表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/15

10.toi

 第一ボタンまで留められた襟元にきっちり収まるネクタイ、飾り気のないプリーツスカートは膝下丈、学校規定だろう三つ折りソックス。混じり気のない黒髪は後ろにくくり、いかにも真面目そうな女子高生といった風采。


 御嶽(みたけ)とわ子はプレートランチのハンバーグを頬張ると、幸せそうに目を細めた。


「で、御嶽さん」

「ん。ん!」


 待って、のジェスチャーをして慌てて飲み込む彼女の様子に、苗代沢はいささか申し訳なさを感じる。話すのは食べ終わってからでもよかったはずだ。


「……ん、大丈夫。あと、あたしのことはトワでいいよ。嫌いなんだよね。名前。とわ子ってのもダサいし、御嶽ってのもイカツイじゃん?」


 深海を宿した目と目が合う。片目だけのそれは呑み込まれてしまいそうなほどに強い力を持っている。暗く深く、澄んで遠くの底が知れない。


「だからね、トワって呼んで。フランス語のtoi(トワ)の感じでね。言うなれば、『あなた』と呼び掛けるように」


「そっか」苗代沢はとうとう目を逸らした。上昇する心拍が苦しかった。「それじゃよろしく。……トワ、さん」

「さんはいらないよ、チカくん」

「……俺はチカじゃないよ、トワ」

「知ってるよ」トワはにこにこ笑った。「でも、あたしがそう呼びたいの。いいよね?」


 トワは本当に人を惹きつける顔をする。純粋で、悪意など存在し得ないとでも言うよう。苗代沢はすっかり絆されて了承の微笑を返す。


「で、なに? あたしに聞きたいことある?」

「あ、まあ——ええと」


 時刻は午後を回ってしばらく、昼飯時の店内は騒がしい。スキャンダルトークに花を咲かす若い女性たち、地雷メイクとホスト風のカップル、動画配信のネタにでもするのか、話しながらスマホを構えるグループ客。休日より平日の方が尖った客層が見られるらしい。


「俺が言うようなことでもないと思うんだけどさ。その、心配で。……怪我とか、昨日から食べてないとか。それに」


 苗代沢の言うことはいわゆるお節介だ。しかし、苗代沢はそれを自覚しない。ゆえに躊躇なく言葉を続ける。無遠慮とも言えよう。


「どうして女子高生(ジェー・ケー)がこんなド平日の昼間に図書館にいるの。学校、休み?」


 トワが答えに窮して口を閉ざすも、苗代沢はなおも言葉を止めない。


「なんか事情があるなら俺、聞くし——できることがあるなら、ほら、なんか助けられることがあるなら力に」

「チカくんこそ」

「え?」

「いい年した大人がこんなド平日の真っ昼間からどうして図書館で暇してたのかな。しかもガンガン机に頭ぶつけちゃって」

「う」

「クビでも切られた? 会社を吹っ飛ばしちゃったりなんかして?」

「なっ」苗代沢の視線は途端に定まらない。「なぜそれを」

「カマかけただけだよ。ふふっ。まさかビンゴ?」


 トワは悪戯っぽく笑ってフォークを取り上げた。行儀良くフォークの背にライスを乗せて口へ運ぶ。


「ごめん。余計なこと聞いて」

「……んーん。気になるよね。普通に。ま、ちょっと色々あったんだよね。家でさ」


 ——虐待。


 不穏な二文字が苗代沢の頭をよぎった。


「チカくんも身を切って無職って身分明かしてくれたし、あたしも話しちゃおうかな。——ねえ、チカくん。あたしが話してさ、助けてって言ったら、あたしの力になってくれる?」


 仮に不穏な予感が当たったとして、赤の他人である苗代沢に何ができるのだろう。簡単に他人の家庭に介入することが許されるだろうか?


 しかしそれらを苗代沢が勘定することはなかった。苗代沢にとって、善意は自然に、いっそ反射的に返すものであるからして。


「もちろん」


 それがどれだけ危険なことか、苗代沢が理解していないこと。それをトワはよく知っていた。


「ありがと。じゃ、吐き出しちゃおうかな。ウチはね——」


 深海の底に光が灯る。

 暗く、昏く、ほの蒼く。


 ◆


 ネグレクト気味なんだよね。


 まあ、それはいいよ。それはさ。あたしももう十九だし。……え? 高校生なのに、って? 年齢合わないって? そうそう。留年しちゃったんだよね。あたし。


 理由?


 学費の未払い。


 留年っていうか、卒業させられないんだって。かといって除籍も忍びないからって待ってくれてんの。学費納入。優しいよね。余計なお世話だけど。


 だから、「どうして女子高生がこんなド平日の昼間に学校にも行かずにフラフラしてるのか」についての答えは、「必要な単位全部取り終えちゃって暇だから」です。


 親がね。


 うち、片親なんだけどさ。うん。お母さんなんだけど……ちょっとお金の管理問題ある人で。その……趣味にハマっちゃって。我が家の財産はそっちに吸われてあたしまで回ってこないんだ。正確には、あたしにも、おばあちゃんにも、かな。


 でも、あたしこのことにはそんな強く言えなくて。中学まであたしにいっぱいお金かけてくれたから……だからこれ以上言えないよ。お金出してくれーとか。私立選んだのも最終的にはあたしだったし。この制服知ってる? 桃蓮(トーレン)女子学院って、有名なんだよ。真っ黒で目立つから。中高一貫で学費と偏差値が高いのも有名。あたし、頭良いんだよ。留年してるけどね。


 どうしてチカくんがそんな怒った顔するの。いいんだよ。一応は生活できてるし、ね? 


 本当はアルバイトとかできたらいいんだけど、ね。前に親バレして全部給料没収されちゃった。そんなとこだけあたしのこと思い出さないでほしいよね。


 で……まあ、先週にまた学費と……バイトしようかな、って話をしたのね。そしたらこれがまあ傑作なんだけど。あたしが話してるタイミングでお母さんの彼氏が来て。「いい年して親に金たかってんじゃない」ってブン殴られちゃった。お母さんも巻き添え食らって顔腫らしてたのが笑っちゃった。娘ながらに心配になるよね。もっといい人と付き合ってよー、って。


 てな感じで、時々、高校卒業したいなー、って話するんだけどいつもこう。痛い思いするだけっぽくて。嫌になってきちゃったところ。


 昨日から何にも食べてないのはね、お母さんが先週から旅行で家空けたら我が家の食糧庫がすっからかんになってしまったからです。もうほんとにわかんないのが、自分を殴った男とその翌日から旅行ってところ。笑っちゃうよね。同じ女ながら、女という生き物は謎が多いよ。思わない?


 ◆


「なんだか疲れちゃった。人生って理不尽だ」


 苗代沢は口をつぐんだ。己を恥じた。仕事を失くしたくらいなんだ。貯金残高が三桁なのが何だっていうんだ。その気になれば実家は頼れるし、成り行きとはいえ生活を支えてくれる友人|(と呼ぶのは大変不本意であるが)もいる。旧友にハメられヤクザからの借金を押し付けられたくらい……と、そこまで考えて思い直す。最後のはさすがに、俺だって不幸ヅラしていいだろ。


 しかし、だ。


 逡巡する。何と声を掛けたらいいのかわからない。


 見兼ねたトワが眉尻を下げて言う。


「ごめんね。暗い話しちゃった。あんまり気を遣わないでいいから。ほら、聞いてもらえるだけでも嬉しいもんだよ。こういうのって」

「……そうかな」

「そうだよ。何もできないなんて思わなくていいから。今日、チカくんに会えただけであたしは幸運なのでした!」

「そっか。だったらよかった——けど、ほんとに! もし、俺にできることがあれば、」

「はいはいストップ。デザートのアイスが溶けちゃうよ。あたしはせっかく、頼れるお兄さんに奢ってもらえたので美味しいうちにいただきます。ね?」


 柔らかくなったバニラアイスを頬張るトワに苗代沢は何も言えなかった。一方で、口元は自然と緩んだ。


 甘いアイスクリームに綻ぶトワの顔が、あまりに幸せそうだったから。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ