26、北陸古代史学会
いよいよ北陸古代史学会での発表の日を迎える。マスコミ発表で大きな関心を集めたので、会場となった金沢大学は満員の参加者を迎えた。大観衆の中、反保は堂々と発掘された永平寺金印がどういう意味を成すのかを説明した。新しい越国の学説が生まれる。
北陸古代史学会は5月25日に金沢大学交流センター大講堂で開催された。北陸3県の国立大学や私立大学、その他の研究機関などの研究成果を発表するのだが、今年は福井県立歴史博物館の発表があるということで、他地域の研究者も多数参加が予定されていた。
会場の金沢大学交流センター大講堂は最大入場人員1000人の大きな会場だが、参加申し込みは700人を超え、当日参加者を含めるとぎりぎりではないかと主管する石川県古代史学会のメンバーは心配していた。福井県立歴史博物館からは学芸員の反保、館長の室崎、オブザーバーとして林田刑事と反保夫人、つまり野坂陽子が参加していた。発表は全部で5本、富山大学と金沢大学、福井大学の各国立大学が1本ずつ、石川県の星稜大学が1本、最後が福井県立歴史博物館からの発表である。午前中に3本、午後が2本の予定である。9時から始まって3国立大学が発表40分、質疑20分、午後も星稜大学、福井県歴史博物館が発表40分、質疑20分の予定である。反保たちは午前中の部から他大学の発表を聞いて、各研究者の丹念な研究に感心しきりであった。しかし、自分の発表があると思うとなかなか発表内容が頭に入ってこない。午前中の発表が終わって昼食時間に申し込んでおいたお弁当が配布された。福井県立歴史博物館関係の4人が会場内でお弁当を食べていた。
「さっき事務局の方に聞いたんだけど、午後は東京から参加の東京大学史学会のメンバーが来場するらしいです。それに海外からの参加者として中国の瀋陽大学から数名の研究者も参加するらしいですよ。」
野坂(反保)陽子が弁当配布所で聞いてきた話をみんなの前でした。それを聞いて、反保の緊張はピークに達してきた。お弁当を食べ終わってから話を聞いたほうがよかったなと感じていた。その様子を見て野坂(反保)陽子も言わなきゃよかったかなと少し反省した。
午後の部が始まって星稜大学の発表からスタートした。次が発表なので、反保は別室で機器の準備をすることになり、会場から出てコンピュータの準備をしていた。発表資料は事務局に提出してあるので全員が持っている。会場のスクリーンに映し出す写真資料やパワーポイントの資料の最終チェックをしていた。どんな質問が来るのか、中国から来たという瀋陽大学の人たちはどういう目的なのか。考えれば考えるほど緊張は高まり、このまま逃げ出したい思いが高まってきた。しかし、その時またあの感覚が戻ってきた。金印を発見したあの時、『あなたは特別な力がある。自分の力を信じて・・・』という佐久間美佳や野坂陽子の声が聞こえたような気がした。自信を持って臨むことの大切さ、きっとできる。為せば成る。Let it be いろいろ言い方はあるが、自分を信じるしかない。彼らが見ていてくれる。僕は一人ではない。そう考えると自信が湧いてきた。その時
「時間です。会場にお入りください。」
と事務局の女性が告げてくれた。
会場には1000人近くの参加者が集まっている。北陸古代史学会の発表会だが、古代史関係の定説を覆すような研究というマスコミ発表を国立博物館でしてあったので、その関心の高さは古代史関係の研究者だけにとどまらなかった。いよいよ始まるという異様な雰囲気の中、発表者の席に反保が立った。司会のアナウンサーが
「いよいよお待ちかねの永平寺金印の発表でございます。北陸古代史学会の歴史の中でもこれほどの関心を集めた発表はなかったでしょう。永平寺金印を発掘された反保学芸員の発表です。それではお願いいたします。拍手でお迎えしましょう。」
かなり煽った紹介だったが、反保は自分の力を信じる心境になっているので、それまでの緊張は吹き飛んでいた。
「ご紹介いただきました福井県立歴史博物館の学芸員 反保裕司です。このたびは貴重な発表の機会をいただき、北陸古代史学会の皆様にお礼御申し上げます。最初に私事ではありますが、先ほど控室で準備しておりましたら、大学時代の研究室の仲間2人の声が聞こえました。1人は昨年の事件で亡くなってしまった同級生でもう一人は先日結婚した私の妻ですが、彼らが『自分の力を信じて・・』と僕を支えてくれました。実は金印を発見した時もどこを掘ろうか迷っていたのですが、その時も同じように彼らの声を聴いたんです。『自分の力を信じて・・・』その声に後押しされて、しばらく瞑想して一点を見つめていました。『ここだ・・・』笑われるかもしれませんが、彼ら2人の力が僕に乗り移ったんだと思います。2人の同級生に感謝したいと思います。」
と言ってスクリーンには2人の写真を写した。2人の顔は穏やかに笑っていた。
「本論に入りますが、二本松山古墳で発掘出来た金印ですが『親那越王』と刻印されていたこと、そしてその年代の分析などは国立博物館の石井主任学芸員に鑑定していただきました。」
スクリーンには金印と金印の印面を拡大したものが写された。
「鑑定結果は資料に添付させていただいております。問題は那国の存在ですが、那国がどこなのかについては過去の文献資料から推測は簡単でした。那、もしくは奴と呼ばれる地縁集団で構成されている高句麗、かねてより中国の学会でも韓国の学会でも中国なのか朝鮮なのか謎の国家でありました。」
ここで、5世紀の東アジアの情勢を表す地図が写された。中国は分裂状態、朝鮮半島には百済、新羅、任那、その北には高句麗が描かれている。
「まだ今後の調査研究がまたれる国ですが、広開土王の碑の中に倭と戦ったという記述があります。戦時中の日本軍によって改ざんされた可能性があると言われ、謎をさらに深めてしまった碑文です。」ここで広開土王の碑の現在の写真が写された。
「高句麗にとって大和朝廷は仮想敵国、それに対して越国は金印を授ける友好国と考えると、それぞれと別の外交交渉をしていたことになります。従来、日本の学校では漢委奴国王の奴国、邪馬台国、大和朝廷という順番で日本の統一について学習してきました。しかし、大和朝廷と越国は高句麗からすれば並列の関係と言えるのではないか。また、507年に越国の大王だった男大迹皇子が継体天皇として大和朝廷に迎えられたと言われていますが、敵国から王を迎えるというのは、不自然ではないか。大和朝廷が越国を飲み込んだと考えられてきたが、逆もありうるのではないか。確信は持てませんが、背後にいる高句麗が大いに関係するように感じて仕方ありません。高句麗から見て敵国である大和朝廷の背後にあった越国に金印を与えて軍事同盟を結ぶことは大和朝廷に大きな脅威を与えることになるのではないかという仮説が立てられると考えました。しかし、越国の男大迹皇子は日本列島の国である大和朝廷と連合で高句麗の進出を防ぐことの方が大切であると考え、高句麗との同盟関係を反故にして、大和朝廷との連合と言う道を選び、自ら大和に入り、連合国家の王に就任したのではないかと考えることもできるなと思いました。あくまでも仮設でありますが、今後の研究に役立てていただければと思います。蛇足ではありますが、中国沿海州とロシア共和国の国境にアムール川、中国名の黒龍江が流れていますが、福井県には九頭竜川、かつてはこの川を黒龍川と呼んでいました。松岡には黒龍というお酒があります。単なる偶然とは考えにくい気もします。越国と高句麗が同盟関係にあったならば、多くの高句麗人が越国に来て住み着いていたならば、ふるさとをなつかしんでふるさとを流れる川にちなんで黒龍川と名付たとも考えられるのではないでしょうか。ご清聴ありがとうございました。」
40分の発表時間をいっぱい使って反保の発表が終わった。
司会者が
「質問時間に入らせていただきます。質問のある方は挙手をお願いいたします。なお、発言に際しては所属とお名前をお願いいたします。」
と言うとすぐに3人ほどが手を挙げた。
「どうぞ、そちらの前から3列目の男性」
と言うとその男性が立ち上がり、係員からマイクを受け取った。
「東京大学東洋史学会から参りました坂東です。今日は貴重な発表ありがとうございます。今回の発表の一番の価値は当時、東アジアで最強の国であった高句麗が日本に対して2つの外交政策をとっていたという事だと思います。大和朝廷に対しては敵対関係にあり、越国とは友好関係にあったという事ですが、私たち東洋史を専門にして研究するものから考えると考えにくいところがあります。高句麗は当時、一番強い国ではありますが、中国を統一した国家ではありません。秦や漢、のちの隋や唐ならば漢民族を統一して周辺諸国に金印を配って隷属することを強要してきますが、高句麗は朝鮮半島北部から中国東北部を支配している中国の周辺国に過ぎないという見方をしています。金印を授けるのは中国皇帝がすることだと考えますがいかがお考えでしょうか。」
鋭い質問である。反保はやばいと思った。出てきたから出てきたものを信じているだけのことで、本物だと信じるのは発見者だから仕方ないことである。しかし、その時、『親魏倭王』のことを思い出した。邪馬台国の卑弥呼が魏の国王から授けられたと魏志倭人伝の中に記述があるあの金印である。自分を信じて落ち着いて答えた。
「ご指摘の通り、高句麗は中国を統一したとまでは言えません。しかし、3国時代の魏も中国を統一したとまでは言えませんが、各国に金印を配布しています。魏は呉や蜀に対して脅威を与えるためにその背後の国に金印を与えて味方につけたともいわれています。そう考えると高句麗が大和朝廷に脅威を与えるために、その背後の国であった越国に金印を与えて同盟関係を結んだと考えることは合理性があると考えます。また、高句麗が成立していた時代、漢も高句麗に苦労していますし、隋も大軍を送っていますが敗戦して帰ってきています。唐の時代になって初めて新羅との連合軍で高句麗に勝利しています。まして、4世紀や5世紀は高句麗が最も強く、中国は群雄割拠の戦国時代で統一国家は隋の統一を待たなくてはいけません。東アジアNO1の国として、漢の模倣をして金印を配布したと考えてもおかしくないと考えます。」
当時の中国朝鮮半島の国際的な関係を俯瞰的に見た見解であった。
続けて手を挙げたのは最前列に座った小柄の男性だった。
「私は新潟大学から参りました太田です。反保先生にお伺いしたいのは、先生は新潟を越国の一員とお考えでしょうか。これは北陸古代史学会の永遠のテーマかもしれませんが、福井の方は昔から越前・越中・越後、つまり新潟まで含めて越国と主張され、その中心は最も大きな古墳が集中する福井県嶺北地方だと言われます。ところが、新潟では上越・中越・下越で越国、つまり越国は新潟県で完結するという考え方が主流です。関越道の越も新潟、信越本線の越も新潟です。どうお考えでしょうか。ご見解をお示しください。」
反保も昔から悩んできた問題である。しかし、反保は男大迹皇子が大和朝廷に入ってしまった507年が大きな節目と考えた自分の仮説をもう一度思い起こした。
「ご指摘の通り、越国の範囲については2つの説が存在して確信が持てませんでした。しかし、今回の発掘を通じて新しい考え方が芽生えました。507年までの越国は福井から新潟まで北陸の大変広い範囲をカバーしていた。しかし、男大迹皇子が大和朝廷の王、継体天皇として即位すると福井から富山県までの地域が大和朝廷に合併した。しかし、新潟県域だけは大和朝廷との合併に踏み切れず、新たに越国として独立を維持したのではないか。新越国として成立してから上越・中越・下越と呼ぶようになったのではないかと考えます。いかがでしょうか。」
反保は陽子の方を見てうなずきあった。
最後に手を挙げたのは最後方の席に座った男性だった。マイクを受け取ると
「ワタシハ、チュウゴクカラキマシタ。シェンヤンダイガク、エンギホンデス。ココカラツウヤクニハナサセマス」
と言って中国語で一気に話した。一緒に来ていた通訳が日本語で質問した。
「親那越王という印を発掘されたそうですが、高句麗は私たち中国東北部遼寧省の瀋陽大学でも研究対象として現在、文献研究と発掘調査を並行して進めています。高句麗の王朝の文献は数が少なく、広開土王の碑に代表される石に刻まれた文字が中心です。漢書や魏志のような紙に書かれた形態のものは唐・新羅の連合軍に滅亡させられた時にほとんど燃やされたのか、現在もほとんど残っていません。発掘現場から出てくる石に刻まれたものを解読しながら研究を進めています。その中に越という文字がいくつかあったのですが、解読ができずにいました。今回の研究発表を聞いて我が国の高句麗研究に大きな進展をもたらすと思います。しかし、発掘調査が始まったのはまだ最近で、中国の共産党革命から文化大革命を経て、近代的な経済改革が進んでからようやく学術研究ができるようになったのが現状です。高句麗の南半分にあたる北朝鮮については全く研究が進んでいないのが現状で、私たちにとっても今回の福井での金印発見は私たちの研究を進展させると思っています。そこで質問ですが、高句麗は金印をどれ位の国に授けているとお考えですか。また、高句麗は中国の民族なのか、朝鮮民族なのか、お考えをお聞かせください。」
中国語の発言を少しずつ日本語に訳して質問を聞いた反保だったが、
「中国からわざわざ来ていただいてありがとうございます。1つ目のご質問についてですが、日本の越国に授けられたという事は、他国にも授けられている可能性は高いと思います。後漢の光武帝が日本の奴国に授けた『漢倭奴国王印』の金印とほぼ同じ金印はアジア各国で発見されています。高句麗は中国の王朝のように中国を統一することを目的としていたならば、漢と同じことをしたと思っています。だからモンゴルやチベット、ベトナム、ラオスなど多くの国に授けているのではないかと考えています。2つ目の質問ですが、高句麗が中国の民族か、朝鮮民族かについてですが、場所的に考えて漢民族ではないと思います。しかし、中国東北部を領域として後に清として中国を統一する女真族は候補だと思っています。しかし、現在でも北朝鮮と中国の国境付近は朝鮮民族と満州人、漢民族が混在しています。那という地縁集団が国を作っていたとされる高句麗は女真族と朝鮮民族、さらには漢民族系の少数民族の連合国家ではなかったかと思います。多民族国家は珍しいことではありません。中国もそうだし、インドもそうだし、ロシアも複雑に入り混じった複合民族国家です。高句麗がそうだとしても不思議ではないと思います。以上でよろしいでしょうか」と答えた。すると瀋陽大学のエンギホンさんは、また、中国語で何か喋った。すぐに通訳が
「どうもありがとうございます。私たち瀋陽大学は高句麗研究を進めていますが、みなさんの力もお借りしたい。是非中国に来て発掘調査をお手伝いしてもらいたいと思っています。共同研究をよろしくお願いします。」と言って質問を締めくくった。反保は松岡古墳群の発掘調査を行ってきたが、研究フィールドをアジアに広げて中国にもモンゴルにもベトナムにも行ってみたいなという夢を広げることができた。
金沢の古代史学会の発表を終えて、金沢駅から4人で福井への帰路についた。特急サンダーバードで福井駅まで30分ほどの列車の旅である。館長と林田刑事は金印発掘がとてつもないことになったことを喜んでビールで乾杯していた。
その後ろの座席で反保夫婦は人目をはばかって膝元で手をつないで見つめあっていた。立派な態度で発表して、堂々と質問に答え、聴衆の喝采をあびた夫に新妻は惚れ直したというところだろうか。これから2人の将来について夢が膨らんでいるようだ。世紀の大発見をして研究発表までやり遂げた反保はもっと大きな研究施設からの引き抜きが予想され、新妻は当然ついていくことになるだろうから、奈良県庁を退職することになるだろう。見つめあう2人が福井県に入る頃には人目も気にせず唇を重ねていたことは感情の高まりからだろう。新居は東京か、中国か、ベトナムか 就職難で佐久間美佳と別れなければならなかった12年前に比べれば大きな進歩だと彼自身が感じていた。それと同時に、金印発掘の時に聞こえた大学時代の同級生2人、不思議な縁で結ばれた二人に対する感謝とご冥福を祈っていた。




