12.ソウル・ディスタンス−2
リュウマの母と思しき女性は深々と頭を下げた。
「本当に。ほんッとーに! ありがとうございました。助かりました。私が面倒見てる間に、竜舞がいなくなったなんて姉に知られたら……はあ」
俯くトワを気にしながらも、苗代沢はふと疑問を覚えた。
「お姉さんに? ってことは、もしかしてリュウマくんのお母さんは……」
「はい。竜舞の母は私の姉です。姉はようやく休みが取れたから、って今日は出掛けてて……代わりに私が祖母と竜舞を遊びに連れて行くことになって」
「でも、リュウマくんはママ、って泣いてたような」
「あはは」女性は困ったように笑った。「私はママ、姉はお母さん、なんですよ。色々ありまして」
女性はリュウマを抱き上げ、今度はトワに向き直った。どこかヒリついた空気を醸すトワに。
「お嬢さんもありがとうね。こんな昼間から。それ、桃蓮女子の制服でしょう? お勉強で忙しいでしょうに」
「……ちゃんとしてください」
ハスキーボイスはことさら低く、空気を含んでザラついた。
「親がクズなら、そしてあなたが干渉できる立場にいるのなら。あなたが護ってあげてください。——取り返しがつかなくなる前に」
女性の顔が歪む。苗代沢は慌ててトワを止めるも、すでに時遅し、だ。
「何のつもり? 親がクズって。姉の何を知ってるんですか。いったいどういう根拠があって」
「気付いてないわけないでしょう」
さらに女性は顔を歪めた。何か後ろ暗いことがあるみたいだった。
「だから、幸せが幸せであるうちに。戻れなくなる前に」
いったい、何がトワを駆り立てたのか。
やがて外で様子を伺っていた祖母|(こちらは本当に祖母だろう)が女性を呼んだ。唇を噛み、リュウマを抱きしめ、軽く頭を下げて彼女はその場を後にする。
「とぁ子ちゃぁー! チカくぅーん! ありあとー!」
無垢な子どもの声を残してもなお、この場をめでたしめでたし、とは締め難い。
◆
図書館に戻る道すがら、トワはぽつりと口にした。
「ごめんね」
あんなことを言って、あんな空気にしてごめんなさい。
トワはそう言ったのだろうが、苗代沢に返す言葉が見つからない。いいよ、と赦すのも、偉そうに説教するのも違う気がする。
ゆえに尋ねた。
「なにか」慎重に言葉を選んだ。「リュウマくんに——思うところ、でもあった? 俺には全然わからなかったけど……」
トワが足を止める。遅れて苗代沢が立ち止まって振り返る。彼女のヒーローが息づく本をふたたび抱きしめるように持ち、トワは苗代沢を見上げた。
「たぶんだけど」言葉はためらいを示すのに、その瞳は確信めいて強く光る。「リュウマくんの母親、過干渉気味なんだと思う。支配的、っていうか。はじめ、チカくんが話しかけたとき、上手くいかなかったでしょ?」
「ああ……それは、やっぱり女の子の方が安心するのかと」
トワが首を横に振る。否。
「親の躾が行き過ぎるとね。それが生きるためのルールになってしまう。呼吸を止めると死んでしまうように、そのルールに逆らうと死んでしまうんだ。だからあの子もさ。そのルールから外れてパニックになっちゃったんじゃないかな」
苗代沢は首を傾げた。躾がルールになる。苗代沢にとって、それは特段おかしいことではないように思えた。それが教育というものではないだろうか。そうして苗代沢が疑問符を浮かべていると、トワは憂いを帯びて微笑んだ。
「だよね」、と。
「わからなくていいよ。チカくんにはわからなくていい。ううん。わからないでいてほしいな」
「? それってどういう」
「いいよ。気にしないで」
苗代沢は狼狽えた。気にしないで、と言うトワの顔はたしかに笑っているのに、あまりに空虚だ。暗く、ぽっかり穴が空いてしまったよう。
「あたしは結構、そういうの見てわかっちゃうっていうか。同類センサー。あるんだよ。チカくんには一生わからないと思うけど」
「——そっか」
風が冷たい。晴天の日差しをもってなお、その冷たさは乾燥して僅かに露出する皮膚を裂く。
「その。なんか、ごめん。俺、マジで何にもできなくて」
「だからいいんだって」
その瞳は深海を映して暗く静かだ。光の届かぬ最果てでは、何一つ明かされることはない。
「すべてを理解しようなんて傲慢だ。ゆえに、あたしはチカくんにそんなことを求めない」
「……うん。——そう、だよね……」
突き放された気分だった。
つい数時間前に会ったばかりの少女だ。トワの言う通り、すべてを理解できると、救えると思うことは傲慢なのだろう。しかし苗代沢はそれが腑に落ちない。
自分が何もしないことが、手が届いたはずの誰かの不幸に繋がったらどうしたらいい。どんな気持ちでそれを迎えたらいい。
「あたしは理解を求めない。だけど、もしあたしが助けを求めることがあったら、そのときはあたしの味方でいることを約束してほしい」
真剣な目だった。
つい数時間前に会ったばかりの男になぜそんな約束を求めるのか。トワの心中は窺えない。窺わなかった。苗代沢にとってその経緯は瑣末な問題だった。
助けを求める者に手を差し伸べない理由がどこにある?
「——もちろん!」
他者へ手を差し伸べるのは正しい。救済は間違っていない。微かな縁なれど、一度言葉を交わしたのなら無関心ではいられない。
それが苗代沢という人間だった。
だからこそ、手を伸ばせば触れられる距離にいるはずの少女は限りなく遠い。