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苗代沢事件簿—はぐれ者どもの300日戦争—  作者: 朱坂ノクチルカ
Case. 1 ウェルカム・トゥ・ アンダーグラウンド
8/15

7.苗代沢千佳、無職、借金二千万

 足音(きょう)然、苗代沢は勢いよく顔を上げた。コンクリートの床を鳴らす靴音は高く、がらんとした廃工場によく響いた。


「な、なんで――……」


 タカが呻く。なんで。たしかに何故。


 なぜミソノはパーティードレスの出立ちなのか。


「さあな。それよりも私の質問に答えろ」


 足音が止む。よろめくタカと予期せぬ闖入者が決闘の間合いで対峙する。苗代沢は息を呑んでその様子を見守った。


 それにしても、だ。


 苗代沢は目を擦ろうとした。手が使えない。代わりに大きく瞬きをした。何度瞬いてもミソノは典麗風雅、舞踏会から抜け出てきた令嬢のようだ。ロングドレスを身に纏い、チョコレート色の髪をシニョンに結い上げている。精巧な彫刻のように整った顔立ちが険しい表情を呈しているのが風采に似合わない。


「正義」タカははっきりと告げた。狼狽えていたのはほんのわずかな時間のこと、すぐに侠客の風格を取り戻している。「ワシの正義は社会の正義や。おまえみたいな利己主義倫理とは()()

「大層立派な御挨拶だな」ミソノがヒールを鳴らして距離を詰める。「人との約束は守ってもらいたいものだ。後の雇用関係に支障を来す」

「約束? おまえが一方的に押し付けただけやろ」

「おかしいな。私は『苗代沢に用があるなら私を通せ』と言ったはずだ」

「それを一方的と――」

「お前が教えてくれたことじゃないか。ご親切様?」


 纏わりつくような冷気が重く停滞していた。苗代沢は焦りを覚えた。またしてもミソノの登場で絶対的危機を凌いだわけだが、このまま事態が進めば結局は緩やかに裏社会の闇に飲まれてしまうこと必定である。これを避けるにはもちろん、ミソノと手を切ればいい。その結論に辿り着けない程度には苗代沢の思考回路は限界であり、やはり要らぬ意地が邪魔をしているのであった。


「――ハッ。どうせ()()()やろ。人様の人生と性癖を歪めとるんちゃうぞ」

「バカ言え。私はいつだって真剣だ」

「さあ、どうやろな?」タカが小さく舌打ちして続ける。「だいたい、お前の仕事にも悪影響やろうが。大口振れなくなるで」

「言い掛かりだな。お前に迷惑をかけた覚えはない」

「たとえば、上得意さんに知られたらどないすんねん」

「知られないさ。それに情報操作は八尋の役目だ」

「八尋はおどれとあの嬢ちゃんのことしか守らへんぞ」タカが一歩前に出る。

「この私が貴様らにどれだけ手を貸したと思っている?」ミソノも一歩前に出る。


 苗代沢は戦々恐々、壁に身を張り付けた。二人を見る。七三分けが運んできたポリタンクを見る。ちょっと待て。何故蓋が開いているのだ。しかもすでに煙が上がっている。この状態であの二人はまさか殴り合いでもすることはあるまいな。タンクがどうなるかわかっているのか。息巻くも、苗代沢の口からはひしゃげたような「タンキュ……」という声が漏れただけ。


「――それは()()にケンカを売っとんのか? あぁ?」

「よほど暇らしいな? タカ。そんなに私と遊びたいか? ああ悪いな? 最近構ってやれなかったから」


 一触即発の至近距離でブラウンスーツとロングドレスが睨み合っている。メンチを切っている。メンチカツが食べたい。苗代沢は決死の現実逃避を図った。無謀なことだ。


 それは一瞬のうちに始まった。


 先に動いたのはタカだったのだろう。ほぼ同時だった。が、先に殴りかかったのはタカだ。ミソノは間髪入れずに身を横にしてボディーブローを避けた。苗代沢は「ギャヒィ」と特殊な悲鳴を上げたが、誰も聞いてはいない。


 ドレスの蹴回しを踊らせてミソノが蹴りを叩き込む。タカの背中を目掛けて一閃するハイヒールが――空振りする。タカはすんでのところで機械に飛び乗って避けていた。おかげで蹴回しがタンクを掠める。白煙が揺らぐ。苗代沢がまたも悲鳴を上げる。


 タカが空中に飛び上がって後退した。即ち正体不明のポリタンクから距離を取る。苗代沢は真に安堵した。安堵している場合なのか。タカは両手のひらを上に、指をひらひらとC'monの仕草。あからさまな挑発だ。苗代沢はミソノを探す。いない。いない? と思えば、夜空色が天井から降ってくる。どんな跳躍力でタカの頭上に躍り出たというのか。ここは格ゲーの対戦画面か?


 しかしタカも機敏に身をずらす。ミソノの着地を狙ってカウンターキックを叩き込もうとする。当たった――が、うまく衝撃を流されている。それどころかその脚を持っていかれる。投げられる。タカの巨躯が低く宙を裂いて飛ぶ。あの細い肢体にどこにあんな力が。

 猫のように体勢を立て直し、タカが着地点に迫るミソノのボディーブローをガードする。そのまま身を沈めて足払いをかける。しかしミソノドレスの裾を揺らし、わずかに軸をずらしただけ。


 信じられない速度のハイキックが風を切る音を聞く。あんなものが当たってしまったら人間は真っ二つに折れてしまう。苗代沢は顔を引き攣らせた。そもそも、これはどうしたら勝負が決まるのか。参りました、と言わせるのか。リアル・デスマッチなのか。


 すっかり蚊帳の外になってしまった苗代沢は思う。何かがおかしい、と。どこかで決定的にズレている。こんな無益な諍いは即刻停止すべきである。何か言わなくては。この場を収める何か。考えろ。考えなくては。そう、何かひとつ、決定的な——


「――俺のために喧嘩しないでください!」


 苗代沢は声の限りに叫んだ。


 叫んだ後に気付いた。今の台詞はさすがに痛い。囚われのヒロインじゃあるまいし。実際、捕われてはいるのだが。


 何か男らしいことを言わねばならない。苗代沢は混乱する頭をさらに掻き乱してフル回転させた。チン! と旧い電子レンジの音がして、「漢気のある台詞」を叩き出した。それはつまり脳味噌が茹だってすっかり正常な思考を失ってしまった音なのだが、苗代沢は構わなかった。構えなかったとも云う。ヤケクソが発動した。


「金くらい俺が払いますよ!」何か違う、とは苗代沢も薄々感じている。「一千万でも! 二千万でも! ミソノさんなんかに頼らなくっても――いっ……いいか? 俺だって自分の始末くらい自分でつけられるんだ。昨日は右から左から急に出てきてぎゃあぎゃあとよくもまあ喧しく――人をガキみたいに扱いやがって。余計なことを——するなあッ!」


 タカもミソノも鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして立ち尽くしている。苗代沢の脳内に快哉が上がる。それも急速に収束する。後悔とは遅れてやってくるから後悔と云う。それは往々にして修復不可能だ。だから悔いるのだ。現実が悪い。オートセーブ機能万全の現実が。


 息を切らせたタカが言う。


「そうかぁ」ジャケットの襟を整え、苗代沢の方に歩み寄る。「威勢いいなあ、チカ坊。今の、おまえの覚悟っちゅうことでええんか?」

「はい」苗代沢は輝かしい笑顔を見せた。これ即ち自棄の極みである。「いいですよ」

「ほんなら昨日のお代、一千万となんぼ。迷惑料と合わせて込み込み二千万」

「構いません。どれだけかかってでも、払ってやりますよ。俺も男です。一度交わした約束は――」


 苗代沢はちらりとミソノを見遣った。こちらは息一つ切らせていない。蔑むような、呆れたような目を苗代沢に向けている。


「ほんならウチの系列からの借入ってことにしちゃろか。金利は十日()五割()――と、言いたいとこやがワシは優しいからな。十日一割(トイチ)に負けといたる」

「いッ」苗代沢は泣きそうだった。そして自棄だった。「いいですよ!」

「法定金利なんか関係ない。年三百六十五パーセントや。わかりやすいやろ」

「そうですね!」


 苗代沢が見た目だけは威勢よく言い切ると、タカは面食らったように口を窄めた。そかそか、と繰り返し何度も頷く。その顔には若干の焦りらしき色が浮かんでいたが、苗代沢に読み取れるはずもない。ミソノに至ってはは素知らぬ顔で煙草に火をつけている。


 思い込みとは恐ろしいものであるから、交渉においては逐次事実を確認することが重要である。しかしながら、この場においては誰もがそれを怠った。齟齬は最悪の結果を生むが、引き返すことはできない。面子で飯を食うヤクザと要らぬ意地を張りがちな若者は、各々前言撤回を許さない。


「無職やろ」タカが唸る。「調べついとんやで? なあ? どないすんねんなあ」


 苗代沢は言葉に詰まった。そして自問した。どないすんねん。答えは返ってこない。メーデー!


 不良債権を抱えたヤクザと莫大な借金を負った無職がすっかり沈黙した頃、ミソノがようやく口を開いた。


「仕事を回せ。私がサポートする」煙草の火を踏み消し、淡々と続ける。「塩梅はタカ、おまえに任せる。だが、私の知らないところで苗代沢一人には回すな。無理だ。絶対に無理だ。大した仕事じゃなくても次の日には東京湾に沈むことになる。それか、くだらないミスでパクられて八尋が困るぞ」


 苗代沢は首を傾げた。仕事?


「ええんか?」タカは怪訝に言った。

「ほかに方法があるか?」

「せやけどなあ」


 ミソノが紫煙の残り香を纏って苗代沢のそばに寄る。「タァンク!」と、今度こそまともな声が出た。しかしミソノが気に留めることはない。


「いつまで座り込んでるんだ。立て」

「えっ」

「立て」


 腕を掴まれなかば強引に立たされる。後ろを向かされる。「まったく」「手間のかかる」「面倒事ばかり」などと文句が聞こえる。ブツン、と結束バンドが千切れる音も。


「あ、ありがとうございます……」


 自由になった両手をほぐし、苗代沢は小さく礼を述べた。目は合わせられなかった。呆れ返って深紅のジト目。苗代沢はすっかり萎縮し、地面に転がるバンドの残骸を眺めた。


「仕事。仕事ねえ。こないなモヤシに任せられそうな仕事……まあ、何かしらあるかいな……」


 タカは真剣に困っていた。ちゃんと苗代沢に任せられそうな「仕事」とやらを考えてくれているらしかった。ここにきて苗代沢は楽観主義を発揮し、何とかなるかもしれない、と思い始める。


 と、そこでミソノが手を叩いた。


「そうだ。仕事で思い出した。タカに渡すものがあって来たんだ」


 どこに隠し持っていたのか、クラッチバッグの中から茶封筒を取り出す。


「ナマモノだからな。早ければ早いほどいいだろう」

「「ナマモノ?」」


 苗代沢とタカの声がぴたりと重なる。顔を見合わせる。タカもそれが何かわかっていないらしい。怪訝な面持ちのまま受け取る。受け取った瞬間、全てを察したように顔色を変える。


「結局、パーティーに潜り込んだ先で詰めさせることになってな」と、ミソノが言った。「指」


 ゆび、と苗代沢は口の中で二文字を転がす。ゆび。指? 


「おまえなあ」タカが大きなため息をつく。「こないなもん事務所の冷蔵庫入れとけばええやろが」

「嫌だね。お前はそう言ってあとから『いつ入れたかわからないから納期オーバー』とか抜かすだろ。私だって学習するんだ。お前のことを」

「はあ。ワシのことをねえ」


 そのとき、ほんの僅かにタカの頬が緩んだ。苗代沢はそれを認めたが、その理由まで頭は回らない。


「せめて保冷剤つけてほしいわぁ」

「暖かくなったら考えよう」


 苗代沢は頬を引き攣らせた。そして思い直す。仕事、なんとかならない。なるわけない。ヤクザのお仕事、非合法、ダメ、絶対。これ以上人生を踏み外したくない。


 そんな苗代沢の心情など露知らず、ミソノは軽妙に言い放った。


「安心しろ。今後、お前が死なないように――くらいなら気を配ってやる。末長く頑張れよ」


 苗代沢はぱくぱくと口を動かした。酸欠の金魚のよう。何も言えなかった。要らない。こんな保険は要らない。保障してくれなくて結構だから、俺を死地に連れて行かないでくれ!


 苗代沢千佳、二十四歳、独身無職。彼女いない歴イコール年齢。前職場は爆破倒産。居候は裏社会の住人。


 ヤクザからの借金、二千万。


 確実に社会の、果てには人生のレールを踏み外したこと――すっかりはぐれ者になってしまったことは、痛切に自覚している。

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