13.あなたの地獄はどこから?
楽しい一日だったと思う。
「ふふ。ふ。あはは」
今日は早朝から、国籍不明の怒鳴り声を聞いた。窓ガラスの割れる音、悲鳴、拒絶、絶叫。ペット禁止のマンションの隣室では犬が元気に吠えていた。どこからか脱走したらしい蛇が外廊下を這っていた。熱帯産の鱗は日陰でも鮮やかだった。
天気予報は外れて見事な冬晴れ。初めて足を運んだ図書館は斜に構えたところもなく馴染み深い。懐かしい本を見つけた。高いところの本を取ってもらえた。
苗代沢千佳と再会した。
「ただいま」
西向きの窓から差す茜色がダイニングテーブルを照らしていた。散らかっている。請求書、督促状、督促状。リボ払いのご案内、なんて今さら。
そこに加わる本日の収穫分。闇金融の雑な督促状は藁半紙。
トワはそれらを無表情で見つめ、ふっと笑みをこぼした。
大丈夫。大丈夫だよ。今日は楽しい一日だったから。
帰りがけに苗代沢から押し付けられたコンビニ袋を開ける。弁当が二つ。夕飯と、消費期限が長い方は明日の朝にでも食えということらしい。なまじっか家に何もないなどと言ってしまったものだからたいそう心配されたようだ。しかし何もないのは事実であるから、素直にありがたい。
「とわ子ー? とわ子ちゃん、帰ってるの?」
積み上がった信書に手をつけようとしていたトワはびくりと肩をこわばらせた。次の暴力に身構えた。ああ、やだ、やだ。条件反射だ。今、このタイミングで殴られるはずないのに。こうまで反応してしまうと、呪いのようなもの。
「ただいま。お母さんも帰ってたんだね」
「とわ子ちゃんはお勉強してたの? お友達と?」
「あー……うん。そんなところ」
母は厚化粧で喜色満面、うっとりと目を細めた。充血している。身なりを見るに、これからまたどこかへ出かけるのだろう。
「偉いわねえとわ子ちゃんは。頭が良くて、努力家。兄さんのところの子とは大違い」
カチ、カチ、とライターの音。いつからだろう。母が煙草を吸うようになったのは。
「お母さん、頑張ってよかったわあ。ね、とわ子ちゃんもそう思うでしょ?」
トワは答えない。答えたところでこの人は聞いちゃいない。
「とわ子ちゃんが優秀だからお母さん、楽できるのよおおぉぉぉおおお。ねえぇええとわ子ちゃん、これからもお母さんのこと、楽させてちょうだいね。ね? ねえぇぇええ」
「うん」
「おばあちゃんのこと、大変だけどよろしくね」
「うん」
「ああ、助かる。本当に助かるわああああ。私のとわ子ちゃんは立派。私の教育がよかったのね」
反吐が出そう、とはこのこと。
「あたしのことはいいから、お母さんは楽しんできてよ」
背中の開いたナイトドレスに昭和の遺物のようなコートを羽織り、母は上機嫌で出て行った。あまつさえ鼻歌なんか歌いながら。
ドアが開く。閉まる。を、音で察する。この家からひとり分の気配が消失する。
「……いいわけないじゃん」
再び信書の山に手を掛けた。雑にまとめていくと、そのうちに何かがトワの手を刺す。小さな痛み。反射的に手を引っ込めた。
キラリと光る、銀色の。
「…………あーあ」
その針の正体をトワは知っている。針の根本が何に繋がっていて、それが人を狂わせるものだということ。
「粗悪品」
忌々しげに毒づいて、針を紙束で覆ってしまう。少しだけ唇を噛んだ。そうでもしないと、トワは笑ってしまいそうだったから。
「……こちゃああああん。久子ちゃあああああん」
襖の向こうから声が上がる。声は母を呼んでいた。彼女はもう長いこと、母の顔など見ていないはずなのに。
「おばあちゃん。おばあちゃん? おはよう。パウチまだあったかな」
祖母は。
聡明な女性だった。気品があった。立派な人格者であった。子どもみたいな駄々をこねる母をたしなめるのはいつも祖母だった。親族の誰も母の相手をしなくなった後も、祖母だけは母を見放さなかった。
過去の話だ。
「久子ちゃん? ……ああ、久子ちゃんだ。安心した」
「おばあちゃん。あたし、とわ子だよ。お母さんじゃないよ」
「久子ちゃん、炊飯器のお水の量間違えてない? ほうれん草を茹でるときに、お塩入れたかしら」
「お母さん、今日も出かけたよ。誰とかは知らないけど」
「博巳さんがねええ。久子ちゃんをもらってくれて本当によかったねえぇぇえ」
「お父さんはずっと昔に出ていったよ」
「私も頑張って育てた甲斐があったわあぁぁああ。何回、投げ出そうと思ったか」
「おばあちゃんは頑張ったのに、お母さんは裏切ったよ」
不幸な事故で長いこと寝たきりとなってしまった祖母の記憶は、彼女が一番幸せだった時代まで遡り停止した。
祖母の中にトワはいない。
じわ、じわ。トワの視界が滲む。
「……いいわけないだろうが」
トワの指が祖母の首にかかる。ゆっくりと、力をこめる。骨張った喉から悲鳴にすらならない声が上がる。
もう何度目だろう?
「いいわけねぇだろう! ふざけんな! どうしてあたしが! なんで? あたしがそんなに悪いことした? どうして。どうして! なんであたしばっかり? こんな目に遭うの? ねえ?」
ぱくぱくと口を動かす祖母と目が合う。充血した目。かつて優しくトワを見守ってくれた茶色の瞳。母に似ていた。
「どこにもいけないどこにも逃げられない! だれも助けてくれなかった、だれも耳を貸してくれなかった! 御嶽とわ子なら大丈夫、だって? だれが決めたんだよそんなこと。大丈夫なわけあるか。そんなわけ、あるもんか! ずっとがんばってきたのに、限界だったのに、もう無理だって思ってたのに! あたしはただ、認めて欲しかったのに——」
慟哭が雫となって落下する。祖母の皺だらけの頬を濡らす。それが契機となったのか、偶然なのか。
「……——とわ子ちゃん?」
掠れた声にトワは飛び退って震えた。
「とわ子ちゃん、大きくなったわねえ——……」
ほんの数秒だけだ。まほろばのような時間。
それだけ言うと、祖母はひとしきり咳き込み微睡み始めた。それを呆然と見つめながら、トワは壁を背にずるずるとへたり込んだ。嫌だ、嫌だというように首を横に振る。あるいは、拒絶するように。もうここに自分はいないのだと、死者同然とでも云うように。
まるで幽霊のようだ。
「違う。違うの。あたしは——」
強く、強く指を組んだ。爪が皮膚を突き破るほどに強くきつく。
目を瞑る。瞼の裏に、トワは来る日を思い描く。
「大丈夫。大丈夫。大丈夫。助けてあげるから。救ってみせるから。大人になる前に、トワが、toi を」
▶︎苗代沢
現代を生きる憐れな青年。たとえヤクザ相手に借金を抱えていても遺憾なくお人好しぶりを発揮する。いっそ無遠慮な気もするが、本人は自覚していない模様。
▶︎ミソノ
フリーランス事件屋。自分の商品価値をよく理解して行動しており、比較的高品質なメンヘラメーカーとして稼働する。本人としては不本意。
▶︎タカ
ヤクザの偉い人。子分に車を勝手に使われて事故られても拳骨一発で許す心の広いおじ……お兄さん。頭抱えることが多すぎて実は生え際が気になってきたところ。
▶︎トワ
薄幸のダブりJK。家庭環境がよろしくないために苦労が絶えない。苗代沢と過去に会ったことがあるようだが、詳細不明。好きなタイプは自分より背が高い人。