察や消防に連絡している者もいた。
地上の大騒ぎになっている人混みから少し離れた場所で立ち止まり、他の者達と違って落ち着いた態度で現場である高層ビルを見上げている二人の人物がいた。
それは見るからに奇妙な取り合わせの二人組で、一人は和服姿の小柄な老人男性…年齢は70代くらいで豊かな頭髪も綺麗に整えられた髭も真っ白だったが姿勢は良く、若者に負けないくらい足腰はシャンとしているように見える。
もう一人の方はというと、セーラー服を着て学生鞄を持っている事から十四、五歳くらいの女子中学生だろうか? あるいは、もう少し上の女子高校生か?
どちらにしろ、その姿はグラビアモデルの様にスラリとして、ほっそりとした腕も脚も長い日本人離れした抜群のプロポーションで、体型だけでなく顔立ちもまた純粋な日本人では無く彫りの深い整った造りで、混血であったとしても容姿共に白人の血が濃厚に現れた印象のする、誰がどこから見ても美しい少女だった。
少女の腰まで届いた長いサラサラの髪は明るい栗色で、瞳は非常に美しい深く澄んだ青色をしていた。
「お祖父ちゃん、あれ、何とかしないと…」
「ああ、それは確かにそうなんじゃが…」
驚いた事に二人の会話を聞いていると、純和風の老人と明らかなハーフだと分かる青い瞳の美少女は祖父と孫娘という間柄らしい。しかし、二人に似ている部分は皆無と言っても間違ってはいまい。
セーラー服姿の孫娘が自分より小柄な連れの老人を見下ろす様にして話しかけたが、老人の方は自分達の前方で起きている騒ぎに関わり合いたく無いのか、二の足を踏むような態度が、その表情や口調にもありありと現れていた。
会話の調子では孫娘が熱心に祖父に話しかけている感じなのだが、祖父の方はと言えば、目の前で起こっている事件などどこ吹く風という感じの消極的な態度を改めるつもりは無さそうだった。
それ以上いくら言っても無駄だと覚ったのか、少女は自分の持っていた学生鞄と買い物の入った紙袋を老人に押し付ける様にして強引に手渡した。
「もういい。私、黙って見てられないわ。お祖父ちゃんが何て言っても、私行くわよ。お祖父ちゃん、これ持ってて!」
態度の煮え切らない祖父に向けてそう強い口調で言い捨てると、少女は何を思ったのか、怪物の這うビルとは反対方向に建つ、少し離れたビルの方に向かって突然駆け出した。
「待ちなさい、くみ!」
鞄と紙袋を押し付けられた老人が慌てて静止の声を上げて止めても、意を決した少女は祖父の方を振り向きもせず、美しい後ろ姿を見せて駆けて行く。驚いた事に、少女の走る速度は陸上オリンピックの短距離選手並みの速さだった。しかも金メダル間違い無しと言っていいレベルの脚力なのだ。
幸いな事に怪物騒ぎのおかげで、ただ立っているだけでも人目を引きそうな美少女が驚くほどの速力で走る姿に注目していた者は誰もいなかった。
祖父らしき老人から『くみ』と呼ばれた美少女は、怪物騒ぎで騒々(そうぞう)しい人混みから少し離れた場所に建つ隣接した雑居ビル同士の隙間の狭い路地に駆け込み、彼女が元居た大通りから姿が見えなくなった。
「待てというのに…くみの奴め、行ってしまいおった。せっかちなヤツじゃのう。
そのうちやって来る警察に任せておけばよいものを、まったく… 我が孫ながら一度決めたら聞く耳持たんのじゃから、しょうがないヤツじゃ。誰に似たのかのう…」
口では愚痴っぽくそう呟きながらも、少女の消えた路地の方を見つめる老人の顔には、まんざらでも無さそうなニヤニヤした笑みが浮かんでいた。
くみと呼ばれた少女が姿を消したビルとビルの狭い隙間から、銀色に輝く何かが突然もの凄い勢いで飛び出して来た。
そして、それは目にも止まらぬ高速で上空へと舞い上がって行った。
「おいっ! 何だ、あれ!?」
「ロケットみたいにすごい勢いで飛び上がって行った…」
「いや、左右に銀色の翼を広げた小さなジェット戦闘機だ!」
「バカ! あんな小さな戦闘機があるもんか!」
今までビルの高層階の壁を這う怪物を見上げたり、その光景をスマホで撮影していた人々の口から驚きの声が上がった。
「おい、何だか知らねえけど、化け物のいる高さまで飛んで行って、空中で止まったぞ…」
「静止飛行してるのか?」
「何なんだ、あれ…?」
「背中に銀色の翼が生えてる…人間?」
「着ているのはセーラー服…だよな。なら、学生の女の子か…?」
人々は自分の目撃している光景が信じられずに我が目を疑い、突然の奇妙な出来事に戸惑った声で口々につぶやいた。
ビルの隙間から舞い上がった存在は、地上二十数階の高さのビル壁面を這っている怪物のすぐ前方の空間で静止した。それは、背中に生やした巨大な銀色の翼をゆっくりと羽ばたかせて空中で静止飛行しているのだ。
その空中に浮かぶ存在は背中で羽ばたいている銀色の翼を別にすれば、姿形は紛れもなく人間で、どこかの学校の制服だと思われるセーラー服の上下を着た少女の様にしか見えなかった。
驚くべき事に、その少女(?)が着ているセーラー服の背部で襟の下部分が捲れ上がり、背中から飛び出した巨大な銀色の翼で服の布地が破れない様な仕掛けが施されていた。この事からも、接合部がどういう構造になっているのかは不明だったが、謎の少女の背中で羽ばたく銀色の翼が身体と一体化して彼女を飛行させている事は間違い無い様に思われた。
しかし、少女の背中で力強くゆっくりと羽ばたきを繰り返すたびにキラキラと銀色に輝く巨大な翼は、どう見ても機械めいた作り物には見えなかった。
それは、生きている大型の鳥の翼そのものとしか見えない自然で滑らかな動きで、力強い羽ばたきを繰り返していた。
そして、そのセーラー服姿をしたある意味鳥人とでも呼ぶべき少女の顔はというと…栗色の長く美しい髪を頭部で纏めたカチューシャと一体化した銀色に輝く仮面で顔の上半分を隠す様に覆っているのだった。このため少女の正体は判別不可能だったが、銀色の仮面の視界を遮らない様にくり抜かれている両目部分から覗いた少女の双眸は美しく澄んだ碧眼(青い瞳)だった。
「もうそれ以上、人を殺すのをやめなさいっ! この化け物っ!」
セーラー服を着た仮面の少女が、壁を這う怪物に向かって叫んだ。そう叫んだ声は、まさしく少女の様に美しく澄んで良く通り、活舌のはっきりとした流暢な日本語だった。
その声と着ているセーラー服姿を見る限りでは、空を飛ぶ謎の鳥人の正体は、やはり十五、六歳の少女なのだろうか…? それにしても、少女の背中で力強く羽ばたく銀色の翼はいったいどういう事なのか…?
「何だあ? おいおい、どの口で俺の事を化け物呼ばわりしやがるんだ?
お前だって同様の化け物だろうが! 背中から翼生やして空なんか飛びやがってよお!」
驚いた事に、ビルの壁を這っていた怪物も滑らかな日本語をしゃべった。
だが、姿形は人間とそっくりな形態ではあったが、下半身に緑色を基調とした迷彩模様のズボンを穿いただけの半裸姿をしたそいつの露出した部分の皮膚表面は、緑灰色をした爬虫類の様なウロコに覆われていた。
「うっ、私は…」
容赦の無い怪物の厳しい指摘を受け、銀色の仮面で顔を隠した少女は返事に窮したのか一瞬言い淀んだ。
「へっへっへ… どうしたい? 図星を指されたんで言葉も出ないみてえだな、翼を生やした化け物ムスメさんよう…」
仮面の少女が言葉に詰まった様子を見た怪物は嵩に懸かったように、さらに言葉で攻め立てた。
「うるさいっ! 私はお前とは違うっ! 一緒にするなっ! 止めないのならこうよっ!」
鋭い声でそう叫んだ少女の仮面に覆われた目に当たる部分から、レーザービームの様な眩い二本の青い光線が迸り出た。
ズビューッ!
仮面の少女の双眸から発した二本の青い光線は、ビルを這う怪物が口から延ばして振り回していた緑色の長い舌…これが室内の人間を捕まえては地上へと放り投げていたのだ…の根元付近に見事に命中した。
ジュジュッ!
青い光線によって一瞬にして切断された怪物の舌は、遥か下の地上へと真っ直ぐに落ちていった。レーザーで焼き切られたため、断面からは血は流れなかった。
「ぐえっ! うっぎゃあああ…!」
苦悶の叫びを上げた怪物は、張り付いていた壁から離した右手で慌てて口元を押えた。指の隙間から血こそ流れなかったが、泣き叫ぶたびに怪物は周囲に透明な涎のしぶきを撒き散らした。
恐怖の浮かんだ表情で両目に涙を浮かべた怪物が垂直の壁を上方向へと後じさり、空中に浮かんだ仮面の少女から逃れようとした。
すると仮面の少女の目から再び青い光線が放射され、怪物の退路を断つ様にビルの壁面を焼いた。
ズビーッ!
「うっ!」
呻き声を上げた怪物の後退する動きが止まった。
「絶対に逃がさないわよ! 警察が来るまで、お前は私が逃がさない…」
空を飛ぶ少女の顔の上半分を覆った銀色の仮面から覗いた双眸は青白い光を放ちながら怪物を睨み付けていた。
ウーウーウーッ!
そこへ地上からサイレンが鳴り響き、赤色灯を回転させた数台の警察車両が、車道に群がる大勢の人混みをかき分けるようにして現場へと近づいて来るのが見えた。
ようやく到着した警察に向けて歓声を上げる大勢の野次馬達のどよめきで、ビルの下の方が騒がしくなってきた。
「やっと来たわね… お前は警察の人達に捕まえてもらう。そこで大人しくしてるのよ。
牢屋の中で自分で犯した罪を償いなさい。」
そう言って一瞬、仮面の少女が眼下に到着したパトカーの方を見下ろした時だった。
ブシャッ!
突然嫌な破裂音を発して、右手で舌を失った口を押えて身悶えしていた怪物の頭が押さえていた手もろとも吹き飛んだ。
文字通り、木っ端微塵であった。
自分のすぐ目の前で、この恐ろしい光景を目撃した仮面の少女は、銀色の仮面に覆われていない剥き出しのままの口に手を当てて甲高い悲鳴を上げた。
「きゃあああーっ!」
頭を失った怪物の身体は、残った手足の壁に張り付く力を失ったのか重力に従って地上へと落下していき、ちょうど真下に路上駐車していた白い外国製のSUV車の上に撃突した。
落下して来た怪物に直撃を受けたSUV車は衝撃で屋根と全ての窓ガラスを押しつぶされ、車体全体を大きく凹ませて大破した。頑丈な外車といえども一たまりもなかった。誰も乗っていなかったから良かったものの、ピカピカだった車は一撃でスクラップと化した。先ほどまで周辺にいた大勢の野次馬達は、到着した警察官達によって現場から遠ざけられていたため、怪物の落下による二次的な人的被害は幸いにも防がれた。
地上70mもの高さからの落下で叩きつけられた怪物の身体からは、血らしき緑色をした体液が四方に飛び散り、自分がビルから投げ落とした憐れな被害者達と同じ様にグシャグシャの肉塊と化していた。
身体から流れ出た体液の色から見ても、やはり怪物は人間とは異なる生物なのだろうか…?
それでは、怪物が言っていたように、上空で彼と対峙していた銀色の仮面を被った少女の正体もまた、怪物同様の存在なのだろうか…?
その仮面の少女は、眼下の光景を見下ろしたまま背中の銀色の翼を羽ばたかせて空中で静止飛行を続けていたが…
「くっ…」
悔しそうに短く口走った後、ビルから遠ざかる方向を目指して目にも止まらないほどのもの凄い速度で、いつからか現場の高層ビルの近くを旋回していたテレビ局の報道ヘリを尻目に飛び去った。
地上では、怪物が落下して激突したSUV車の停まっていたビル前の駐車スペースを多くの警察官達が取り囲み、関係者以外の現場立ち入りを出来ないようにしていた。
先ほどの老人は現場より少し離れた場所からその光景を一人で眺めていたが、隣に自分が『くみ』と呼んだ少女がどこからか戻って来たのを機に、彼女と共に事件現場を背にして歩き始めた。
「やられたわ… お祖父ちゃん。誰かが遠距離から強力な銃で怪物の頭を狙撃したみたい…」
少女の報告を聞いた老人が、頷きながら答えた
「そのようじゃな… 問題は、狙撃を行なったそいつが…何者かじゃ。
ニケとなったお前さんの目でも、そいつを捕えられなかったんじゃな?」
少女は残念そうに頷き、自分の祖父らしき老人の顔を見つめた。
「当然、そいつは…敵なんでしょ、お祖父ちゃん?」
少女が美しく澄んだ青い目で老人の横顔を見つめながら問いかけた。
「ああ… 味方でない事だけは間違いない。
いずれ、相まみえる事があるやもしれん。
しかし、くみよ… お前さんはムチャをするのう。わしはヒヤヒヤして見ておられんかったわい。」
発した言葉とは裏腹に老人がニヤニヤ笑いながら、左隣りに並んで歩く自分より背の高い孫娘の顔を見上げて楽しそうに言った。
くみは美しい眉間にしわを寄せ、老人を睨み返して言った。
「フンだ、おじいちゃんのウソつき。ニヤニヤ笑って楽しそうに見てたくせに!」
彼女はそう言いながら、老人の脇腹を右肘で小突いた。
「いたた… 孫のくせに祖父のわしに乱暴するでない… か弱い老人をもっと敬わんか。ほっほっほ…」
老人は痛がっている風でも無く、楽しそうに大声で笑った。
老人の隣りで歩くくみも事件現場から戻って初めて、チャーミングな笑顔を浮かべて言った。
「もうっ、おじいちゃんたら。ふふふ…」
彼女は笑いながら、自分より小柄な老人の左腕にほっそりとして白く綺麗な右腕を絡ませた。
「じゃがのう、くみや。人前で『ニケ』になるのは危険じゃぞ…
さっきも野次馬連中にスマホでバンバン撮られとったわい。Youtubeとかに流されたらどうするんじゃ?」
老人がニヤニヤ笑いながら、くみを見上げて言った。
「ええっ! おじいちゃん、それホントなの? そこまで考えてなかった。
どうしよう…ママに怒られちゃう…」
くみが冗談ではなく、小さく震えながらつぶやいた。彼女にとっては笑い話どころでは無いのだろう。
「まっ、やってしまったことは仕方無いじゃろ。その時は、わしがお前さんの母上殿に取りなしてやろうかの。」
そう言った老人は、自分よりも高い位置にあるくみの頭を持ち上げた右手で優しく撫でた。その老人の手つきと表情には、孫娘が可愛くて仕方が無いという彼の心情がありありと現れていた。じじバカ丸出しである。
「本当にお願いね、おじいちゃん。ママは怒るととっても怖いのよ…」
すがる様に絡めた腕に力を込めて、くみが老人に泣きそうな顔で懸命に訴える。よほど自分の母親が怖いのだろう。
「ほっほっほ… 天下無敵の超少女『ニケ』であるお前さんも、自分の母上には形無しじゃのう…」
老人が楽しそうな表情をして大声で笑った。
隣で楽しそうに笑う自分の祖父につられて、くみも笑顔を取り戻した。
「まったく… 今日はくみの買い物に付き合って、とんだ目に合わされてしもうたわい…」
老人が孫に対して皮肉めいた口調で言っているが、どう見てもその皺の目立つ顔は相好を崩しており、好々爺然とした表情で孫を見る彼の目は優し気な慈愛に満ちていた。
「ごめんね、おじいちゃん… この埋め合わせに今度、何か美味しいもの奢るから許して。」
くみは、何とも言えないキュートな笑顔で両手を合わせると、祖父に向かって拝む姿勢を見せた。内心で可愛くて仕方のない孫娘から面と向かって頼まれた老人は、思わずニヤけた笑顔になりそうな自分の表情を何とか年寄りの威厳でごまかそうとしたが、残念ながら半分も成功したとは言えなかった。
「分かった分かった。埋め合わせのご馳走の件は約束じゃからな、ほっほっほ。
さあ、くみよ… 我が家に帰ろうか。」
「うん、おじいちゃん。」
老人と孫娘は暮れ始めた街並みを仲良く腕を組んで歩きながら、二人がともに暮らす家への帰途に着いた。
【次回に続く…】
『次回予告』
仮面の少女『ニケ』こと、くみと戦った怪物の正体は何だったのか?
ニケの宿命の敵となる人物、北条 智が物語に初登場する。
ニケを追い始める北条の所属する『特務零課』とは一体…?
そして、北条が口にした『BERS』とは?
次回ニケ 第2話「敵… 北条 智とBERS」
にご期待下さい。