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苗代沢事件簿—はぐれ者どもの300日戦争—  作者: 朱坂ノクチルカ
Case. 1 ウェルカム・トゥ・ アンダーグラウンド
6/15

5.ソウル・ディスタンス

 二次会を終えた酔っ払いと、それを狙うキャッチの攻防戦。生垣に頭を突っ込みオブジェとなった泥酔者、転がる酎ハイのロング缶、タバコの吸い殻、いたずらに捨てられた避妊具の半透明。理不尽な恫喝と、遠くに聞こえるサイレンの音。


 かつて都知事がゲットーと呼んだ眠らぬ街は今日も通常運行だ。


 早足で歩く苗代沢とミソノに声を掛ける者はいない。それもそのはずだ。いくら見目麗しかろうと、返り血を浴びたようにしか見えないマフィアスーツにお近づきになりたい人間は多くない。


 それとは別に、苗代沢には一つの懸念があった。


「ミソノさん、あの……ちょっといいですか」


 ミソノは応えない。苗代沢はくじけない。


「手を」挙動不審に目を向けた先で私服のキャッチが目を背ける。誤解だ。誤解なんだ。「繋いでるのを、離してほしいんです、けど……」


 往来のど真ん中、ミソノがぴたりと足を止めた。ほつれた髪を翻し、不機嫌に振り向く。


「どうして」

「そ、そりゃあ……」


 右を見る。左を見る。衆人環視が数多の矢となり突き刺さる——が、その大半は苗代沢の被害妄想である。昨今、こと東京にすれ違うばかりの他人へ意識を向ける者は少ない。


「目立つので」

「こんな酔っ払いだらけの繁華街で?」

「いや、まあ……」苗代沢は言い淀んだ。「恥ずかしいんですよ。普通に」


 社会通念から外れた存在に、良くも悪くも人は興味を向ける。苗代沢は自分がその対象に該当すると感じて仕方がない。ミソノがいつものラフな格好ならまだ言い訳がついたかもしれないが、今はばっちりメンズスーツを着用だ。いくらミソノが華奢と言えども、「深夜の歓楽街で男が男の手を引いて歩いている」、という図は誰の目からも揺るぎない。しかも、なぜか「二丁目」方面に向かっているし。


「……ちゃんとついてこいよ」


 そう言うとミソノは呆気なく手を離した。長い前髪と都会の夜の薄闇に翳り、その表情はうかがえない。だから、だろうか。苗代沢は要らないことを言う。


「あの、俺にそういう趣味ないです」

「……は?」歩き出そうとしていたミソノが再び振り向く。「そういう、って言うのは?」

「だッ、だから……」

「だから何だ。はっきり言え」

「二丁目……」

「二丁目?」

「俺は」


 苗代沢は大きく息を吸った。すっかり気が動転したそのとき、苗代沢は衆人環視の存在を失念した。そうして叫んだ。


「俺は……! 巨乳でふわふわの髪のッ! いい匂いのする女の子が好きでしゅ!」


 しかも噛んだ。


 後悔は遅れてやってくるから後悔という。死にたい。殺してくれ。なぜ俺は寒空の下で性癖暴露をしたのだろう。羞恥心よ、どうせなら今すぐこの心臓を止めてくれないか。


「……悪いが、私からは何も言えない」


 せめて笑ってくれたらいいのに、ミソノは気まずそうに目を逸らす。


 その後、おずおずとおっパブを勧めてくるキャッチが三人ほど続いた。現実は手加減というものを知らない。


 ◆


「――あのタカってヤクザはミソノさんの何なんですか」

「セフレ」

「…………」


 ストライクゾーンに投げ込んだ全力のストレートが急所直撃の殺人ライナーとなって打ち返される。およそ三立方メートルの密室空間での攻防は、苗代沢のコールド負けだった。


「……冗談だよ」


 凍りつく苗代沢を見かねたミソノが淡白に言う。世の中には言っていい冗談と、そうでない冗談があるという。ただしそれは、互いの生きる世界が少なからず近似する場合にのみ通ずる作法であることを忘れてはなるまい。


 二人の世界は絶望的に遠い。


 ときおり街灯りが差すばかりの薄暗い車内で、熟練のタクシードライバーだけは黙して粛々とハンドルを握っている。およそこの車内では、突飛な深夜ドラマも敵わぬ苛烈な修羅場がいくつも繰り広げられてきたのだろう。


 ミソノが派手にため息をつく。返り血の凝固に巻き込まれた髪を解しながらものぐさに口を開いた。


「タカは私のパトロンだ。仕事の斡旋と安全の確保をしてくれている。さすがの私でも、平和ボケした時代に割りのいい仕事を引いてくるのは難しいからな。人頼みになりもする」

「どうせ、まともな仕事じゃないんですよね」

「まともな仕事だろう。言われたことをすれば金が支払われるんだから」

「まともな仕事でどうしてスーツが血まみれ(そんなこと)になるんですか」

「これは事故だ。お前だって見ただろう。私が親切に連れてきてやった——あれが首領だったんだが、話も聞かずにひどく暴れて仕方なく……まあ、そんなところだ。しかし、失礼だと思わないか? 初対面の人間を悪魔呼ばわりなんて」


 苗代沢は想像した。銃を突きつけ合い、偽りの微笑で取りなすマフィアとヤクザの交渉劇を。刹那のうちに飛び交う銃弾、噴き出す鮮血。怒号と断末魔の中、ミソノが涼しい顔で返り血を浴びている。ノワール映画さながらのシャンブルス。


 八尋一家、と言ったか。知らないとは答えたが、薄ぼんやりと聞き覚えがあるのはいつぞやのニュースで報道されていたことがあるからだろう。即ち、それほどの規模と、世間を騒がせる事件を起こす組織であるということ。


 となればどっと押し寄せる不安と嫌疑。今、この瞬間に車に乗り合わせる男もまた、グレーゾーンなどではなく真っ黒な性質を持ち合わせているのではないか。


「そんな顔をするなよ。わかりやすい奴め」


 ミソノが呆れたように笑う。深紅の瞳にほの青い街灯が反射してきらめく。星の瞬き(アステリズム)によく似ていた。綺麗だ、と思うより早く心臓が大きく脈を打つ。その生理反応の因子たるや。


「タカは私の個人的な後ろ盾だ。八尋の仕事を手伝っていても、八尋の情報網で身を守っていても、私は組織の人間じゃない。私はあくまでフリーの立場」

「別に俺は……そんなこと気にしちゃないですよ」

「そうやって意地を張るのもよしたらどうだ? ……安心していい。もしも苗代沢に何かあれば私が対処しよう。今日みたいに」


 そう言って大きな欠伸をするミソノを横目で一瞥、苗代沢は言いたいことを飲み込んだ。自分のことくらい自分で何とかできる、子ども扱いするんじゃない——などということは、今日の出来事の後ではとても言えたことではない。


「さっきの」

「ん?」

「ミソノさんが引きずってきた人。あれ、殺し——生きて、ましたよね」


 人の生死は目の当たりにして改めて重い。苗代沢の言葉は震えそうになるのを誤魔化すために早口になった。しかし、こいつは。ミソノにとって、人の生死はどれほどの重さを持つのだろう。


 街路灯の光を受けてミソノは柔らかく笑った。とてもぼったくりバーでヤクザを煽っていた男と同一人物とは思えない。


「もちろん。そうでなければ仕事にならないだろう。それに、自慢じゃないが直接手を下したことはないんだ。記憶にある限りは」

「記憶にある限り、って」

「ここ百年くらい」

「冗談言うところじゃないですよ」

「冗談ではないよ。そうだな、お前の曽祖父のユーリと会ってからは一度もないとは断言できる」

「……嘘くさ」


 対して年も変わらなそうなのに、終戦とともに英霊となった曽祖父になぜ会うことがあるのか。ここまで突拍子もないと、口論したところで仕方がない。


 窓の外をぼんやりと眺めた。静かに流れる夜更けの景色は、ちょうど環状線に出たところだった。未だ消えないビルの光がウィンドウガラスに反射しては消えていく。手を伸ばしても触れられない地上の星たち。それはついひと月前に自らが手放した、社会における己の居場所のように感じた。


 一ヶ月前、苗代沢は限界だった。


 新卒で入社した会社はいわゆるブラック企業だった。下請けの下請けのさらに下請けを行う家族経営は社長のワンマン、さらにインチキカルトにのめりこんだ奥方が会社の金をしこたま使い込む。それが黙認される。資金の不足は無償の労働力、曰く「愛社精神」でカバーされる。残業は月二百時間を超えた。愛社精神は三六(サブロク)協定をも突破するのである。これ即ちサービス残業と云う。


 一年目は耐えられた。新卒なのだから苦労もやむなし、と。


 二年目からは心を虚無とすることで乗り越えようとした。


 乗り越えられるはずがなかった。


 精神よりも肉体が先に限界を迎え、苗代沢は盛大な交通事故に遭った。大型トラックに自転車ごと吹っ飛ばされた。それを奇跡的に救ったのがミソノだった。さらに奇跡は乗算された。結果、苗代沢を苛んだブラック企業は爆炎とともに夜空の塵となったのである。


 いやいや、無理があるでしょう。


 そんなことがあってたまるかって。それでもあったのだから仕方がない。偶然を必然にしてしまう魔法のような動力が存在しないことを、だれが証明できる?


 しかし、だ。


 華々しく悪しきブラック企業を吹き飛ばしたとはいえ、失業は失業である。いかなる経緯があれど、社会は社会からはぐれた人間に優しくない。自己責任の御旗の下にはぐれ者を死体蹴りする。若いのだからすぐ動けるでしょうみんなやってるのからできるはずだご実家に頼ることもできますよねなぜご自分でやらないのですか?


 二年間の累積ダメージで新たに動き出す気力もなく、まともな生活のための資金力もなければ田舎に引っ込む踏ん切りもつかない。しかし、そんなことをのたまえば社会はこう言う。


 甘ったれるな、と


 不意に後ろ髪を引かれた。慣用表現ではなく、そのままの意味で。


「なんです」振り向いた先、きらめく深紅が苗代沢を見つめていた。虚を突くゼロ距離。「か……?」


 とても人を甚振るとは思えない華奢な指先が苗代沢の頬に触れる。なぞる。なんのつもりだ、と身を硬くして警戒する表層心理とは裏腹に、心臓はいよいよ激しく脈を打つ。何のつもりだ、と我が身を訝る。自分の生理反応さえままならないとは実に生きづらいじゃないか。


「い゛ッ」


 パン! といい音がした。同時に、苗代沢の両頬に鋭い痛み。ジンジンとあとに引く。


 苗代沢の顔を両手で挟んだまま、ミソノがいたずらっぽく口を開いた。


「拗ねるなよ。今まで通り、お前にかまってやる時間は確保してやるから」

「ッ〜! そんなことだれも気にしてな……ってか近ぇな! ……なんなんですか。なんなんですか!」


 ミソノを押しのけ、頬をさすってたしかめる。ほんのり熱を持っていた。畜生。思い切り叩きやがって。苗代沢は勢いに任せて吠えた。


「それにしれっとウチに帰ろうとしないでくださいよ! ミソノさんはミソノさんの家に、」

「いいのか?」

「何が」

「仕込みをしているのに」

「何の」

「お前がいつだか『バカの量の唐揚げを揚げたてで吐くまで食いたい!』とか言ったのを聞いてだな。夢を叶えてやろうとすでに冷蔵庫に三キロの鶏肉が漬け込まれている」

「マジでバカの量じゃん。正気か?」


 三キロの鶏肉が自宅の冷蔵庫に眠っていればさすがに気付きそうなものだが、すでにキッチンの管理を放棄している苗代沢である。苗代沢宅の食糧事情は完全にミソノに握られていた。


「……ちゃんと揚げるところまで責任取ってくださいよ」

了解(りょーかい)

「余らせた分は、」

「アレンジレシピも万端です。この私を見くびるなよ」


 苗代沢は仏頂面を装った。ギリギリだった。素直に喜んだりするものか。いや嬉しいけど。楽しみだけど、それはそれで何だか悔しい。


 勝ち誇って笑うミソノをちらと認めて視線を落とす。あんなことがあったというのに、握った両手にもう緊張はなかった。おかげさまで。


 折に触れて思う。


 どうしてこんな男と関わってしまったのか。今日だって確かにミソノが強制的に話をつけて窮地を救ったが、ミソノが来なければあのまま丸く収まったのだ。むしろ状況を悪化させたのはこいつだ。ゆえに、こんな奴の隣に落ち着いたところで、この先の人生は暗雲立ち込めるばかりではなかろうか。


 いったい、俺はどこへ向かおうとしているのだろう。



 ——少なくとも、ヤクザのアジトではなかったはずだ。

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