15,大王の軌跡
事件をはじめから調べ直すことにした林田刑事と反保は奈良の野坂陽子も誘って佐久間美佳の身辺を洗うため大阪市役所に行くことになる。すると彼女の出生の秘密が明らかになる。さらには反保と野坂を含んだ3人のルーツに深い因縁がある事にもつながった。くしくも3人が調査した道のりは古代508年から継体天皇(男大迹皇子)が歩んだ道のりを歩むこととなる。
翌日、朝早くから福井駅で待ち合わせをして、反保は実家の近くの上志比竹原駅7時10分発のえちぜん鉄道の電車に乗り込んだ。林田刑事は一度県警本部に寄ってから来たのか、福井駅に直接来た。8時3分に福井駅を出ると大阪駅には10時3分に到着する。2時間ちょうどである。古代、継体天皇はこの道のりを何日かけて歩いたのだろう。奈良(大和)を目指したが大阪に入り即位している。大阪や京都周辺で滞在して、20年後にようやく大和に入っている。反保は当時の継体天皇と同じルートをたどる今日の行程に感慨深いものを感じていた。琵琶湖の西を走る湖西線を100キロ以上のスピードで走っている。日本最速の在来線特急は下りのサンダーバードで京都から福井まで止まらないタイプだと150キロ出しているらしい。琵琶湖を左に見ながら、反保は林田刑事に
「佐久間美佳の調査はどんなところから始めるんですか。」と聞いてみた。すると
「彼女の出生から東京へ出て就職するまでを押さえていきます。捜査の基本なんです。」と林田が刑事の基本を教えた。反保は
「わたしは、松本清張の小説が好きなんですが、その中でも『砂の器』が大好きです。主人公は少年時代、ハンセン病の父親と共に石川県の上江沼郡から日本海を西へ旅をし、島根県まで行ったところで保護されるんですが、逃げ出して大阪に出て丁稚として自転車屋で働きます。大阪の街が空襲で自転車屋の家族がみんな死んでしまいその混乱に乗じて主人公の少年は自転車屋の息子という事で戸籍を申請して別人に成りすまして過去を捨てたんです。主人公の出身地の上江沼郡は貧しい土地として書かれていますが、山代温泉の近くなので僕の家からだと峠越えの国道を通ると30分くらいのところです。今回の事件もそんな恐ろしい過去が待っているような気がしませんか。」
反保は完全に探偵気分であり、推理小説マニアである。林田は
「考えすぎかもしれないけど、もっと大きな何かがあるような気がするんだ。」
大きな何かとは何なのか、はっきりとはわからないが、考えているうちに電車は京都に差し掛かった。
「ぼくもその何か大きな力が何なのかが気になってしょうがないんです。関口議員を中心とした保守勢力も大きな力なのかもしれないけど、もっと大きな何かなんです。ちょうど京都ですが永平寺町や福井県は京都との深いつながりがありますよね。継体天皇も南北朝時代の新田義貞、畑時能、戦国時代の朝倉義景、織田信長と戦った越前加賀一向一揆、数えきれないつながりを感じます。」
林田はうなずきながら
「ぼくもそのあたりが気になってしょうがないんです。死んだ佐久間美佳と野坂陽子さん、それに永平寺の反保君 先祖代々の深い縁によってつながっているんではないか。そんな気さえしてきます。」
そんな話をしていると電車は時間通りに終点の大阪駅に到着した。すぐに大阪市役所に向かった。JR大阪駅から地下鉄御堂筋線に乗り、淀屋橋駅に着くとすぐのところに大阪市役所はあった。大阪市役所の前で奈良から合流した野坂陽子が待っていた。
「久しぶりね。どう、電車は順調だった?」と野坂が言うと
「時間通り、快適だったよ。君の方は奈良からだと近鉄線かな。意外に近いんだよね。奈良と大阪と京都って遠いように思うけど隣接してるよね。」と反保が返した。林田が
「早速行きますか。」と言って中に入っていった。
住民課へ向かうと林田が警察手帳を見せ、殺人事件の被害者の戸籍調査であることを説明し、佐久間美佳の戸籍を見せてもらうようにお願いした。担当者の女性は奥に座る課長か係長か50代の男性に判断を仰いで戻ってきた。上司の許可を得たのか、用紙に住所と氏名を書いてくれと差し出した。林田は警視庁から聞いた佐久間美佳の住所と名前、生年月日を書いた。しばらくするとコピー機から飛び出してきた戸籍謄本が差し出された。大阪市東成区中道2丁目3―18 戸籍筆頭者は佐久間巌、その妻は佐久間茂子、子供は長女 美佳 一人だけ 昭和60年8月5日生まれ 令和2年7月24日死亡 備考欄を見て3人ともびっくりした。平成7年、1995年10月に大阪府枚方市樟葉花園町3丁目7-29菊田泰三長女 養子縁組と書かれていた。平成7年は佐久間美佳が菊田美佳として10歳であったことになる。反保裕司が目を輝かせながら、
「砂の器と同じような展開ですね。」と言うと
「枚方の菊田泰三は聞き覚えがある気がします。」
林田が冷静な声で話し、すぐに携帯電話の検索機能で菊田泰三を調べていた。
「やっぱりそうだ。菊田泰三は1993年枚方市内のJR枚方駅前での無差別殺人事件で連続して5人を殺害した犯人です。1996年に死刑が確定し、現在も大阪刑務所に服役しています。佐久間美佳は死刑囚の娘だという過去をどうしても消したかった。また、それをだれにも知られたくなかったという事でしょうね。おそらく関口議員サイドに調べられて、そのことをネタに奈良県を採用するように脅迫されていたのかもしれませんね。母親がどうなったかは、母親の戸籍を調べないとわかりません。枚方市役所へ行きましょう。」林田刑事が提案すると2人も相槌を打ち、すぐに淀屋橋駅に戻り、地下鉄で乗り入れている京阪電鉄で京阪電鉄枚方駅まで行った。
枚方駅の近くに枚方市役所はあった。大阪市役所同様に林田刑事が事情を話して、菊田家の戸籍を調べてもらった。父、泰三は存命だが妻、玲子は1995年1月17日死亡とあった。長女美佳は大阪の佐久間家へ養子縁組と書かれていた。また、菊田家は父泰三の3代前に京都の菊田本家から分家している。戸籍謄本を見た反保は低い声で語り始めた。
「母親の死亡は阪神淡路大震災だ。1月17日 忘れられない日だ。あの震災で母親が死んだんだ。父が無差別殺人を犯し枚方には住めなくなり、役所に届けをせず転居を繰り返し神戸に行きついたんだろうね。そして隠れるようにひっそりと母と10歳の子が2人で貧しく暮らしていたところへ、大地震に襲われ母親が死んでしまった。幼い美佳は一人で残されていしまったということか。」
さらに野坂がつぶやくように続けた。
「10歳の少女は1人残されてどこへ行ったのかな。」
すると林田がすぐに
「おそらく、神戸の養護施設へ送致されたと思うよ。佐久間家に養子縁組するのは1995年10月だったので震災から9か月だけ、養護施設にいたことになります。神戸の養護施設を調べてみますか。」
結果はすぐに表れた。枚方からJRで神戸三宮まで移動し、神戸市役所で近くの養護施設を何か所か紹介してもらい、2番目の施設で知っているという女性に面会できた。女性はこの施設に30年以上勤めている副所長でこの方の話では菊田美佳がこの養護施設に連れてこられたのは震災直後の1月20日、避難所での4日間の生活を経て施設に来たが、母親が死んでしまったため天涯孤独という事だった。資料では父親が刑務所にいるという事が書いてあったが、このことは施設では秘密事項になっていた。しかし、美佳本人がおびえていて、なかなか施設に溶け込もうとしなかった。今考えると大変賢い児童だったので、自分から秘密事項については隠し通しおとなしく良い子ですごし、養子縁組をしてもらって自分の過去を消そうと考えていたんだと思いますという事であった。8歳で父親が罪を犯し、母と2人暮らしになるが、無差別殺人という事でとても元の家で住み続けることは難しかったと思われる。住所を転々とし転校を重ねながら、世間から隠れるように古ぼけたアパートに住んでいたけど、10歳の時、巨大地震に見舞われ倒壊したアパートの壁に押しつぶされ、母親は死んでしまったが、美佳本人はかろうじて残った壁の間の空間で生き延びた。ピンチと考えるかチャンスと考えるか、賢い美佳は養子縁組という幸せをつかみ取ったのだ。生来賢い彼女は、その後能力を発揮し、北野高校、早稲田大学と進学し、宮内庁勤務にたどり着いたのだ。
戸籍調査で調べられるのはここまでだが、反保にはもう一つ気になることがあった。泰三の3代前に分家して出た京都の菊田本家はどんな家なのか。菊田泰三の父は菊田源七(1937年6月3日生)祖父は菊田与一(1910年12月20日生)祖父の菊田与一は本籍地が京都市伏見区桃山町因幡12-12 父である仙吉の戸籍から独立して新しい戸籍を創設している。ここまでは枚方市役所でもわかるのだがそこから先は京都市役所に行って、菊田仙吉の戸籍を調べてみる必要がある。反保は林田刑事に京都行を頼んだ。自分だけで行っても違法な手を使わないと戸籍調査はできない。林田がもっている警察手帳は実に頼りになる通行手形であると思っていた。
養護施設を出たところで、野坂陽子が聞いた。
「反保君、京都の菊田家まで調べなくてはいけないんですか。枚方の無差別殺人事件までたどり着けば、充分な気がするんだけど。」
反保は野坂陽子と林田刑事に
「最初から気になっていたことがあるんですけど、僕の住所は永平寺町中島、この中島という集落は反保という家がほとんどで、村じゅう反保さんなんです。中島には伝説があって、この村には南朝最後の武将として10人ほどの部下と共に鷲ヶ岳に立て籠もった畑時能が落ち延びて北朝の軍勢の目を逃れるために反保という姓で生き延びたと言われているんだ。太平記にも出てくる南北朝最後の戦いである鷲ヶ岳の戦いの鷲ヶ岳は中島から見たら九頭竜川をはさんで対岸にそびえる山です。落ち延びた畑時能が“畑”から“たんぼ”に名前を変えたとしてもおかしくはなさそうだろ。そんな伝説が頭から離れず、佐久間さんや野坂さんにもなんか過去に因縁があるような気がするんだよ。だから京都にも奈良にも行きたいと思っているんだ。わかってほしい。」
話を聞いた2人は背筋が凍るような感じがしたが、反保の意見に同意してまずは京都へ行くことにした。
JR三ノ宮駅からJR京都駅で乗り換えて近鉄戦で伏見駅まで行き、そこから徒歩で京都市役所伏見区役所へ行った。伏見区桃山町へも行ってみたかったので、京都市役所ではなく伏見区役所へ来たのである。枚方市役所同様に林田刑事が警察手帳を出し、要件を述べるとすぐに望みの品を出してきてくれた。今回の品にはさほどの驚きはなかった。戸籍は明治の初めまでしか遡れないので、菊田家にはさほど大きな驚きはなかった。枚方で調べた通り菊田与一は結婚と同時に父の戸籍から抜けて新しい戸籍を創設していた。
伏見区役所での調査を終えて、実際に伏見区桃山町因幡12-12の住所の場所へ行ってみた。タクシーを降りると京阪電鉄宇治線の六地蔵駅のすぐ近くだった。その番地にあたる場所は木造の集合住宅になっていた。林田刑事が1階の1室のインターホンを押してみた。
「このあたりで菊田さんというお宅をご存じありませんか。」とインターホンに問いかけると
「それなら大家さんです。このアパートの東側のお隣に大きな家がありますからすぐわかりますよ。」
意外に簡単に教えてもらえた。家はすぐ隣だったし、表札も大きく出ていたのですぐに分かったが、和風の門構えで、門のわきには塀が巡らされ奥の家が見えないほどの御屋敷であった。今度は野坂陽子が呼び鈴を押してみた。
「恐れ入ります。私たちは、ある事件について調査しています。よろしかったらお話を聞いていただけませんか。」
野坂陽子の声は反保も時々ゾクッとするような色気のある声で、20歳前後のまだ幼い感じではなく、大人の雰囲気が話を聞いてみたいと思わせたようであった。
「どうぞ。」という声と共に門の脇の扉があいた。家の中からリモートで開けたようだった。門をくぐり3Mほど進むと玄関があり、引き戸をあけると家主と思われる60歳前後の男性が迎えてくれた。
「何の御用ですか。」と不愛想な声で訪問者を警戒していたが、刑事らしく林田が
「実は福井で起きた殺人事件で殺された佐久間美佳という女性について調べていたら、佐久間家に養子縁組する前には枚方で菊田美佳という名前だったんです。その菊田家のルーツを探っていたらこちらのお宅にたどり着いたというわけなんです。佐久間美佳や佐久間美佳の実の父、菊田泰三をご存じですか」
男性は黙り込んでしまったが、重い口を開いて
「枚方の菊田家のことは知っているよ。泰三という人はよく知らないが、70年以上前にうちから分家した家です。でも付き合いもなくなって音信不通だったんですが、泰三さんがとんでもない事件を起こして、完全に交流は途絶えてしまいました。どこに住んでいるのかもわからないです。」
反保は本当に聞きたいことに踏み込んだ。
「こちらの菊田家は大きなお屋敷ですし、由緒正しい血筋のご家系なんでしょうか。」
藪から棒に何を言い出すんですかという感じで野坂陽子はぽかんとした。しかし、菊田家の主人は
「しばらくお待ちください。家系図を持ってまいります。」と言って奥へ入り、しばらくしたらまた玄関に戻ってきた。
「立ち話もなんですから、こちらのお部屋にお入りください。」
と言って玄関わきの応接間に案内された。応接セットの中央のテーブルに主人が家系図を拡げた。さすが京都である。巻物になった奉書紙にたくさんの名前が小さな字で記されている。主人の説明では
「菊田家は代々菊田を名乗っていますが、約700年前、南北朝時代の新田義貞公が祖先にあたります。南北朝の争乱で南朝方の武将として戦いましたが、越前の国、藤島の庄、灯明寺畷で死んだと書かれています。しかし、家族は京都に残り、隠れるように血筋を絶やさぬように生活を続けました。名字を新田から菊田と変え、天皇家への忠誠を菊という文字に隠したのでしょう。私たち家族には代々、この家系図が残され、新田義貞公の末裔としてのほこりを大切にしてきました。」
そう語ると誇らしげに笑みを浮かべた。反保も満面の笑みを浮かべて菊田家主人の顔を眺めていた。
「やっぱりそうだったか。」
予想通りだったのである。この事件には何か大きな力が関わっているのではないか、それは700年の歴史空間を越えた何かが関わっているのではないか。そんな思いを当初から持っていたので、今回の発見は次の奈良へとつながっていくのである。
京阪電鉄宇治線で宇治駅まで出た3人はそこからJR奈良線で奈良に向かった。JRの車中で反保はようやく林田と野坂陽子に「何か大きな力」について話し始めた。
「今回、被害者になった佐久間美佳と奈良県庁の野坂陽子さん、そして僕の3人は仲の良い研究室の仲間だったんですが、それ以上に深い関係でつながっている感じがしたんです。僕は畑時能に関係があり、佐久間さんのルーツを調べたら新田義貞にたどり着いたという事は、野坂さんはどこへたどり着くのか。きっと、南北朝の争乱に関係があるのではないかと思うんです。永平寺町は古墳時代で言えば継体天皇に関係が深いけれど、南北朝時代で言えば敗れた南朝方の勢力につながりが多いんです。もし野坂さんも南北朝の争乱に関係のある誰かの末裔だったら不思議な大きな力が働いていると思うだろ。」
そう言われて野坂陽子は鳥肌が立って恐ろしい感じがしてきていた。
そんな話をしていると間もなくJR奈良駅に着いた。着いたのは夕方になっていた。野坂さんは奈良なので自分の家があるが、林田刑事と反保はとりあえず宿をとることにした。格安の旅館という事で修学旅行の定番の猿沢の池周辺の天平ホテルに部屋を取った。明日は奈良市役所に行くつもりだった。ホテル近くにレストランで夕食を取った。
「僕の住所は永平寺町中島で、ここには反保という姓の家が集中しているという話はしたね。中島という集落は九頭竜川に面していて、対岸には永平寺町と勝山市の境になっている鷲ヶ岳があります。この鷲ヶ岳は太平記にも出てきますが、南北朝の越前での戦いの最後になった場所です。新田義貞が死んで弟が指揮を執りますが、鷹巣城の戦いで敗れ、わずか10人ほどの兵を連れて新田義貞の有力な家来の畑時能が九頭竜川沿いの鷲ヶ岳に立てこもったのです。北朝方の斯波高経は、畑時能が平泉寺からの援軍の僧兵数千と合流したというにせ情報を得て、数千の兵を差し向けたが、相手は10人ほどで、圧倒的な力で全滅させたと言われています。しかし、伝説では畑時能は夜陰に紛れてひそかに山を抜け出し、九頭竜川を渡って中島集落へ落ち延び、畑姓から反保姓に変え、隠れ住んだと言われています。この話が真実かどうかの証明はできません。畑時能ではなく生き延びた下級武士かもしれませんが、北朝方に恨みを持った南朝方の末裔という事になると、その恨みが700年の時を越えて新田義貞の末裔と力を合わせるとなっても不思議ではない気がしませんか。」
反保は一気に話したが、あくまでも推測である。林田は刑事として事実でないことはどうでもいいのだが、推理としては興味を引く話で、しっかりと聞いていた。野坂陽子も興味深く聞いていたが、だったら自分は何だろうと恐ろしくなってきた。とりあえず、2人を残して自分は家に帰ることにした。
翌日は9時にあわせて奈良市役所を訪れた。ここでも林田刑事が警察手帳を見せて要件を述べると、ほどなく望みの品が出てきた。3人は息をのみながら明治の初めから残る野坂家の戸籍をじっくりと眺めた。本籍地 奈良県奈良市法蓮町17 意外なことにこの地に本籍を移したのは昭和30年代であった。その当時の戸籍筆頭者は野坂健介 昭和3年生まれ 野坂陽子は健介から数えて4代目にあたる。しかし、3人が息をのんだのは、昭和35年8月に奈良の地に移り住むまでの本籍地が福井県吉田郡松岡町島2-13という住所が書かれていたことであった。林田刑事が最初に口を開いた。
「吉田郡松岡町って二本松中学校の校区です。でも、島という集落名は聞いたことがないんですけど。」
すると反保が
「島という集落は、吉野地区なんですが、現在は誰も住んでいません。昭和40年代に最後のお宅が村を引き払って廃村になりました。島という集落には伝説が残っています。集落の一角に淡墨桜と宝篋印塔が立つ場所があります。宝篋印塔とは古くは仏陀の骨(仏舎利)を奉納して建てた塔なんですが、身分の高い方の骨を納めた塔です。島という集落の西側の竹やぶの中にこの塔があり、この周辺の桜の木の枝、石ころ一つでも持ち出すと祟りがあると言われ、長い歴史の中で塔周辺の遺物を盗もうとして祟りに会い、火事になったり事故にあったりして何件かの家がなくなり、とうとう最後の1軒が出て行ったのが昭和40年代です。伝説によるとこのえらいお方というのが南北朝の争乱の南朝方の後醍醐天皇の皇子、尊良親王か恒良親王と言われています。尊良親王と恒良親王をかかげて新田義貞などの軍勢が越前の国に入ってきたが、敗戦に次ぐ敗戦で逃げ延び、この松岡の地に入ったと言われ、尊良親王たちが奈良の吉野の里から持ってきた薄墨サクラが植えられたと言われているのです。奈良の吉野と言えば桜の名所ですが、その吉野にちなんで吉野と名付け、後醍醐天皇のことをしのんでサクラを帯同したんでしょうが、落人となり、この地に隠れるように住み続けて700年がたってしまったんだと思います。ただし、吉野という地名は福井県内にもう一つあり、越前市にも吉野地区があり吉野小学校があります。残された伝説もよく似ていて、尊良親王や恒良親王の替え玉が何人かいたのかもしれないと思っています。太平記の中では敦賀の金ヶ崎城の戦いで尊良親王は死んだことになっています。それにしても野坂陽子さんの先祖が松岡吉野地区島の人だったとは尊良親王や恒良親王なのかもしれないし、尊良親王たちをお守りした側近の方なのかもしれません。700年の時を経て、南朝方の中心人物の新田義貞の末裔、尊良親王か恒良親王の末裔、畑時能の末裔、いずれも推定ですが同じ大学に入学し、仲間になり数奇な運命に翻弄されて1人が殺されて残された2人がその謎に挑むなんて、『大きな力』が働いていたと考えるしかないと思うんです。殺人事件の捜査の方向性とはちょっと違った方向性になってしまいましたが、恐ろしいものを感じます。」
奈良市役所の住民課の担当の女性は、聞こえてくる反保の説明に聞き入ってしまっていた。3人が奈良市役所を出たのは12時近くになっていた。奈良名物の柿の葉寿司を買い込んで野坂陽子を残してJRに乗り込んだのは午後1時をまわっていた。
佐久間美佳の出生の秘密を知った3人は保守系の政治家から佐久間美佳が脅されていたことを確信する。しかも3人の同級生にはそのルーツに深い因縁があることを知り、ただならぬ因縁を感じるようになってくる。