空
────間もなくして、初日の勉強を終えた私はマーサやクロウと共に食堂へ向かった。
そこでカーティスと合流し昼食を摂ると、今度は楽器の練習に取り掛かる。
と言っても、半分遊んでいるようなものだが……。
最初こそ、マーサに基本を叩き込んでもらったものの、高等技術を求められることはなかった。
今はとにかく、色んな楽器と触れ合うことが大事らしい。
好きな楽器が見つかったら、それを重点的に教えるって言われたけど────。
「────数が多すぎて、選べない」
部屋いっぱいに並べられた楽器を前に、私は『どれも面白そう』と零す。
すると、マーサはクスリと笑みを漏らした。
「別に一つしか学べない訳じゃありませんよ。ただ、一気にマスターするのは大変だから順番を決めて欲しいだけです」
『一つずつ学んでいきましょう』と提案するマーサに、私は首を縦に振る。
────が、楽器選びは難航した。
いずれ全部マスターするとしても、一番最初に学ぶ楽器はやはり重要だから。
簡単に決められるものじゃなかった。
「ここは無難にピアノ?いや、ヴァイオリンも捨て難いな。フルートやチェロも面白そうだし」
先程楽器の説明を一通り受けた私は、『選択肢が多すぎて困る』と口にする。
これまでの人生で何かを選んだ経験がないため、非常に悩んだ。
『取捨選択って、案外難しいんだな』と考える中、マーサはじっとこちらの様子を見守る。
微笑ましいと言わんばかりに、頬を緩めながら。
『一体、何が面白いんだろう?』と首を傾げる私は、ふとピアノに触れた。
その際うっかり鍵盤を押してしまい、ポーンと音が響く。
刹那────壁際で待機していた精霊達がドラムや木琴を叩き始めた。それも、私の鳴らした音に合わせるように。
「わぁ……!」
生まれて初めて演奏を間近で体感した私は、感嘆の声を漏らす。
だって、それほどまでに素晴らしいものだったから。
『皆、息ピッタリだった』と瞠目する中、マーサは苦笑を零した。
「全く、あの子達ったら……奥様のミスをカバーしようと必死ね。そんなことをしなくても、大丈夫なのに」
『まだ練習前なんだから』と呆れるマーサは、小さく肩を竦める。
やれやれと頭を振る彼女の横で、私は『庇ってくれようとしたのか』と驚いた。
「皆、ありがとう」
こちらへ近づいてきた精霊達を指の腹で撫でながら、私は素直に礼を言う。
すると、彼らは『どういたしまして』とでも言うように私の周りを飛び回った。
「あっ、あと演奏も凄かった。即興だったのによく同じ曲を弾けたね」
『こういうのを阿吽の呼吸って言うのかな?』と述べる私に対し、マーサは一つ息を吐く。
「あの子達は弾ける曲が……というか、知っている曲がこれしかないんですよ。時々、旦那様が弾いているので自然と覚えたのでしょう」
「そうなんだ。ちなみに曲名はなんて言うの?」
「確か、『青空に願いを』だった筈です」
「青空?」
何の気なしに投げ掛けた質問の答えに、私は目を剥いた。
だって、私の知っている空はいつも真っ黒で青い時なんてないから。
「ねぇ、マーサ。空って、青いの?」
「結界外の空は、青い時もありますね。夜空とはまた違う魅力があって、大変綺麗ですよ」
『雲一つない晴天の時は特に』と力説するマーサに、私は目を輝かせる。
空という広大な空間が真っ青になるところなんて想像もつかないため、好奇心を擽られた。
無意味と理解しつつも部屋の窓から外の景色を眺め、ちょっとだけ期待する。
「私も青空、見てみたいな」
闇より暗く影より黒い空を見上げ、私は願いを口にした。
その瞬間────まるでコーティングされたチョコレートが溶けるかのように、結界が消える。
そして、夜の帳に遮られていた青空がひょっこりと顔を出した。
「凄い……本当に青い」
目に飛び込んでくる光景に驚く私は、パチパチと瞬きを繰り返す。
『マーサの言う通り、綺麗だな』と感激する中────急に腕を引っ張られた。
「早く物陰に隠れてください!旦那様の結界を破られるなんて、異常事態です!絶対に私の傍から、離れないで!」
半ば怒鳴るように指示を飛ばすマーサは、私の体を抱き込むようにしてピアノの後ろへ移動する。
精霊達も急いで物陰に隠れ、警戒態勢を取った。
呑気に青空を眺めていたのが申し訳なくなるほど張り詰めた空気に、私は息を呑む。
そういえば、カーティスの結界って他の吸血鬼でも破れないほど強力なんだっけ?
なら、皆が取り乱すのも仕方ない。むしろ、私の危機感が足りないかも。
『能天気』という言葉が似合いそうな自分に呆れる中、マーサはそっと外の様子を窺う。
普段の穏やかな雰囲気が嘘のように殺気立つ彼女は、一切隙を見せなかった。
────と、ここでいきなり部屋の扉を開け放たれる。
マーサは咄嗟に防御態勢を取ったものの……直ぐに肩の力を抜いた。
何故なら、相手が────。
「皆、無事かい!?」
────カーティスだったから。
『怪我はない!?』と矢継ぎ早に質問する彼は、焦りと不安を露わにする。
不老不死だからと射線も切らずに中へ入り、私達のことを気遣ってくれた。
あの様子だと、カーティス自ら結界を解いた線はなさそう。
じゃあ、本当に他者の介入で打ち破られたってこと?
「旦那様、我々は全員無事です。怪我もしていません。それより、結界の復旧を……」
「あ、あぁ……そうだね。直ぐに張り直そう」
全員無事だと聞いて安心したのか、カーティスは僅かに冷静さを取り戻す。
そして、マーサの進言通り結界の復旧作業を始めた。
あれ?カーティスの影が────ブクブクしている?
マーサに抱き締められたままカーティスの足元を見つめる私は、『なにこれ?』と頭を捻る。
と同時に、カーティスの陰がタコのような触手を生やし、窓へ伸びる。
ソレは実体を持っていないのか窓を通り抜け、空に登って行った。
かと思えば、空中でパーンと弾け、カーテンを閉めるかのように夜の帳を下ろす。
結界の復旧作業はあっという間に終わり、空はまた黒くなった。すっかり元通りである。
また、余った分の触手はシュルシュルと戻ってきて、カーティスの足元に収まった。
カーティスの陰は一体、どうなっているんだろう?もしかして、これも吸血鬼の能力なのかな?
などと考える中、マーサがようやく腕の力を緩める。
結界が無事復旧して安心したのか、体をそっと離した。
「ところで、旦那様。クロウはどちらに?」
「屋敷の外だよ。住民の被害状況や侵入者の有無を確認するためにさっき、飛び出していったんだ」
『だから、僕はお留守番』と言い、カーティスは小さく肩を竦める。
クロウの実力なら問題ないと踏んでいるのか、心配している様子はないものの、待つことしか出来ない現状に不満を抱いているようだった。
凄い力を持っているのに、何も出来ないのが歯痒いのだろう。
「そうでしたか。では、我々は屋敷の警備に務めた方が良さそうですね」
「そうだね。ここには、ティターニアや精霊達も居るし」
庇護対象の安全確保を優先するマーサとカーティスは、『少し場所を変えようか』と考える。
ここだと、腰を落ち着けて話すことが出来ないからだろう。
「とりあえず、僕の執務室へ行こうか。あそこなら、万が一のことがあっても対応出来る」
『いざとなったら、隠し通路で逃げられるし』と主張し、カーティスら踵を返す。
先陣を切る形で歩き出した彼につられ、私達も部屋を出た。
危ない目に遭うかもしれないからと互いに身を寄せ合い、長い長い廊下を進んでいく。
────と、ここでマーサが口を開いた。
「それにしても、結界を破られた原因は一体何なんでしょうね」




