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北方作戦への布石

 大湊を出港して4日目、五千トン級護衛艦「しらぬい」はオホーツク海南西海域を航行していた。流氷が押し寄せる季節だが、温暖化による水温の上昇で流氷面積は減少している。この気候変動は、周辺の豊かな漁場を脅かすことになる。

「我が国の水産業には打撃だが・・ロシア海軍は大歓迎だろう。砕氷船を先頭に、もたもた航海をすることもなくなる」

 艦長の有馬二佐は、緊張した顔の川中副長へ話しかけた。川中は横須賀司令部からやってくる監察のことで頭がいっぱいだった。間もなく現れるはずのヘリを探そうと、しきりに上空を見つめている。

 川中は、有馬の呆れた視線にやっと気付いた。

「ロシア海軍ですか?何のことでしょう?」

 川中は何も耳に入っていない様子だ。しかも見当違いの方向を見上げて・・・有馬艦長は首を振って接近するヘリの方角を指さした。

「監察官の話は聞き洩らさないようにしろ。あれが待ちかねのヘリだ。粗相のないようにな」

 SH-60Kヘリコプターは「しらぬい」上空を旋回し、後部ヘリポートへ着艦態勢に移った。

 出迎えは川中副長に任せ、有馬は艦長室に閉じこもった。4~5人の監察官の中に、彼の待つ訪問客が紛れていることを、川中には知らせていなかった。

 艦長室を訪れた、ひとりのマスク姿の将官・・・疲れた様にマスクと帽子をとった男は中西陸将補だった。

 有馬は、訪問客の中西に敬礼して言った。

「海自の制服がお似合いで・・・昔なら軍法会議ものですな」

「君が告発すればね・・・今は周囲の目に気を付ける時期だ。ヘリの連中も私の事は知らない。あまり時間がないんだ、始めてくれ」

 有馬は中西に促され、スクリーンモニターに海図を映した。ウラジオストクからカムチャツカ半島に至る、幾通りの航路、艦艇の位置がマーキングされている。

「ロシア海軍の動きは、ほぼ捉えています。哨戒ルート、ローテーションは不規則ですが、大体は予想がつきます・・・一時的にせよ、完全に動きを封じるとなると、15隻の護衛艦が必要でしょう・・・空軍の出動にも備えなくてはなりません」

 この有馬の要求に、中西は厳しい顔で答えた。

「そいつは難しいが、最低10隻は動員できる。分かってるな?君がその狼煙をあげる役目だ」

「イージス艦は何隻ですか?」

「3隻だ。2隻はドック入りで、あとは南シナ海にいる・・・作戦期間内に間に合わない」

 有馬はそれを聞いて首を振った。

「せめてもう1隻、何とかなりませんか?陸自を守り切れないかもしれない・・・指令システムを抑えれば造作もないことでは?」

「その効果には期限がある。乗っ取りに気付いた幕僚は必ず手を打ってくる・・・限られた手駒と時間内で、全てを終わらせることを考えろ。贅沢な戦力は期待しないでくれ」

 スクリーンモニターを見つめる有馬の表情が曇ってきた。中西はその顔を覗き込むように尋ねた。

「どうした?手を引くか?でなければ、君の立てた作戦を教えてくれ」

「サッカーはお好きですか?」

 突然の質問に、中西は怪訝な顔で答えた。

「たまにテレビで見る程度だ・・・むしろ野球の方をよく見るが」

「自分は野球よりもサッカーです。キーパーを除く10人のポジショニングと流動的に繋がった攻撃、相手のミスを誘うプレッシャーやフェイントといった駆け引き・・・」

 有馬はレーザーポインターで、ロシア艦艇を示した。

「サッカーの試合で、ディフェンスが相手選手をそれぞれマークするように、哨戒任務中のウダロイ級駆逐艦に護衛艦二隻が張り付きます。ロシアの勢力圏まで追い続けることで、彼らはマークされる側になります。本艦がロシア船相手に事件を起こし、サハリン南東海域に護衛艦が増えると、ウラジオストクから増援がやってくるでしょう・・・この陽動作戦の間に、陸自がゴールを決める訳ですが、問題はゴールキーパー・・・この島の対艦ミサイル配備状況です」

 レーザーポインターは国後島と択捉島を指している。

「現地の防備は弱体化している。君も知っての通り・・・」

「ええ、多くの兵器がウクライナ向けに引き抜かれていると聞きました。ですが最低限は残すでしょう・・・損害は覚悟すべきです。市川陸将はそのリスクを認識されていますか?」

「彼を説得する為に、ある手を打っている。現地には協力を期待できる組織があり、コンタクトをとる工作員を潜入させる。守備兵力の情報収集と破壊工作が主な任務だ。それ以上の事は言えない」

「聞くつもりはありませんが・・・もしその手が失敗した場合は?」

「陸自の盾になる、護衛艦が必要だ・・・サッカーにそのような戦術は?」

 有馬は苦笑して首を振った。

「ディフェンスを引き付ける選手は、実弾を浴びて死ぬ危険はありません。その護衛艦を失っても、海自隊員の命は守るべきと思いますが・・・艦長の力量次第です」

 中西は、その意味を悟って言った。

「君に任せたいところだが、貴重な同志を失いたくはない」

「艦と運命を共にすることはしません。多分、大きく変わる日本で、まだやることがありますから」

 中西は、市川との約束を思い出した。犠牲はゼロが原則・・・あくまで原則だ。中西は論理的思考の強い戦略家であり、現実主義者だった。市川や有馬のように、理念や理想を掲げるより、数字による判断を重視する・・・彼から見れば、犠牲ゼロはあり得なかった。

「それは最悪の場合だ。今は目の前の作戦に専念してくれ」

 中西は顔には出さなかったが、内心は憂慮していた。工作員の現地潜入は、安全を担保する上での、予備的な作戦のつもりだった。しかし、その重要度は高まり、作戦の成否を左右するまでになっている・・・それはたったひとりの、元自衛官の能力にかかっていた・・・。


 ロシアの国境近くまで野口を見送ったのは、最年少の陸士だった。

「野口陸士長、陸自を辞められても、我々の間では伝説になっていました。お会いできて光栄です・・・この先のルートはお分かりですね?」

 未開の地を、何日も這うように進んで、二人はここまできた。野口は、この疲れを知らない若者に感心した。

「お前こそ、迷わずに戻れよ。山内とか言ったな?体力だけは認めてやる・・・」

 他人事ながら、野口はこの若者が、あの幽鬼部隊の一員であることに同情した。

「だが、辞めたければいつでも辞めるがいい。俺のように自由になれるし、お前ならどこへでも逃げられそうだ」

 山内は初めて笑い、首を振って答えた。

「逃げたいとは思いません。それに、自分には目標がありますから・・・では幸運を祈ります」

ロシア兵の死体から拝借した軍服を身に着け、野口は単独で国境を越えた。脱走兵として検挙される恐れがあり、人目を避ける為に日中は身を隠し、暗闇の中で行動した。

 単独行動の狙撃兵として、隠密に移動する経験が大いに役立ったが、頼りの狙撃銃は手離していた。

 国境を越えて3日後、野口は人口5万の都市、リスキの手前でドン川を越えた。周囲は自然保護区で、石灰岩の岩山が異様な形にそそり立っている。

 洞窟教会の方向を示す標識の前に、1台の車がとまっている。野口はロシア兵遺品の腕時計で時間を確認すると、その車へ近付いた。

 窓をノックすると、若い女性が顔を出した。野口はロシア語で話しかけた。

「失礼、ヴォロネジへ向いたいのですが、駅はどちらです?」

「10キロも歩きますの?乗っていきます?」

「サーシャ・マルティノフ?」

「ええ、ドルジェフ上等兵殿」

 合言葉の確認が終わり、野口は車に乗り込んだ。車はリスキに向わず、連邦道路M4を目指してスピードを上げた。

 サーシャはロシア国籍のウクライナ人で、反政府組織の下で働く女スパイだ。軍の情報に精通していると聞いていたが、ひと目でその理由が分かった。大方その美貌でロシア将校か誰かと関係をもっているのだろう・・・。

「サーシャ、聞いていると思うが、僕の所属部隊について詳しく知っておきたい。命令書は持っているが、下手なロシア語だけではごまかせないだろう?招集日まであまり時間が・・・」

「実は、その件でトラブルがあって・・・ともかく、ヴォロネジで私のボスに会って頂けます?」

 サーシャの運転する車で、2時間とかからなかった。ヴォロネジはモスクワから南へおよそ460kmの距離の州都で、人口百万を超える大都市だ。郊外にある教会が組織の隠れ家だった。

 ロシア正教の独特と言える建築物は、キューポラと呼ばれる玉ねぎのような形のドーム型屋根に象徴される・・・別棟にある一室で、野口とサーシャはその人物を待っていた。

 組織のリーダーと聞いて、野口はいかつい顔をした、レーニンのような顎髭を生やした男か、牧師のような温厚な男か、あれこれ勝手な想像をした。

 現れたのは50代くらいの女だった。とても温厚とは言えぬ、鉄の女のような風貌だ。

「あなたがあの有名な義勇軍の狙撃兵?」

 野口は珍しく、うろたえた顔を浮かべた。ひと目で、手ごわい女だと直感した。

「有名・・・ですか?」

「知らないの?あなたが思っているより、この国じゃ有名よ。捕まれば間違いなく死刑ね。あなたを警察に突き出せば、多額の懸賞金が手に入る・・・組織の助けになるわね」

 野口は何も言えず、唖然とするばかりだ。

「冗談よ。あなたのような英雄を迎えられて、とても喜ばしい!」

 彼女は、女とは思えない、力強い手で野口と握手した。

「恐縮です・・・名をなんと呼びましょう?」

「アンナと呼んで・・・さっきは驚かせて悪かったわね。同志を警察に突き出すことはしないから安心して」

 野口は困った笑いを浮かべた。

「自分が同志ですか・・・」

「あなたも日本じゃ反政府組織の一味でしょう?そういう意味の同志よ」

 野口はその言葉に少し驚いた・・・アンナは野口自身よりも、この任務の経緯に詳しいかもしれない・・・それを尋ねたい衝動に駆られたが、今はそんな場合ではなかった。

「ではアンナ、自分の転属にトラブルが生じたようですが、どういう事でしょう?」

「クナシル島、ユジノ・クリリスクへの転属は取りやめになったわ。理由は二つ・・・輸送機がウクライナのドローン攻撃で損傷したこと、ウクライナ戦線の兵力がひっ迫し、元々優先順位の低い極東へ交代要員を送る余裕がなくなったこと」

「転属の取りやめ?ではドルジェフ上等兵の配属先は?」

「配属先はないわ。元々ドルジェフの兵役は、ウクライナで終わり・・・自由の身ね。本人は死んじゃったけど」

「それは困ります・・・自分はどうしても国後島に行かねばなりません」

「知っているわ。あなたの望みは、国防大臣を狙撃すること・・・あなたはそれと引き換えに、別の仕事も引き受けたはずよ。つまり取引したわけね・・・同じように、私と取引しない?」

 やはり、恐ろしい女だ・・・野口は背筋が寒くなるのを覚えた。自分の考えが完全に見抜かれているように思えた。

「あなたの望みを叶えるためには、私たちの協力が絶対に必要よ。ドルジェフの身分証は、まだ使える。サーシャがあなたをクナシルまで連れて行くわ。モスクワからウラジオストクまで、シベリア鉄道9千キロを1週間かけて・・・あとは観光客として船旅ね。お好みの狙撃銃は現地の同志が調達する・・・どう?取引するかしないか、今直ぐ決めてちょうだい」

 野口に、選択の余地は全くなかった・・・。


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