4.世界一最悪な修羅場
「ミソノさん、スーツなんか着るんですね……」
徐に視線を逸らし、床に落とせば意識のない血だるま。ここには精神的な逃げ場もない。
平時、「ちょっとコンビニ行ってくる」スタイルがせいぜいのミソノが、こうもスーツで決めると随分と印象が違う。異国情緒のある顔立ちも相俟って、派手なストライプスーツはマフィア映画から抜け出てきたよう。血だらけだし。
「違う」
「何が違うんですか」
「いや、だから」
ミソノは掌を前に、落ち着けと言わんばかりのジェスチャー。苗代沢もまあまあテンパっているが、はたから見ればミソノも変わらない。
「違うんだ。だから……その。そうだな。何も違わないな……」
尋問に降参して浮気を認めた現場のごとし空気である。であれば、この場合は誰が間男になるのか。
「ちょっと待て」タカが眉間を押さえて呻く。「あー……なんだ。チカ坊。あと赤目。お前ら知り合いか?」
「え? あ、俺たちは」
苗代沢の弁明は敵わない。ミソノの剣幕は容易にそれを遮ったゆえに。
「苗代沢に何をしていた?」
「ミソノさん? ちょっとま」
「ああ? 何や急に喧嘩腰やな?」
「あの、話を」
「苗代沢が理由もなくこんなところでお前みたいなゴロツキといるわけないだろう。答えによってはタカ、貴様だろうと容赦はしないぞ」
「だから話を聞」
「はーッ。めッずらしいこともあるモンやな! 感心できへんなあこれは! またおどれはそうやって堅気を誑かしとるんか? あァ?」
眩暈がしてきた。
全然。全く。事情が伝わらないまま話が進んでいる。しかも、どう考えても悪い方向へ。
「おい。チカ坊」
「はッ——はいッ!」
悪人面フルアクセルのタカが苗代沢を威嚇する。苗代沢の喉からは小さな悲鳴が上がるも、タカの形相は地獄の鬼を凌ぐ。
「前言撤回や」
鬼が目と鼻の先でメンチを切る。目が。鬼の額に第三の目が見える。なるほど、異形の三つ目とは恫喝の距離が近すぎて焦点が合わなくなったゆえ額に見えるものだったのだ。
苗代沢に命じる声は、大型肉食獣の唸り声のようなそれだった。
「一千万。即金で払ってもらうで」
小刻みに首を横に振って拒絶を示す。必死の抵抗だった。
「ワシがチャラにしたる言うたんはな。優しく帰しちゃるんはな? 棲み分けっちゅうのを重んじとるからや。言うたやろ? ん? やさかいおどれが堅気ちゃうてこっち側の人間やったら話は変わってくるでな?」
そうなのか。そうなのだろうか。変わってくるのだろうか。いや、そもそも俺、全然そっち側じゃなくない? 生まれてこの方真面目にやってきた方じゃないか。それがどうして反社会的連中のお仲間扱いされなくてはならないのか。言いたいことはたくさんあった。しかし、現代は言いたいことも言えないこんな世の中なのである。こと、おっかないバイオレンス・ヤクザが目の前にいればなおのこと。
と、急にタカの第三の目が消失した。般若の面が遠ざかった。虚を突かれたタカは、素っ頓狂な声を上げて背中をしたたかに後の椅子に打ち付けた。雪崩のようにスツールが倒れる騒々しい音が響く。
「この私の前で随分と調子がいいな?」実に絶対零度の発声であった。「苗代沢に話があるなら私を通せ。で? 何だ? いくら吹っ掛けたんだ?」
ここで存在感を無へ帰していたヨシトが幽霊のように現れ、ミソノに念書を渡した。法外な金額の負債を見るや、ミソノは一笑して懐からライターを取り出す。上品に澄む開閉音。それは苗代沢が家で見る百円ライターではない。所謂ブランドライター。それをもってして、ミソノは念書に火をつけた。
「くだらないことをするものだな。私はお前のことを買っていたのだが、少々残念だ」
燃え尽きる寸前で手放された念書が空中で灰と化す。呆気に取られるばかりの苗代沢は奇跡か魔法でも目撃したかの心境だ。
「お・ど・れ・はァ……!」
倒れた椅子の山で吠えるタカを一瞥し、ミソノは苗代沢の腕を掴んだ。その顔に似合いの不敵な笑みは底知れず、いくらか眩しい。
「帰るぞ。苗代沢がこんな奴に付き合う必要はない」
「えっ、わっ、ちょっと待ッ——」
なかば引きずられるように店の出口へ向かう。わずか十メートルに満たない距離の間に何度も転びそうになるが、ミソノは意に介さない。
「おい! 待てや赤目ェ! 誰がおどれの面倒見てやっとると——ゴラァ! ひ・と・の話を聞けェ!」
苗代沢を先に店の外に出すと、ミソノは店の中へ向き直った。そうして吐き捨てた台詞を聞いて苗代沢は肝を冷やす。
「そんなに金に困っているなら私の口座から引いておいたらいい。本物のロレックスでも買ったらどうだ? 万年財政難の貴様らが大好きな見栄とプライドのために。それと忘れるな。この私がいつまでも大人しく協力してやってると思うなよ」
凍りつくほどに寒かった。
店外が外廊下ゆえ、寒いのは当然だ。しかしそれ以上に。腹の底から寒気が襲ってくる。否。これは寒気ではない。怖気だ。知己がヤクザに中指を突き立てて挑発するのを平常心で見ていられるほど、苗代沢は図太くもない。
ドアベルが涼やかな音を鳴らし、かくしてバイオレンス・ヤクザ劇場は幕を下ろした。本当にそう言えるのか。今、こうして自分の手を引く血だらけのスーツの男はその劇場の演者ではなかったか。
ペンシルビルの狭い階段を降りてひらけた夜の歓楽街は未だ明るい。十二時を過ぎてひどく冷え込む夜をネオンが煌々と照らした。
「あっ」
「何だ」
「コート忘れたんですけど」
「知るか。もう戻りたくないだろ。あんなところ」
「そりゃ、まあ……」
苗代沢はがっくりと肩を落とした。緊張が解けて脱力、このままアスファルトに溶け出していきそうなほど。
底抜けの寒さに肩を震わすも、苗代沢は自分を納得させるように首を縦に振った。これでヤクザに借金を作ることは回避できたのだ。強引ではあったものの、この厄介な居候のおかげで。コートは厄落としだったと思おう。どうせユーズドの安物だ。
このように、苗代沢はよく言えばポジティブ、すなわち物事を楽観的に捉えがちであった。しかるに思い至らなかったのだ。我が身に降りかかった災厄が、二束三文の上着などでは精算できやしない、ということに。