3.正義のヤクザ、タカ
「タカさん、お疲れ様です!」と、元気よく挨拶したのは苗代沢におよそ一千万円の負債を突きつけた男。
苗代沢は確信した。ヤクザだ。ヤクザでなければ何なんだ。役者か? ドッキリか? 趣味が悪すぎる、と苗代沢は蒼白に目を逸らした。
大男は大股でずかずかと、事もあろうに苗代沢の隣に座った。背が高い。もしかしたら自分よりも大きいかもしれない、とすら思った。なお、実際には苗代沢の姿勢が悪いせいで相手が大きく見えているだけであるが、気付くはずもない。
染み付いた煙草の臭いと整髪料が混ざり合って殺人的な調香。苗代沢は極力呼吸を浅くした。
テーブルに組んで置かれた男の手が目に入る。苗代沢は小指の有無を確かめた。古傷が目立つが、ある。さらには左手の薬指に指輪もある。こんなヤクザでも妻子があるのか。
「ヨシト」
「はい!」
「この兄ちゃん、何?」
「債務者っす」
苗代沢はぶるぶる首を横に振る。違う。決して。違わないが違っていてほしい。
「何の?」
「今朝タカさんの車凹ました修理代っすね」
「あ?」タカが顔を顰める。「今日は車使うてへんねんけど」
「え?」
タカが苗代沢越しにヨシトを手招く。さあっと蒼褪めるヨシトの顔。
そろそろと近寄るヨシトの頭のタカが掴む。その頭が一瞬ののちにテーブルに叩きつけられた。それも一度だけではない。声に合わせて頭蓋骨が何度もメラミンの天板を殴る鈍い音。
「言うとるやろー、事実誤認はっ。いらん揉め事のっ。原因ッ! サツにっ。付け入る隙をっ。与えんといて〜! まーた守崎の野郎が突いてくるやろがっ」
「も……、守崎さん、って、でも、五課——管轄が」
「はーい要らんこと言わんといてー! この前もっ。事務所にっ。こんちは〜しに来たやろ? 気ィつけような⁉︎」
バイオレンスだ。
苗代沢は震えた。血で染まっていくヨシトの顔面とテーブルをなるべく見ないようにする。したところで、鉄臭い血の臭いが鼻腔を刺激するのは避けられない。
気が済んだらしいタカがヨシトの頭を放した。ふらつきながら、しかしヨシトはタカに機嫌良く命じられた通り、ドリンクの準備に急ぐ。顔面から垂れる血がぼたぼたと服を汚すのを気に留めることもなかった。
「今日はデートやねん」タカは野太い声を弾ませた。「仕事終わりに付き合え言うてな。珍しくOKもらえたんやわ。なのにこんな……ついとらんで」
「デート」
苗代沢の視線は自然とタカの左手の薬指に向かった。それに気付いたタカが顔をしかめる。心臓が飛び上がる。が、タカの目はサングラスの奥で弓形を示した。
「ええねん。来るのはねーちゃんやのうてにーちゃんやさかい何も言われへん。ワシの嫁さんはなあ、ワシには勿体無い、出来た嫁さんやからなあ…」
「……そうなんですか」
それ以上何かを言うことは憚られた。触らぬヤクザに祟りなしである。
おそらく、このタカという大男はこの店の元締めなのだろう。元締めとは。つまり何なんだ。
苗代沢にわかるはずもない。苗代沢千佳という青年の人生は概ね平々凡々、暗雲が立ち込めたのは木っ端微塵になったブラック企業のせい。ここ一ヶ月は限りなく黒に近いグレーの居候を抱えているが、内情は知らずにいる。苗代沢の裏社会の知識は極道映画がせいぜいだ。昭和の暮れだ。暴対法施行前だ。
「——あの」襟元を赤く染めたヨシトがドリンクを出しながら言う。「タカさん、今日車出してないって言ってましたけど。でも、今日、駐車場なかったですし。その、マジで凹んでて……」
「後にせえや。だいたい、ワシの車動かせる奴なんぞ……ん……?」
タカがサングラスを外す。人相の悪い目つき。が、苗代沢に向けられた。苗代沢はその場に固まった。というか、固まりっぱなしだ。このまま石像にでもなってしまった方がマシかもしれない。
「なあ、兄ちゃん。お前今日なんでここに来た?」
「なんでって、よ、呼ばれたんで」
「誰に?」
「友達にですけど。あ、えと、大学、の……」
「そいつ、何しとる奴?」
「マネージャーです。地下……マイナーなアイドルの」
「ふうん。芸能。ふゥーーーーむ……」
神妙な面持ちでタカが手元のカードを見つめる。カード。手元? 待て。それは俺の免許証。ヤクザに個人情報を握られるとどうなるの。もはや知ったことか。苗代沢は思考を放棄した。依然醒め切らない酩酊ゆえ頭がうまく回らない。
「エー、なしろざわ……で合うとるか?」
「あ、はい……それから、チカじゃなくてカズヨシと読みます」
「ほー、チカちゃんね。はいはい。で? 一千万はいつまでに準備できそう?」
「え?」
動揺する苗代沢に、タカは呵々と笑った。
「冗談や。チカちゃん、タチの悪い当たり屋のとばっちり食らっただけやろ。察しの通り、ワシはヤクザ屋さんやな。実は結構偉いんやで。八尋一家って知っとる? 知らんか。その方がええ。——しッかしなあ、こんな時代やろ。チカちゃんみたいに一ッ生ワシらに関わりそうにない堅気さんに手ェ出したらリスクと吊り合わんねん。せやから、そないな堅気さんが間違うて迷い込んでしもたときに、もう来んなや気ィ付けろ言うて、優しく帰しちゃるのがワシらの正義やねん。棲み分け、言うヤツやな」
「そ……そう、なんですか。住み分け」
「意外そうな顔しとるなあ。ま、せやろな。ワシらみたいな信条持っとるんは珍しいからなあ。ッちゅうわけで、今日の伝票はチャラや。飲み代もチャラ!」
「えっ、それは……でも」
「ええねん。チカちゃん、な〜んか人たらしィ〜な雰囲気あるしなあ。ワシもこんなに甘いの珍しいで」
「あ……ありがとうございます」
「かまへんかまへん。もうワシらみたいなのに関わるんやないで」
助かった、のだろうか。
ようやく肩の力を抜いた苗代沢に、タカはことさら大きな笑い声を上げた。
「だいたいなあ、おかしいやろ。なんで車の修理費に一千万がいんねん。こないなもんサツ駆け込まれたら大面倒スマッシュブラジャーズやないか」
「ブラジャーズ?」
「せやから落ち着いたらもう帰りぃ。……ッたく、誰やこんなアホらしい念書作ったんは……おいヨシト! これ一体誰が——」
タカが問いただす前に、店のドアが砕け散りそうな勢いで開いた。カウンターの向こう、ヨシトが泣きそうな声で「もう閉店なんですけどぉ」と口にする。しかし来訪者はお構いなしだ。殺気立った、否、もはやついさっき人一人殺してきたような剣幕で店に押し入る。「殺してきたかのような」、ではない。本当に殺したのではないか。でなければ、なぜピクリとも動かない血だらけの人間を片手に引きずっているのだ。
「おう。来たな」
タカの声は弾んだ。バイオレンス・ヤクザめ。苗代沢はそっと腰を浮かせ、退散の支度を始めた。帰っていいって言われたし。帰ろう。これ以上巻き込まれないうちに。
「来たな、ではないだろう。どういうことだ」
その声に、苗代沢はピタリと動きを止めた。どこかで聞いた声だった。ただ、冬空に似て冴えるアルトはいくらかザラつき、彼と同一人物とは思えない。
というか、別人であって欲しかった。
「何が一人で行けば対話に応じる、だ? 連中、私を見た瞬間に発砲してきたぞ。無血開城をよろしくだ? 血を流したくなくば神経ガスでも用意するんだな。二度と起き上がらないよう致死性の。物件のクリーニング代が安く済むぞ。が、結局事務所は血の海、卸し立てのスーツはこのざ、ま……」
タイトなダブルスーツはところどころに血が跳ね、汚れ方を見るに返り血であるらしかった。長い髪は黒く固まった血にほつれている。彼をことさらに印象付けるのは、その血よりも鮮やかな瞳の深紅。
——と、目があった。
「……苗代、沢?」
ゴトリと重たい音が静寂を波立たせる。意識のない人間の頭蓋が床に落ちる音だった。
苗代沢は頬をヒクつかせ、来訪者の名を検めた。
「はい……。……ミソノさん、です、よね……」
——そのうち返り血浴びて家に来るんじゃないかと。
思えば、自分のあの発言はとんだフラグになっていたらしい。