1.「チカちゃん、いっきまーす」
感動的な夜更けの爆破劇からひと月も経てば、己を冷静に俯瞰できるようにもなる。ついでに彗星のように現れた役者の神秘性だって、いよいよ薄れてくることもあろう。社員は使い捨てと言わんばかりのブラック企業を文字通り吹き飛ばしてくれた美貌のアウトローだとしても、同棲中の彼女に田舎へ引っ込まれて「暇だから」という理由で居候を決め込むヒモ的な何かになりかねないと言うわけだ。
苗代沢は嘆いた。
「同じヒモなら女の子がいい」
苗代沢は嘆き、床に転がった。国内平均身長を頭ひとつ超える長身で幼児のように手足をジタバタさせた。なお、この長身が四半世紀の生涯で活かされたことはない。「高身長がモテる」などとは所詮都市伝説であった。
「同じヒモなら女の子がいい!」
床は冷たいし固いしいいことなど何にもない。しかし、半額でこしらえたリビングソファには先客がいる。見目だけは腰を抜かすほどに美しい先客が。
うたうようなアルトが辛辣に奏でる。
「無職にヒモが飼えるわけないだろ。頭大丈夫か」
「俺が無職なのはあんたのせいでしょうが!」
形の整った指先が苗代沢を指し示す。夜空色にコーティングされたビジューネイルが蛍光灯を反射した。
「実行犯」
すると、苗代沢は何も言い返せない。上手いこと乗せられたとはいえ、かつての戦場——職場を未明の空に吹き飛ばしたのは事実だ。こうして無罪放免でいられるのは、人を乗せるのが上手い誰かが器用に調整して世間様の目を眩ませたお陰。と、いうことになっている。
苗代沢は何度目かわからない言い訳を脳内に独白した。だって、本当に爆発するとは思わないじゃないか。
「状況わかってるか? 苗代沢はギリギリ家賃を払ってるだけ。先月の光熱費水道代食費その他生活雑費は誰が出したと思っているんだろうな」
「うっ」
「文句を言える立場ではないだろう? だいたい、ロクに遊ぶ時間もなくブラック労働してたくせに貯金ゼロは私でも引く」
「ぐ」
「何に使ったんだ? そのへんに転がってる『レイコ』とか『サクラ』だかの名刺と関係が?」
「待って」
「……『爆乳専門店♡ぷるぷるみるく』」
「読み上げるなって。恥ずかしいじゃん」
苗代沢は去し日の楽園その果実、桃色のぷるぷるを回想した。いわゆる現実逃避である。
しかし、それも一瞬で現実に引き戻される。
「……実家から米送ってもらって週一で親と電話してるのに田舎に帰りたくないがためにしどろもどろで無職隠してるような奴がよくもまあ」
「ウワー! ワー! ワー!」
苗代沢はがばりと起き上がり、ソファに居座る居候を睨みつけた。
その正体を知らずにいては、かつて苗代沢がそうであったように痛い目を見るに違いない。彼は美人だ。『彼』は。国一つを気まぐれに滅ぼせそうな美姫に似て、その上性別不明な華奢な体つきのせいで騙されそうになる。ことさら特徴づけるのは、チョコレート色のスーパーロングヘア、印象的な深紅の瞳。これで男だというのだから現実離れも甚だしい。
実情、非常に好ましくないかたちで現実離れしている。
たとえば、まっとうに生きていたら「裏社会」などと呼ばれる概念はファンタジーの世界ではなかろうか。
「ミソノさんに言いましたよね? 俺は春まで現実を見ない。そう。見たくない」
「そうだな。『ミソノさん』はそういう現実逃避はよくないと思っているらしい」
すっかり定着した偽名も、この居候には可愛すぎる。もっと殺伐とした名前を名乗ればいいのに。
「ほー。じゃ、ミソノさんも彼女に逃げられちゃった理由と向き合ったらどうですか」
「私は逃げられたんじゃない。逃がしたんだ」
ミソノが不服な面持ちで視線を逸らす。流れるように机上の煙草とライターを拾い上げた。苗代沢が止める間もなく、黒い筒の先に赤い蛍がとまっている。苗代沢は呻いた。
「ああもうタバコNGだって……俺の敷金」
「破格の事故物件だろ。敷金礼金なんてあったのか」
苗代沢は押し黙る。坊主も逃げ帰ったという呪われたワン・エル・ディー・ケーにそんなものはなかった。
燻る煙をぼんやりと眺める。ふわりと香る煙たいビター・チョコレート。いつも決まった銘柄だ。コンビニには売っていない。切らすと一駅隣のたばこ屋まで苗代沢が買いに行かされる。この年でタバコの使い走りって。この先の人生、不安の花ばかりが咲き競ってやまない。
「ところでミソノさん、まさか、まさかと思いますが、俺の免許証持ってません? 一昨日あたりから見当たらないんですよね。今日、更新行きたいんですけ――ど……」
絶句した。なぜだ。なぜ自分の免許証がミソノのポケットから出てくるのだ。何に使ったのだ。不安で床が抜けそうだ。厄日か。
ミソノは深紅の目を細めて挑発的に笑った。はっとする。そんな表情さえも綺麗だと思ってしまう自分が腹立たしい。
「どうぞ。個人情報の管理はしっかりな。えーっと。千佳ちゃん?」
「なっ」苗代沢は面食らった。すぐに威勢やら虚勢を取り戻し、「『カズヨシ』だバーカ!」と言い返す。
真っ直ぐ投げ返された免許証を空中でひったくり、苗代沢は釈然としない。こっちは一切ミソノのことを知らないと言うのに、一方的に知られるのはフェアじゃないじゃないか。
ミソノが煙草の灰を落として言う。
「安心しろ。お前がパクられるようなことには使ってないから」
「当ッたり前でしょうが! ……ほんと勘弁してくれません? ミソノさん、普段何してるかとか全然わかんないし……明らかにヤバそうな人と絡んでるの見てるし? そのうち返り血浴びて家に来るんじゃないかと」
「ああそうだ、私も今日は用事があるんだ。というわけだから今日の夕飯は作れないが大丈夫か? ひとりで洗濯できるか?」
「……俺を何歳だと思ってるんですか?」
苗代沢は眉をひくつかせた。しかしつとめて穏やかに言葉を返した。
これだけの横柄な態度を取られてなお、苗代沢がミソノに強く出られない理由。出て行けと言えない所以。絶望的に生活能力のない苗代沢にとって、高水準の家事を提供するミソノは如何とも離し難い。つまりは一度浸かったぬるま湯からでられないでいる。
そうしてミソノと出会って職場が爆発してかれこれ一ヶ月。惰性ゆえ、苗代沢はミソノの居候を黙認していた。
「それじゃ、私はもう出るから。――また明日な、チカちゃん」
突っ込む余力もなく、苗代沢はどどめ色のため息を吐いた。ため息が青なんて、そんな爽やかな色が出てくるわけないじゃないか。昔の人は何を考えているのだろう。
「……チカちゃん、いっきまーす。……」
自虐的にひとりごち、おもむろに出掛ける支度を始める。帰りに学生時代の友人と会う約束をしている。気分転換に、酒の肴になる話でもまとめておこうか。
今月、二月はその異名を令月とも云うし、外に出て気分転換でもすればいいことがあるに違いない。苗代沢は自分に言い聞かせた。そうでもしなければやっていられない。
苗代沢千佳、二十四歳、独身、無職。彼女いない歴イコール年齢。前職場は爆破倒産。居候は裏社会の住人。
その人生は絶賛迷走中である。