タワーマンショニズム
まるでホテルみたいだ……。静かに開いた自動ドアをくぐり、エントランスに足を踏み入れた瞬間、その圧倒的な光景に、思わずそんな月並みな感想が浮かんでしまった。もっとも、ホテルなんてものも、おれにとっては縁遠い存在だ。ましてや、こんなタワーマンションに住むなんて夢のまた夢……。
足元には艶やかに光る大理石の床。壁には金の額縁に収まった巨大な抽象画。そこにあるソファなんて、見るからに高級そうで、何十万、いや百万円くらいするかもしれない。むやみに触るのも憚れる。まるで、美術館の展示品みたい――
「ちょっと、そこの人」
「え? はい?」
背後から急に声をかけられ、びくりと肩が跳ねた。振り返ると、そこには住人らしき小奇麗な恰好をした三人の女が立っていた。
真ん中の女はやや太っていて、ピンク色のカーディガンをワンピースの上に羽織っている。両脇の二人も似たような服装で、品よくまとめられた髪型に小ぶりのアクセサリー。まるでこれからランチにでも出かけるような格好だ。だが、今は夜。もしかすると、これが彼女たちの部屋着なのかもしれない。さすがタワーマンションの住人、意識も高い。
「まさか、今座ろうとした?」
「え……ソファですか? いや、ただ見てただけ――」
「そこは居住者とゲスト専用よ!」
「信じられない……」
「あんな汚い恰好で……やだ……」
「いや、そんなつもりは……あの、フードデリバリーで来たんですけど、もしかして受け取りに?」
何をそんなに怒っているのか、まるでわからない。おれは手に持っていた茶色い紙袋を掲げ、笑みを作った。中にはハンバーガーセットが入っている。
「違うわよ! 中層階の私たちがそんなもの頼むわけないでしょ! 汚らしい!」
「どこの階のどなたかしらね」
「きっと低層階よ」
「いや、えっと、お届け先は四十八階ですね……。ここ、五十階建てですし、低層階? の方ではないかと……」
「さすが、高層階様ね」
「ええ、きっと食のお勉強よ」
「マーケティングね。大変ねえ」
「は、はあ……じゃあ、そろそろ行きますね」
女たちはやたらと高層階の住人を称え合っていた。いったい誰に向けてるのか、おれにはわからない。
軽く会釈し、おれはこの場を離れようとした。だがその瞬間、「ちょっと!」と笛を吹いたような鋭い声が飛んだ。
「まず、あっちで洗ってきて」
「え? 洗う?」
「そう、汚いから。そういう決まりなの」
虫でも追い払うようなしぐさで指した先には、蛇口とホースが設置されたスペースがあった。おそらく、散歩帰りの犬を洗う場所なのだろう。
「えっと、ここで洗えばいいんですか? まあ、いいですけど……」
「何してるの?」
「え? だから靴を洗おうと思って」
「違うわよ。全身よ」
「え!?」
「さっさと脱いで洗いなさい。終わったら、そこに雑巾があるでしょ。それで体を拭いてね。一滴も水滴を残しちゃダメよ。それからスリッパに履き替えて歩いてね」
冗談……ではなさそうだ。おれは女たちを交互に見たが、まるで野良犬を見るような目をしていた。女たちは「決まりだから早くして」と言い放ち、背中を向けた。
「なんで、あたしたちがこんなことしなくちゃいけないのかしらね」
「仕方ないじゃない。ルールを守らない人がいて、高層階様の機嫌を損ねたら大変よ」
「低層階の人がやればいいのに。部屋と近いんだし。ふふふ」
「あら、低層階の人はダメよ。似たような人種だもの」
「あれと? あはは! さすがにそれは失礼だわあ! あははははは!」
おれは女たちの低層階への悪口を聞きながら、指示通りに体を洗い、雑巾で水滴を拭き取り、服を着直してスリッパに足をねじ込んだ。お湯が出たのが唯一の救いだった。
「あの、終わりましたけど……」
「あっそ、じゃあ進んで」
「……はい」
女たちはおれの後ろを歩き、おれの体から水滴が落ちないかチェックしているようだった。ひそひそと「まだ臭い……」なんて声が聞こえた。おれは少し泣きたくなった。
「え、嘘でしょ。何してるの!?」
「え?」
エレベーターのボタンを押そうとした瞬間、女たちが悲鳴のような声を上げた。
「まさか、あなた……字も読めないの?」
女たちは本気でおれが文字が読めないと思ったようだ。その顔には純粋な驚きと、ためらいのない侮蔑が浮かんでいた。ほんの少しの哀れみすらあった。しかし、おれが「いや、読めますけど……」と答えた瞬間、その表情はみるみるうちに怒りに染まった。
「じゃあ、そこの注意書きを読みなさいよ! エレベーターは居住者とゲスト専用って書かれてるでしょ!?」
「言っとくけど、ゲストってあなたのことじゃないから……ないからあああ!」
「え、じゃあ、どうすれば……」
「はあぁぁぁ、階段を使うに決まってるでしょ」
「配達員はエレベーター使用禁止なの」
「常識でしょ」
「え、いや、さっき、四十七階って僕、言いましたよね? 階段って……」
おれはそれ以上何も言わなかった。おとなしく階段へと向かい、重い足取りで一歩踏み出す。これ以上、あの女たちの金切り声を聞くのはごめんだったのだ。
ふと上を見上げると、吹き抜けの手すりから何人もの住人たちが覗き込んでいた。その様子は、まるで木の上の猿の群れのようで、背筋が凍った。
一段上がるごとに、上から声が降ってくる。
「汚ならしい……」
「臭い……」
「いやあ……」
ひそひそ話すふりをしながら、聞かせる気満々なのが伝わってきた。
その中には、さっきの三人組の女たちもいた。どうやらエレベーターで先回りしているらしく、何度もその顔を見かけた。
服に汗がにじむにつれ、連中は声は悲鳴じみていった。連中の叫び声が壁に反響し、頭を絞めつけてくる。ここはジャングルなのか。おれはさまよう旅人の気分になった。
ようやく四十八階に辿り着いたとき、紙袋は汗を吸って、じっとりと湿って色を濃くしていた。
安堵の念が込み上げ、おれは大きく息を吐いた。けたたましく響いていたあの声は、今は嘘のように止んでいる。妙なことに四十階を過ぎたあたりから、あの連中の姿が見えなくなった。もしかすると、自分たちの住む階より上に行くことは禁じられているのかもしれない。
おれは階段を離れ、静まり返った廊下を進んだ。吹き抜けを覗く勇気はなかった。
「あの、フードデリバリーの者です……」
「はーい。今開けますねー」
インターホン越しに、明るく柔らかな女性の声が響いた。やがてドアが静かに開き、中から上品な雰囲気をまとった老婦人が現れた。
「あら、お疲れ様。ありがとねえ」
その優しい笑顔と言葉に、おれは声を失った。――そうだ。このマンションに来てから、初めて礼を言われた。
なぜだろう。目の奥がじんわり熱くなり、視界が滲んだ。
「あらあら、どうしたの? 意地悪されちゃった?」
「はい、いえ、はい……」
嗚咽を押し殺していると、ふと、どういうわけか、昔初めて陰毛を全部剃ったときの記憶が蘇った。あのとき、自分が無防備な子供に戻ったような根源的な無力さを感じて、おれはシャワーの中で膝を抱え、震えた。今、まさに同じ感覚がする。
老婦人はおれの手をそっと取り、部屋の中へと導いた。
「ずいぶん汗をかいたのね。喉が渇いたでしょう? さあ、これをどうぞ」
「え、ありがとうございます。いただきます……あ、でも、すぐに出ますから。ごめんなさい……」
「ふふっ、気にしないで。奥まで運んでくださる?」
「あ、はい、もちろんです!」
おれは差し出されたグラスの中身を一気に飲み干して、案内されるままベランダへ向かった。
そして、広がる夜景を目にした瞬間、言葉を失った。
あの光はたぶん、よく注文が入るコンビニだ。あれは中学校。あそこは牛丼屋。あの建物は、よく配達に行くマンションだ。ここほどの高さはないが、住人たちの愛想はいい。
あのひとつひとつの光の中に生活があって、人がいて、日常がある。
ここは、まるで天界だ。おれが生きる街を、ここの住人はこうやって上から毎日見下ろしているのか。ならば、思い上がるのも無理はないのかもしれない。
……でも、きっと彼らにはこの景色が、こんなふうには見えていない。もしそうなら、少しかわいそうだ。
涙が光をにじませ、夜景が宝石のように輝いて見えた。ああ、なんて優しい光なんだろう……。
「綺麗ねえ」
「はい……とても……」
この人は違う。さっきの連中とは考え方も、何もかも。そうだ。帰りはこの人にお願いして、エレベーターを使わせてもらおう。あの連中も、きっと文句は言えないはずだ。そんなささやかな楽しみに、少し心が軽くなった。
ああ、いい気分だ。ふわふわする。まるで……あれ? さっきの飲み物、酒か……?
「そこよ、その台の上に乗って」
「はい……」
「じゃあ、ちゃんと届けてちょうだいね」
「……はい?」
「あの人、死ぬ前にそういうのが好きになってよく食べてたのよねえ。私は食べないけど」
「え? あっ――」
突如、背中に強い力が加わり、おれの体が宙を浮いた。
落下する最中、無数のベランダと、その奥に広がるリビングが次々と視界を流れていった。そこには、おれをじっと見つめる住人たちの姿もあった。
全員、猛禽類のような顔をしていた。