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黄昏の東部戦線

 雪に覆われた草原は、日差しが反射してまぶしく光っていた。やがて地平線に沈みゆく太陽は、凍るような空気をオレンジ色に染めていく・・・。

 東ローマ帝国を脅かしたノルマン人たちは、キエフからこの地を通ってコンスタンティノープルを目指した。蛮族にすぎない彼らが、この素晴らしい景色に感動することはなかっただろう・・・膨大な犠牲を払いながら、この地を死守するロシア兵たちのように。

 陽光が、もう一方の地平線から立ち昇る雪煙を照らしていた。白い迷彩服を着た、孤独なハンターがじっと身をひそめ、この獲物をじっと待っている。

 UAR-10狙撃銃のスコープをじっと見つめる、その29歳の男は日本人だった。

 50か国以上から、数万人の外国人義勇兵が集まったといわれるが、無論、日本人は少数派だ。大抵は元自衛官で、彼もそのひとりだった。

 2022年2月24日、ロシア軍はウクライナの北部・東部・南部から全面侵攻作戦を開始した。元々東部ドンバス地方は、ロシアの支援する親露武装勢力とウクライナ軍との軍事衝突が頻発していた紛争地帯だった・・・2014年のクリミア併合以来、その孤立地帯がロシアと完全に一体化する為に、この東部地域の支配は必須条件だった。

 しかし、北部からの首都キーウへの攻勢は大胆な賭けだった。ロシアはウクライナの反露政権を打倒しない限り、問題の根本解決にはならないとの結論に達した。

 速やかに首都を無血占領し、現政権を追い払って親露政権を樹立する・・・ロシアはそれが数日のうちに、鮮やかに実現することを期待していた。クリミア併合の時のように・・・しかしそうはならなかった。

 既に奇襲攻撃の要素が失われ、ウクライナは攻撃に備えていた。キーウに通じる道路はダムの破壊で水浸しになり、ロシア軍は大幅な迂回を余儀なくされる。

 ロシア軍特殊部隊で占領したアントノフ空港は、ロシアが大兵力を輸送機で送り込む前に、ウクライナ軍に奪還された。

 作戦の不備による致命的な序盤のミスが、計画の全てを狂わせた。戦争は泥沼化し、国際社会を敵に回した上、何よりも自らウクライナを恐るべき軍事強国に育てるという結果を招いた・・・。

 野口和正は、元々レンジャー資格を持った陸士長で、隠密作戦の訓練も受けていた。狙撃や破壊工作の他、ロシア語も学んでいる。自衛隊を退職し、全てを捨ててまで、ウクライナ入りを選ぶことになんの躊躇もなかった。

 自ら望み、念願でもあった、単独行動のスナイパーを任された彼の実力は、この戦場で遺憾なく発揮される。

 初めて射殺したロシア兵の顔を、野口は今でもはっきり覚えていた。それはロシア人ではなく、恐らくはモンゴル系の少数民族・・・貧しい村から駆り出された、親兄弟を支える実直な若者だったかもしれない・・・。

 そのような葛藤は、3人目の狙撃で完全に消え失せた。誰であれ、俺が殺すのはロシア兵だ。学校や病院、集合住宅をミサイルで破壊し、村人を虐殺し、子供を連れ去る、同情の余地など全くない凶賊の一味なのだ。殺されたくなければ、監獄行きになっても徴兵を拒否するべきなのだ。

 迷いを消し去った野口は、これまで少なくとも50人以上の狙撃に成功している。それでも、敵への憎悪は消えず、むしろ強まるばかりだった。

 彼自身、そのことを自分の成長と捉えている。この戦場を二年間生き抜いたことがその証拠であり、敵に情けを感じる時、その隙に入り込む迷いこそ、自分を殺す最大の敵と信じていた。

 時おり、野口は古巣の自衛隊の仲間を思い出す。強くなるには、ここにきて実戦を学ぶべきなのだ。自衛隊の真の仮想敵国はロシアなのだから・・・。

 その考えはすぐに打ち消された。

「ここで連中に会うだと?まっぴら御免だ」

 野口は、馬鹿なことを考えた自分に呟いた。俺は戦場にこそ、生きる価値を見出している・・・そこに仲間は必要ない。

 俺は殺し合いが好きなのか・・・いや、ここには命を賭けて戦う大義がある・・・悪人は抹殺されるものだと、映画やドラマの世界で決まっている。観客は、正義が勝つためなら、残虐な殺しでさえ快感を覚える・・・それが人間の本質なのだ。

 ただ、命のリスクが伴うと、その価値観はガラッと変わる。生きるため、或いは何かを守るために戦う者・・・戦いそのものが、命よりも尊い者・・・その違いだけだ。前者のような義務で戦う者にとって、無意味な殺し合ほど、愚かで馬鹿げている・・・最も愚かな殺し合い・・・戦争こそは絶対避けるべきなのだ。

 抑止力と災害対応力が自衛隊の存在価値であり、優秀な戦闘要員が訓練や警戒任務で一生を終えることになっても、高性能の兵器が朽ちて廃棄されることになっても、左派と右派の暗黙の合意のもと、その膨大なコストが否定されることはない・・・ただ、そこは野口の居場所ではない。

 この烈々たる戦場こそ、彼が探し求めた生きる場所だった。同じ立場の日本人に会っても、親しくはなれないだろう・・・孤独を愛し、仲間を否定する野口にとって、誰であろうと邪魔でしかない。

 スコープの標的がはっきり見えてきた。歩兵部隊を乗せた装甲車両が2台、真っすぐ向かってくる。

 野口は、運に恵まれていることに感謝した。太陽を背に、理想的な狙撃ができる。ロシア軍を示す「Z」の標識をつけたこの車両は、恐らくは本拠地に戻る偵察部隊だろう。雪道を全速で駆け抜けようとしている・・・一刻も早く、生きて帰ろうとするかのように・・・。

 最低でも、三人は仕留めるつもりで、野口は狙いを定めた。横風を考慮し、400メートルの距離まで待った。

 UAR-10セミオートライフルは5kgと比較的軽く、野口のような行動範囲の広いスナイパーに好まれる。野口はサイレンサー付きを使用していたが、消音効果はあまり期待できず、マズルフラッシュを抑える為に装着している。弾速は落ちるが、スナイパーにとって、居場所を特定されるのが命取りになるからだ。

 500メートル圏内・・・BTR-80装甲兵員輸送車の上部と側面ハッチから、5人のロシア兵が身を乗り出している。

 野口はスコープを凝視したまま、じっと待った・・・十字のレティクル中央に、ロシア兵の頭がぴたりと収まっている・・・他の兵士同様、ドローンを警戒しているのか、この標的は狙われていることに気づかず、ただ上空を見上げている・・・。

 400メートル!野口はトリガーを引いた・・・命中!

 崩れ落ちる兵士を、仲間が必死で引っ張り上げようとしている。狙撃に気付いた兵士たちは慌てふためき、四方八方に銃を向けている・・・。

 野口はためらわずに、次の標的に狙いを定めた・・・しかし、そこで予期せぬ事態が起こった。

 2台目のBTR-80が、大音響とともに砲塔が高く吹き飛ばされ、車体が炎に包まれた。

 野口は唖然とした。何だ?FPVドローンか?いや、威力がちがう・・・野口はスコープを覗き込みながら、獲物を横取りした犯人を捜した。爆発の状態から、側面からの携行式誘導ミサイル攻撃だと疑ったからだ・・・恐らくはジャベリンのトップアタックモードによる・・・。

 いた!10人以上はいる・・・雪上をコサック狐のように這いまわる、彼らがウクライナ兵であることは確実だった。銃声とともに曳光弾の応酬が始まっている。

 装甲車両のかげに隠れ、6人のロシア兵が応戦している・・・しかし野口の位置からは丸見えだ。スコープで覗くと、既に2名のロシア兵は負傷し、手当てを受けているのが見える。

 野口にとって、身動きできない彼らを仕留めることは容易い・・・しかし、野口は撃たなかった。

 どうせ奴らがジャベリンで仕留めるだろう・・・BTR-80の14.5mm機関銃は無視できない火力だ。もたもたしていると奴らの方がやられる・・・。

 しかし、ウクライナ兵たちは、なかなか決着をつけようとしない。撃てないのか?撃てるけど撃たないのか・・・たまりかねた野口は、もう一度この無能なウクライナ兵たちの姿をみようとスコープで探した。

 ウクライナ兵は装甲車側面のタイヤ付近や、ガンポートを集中して狙っている。正確な射撃だ・・・黒煙がくすぶり始め、銃塔は動かなくなった。彼らは思ったより無能ではなかった。

 そのひとりは、野口と同じ狙撃兵だった。同じようにスコープでこちらをうかがっている・・・何やら、こちらに向って合図している・・・。

 彼らは最初から、野口の存在に気付いていたのだ。そして、野口はその合図の意味を理解した。

 俺に背後から撃てだと?この俺に?冗談じゃない!手出ししたからには、自分たちで始末をつければいい!

 野口は、自分でも変な怒りがこみ上げた理由が分からなかった。ただ、このウクライナ兵たちに、妙な違和感をおぼえたことは確かだった。

 そうこうしているうちに、ロシア兵たちは車両を放棄し、徒歩で撤退を始めた。負傷した2人の兵士は見捨てられた・・・諦めた彼らは両手を上げ、降伏の意思を示している。

 退却するロシア兵・・・降伏するロシア兵・・・どちらにも運がなかった。彼らは全て、ウクライナ兵に射殺された。

 ウクライナ兵たちは、炎上する装甲車両と、横たわるロシア兵たちの死体を取り囲んでいた。ひとつひとつの死体を丹念に調べ、いくつかを担架で運び出そうとしている・・・負傷者でもないのに。

 野口は、はっとした。数人の兵士がこちらを向き、「こっちへ来い」というように合図している。明らかに野口に向って・・・。

 野口はそれを無視した。しばらくすると、彼らの方から歩いてきた。20名以上が、まっすぐ野口に向って・・・。

 今さら隠れても無駄だ・・・野口は諦め、どう挨拶してやろうか考えた。ウクライナ語よりロシア語の方が話し易いのだが・・・しかし、その心配は無用だった。

 ウクライナ兵たちが近づくにつれ、野口の感じた違和感の正体がはっきりと分かった。無表情にこちらを見つめる彼らの中に、何人か顔見知りの者がいる・・・。

 彼らは全員日本人・・・それも陸自のレンジャー隊員だった。


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