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11.ハッピー・ハッピー・アンハッピー

「美味しいものを食べたら腹ごなしの運動が必要なんだよ。特に、あたしみたいな華の女子高生なんかには。ゆえに」

「ゆえに?」

「ちょっと歩こうよ、チカくん」


 そう誘われ、苗代沢は図書館近くの公園に出向いていた。ちょっとしたピクニックができそうな、この辺りにしては広い公園だ。あと一ヶ月もすれば、並ぶ裸木も薄紅の蕾をつけ始めるだろう。


「春になったらお花見でもしたいなあ。あたし、友達いないけど」

「じゃあ、俺と——」喉まで出かけた言葉を飲み込み、再考。「俺()()とやる? 春になったら」

「本当⁉︎ それ、本気にしていいやつ? あたし、楽しみにしちゃうよ」


 体ごと振り返ったトワのスカートが風をはらんでふわりと膨らむ。ドキッとする仕草だ。春になる頃には彼女の怪我も治っていたらいい。


「うん。約束する」

「やった。楽しみだなあ。ね、チカくんの友達ってどんな人?」

「へあ」

「うん?」

「あ……それは」


 はずみで「俺たち」などと口を滑らせてしまったが、この場合、俺「たち」になる可能性が高いのはまずミソノである。苗代沢は虚空を見つめて唸った。あいつと花見って。意外と、否、八割方乗ってくれそうではある。こと料理に関してはプライドが高いきらいがあるから、弁当をせがめば、おそらく。ただしあれを何と紹介するべきか。しかも図書館で出会ったワケありな女子高生に? 


「……家庭的な人だよ」

「って? もしかして彼女?」


 苗代沢は笑って誤魔化した。安パイを抜き取って表現すると要らぬ誤解を招きかねない。


「なんだあ。チカくん。彼女いるんだ? 無職のくせに」

「え⁉︎ いない! いないよ。いません。あれは彼女じゃ」


 じっとりとしたトワの目は苗代沢を責め立てるよう。


「そういうのがいちばん怪しい。何を隠しているのかね。トワお姉さんに言ってみんさい」

「お姉さんて。まだ十代でしょうが」

「うふふ。ギリだけどね!」


 トワが手にしたままままの本をぎゅっと抱きしめる。苗代沢が書架から取ってやった本だ。


「——その本って」


 きょとんとして二秒、気恥ずかしくなったらしいトワが砂を蹴った。


「これ。これね。子どもの頃に見た映画の原作。もう絶版でさ。古本市場にも出回ってないんだ。今日、やっと見つかった」

「大事な思い出……とか?」


 目許に切なさを映し、トワは微笑む。


「あたしのヒーローなんだ。星屑の魔女・エトワール。どれだけ残酷な世界でも、理不尽な運命を背負っても、エトワールは諦めない。自分だけの信念を貫くの。……実は、原作だと悪役(ヒール)なんだけどね。それでも、映画も原作も、エトワールの純真でひたむきな思いは変わらない。エトワールは諦めない。だれにも絆されない。強大な敵にも屈さない。むしろ利用してやるんだ。……かっこいいでしょ?」


 苗代沢は頷く。己のヒーロー——エトワールについて語るトワは冬の白い太陽の下で輝くようだ。だれも彼女を否定することなんてできやしない。


「エトワールがいてくれたから、あたしは強くいられる……なんて、ちょっと盛ったかな。ううん。でも、それくらい大事な物語なんだよね。——あ、そうそう。今の話、チカくんにしかしたことないからね。ほかのひとには秘密だよ」

「了解。じゃ、今日の俺とトワの秘密だ」

「うん。ありがとう」


 舞い込んだ北風がトワの長い前髪を揺らした。白い眼帯が露わになる。その痛々しさを微塵も感じさせない強い声音で彼女は言う。


「絶対、忘れないでね。——今度は」


 違和感を覚え、苗代沢は最後に添えられた言葉の意味を問いただそうとした。そうして口を開いたそのときだ。


「うえええええええええええーーん……」


 はっとしてあたりを見回せば、噴水の手前で小さな男の子が泣き喚いていた。ママ、ママ、と鳴き声に混じるのを聞くに迷子と見える。


 苗代沢はそれを見るやすぐに体を翻して駆け寄った。トワが少し遅れて苗代沢を追う。その足取りがやや重たいことは、苗代沢には見えていない。


「大丈夫、大丈夫だからね」


 膝をつき、しゃくり上げる男の子の肩を撫でて落ち着かせる。やがて落ち着いてきた男の子に、苗代沢はつとめて優しく声をかけた。


「お母さんとはぐれちゃったのかな。いつからはぐれちゃったのか、おぼえてる?」

「……こんにちは、みと、りゅうま、四才です」

「りゅうまくんだね。お母さんは、」

「みとりゅうま、四才、です。みと……うわああーーーーん」

「? うん、りゅうまくんだよね。それで——」

「チカくん、ちょっと」


 苗代沢を制し、トワが前に出る。その一瞬にトワが底抜けに冷たい表情を見せた気がした。しかし、男の子に目の高さを合わせたトワの顔はすでに慈愛に満ちて穏やかだ。見間違いだろう、と苗代沢はひとりかぶりを振った。


「こんにちは、リュウマくん。あたしは御嶽とわ子、十九歳です。きみと話がしたいな」


 トワの言葉にリュウマはようやく安堵の表情を覗かせる。いったい、なぜ? 苗代沢は頭に疑問符を浮かべてトワとリュウマを見守った。


「とぁ子、ちゃん」

「うん。つらかったね。悲しかったね。でも、もう大丈夫だよ。()が一緒にいてあげる」

「うん」

「もう泣かなくていいよ。……ちょっとそこに座ろうか。ね?」


 トワが苗代沢に目配せし、リュウマを挟んで石段に腰を下ろす。


 トワと話すリュウマはさっきまでの大泣きが嘘のように落ち着いていた。やれやれ、かなわないな。苗代沢は苦笑した。結局、こういうのは女の子の方が強いのかも。小さい子にとっても、人当たりの良いトワは安心できるのかもしれない。


 それからのトワの手腕は見るも鮮やかなもので、リュウマが玩具屋にいたことを突き止めるとすぐにその玩具屋を特定し、足を運んだ。苗代沢のしたことといえばリュウマを肩車してやったことくらい。


「近くに『ダイヤ』のある玩具屋さんだから、ここで間違いないよ」

「その、リュウマくんが言ってた『ダイヤ』って?」


 トワが指差す方向に目を向ける。なるほどこれは「ダイヤ」だ。商店街の先、ロータリー手前の街灯を飾る菱形のモニュメント。


「ロータリーに交番があるからそこに行こう。まだはぐれてからそんなに時間は経ってないけど、もしかしたら親御さんが届け出てるかも。——チカくん? どうかした? そんなに見つめられると照れるよ」

「えっ。いや」そんなに見つめていただろうか、と、いささかばつが悪い。対・女子高生だし。「偉い……というか、すごいなって。俺は何にもしてないから」


 トワは虚を突かれたように動きを止めた。ほんのわずかの間のことだ。すぐに柔和に笑みを返す。その表情の鮮やかさたるや、重ねて銀幕のヒロインのよう。


「そんなことないよ。それに、最初にリュウマくんに声を掛けたのはチカくんだよ。助けないと、って思うことは誰にでもできるけど、それを行動に起こせる人は少ないじゃん? だからそういうところ、チカくんのすごいところだよ。……ちゃんと、誇って?」


 なんとも小っ恥ずかしい。苗代沢は後頭部を掻いて照れ笑った。交番の警察官までが頬を緩ませてこちらを見るものだから、なおさら。


 リュウマの保護者が迎えに来るまでにそれから十分もいらなかった。


竜舞(りゅうま)!」


 声を上げてリュウマに駆け寄る女性。バリキャリです、といった印象の、どこか気の強そうな女性が泣きそうな顔でリュウマを抱きしめた。彼女が母親で、その後ろからゆっくり姿を現したグレイヘアの女性がおおむね祖母といったところだろう。


 めでたし、めでたし、だ。


 苗代沢は安堵に息を吐いてトワを振り返った。これで一安心、とでも声をかけようとした。その言葉はコンマ一秒で引っ込んだ。


 親子の再会に向けられたトワの表情は暗く底冷えし、危うく憎悪さえチラつかせていた。

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