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5、早稲田の同級生

この物語の主要登場人物の3人は早稲田大学の歴史学研究室の同級生だった。就職氷河期の苦しい時代に大学院を卒業し、研究を続けていた思い研究職を望んだが、反保と野坂はそれぞれの出身県の県庁に合格できた。佐久間は宮内庁の陵墓課で研究職を続けることができた。反保と佐久間は秘かに交際を続けてきたが、就職で遠距離に離れて行ってしまうことになる。

11年前、反保裕治は24歳。早稲田大学大学院歴史学研究室の学生だった。早稲田大学歴史学科には考古学、東洋史、西洋史、国史のコースがあり、考古学専攻の研究室といえばエジプト研究の吉村作治を連想するだろう。しかし、吉村先生以外にも多くの研究者を輩出し、多方面の歴史的研究成果を上げている。東京大学・京都大学と並ぶ日本の歴史研究の総本山ともいえる研究機関である。将来、研究者を夢見た反保裕治は大学院に進学し修士課程を修了しようとしていた。中川教授の中川国史研究室、修士課程修了者は3人、反保はその中の1人である。修士論文は「中世城下町の形成と武家屋敷の歴史的変遷」反保の故郷、福井県の一乗谷遺跡をイメージしてモデル化し、日本中の多くの城下町を類型化して戦国城下町の初期から江戸時代後期まで、比較分類した考察である。朝倉氏遺跡はローマのポンペイ遺跡と比較されることが多いが、一夜にして信長軍に滅ぼされ、焼き尽くされたため、街並みがそのままに灰の中に埋まってしまっている珍しい遺跡である。朝倉館やかたは上物の木造部分はすべて焼け落ちてしまって残っていないが、礎石部分がきちんと残っていて、その壮大な建物と庭は想像をかき立ててくれる。大きめの屋敷跡は武家屋敷、細かく区切られた屋敷は町人の家である。どの家にも井戸と厠跡があり、その当時の生活をしのばせる。町家の中には土に埋まった甕が残るものもあり、紺屋の跡だと推測されている。この遺跡が戦国時代から昭和中期1967年まで土に埋まっていて、人々の記憶から忘れ去られていたことは奇跡と言っていい。最近の歴史ブームの中で歴女と呼ばれる人たちが多く訪れるようになった人気の歴史スポットである。

中川教授の専門は安土桃山時代の織田政権、豊臣政権、徳川政権とヨーロッパの国々との関係である。今日、歴史学会で話題になっているのはローマ教皇庁で見つかった日本関係の文書の中に、日本に来ていた宣教師たちの織田信長や豊臣秀吉、徳川家康に対する見解である。戦国時代の日本は、当時世界でもまれな軍事国家であった。鉄砲伝来から自国で鉄砲を製作するようになり、大量の武器を保有する大名たちが争っていた。キリスト教を布教し日本へ進出しようとしていた旧教勢力のスペインやポルトガルは、織田信長に大量の武器を提供し、一向一揆の戦いに勝利させることで、キリスト教を信仰させようとしていた。また、関ケ原の戦いや大坂夏の陣、冬の陣では豊臣方に武器を提供し、キリシタン大名に活躍させることで、中国進出を有利に運ぼうとした。世界の文献を研究することで日本史の謎が解明されようとしている。日本の歴史を研究するにも英語やスペイン語などが必要なのである。

同級生には野坂(のさか)陽子(ようこ)と佐久間美佳がいた。野坂は奈良県出身で研究テーマは邪馬台国の卑弥呼について中国や朝鮮半島との関係について考察していた。卑弥呼に金印を授けた魏という国はどんな国だったのか。当時の国際関係はどうだったのか。邪馬台国も東アジアの中でどういう立場だったのかなどについて研究を進めていた。長い髪が印象的な細身の美人で、物静かだが芯の強そうな研究者タイプである。将来は奈良の国立博物館で学芸員として研究にあたりたいと考えていた。邪馬台国がどこにあったかはいまだに謎だが、卑弥呼の墓ではないかと言われている箸墓遺跡が注目されるようになってからは、やはり奈良県ではないかという見解が優勢のようである。

もう一人が佐久間美佳、大阪府出身で、大阪の名門、公立北野高校卒業、勉強に明け暮れたので、高校時代は浮いた話もなかった。しかし多くの北野高校男子生徒のアイドル的存在で、童顔でかわいらしい顔立ちながら、どこか憂いを感じさせることから、北野高校の浅倉南とニックネームがつけられていた。早稲田大学入学後は多くの男子学生から声をかけられたが、歴史研究に明け暮れ、図書館が恋人のようにみんなからは思われていた。しかし、実のところ同じ研究室だった反保とは秘かに交際を重ね、研究室と図書館が主なデートの場所だった。彼女の研究テーマは「織田信長と一向一揆、その背景のスペイン宣教師たちの布教活動」である。中川教授の専門領域であり、中川教授からの指導もたくさんもらいながら、研究は高度な段階まで進めることができた。織田信長にとって比叡山と一向一揆勢力は全く言うことを聞かない眼の上のたんこぶであった。特に一向一揆は各地で戦いを続け、現在の大阪城の場所にあった摂津(せっつ)石山(いしやま)本願寺(ほんがんじ)はその中心であり、岐阜や安土に居城した信長にとって大阪は面倒な場所であったに違いない。最近の研究で中国進出を目論んでいたスペインにとって、日本を味方に入れることは重要なことであり、その日本を支配しようとする織田信長の懐に入るために、同じ宗教勢力である一向一揆勢力をたたかせるために、多くの武器を融通したという学説も出てきている。

3人が最終学年になって就職活動が始まると、研究を進めていける人とそうでない人との差がはっきりとしてきた。大学に残り、講師を経て、助教、教授へと進んでいけるのはほんのわずかであり、日本の大学の多くが東大派閥に所属しているので他大学出身者は研究を続けることは難しい。ましてや反保たちの学年が卒業しようとした2009年、日本は不況の真只中。就職氷河期。多くの学生が安定志向で公務員を目指し、民間を志望しながら内定を勝ち取れなかった学生は、非正規雇用の派遣社員への道を選ぶしか道がなかった時代である。派遣社員としての待遇の悪さから、引きこもりになってしまった若者の多い年代でもある。

反保裕治はその日、久しぶりに佐久間美佳と大学の図書館で会った。就職試験の結果にかなり参っていた反保がふさぎこんでいたので、佐久間が声をかけて午後2時に第1閲覧室で会うことになった。学部生たちは授業があるので、図書館は比較的すいている時間だった。白い半袖のブラウスにあざやかな赤いミニスカートで紺のトートバックを肩から下げた彼女が閲覧室にはいってきた途端、周囲がぱっと明るくなったように感じられた。ミニスカートから伸びた細身の足は若さを感じさせ、白い半袖ブラウスから透ける下着は白で、肩紐が細くセクシーさを併せ持っていた。待っていた反保はすぐ気づき、軽く手を振った。佐久間美佳は

「久しぶり、元気だった。」

図書館内なので大きな声は出せないが、元気づけるようにやや明るい声で話しかけた。

「お先真っ暗だよ。全敗。内定獲得いまだ至らず・・・・」

不景気で就職氷河期とは言われてきたが、ここまで厳しいとは反保も思っていなかったようだ。言い出そうかどうか迷っていたが佐久間は

「宮内庁、内定もらったんだ。皇室の所蔵品なんかの学芸員として働けそうなんだけど、反保君も早く決まるといいね。」

言葉を選びながらではあったが、高校時代の成績や大学での研究内容から見れば、優秀な彼女が宮内庁の学芸員の地位を得たことは不思議ではなかった。学部時代から大学院修士課程まで6年間付き合いを続けてきた2人に、過酷な運命がのしかかってきた。佐久間はこれからも宮内庁の公務員として東京で暮らしていくことは決定したが、反保はまだどこで暮らすことになるか決まっていなかった。反保にとって最後の希望は地元福井の県庁の学芸員採用試験だけであり、その結果が出るのは明日だった。図書館を出て、2人は新宿に出た。卒業論文の研究と就職活動でくたくたになっていたので、久しぶりのデートだった。カフェでお茶を飲みながら、いろいろ話したが、就職先が決まらないので将来について話せなかった。将来的に結婚するのかしないのか。6年も付き合ってきたのでお互いに出来れば結婚したいという気持ちは持っている。しかし、何の結論も出ないまま、時間が過ぎ、夕方になったので学生の身分に相応しい安そうなレストランで食事をした。そのあとは、若い男女なので、お決まりのように新宿駅周辺のラブホテル街を歩いた。彼らにしてみればいつものようにいつもの道を歩いているのだが、口数は少なかった。反保は横を歩く佐久間の手を黙って握り、ホテルの入り口で止まった。佐久間の目を見つめた反保は微笑んで、合意を求めると佐久間も笑顔で答えた。2人は入口に進み、無人の自動受付機の前で空室の中からよさそうな部屋のボタンを押して中に入っていった。受付でカギを受け取るとエレベータで5階まで登り部屋に入った。その間佐久間は無言で反保の後をついてきた。

部屋は案外広く、全体の雰囲気はディズニーランド風の部屋だった。壁にはミッキーマウスやドナルドダックが埋め込まれてこちらを見つめている。お風呂はガラス張りで大きな浴槽なので、2人で入るには楽しそうだ。ベッドも豪華でシーツはシンデレラと王子様が描かれている。

そんな雰囲気の部屋だったが、2人の感情は別れなくてはいけないかもしれないという懸念から複雑だった。2人は性的な満足感はあっても、心の底ではむなしさが残っていた。


同級生のもう一人、野坂陽子はいくつかの内定を獲得していた。地元の奈良県庁学芸員としての採用内定と東京の中堅出版社の採用内定である。彼女も大学の研究室に置いておくにはもったいないような美貌の持ち主である。同級生の佐久間と反保の交際を知っていた野坂は、優しくてイケメンの反保に対する思いを秘かに隠していた。しかし、反保に内定がなく、佐久間は宮内庁に決定したことで、うまくいけば反保への思いが届くのではないかという淡い期待を持った。

翌日、3人が研究室で修士論文を作成しているところに、反保の母親から電話があり、反保が最後の希望と言っていた福井県庁の学芸員の採用結果が出たという知らせを受けた。反保は感慨深めに

「やっと内定出たよ。福井県庁の学芸員。なんとか社会人になれそうだ。」

佐久間美佳は

「おめでとう、よかったわね。でも、福井に帰っちゃうことになるんだね。」

複雑な心境を言葉に表した。反保も心の底からは喜べなかった。

野坂の気持ちも大きく揺れた。東京に残って出版社に就職するか。地元に帰って奈良県庁に就職するか悩んでいたが、反保は福井に帰ってしまうことが決定した。6年間反保に片思いしながら佐久間美佳との交際を見てきたことは辛かったが、彼らも別々の道を歩むことになる。辛い三角関係から解放されるという面では良かったのかもしれない。

「反保君、おめでとう。地元福井県で頑張ってね。福井って最近では恐竜の化石とかで有名よね。学芸員も忙しいかもね。私も奈良県庁の学芸員に決めたからどっかで会うかもしれないわね。その時はよろしくね。」

ついさっき決めたばかりの就職先をあっさりと発表した野坂は吹っ切れたような表情をしていた。


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