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苗代沢事件簿—はぐれ者どもの300日戦争—  作者: 朱坂ノクチルカ
Case. 1 ウェルカム・トゥ・ アンダーグラウンド
3/15

2.令月にして厄日

 久しぶりに顔を合わせた友人はいやにやつれていた。


「あー、マジで来てくれた。さすが」


 苗代沢は首を傾げる。呼ばれた、了承した、ならば来るのは当然だろうに。ボケちゃったのかな。


 伊中弁慶は学生時代から変わらず遊び人の風采で、およそ会社勤めとは思えない。ハイブリーチを重ねた金髪、伸びた襟足、軟骨を貫通するピアス。いわゆる業界人とは言え、よくも許されるものだ。


 東京が誇る魔都新宿は陽が落ちてよほど華やぎ、すでにアルコールと油の、即ち居酒屋の匂いが漂っていた。あと数時間も経てば吐瀉物の臭いが混ざることだろう。


 騒々しい通りを歩きながら、伊中は饒舌だった。


「もうね、なんかね、久しぶりに飲みに誘おうと思ったら誰も釣れないのよ。いやー、みんな大人になっちゃったね。人生、駒進めちゃってんのよね。仕事が一番、友達は二の次ってか。俺はああはなりたくないね。ひっかかったの、苗代沢だけだぜ。片っ端から声かけてさ。つか、忙しいって聞いてたけど暇そうでよかったわ! 暇そうで!」


 苗代沢は苦笑いを返した。そして願った。そこを突っ込んでくれるな。何も聞いてくれるな。職場が瓦礫の山になって以来、現実から顔を背けていることについて。やつれるほど真面目に働いている友人に説明したいとは思うまい。


「ほんとさァ」


 伊中の声はいささか震えていた。アイドルのマネージャーという仕事はそれほど疲弊するものなのか。可愛い女の子とワンチャン狙いたい、とか邪念の塊になって目をギラつかせていた彼はどこに消えたのか。


「よかったわ。苗代沢が俺の友達で。俺、幸せかも」

「え、何それ気持ち悪い」

「んふふ」

「怖いんだけど」

「なはは」

「帰っていい?」

「悪かったって。怒んなよ。今日は俺が奢るし」

「もう一声」

「おにーさん、可愛い子揃ってますヨ」


 苗代沢は勿体ぶって頷いた。平静を取り繕ったつもりだが、鼻の穴がブワッと膨らむのを隠しきれていない。往々にして詰めが甘い。それが苗代沢という青年であった。


 実のところ、伊中とは同じサークルの同期だったというだけで特別親しかったわけではない。が、伊中の「遊び人レーダー」は本物だ。伊中が当たりをつけた店なら美味い酒と可愛い女の子は高水準セットで付いてくる。店の新規開拓とは往々にして面倒なものであるから、物臭な苗代沢が伊中の誘いを断る理由はなかった。


「つか、伊中も忙しいんだろ。よく時間空いたな。……まだ六時だろ」

「それな。俺が天才すぎて仕事が消えた」

「マネージャーが仕事消しちゃダメじゃん」

「だからさ、天才だったのよ。俺が」

「なんだそれ」


 横に並ぶ伊中の顔を伺おうとするも、顔を伏せられたせいでくすんだ金色の頭しか見えない。苗代沢は唇をへの字にした。不便な高身長。


 ゆえに苗代沢は気づかなかった。このときの伊中の表情、顔色。こめかみからおとがいに伝う汗の滴。蒼白に相対して血走って赤い目。それらは宵闇とネオンのマーブルに溶け、感覚は繁華街の麻酔に鈍化してゆく。


 伊中に連れられて来た店内は狭く、良く言えばアンニュイな雰囲気があり、悪く言えば粗を誤魔化すように薄暗かった。——が、そんなことはすぐにどうでも良くなった。


 喉が焼けそうに強いアルコールと、胸焼けを引き起こしそうな甘さに咽せながらも苗代沢は率直な意見を述べた。


「女の子のレベルが高すぎる」


 伊中は青かったりピンクだったりする間接照明に照らされて親指を立てた。


「今日出勤してるキャストでお前にドンピシャな子がいる。ルリハちゃんだ」

「どれ」

「あれ」

「ほう」と、苗代沢は目をすがめる。「やるじゃん」


 ちょうどバックヤードから出てきたばかりの女の子の、ふわふわの髪に縁取られた童顔。ぱっちりの目。そこから僅かに視線を下げれば主張の激しい双子のメロンちゃんがお目見えだ。

 いわゆるロリ巨乳であった。苗代沢は眉をひそめた。ロリ巨乳は好きだ。しかし付き合うならもう少し身長が欲しい。並んで歩いたときの身長差で補導及び職質案件に発展してほしくない。なんとも悩ましい。


 もちろん、今日会ったばかりの風営法にグレーな店のキャストと苗代沢が恋愛沙汰に発展する可能性は無いに等しい。しかし、苗代沢は夢追い人であった。浅ましき愚者とも言い換えられる。


 伊中がルリハを指名し、フードとドリンクをお任せで追加オーダーする。なお、このような怪しい店でお任せオーダーは愚の骨頂であるが、苗代沢は気にも留めなかった。いわゆる「キケンな遊び」の経験がなかった。


「ところでさ」伊中が声のトーンを落として切り出す。「お前、コワイ人に絡まれたことある?」

「怖い人?」


 伊中が頬をなぞる仕草をして、苗代沢は合点した。呆れたように首を横に振る。


「普通に生きててヤクザなんかとトラブル起こすわけないだろ。……ま、伊中みたいに芸能関係だとなんかあるのかもしれないけど。なに、なんかあった?」


 伊中ははぐらかすように笑って酒を煽った。そうこうしている間にルリハがご到着だ。はじめまして。ルリハです。ご指名ありがとうございます。……。


 そこからの苗代沢の記憶はピンボケしたように曖昧で途切れ途切れだった。久しぶりの酒の席で飲みすぎたのだろうか。はたまた、ほかの理由が? であれば、疑うべきは?


「——お前が悪いんだからな?」


 おぼろげな意識の中、その声だけは気味が悪いほどに明瞭だ。


「たいした努力もしてないくせに。勝手に人が集まってきて、ずいぶん美味しい思いしてきたよな。八方美人にヘラヘラしちゃってさあ。恵まれてるよな。ずっと。だからさあ、な? 俺も悪いとは思うけど、さ?」


 伊中の声はところどころで裏返る。激昂を抑えつけるように。あるいは、すんでのところで泣き出すのを堪えるよう。


「たまには苗代沢も痛い目見りゃいいんだよ」




 揺り起こされて目を覚ます。酔い潰れて眠っていたらしい。


「悪い、寝てた? いな、か——」


 戸惑った。伊中ではない。知らない男だ。店の黒服、というわけでもない。いかつい。袖からチラチラとのぞくのは立派な和彫り。


「お連れ様なら帰られましたよ」言葉は至って丁寧なのがまた恐ろしい。「こちら伝票です」


 右を見る。左を見る。伊中どころかルリハも、ほかのキャストもいない。薄暗い店内には苗代沢と、明らかに堅気ではなさそうな男の二人きり。


 どうも、と伝票を受け取る。指先にうまく力が入らない。震えていた。


「それと、念書の写しです」


 金額を確認する間もなく追撃だ。念書。念書とは何だ?


 すっかり酔いがさめた脳が二枚の紙切れの内容を認識する。


 曰く。


 本日の会計、締めて三十万八千円。

 および、車両修繕費一千万円。

 合計一千三十万八千円を乙が支払うものとする。


 乙って誰だ。


「……俺、こんなの書いた覚えないんですけど」

「いや書いてましたよ。これお客さんの字ですよね」

「酔っ」

「てないって言ってたお客さんの動画残ってますけど」


 乙、苗代沢千佳。

 署名に母印まで捺しているとは救いようがない。


 さっと視線をその上へ。こんなふざけたことを抜かす甲はどこのどいつだ。伊中の悪ふざけか。そうだよな。そうであってくれ。そうではなかった。良いことは続かないが、悪夢は決まってシリーズ化するのだ。


 念書の「甲」を指し、苗代沢は声を震わせた。


「この、組長というのは」

「お客さんの連れが昼間に事故った相手ですね」

「事故った、というと」

Sクラス(ベンツ)を派手に凹ませたそうで」

「その車両修繕費が、どうして俺に?」

「アンタの連れが払えなかったからじゃないすか?」


 つまり、ハメられたのだ。

 旧友、伊中弁慶に。


 声が出なかった。血の気が引いた。心臓が早鐘を打った。貯金もなければ仕事もない苗代沢にこんな金額が払えるわけがないし、そもそも、この店の飲食代だって持ち合わせていない。苗代沢は思考を巡らせた。だいたい、この飲食代だっておかしい。ぼったくりだ。どうだろう。覚えのないボトルが五本ほど並んでいる。


 令月にして厄日とは笑えない。この際だ、恥も外聞もかなぐり捨てて泣き喚いてみようか。良い経験になるかもしれない。なるわけねえだろ。


 正義の暴風が舞い込んだのはそんなときだった。


 乱暴に店のドアが開き、肩をいからせ入店する大男。いまだ衰えない寒気団の息吹を纏い、その男は唸るように声を発した。


「――ああ? なんや、取り込み中か?」


 先にも述べた通り、悪夢は連続する。

 ただし、悪夢が喜劇に転じることもなくはない。

 この場合はどうか。


「穏やかやないな。んー? ……あー、兄ちゃん、いつも言うとるやろ。カタギさん虐めちゃアカンねん。それはワシらの()()とちゃうねん。なあ?」


 オールバックにサングラス。派手な柄シャツに金のネックレス。スーツは白。白? 

 伊達男。侠客。いやいや、違うな。苗代沢は顔を引き攣らせた。どう見てもヤのつく職業だろうが。なにが正義だ。反社会的勢力が正しさを語るな。


 ——厄日だ。

 

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