23,国立博物館の鑑定
反保と野坂は二本松山で金印を発見したが、その鑑定に東京の国立博物館の学芸員に依頼する。学芸員は東京に持って帰って調査する。しかしその調査に保守派の政治家から横やりが入る。それらの外圧に負けないために2人が取った手段は?
反保が金印を発見したことを国立博物館に報告すると、早速翌日には国立博物館チームがやってきた。国立博物館チームは学芸員が2人、石井主任学芸員と北村学芸員が訪れた。石井主任学芸員は反保を見て、
「おめでとうございます。すごい発見をなさったみたいだとお伺いしております。日頃の研究の成果だと思います。」とお祝いの言葉を述べた。すぐに
「早速ですが例のものを見せていただけますか。」と言ってきた。今日の朝までは金庫に収められていたが、国立博物館が来るという事で金庫から出して、研究室に持ってきておいた。反保がおもむろに箱から出して
「これです。丁寧に見てください。」と言って、シルクの布にくるまれた金印を石井に手渡した。石井は早速カバンから用意したアイパッドを取り出し、カメラアプリを立ち上げ印面を写真撮影し、画像を裏返して左右入れ替えた画像を作り、画面いっぱいに拡大して観察した。
「この文字は漢字が用いられています。この時代中国以外ではまだ文字を開発していないので東アジアではどの国も漢字を使っています。広開土王の碑にも漢字が使われ、高句麗が倭と戦ったというようなことが書かれています。『親那越王』とはっきり読み取れます。日本のことを倭と呼び、高句麗のことを那と呼んだ当時の情勢では、那は高句麗で間違いないでしょう。しかし、これが本物であるか、偽物であるかはまだ確定はできません。出てきた場所の様子や金印自体の成分分析などを慎重に検討して、結果を出したいと思います。是非、この金印を東京へ持ち帰らせていただきたいと思います。」
予想されたことではあるが、やはり国立博物館は東京へ持ち帰って調査することを主張してきた。
知事に判断をゆだねようという事になり、知事室に電話を掛けると知事は
「是非、慎重な鑑定をお願いします。ただし、必ず返していただきたい。もしかしたら新しい博物館を作って観光の起爆剤にしなくてはいけないかもしれません。」と意気込んでいた。石井主任学芸員は知事にこの金印の歴史的価値について少し話した。
「高句麗は那という地縁集団の連合体で奴と書くこともあります。高句麗は日本の歴史の中では広開土王の碑が有名ですが、この広開土王の碑は発見されたのはごく最近なんです。1880年にこの地の農民が発見し、翌年、清の役人が一部を拓本にして知られるようになったんですが、1884年、日清間の緊張が高まる中、日本陸軍の大尉が諜報活動中にこの拓本を手に入れ、解読を参謀本部で行ったんです。碑文の中に倭が朝鮮半島に出兵したという記述があったために注目されました。しかし戦後になって、当時の日本陸軍の手によって碑文中の倭・任那関係記事が改ざんされたのではないかという疑惑が出され、韓国・北朝鮮の史学会では疑問視されるようになったんです。戦後は長い間この地域への立入が出来なかったため、実地調査が出来なかったんですが、1980年代から実際の碑文の検討が開始され、内容も明らかになってきました。しかし、判読が困難な部分も存在し、その解釈はまだ諸説あって確定はしていません。しかし、当時の倭と戦ったという記述から倭はおそらく大和朝廷だろうと推測されています。当時の倭は完全に統一された国ではなかったわけですから、倭と戦うために越国と和平を結んでいても不思議ではないわけです。今まで日本史の中で触れられてこなかった部分ですが、これが本当ならば、越国は相当強い国だったことになります。越国と高句麗で大和朝廷を挟み撃ちにしたことも考えられます。今回の発見が高句麗と越国のつながりを証明するものであれば、古代日本史を覆すことになるでしょう。」
話を聞いた東山知事は中身がよくわからなかったかもしれないが、大変な発見かもしれないという事だけはよくわかった。反保が補足したが
「九頭竜川の古代名は黒龍川ですが、高句麗との関係がつながると黒龍江から名前を付けたという事も考えられるわけです。」以前から反保が推論を立てていた説である。
結局、石井主任学芸員はこの金印を大事そうに箱に入れて、東京に持って帰った。
国立博物館では鑑定が進んでいるはずである。金印を持ち去ってから1週間。まだ何の連絡もない。古代史の定説を覆すような発見と言えなくもないので、国立博物館だけでなく日本古代史学会を上げての大騒ぎになってもおかしくないのだが、何の音沙汰もない。情報が漏れないように細心の注意を払っているからなのか、鑑定結果が思わしくないのか。かつて神の手と言われた発掘捏造事件があったが、反保の発見を捏造と疑われているのか。静かな時が過ぎていった。
その日、福井県立歴史博物館の反保のところに国立博物館の石井から電話があった。
「石井ですが、先日の品、現在鑑定中ですが、今回の金印、政治家の方とのいざこざか何かあったんですか。私のところに何人かの政治家の方が来られまして、慎重な鑑定をするように念押しをしていきました。ようするに簡単に本物だと認めるなと言うのです。捏造かもしれないと言っていきました。今のところ私の方では捏造を疑るようなものは何もないので本物だと確信していますが、そちらもお気を付けください。」という内容であった。
反保は奈良の野坂陽子に電話で相談した。国立博物館の石井主任学芸員のところに政治家からの圧力があったことを報告すると
「どこから情報が漏れたんでしょうね。」
野坂陽子は疑問を投げかけた。反保は
「国立博物館と言っても所詮、役所の出先機関だよ。形の上では独立行政法人国立文化財機構に所属するとなっているけど、文部科学省の中の文化庁ががっちり抑える外部機関だ。情報は文化庁から文部科学省、内閣へと流れていくだろう。昨今、忖度という言葉がよくつかわれているけど、民自党保守派の政権が長く続き、長期安定政権として君臨し続けたから、役人がトップの意向を忖度するようになって、ヒラメのように上ばかり見て仕事をする世の中になりつつあると言われている。国立博物館もそうなっていないとも限らないよ。君のところの奈良県庁もそうじゃないかい。学問的に新しい発見であっても、政権にとって有利か不利かが重要な判断基準になりうるということだよ。官邸に上がった情報が政権与党の幹部に流されたとしても不思議なことではないわけさ。」
反保は、学問の自由を守ることの大切さを感じてはいたが、時の権力者が自分に有利なように歴史を書き換えるなんてことは、いくらでも行われてきたことだ。古事記や日本書紀も天武天皇のころに天皇制を絶対的なものにするために、この世は神がおつくりになったとしているし、明治維新のころも、天皇の神格化のために様々な作り話が創作されている。太平洋戦争が終結した時も、戦勝国であるアメリカが作った歴史観が日本人の考え方に深くかかわり、戦前の日本軍部を悪ととらえ、アメリカは原子爆弾で戦争の早期終結に導いき、アメリカの指導で日本の民主化がすすめられたとされている。いつの時代も変わらない勝者が歴史を創作するのは、人間の知恵なのかもしれない。
「どうしたらいいのかな。」
野坂陽子が絶妙のタイミングで話題を次へ移してくれた。
「政治家の介入に負けない強い助っ人。誰かいないかな。」
野坂の疑問に反保の頭にピンと浮かぶ人物がいた。
「地方の研究者では勝てないと思うんですけど、東京の、しかも日本を代表する大学の先生はどうだろう。」
反保がひらめいた。
「中川教授だよ。僕たちが大学生のころお世話になった早稲田大学の歴史学の教授。まさに日本を代表する歴史学者。」
佐久間美佳の死で、悲しい思いをしたのは反保だけではなかった。教え子としてかわいがっていた中川教授は研究テーマもよく似ていて、佐久間が宮内庁に就職してからもよく研究で助け合っていたらしい。
「宮内庁の佐多課長もきっと応援してくれると思うわ。」
野坂陽子は明るい声で答えてくれた。
早速、反保が東京の早稲田大学、中川教授に電話をかけてみた。事情を話すと国立博物館の石井学芸員のことは知っているらしく、
「石井に連絡を取ってみる」と言っていただいた。とりわけ、話の中で佐久間美佳のことになり、佐久間が民自党の関口議員から脅迫されていたと思われることなどに関心を示し、暴力や横やりに屈していては学問の自由は守れないという学者としての信念が気持ちを動かしたようであった。中川教授は国立博物館の石井学芸員に
「圧力に屈しないように」とメールを送り、文部科学省には学問の自由を侵すような圧力を政治家がかけることがないように、監視を強めるように助言していただいた。また、後日、直接国立博物館に出向き、永平寺金印を見ていただいたようである。
くしくも日本学術院の委員任命問題が取りざたされ、官邸サイドの意向に沿わない意見を公聴会で述べた学者が露骨に外された騒動で国会が混乱していた時期だったこともあり、中川教授の意見は官邸内でも国会内でも問題になったようであった。関口議員サイドも動きを取りづらくなったようだ。
国立博物館の石井学芸員は関口議員サイドからの圧力をはねのけ、厳正な鑑定を行った。鑑定の最後に政治家の横やりに対する苦言を公表してくれた早稲田大学の中川教授のことを掲載した。その後、石井学芸員から反保のところに電話があり、詳細をうかがった。
「反保さん。いよいよ鑑定終わりそうです。反保さんの大学時代の恩師、中川先生にご尽力いただき、政治家の介入は避けられました。中川先生にお礼を言っておいてください。鑑定の件ですが、やはり本物に間違いありませんね。『親那越王』素晴らしい金印です。倭王ではなく越王という事は、大陸の国家から見て倭というのは大和朝廷に代表される西日本を表し、越は東日本を表す言葉ではないかと推測しています。これまでは越国を北陸3県から新潟までの北陸と考えられてきましたが、今回の発見でもっと大きな国と考えたほうが合理的だと思われます。日本海の中央を船で渡ることは難しいかもしれませんが、大陸の沿海州から樺太、北海道経由で交易をしたと考えると、金印に刻まれた文字の謎も理解できるからです。金印の持ち手の部分も当時の高句麗で用いられていた龍の造形で、その特徴が共通しています。中国様式でもなく、朝鮮様式でもない高句麗様式です。渡ってきた年代については、二本松山遺跡の建設時期である5世紀中ごろから末にかけて、男大迹皇子(継体天皇)が大和朝廷に王として招かれる直前ではないかと考えています。二本松山古墳は男大迹皇子の先代かその前の越の大王の墓であることが推測されますが、男大迹皇子(継体天皇)は親那越王の金印を受け継いだ後、この印を越の国に置いたまま大和へ向かったとすれば、平和的に統一されたという証拠ともいえます。今後、中国や北朝鮮、韓国で高句麗についての文献研究が進んだり、北陸や中国東北部の発掘作業が進むと新たな証拠も出てくるでしょうね。それにしても今回の中川先生のお力は絶大でした。私は東京大学出身ですが、日本の歴史学会は東大・京大派閥と早稲田大学派閥で構成されていると言っても過言ではありません。東大も素晴らしい研究者を多数排出していますが、やはり国立ですから政府の意向に正面から反論しにくい体質があります。旧帝国大学ですから明治時代以来、国の官僚を輩出するのが目的だった学校です。しかし、早稲田は私立ですから自由な学風で、国に対しても屈しない、学問の自由があるのかもしれません。中川先生は文部科学省に対して『学問の自由を侵さないように政治家に目を向けろ』と厳しく言ってくださいました。保守勢力も手を出せなくなったようでした。また、国立博物館の館長にもしっかりと釘を刺してくれました。おかげで私たち学芸員も思い切って鑑定させてもらいました。次はマスコミ発表です。機会を逃すとまた保守勢力の横やりが入らないとも限りません。タイミングを見て国立博物館で発表するのはいかがでしょうか。」
石井学芸員の電話は大部分が報告事項だったが、越国に対する彼の見解は新しいものであった。反保も以前から考えていたが、さらに目を開かせてもらった感じがした。
政治家の横やりに負けず鑑定を終えた金印は次の段階でマスコミ発表をすることに。反保は初めての大舞台で無事にやり遂げる事ができるのか。そして越国の新たな学説が確立されるのか。




