第二〇段 清涼殿の丑寅の隅の(上)
今では、干支は、年を表す時しか使わないけれど、(私は、丑年生まれです。)平安時代は、年、月、日、時刻のほか、方位にも使っていました。北が子、東が卯、丑寅は、北と東の真ん中で、北東になります。この段は、長いので、上中下に分けます。
天皇の住処である清涼殿の北東の隅にある御障子には、荒海の絵があり、そこに生きている恐ろしい手長足長が描かれている。定子様のいらっしゃる弘徽殿との間の戸が開いているので、いつも目に入るのを、嫌だわと言いあって笑っている。その欄干のところに青磁の瓶の大きなものが置かれて、枝に桜が美しく咲き乱れている五尺(2メートル近く)くらいあるものが、たくさんさしてある。欄干をふさぐように咲きこぼれている。
そこに、昼頃、定子様の兄君である大納言の藤原伊周様がいらっしゃった。伊周様は、桜の直衣の、着馴た風のを着て、濃い紫の指貫を履き、白い下重ねを重ねて、上には濃い紅色の綾織物のあざやかなのを出衣にして参内していらっしゃった。
一条天皇様が、定子様のところに来ていらっしゃるので、戸口の前の板敷にお座りになって、お話などを申し上げていらっしゃる。
御簾のこちら側には、、定子様の女房たちが、やはり桜色の唐衣をはおり、藤襲や山吹襲など、襲の色合いもたいそう美しく、御簾から袖口を押し出している。
まことに、春らしいのどかな景色で、とても「をかし」。




