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9.たとえば映画のヒロインのように

 近所の図書館に幽霊が出るらしい。


 そんな話を聞かされた苗代沢は現地に赴きかれこれ二時間、窓辺で古びた文庫本を開いていた。


 開いているだけだ。明朝体をいくら追いかけたところで、その言葉の成す物語を掴むことはできなかった。


 それどころでは、ない。


 あれから思い出しては顔を歪めること数えきれず、居ても立ってもいられない苗代沢はテーブルに額を打ちつけた。思いのほか響いた音に、何事かとほかの利用客が怪訝に振り向く。


 二千万円。


 旧友にハメられ、居候に余計なことをされ、しまいには売り言葉に買い言葉、およそ非現実的な額の負債を背負ってしまった。しかも相手はヤのつく職業、こと八尋一家とはバリバリの武闘派らしい。苗代沢に「仕事」をさせると言っていたが、何をさせられるのやら。せめて元凶たる旧友、伊中弁慶に文句の一つでもつけられたら良かったのにもはや音信不通と来た。


 苗代沢はうつろな思考を巡らせる。一体、俺が伊中(ヤツ)に何をしたというのだろう。恨まれることなどした覚えはない。というか、生まれてこの方要らぬ厄介を起こさぬよう注意を払ってきたはずだ。


 これだけ気を付けて生きていたって、落ちるときはあっという間にドン底とはままならない。クソ仕様の人生ゲームめ。


「あの」


 呼びかけられてハッとする。視線を上げると女子学生が苗代沢に胡乱な目を向けていた。


「大丈夫……ですか? その、何回も頭を、テーブルに叩きつけて……」


 愛想笑いは引き攣った。すみません、の声は裏返った。撤退、撤退だ。


 大丈夫なわけないじゃないか。




 撤退、と決めたところで行く場所はない。そもそも、なぜ苗代沢が噂ひとつで趣味でもない図書館(こんなところ)にいるのか。行けと言われたからである。


 彼は深紅を閃かせ、かのように言伝た。


『どうせ暇なら様子を見てこいだと。……いや、幽霊っぽい人間を探せ、だったか? ま、細かいことはいいか。時給は八百円。最低賃金には足りてるだろ』


 十年前でもかろうじて足りていない。なお、現在の東京都の最低賃金は四桁を超えて久しい。だいたい、ヤクザが幽霊調査とはどんなギャグセンスをしているのだ。


『夜には帰ってこいよ。寄り道禁止。消費しないといけない食材が大量にあるから』


 これは即ち、キロ単位で揚げた鷄はまだ片付いていない、ということ。


「幽霊ねえ……」


 人気のない書架の前で腕組み思案し、並ぶ背表紙をぼんやり眺めた。幽霊も本を読むのだろうか。読むとしたらどんな本を。


 幽霊の気持ちになって文庫本を戻し、別の本に手を伸ばす。幽霊だったら自由に飛べるはずだから、目立たない高いところの本なんかを取ったりするのかも――


 おや? と、苗代沢とは別の手が同じ本に伸びていることに気付く。一瞬、幽霊かと身構えた。まさか。幽霊が限界まで手を伸ばして、背伸びをして、「ほっ」「やっ」「えいっ」などと跳ねて本を取ったりするものか。


「……」

「んっ……。とうっ」

「……あの」

「えいっ! はっ。……あ、すみません」


 その姿にどきりとする。


 半透明だったわけでもない、足がなかったわけでもない。平時なら取り立てて目立つこともなさそうな、真っ黒な制服の女子学生だ。ただ、彼女は傷だらけだった。頭と首元に包帯。長い前髪の奥、右目に眼帯。ブレザーの袖からのぞく医療用ネットには血が滲んでいた。視線を落とせば、三つ折りの靴下の上には大判のガーゼが当てられている。


「だ――大丈夫?」


 あまりの様子に声が飛び出てしまう。しかし、傷だらけの彼女は不思議そうに首を傾げるだけ。


「大丈夫……って。何が?」

「え、その――怪我?」

「怪我」彼女は首の包帯をなぞり、「大丈夫ですよ。大袈裟なんです。みんな」と、軽く笑った。


「ていうかお兄さん、さっきは全然スルーだったのに」

「さっき?」

「うん。お兄さんこそ大丈夫なんですか。あんなに頭ぶつけちゃったりして」

「あ……すみません、うるさくしちゃって」

「違くて。さっき声かけたの、あたしだよ。だから会うのは二回目」

「えっ」


 心に虚無を抱えすぎたせいで全く記憶がない。が、窓辺のテーブルで聞いたのはたしかにこんな声だったかもしれない。少女にしては低く、ハスキーとも言える声音。


 しかし、慌てたせいで苗代沢は彼女の次の言葉を聞き逃す。「本当は三回目だけど」と。


「脚立見つかんなくてさ。ほら、あたし、背が高いでしょ。大丈夫だと思ったら思ったより高いところにあったんだ。びっくり」

「俺が取るよ。これだよね?」

「ほんと? ありがとう。助かっちゃう。でもそれじゃなくて隣ね」

「となり……『サニフェルミア幻想譚』?」


 縁が焼けて変色しつつある古い本だ。ハードカバーには細かな箔押しがされている。


「うん。見つかってよかった」


 まなじりを下げ、ぎゅっと本を抱きしめる彼女を見て苗代沢は安堵を感じた。素朴な雰囲気の女子高生だ。飾らない表情が愛らしかった。


「ありがとう、チカくん。相変わらずお人好しっぽいね」

「いやぁ、どういたしま……し、て?」


 相変わらず、とはなんだ。そもそも、なぜ名前を。しかも間違っている。


 動揺する苗代沢に傷だらけの女子高生は花咲くように笑った。完璧な笑顔で苗代沢を見上げた。


 たとえば映画のヒロインのように。


「知ってるよ、あなたのこと。しかも、かなりね?」


 深海のように青めく彼女の左目が苗代沢を射抜く。その瞳孔からずっと奥深く、苗代沢の底を覗き込もうとするようにして――


「なぜならあたし、は……」


 ぐらりと頭が大きく揺れ、彼女は床に倒れ込んだ。


 苗代沢は慄く。さっと周囲に視線を配る。よし、誰もいない。さらば彼女を看病したところで、「後ろ暗いやからと繋がりのある無職の男が女子高生にいかがわしいことをしている」などという誤解を受けることはあるまい。


 細い体を抱き起こし、最初に苗代沢が聞いたのはこんな具合に表現される。


 ぐぅー。


「…………」

「…………」

「……あ、あのね」

「……うん」

「その」三白眼気味の目を伏せ、彼女は恥じらいとともに訴えた。「昨日から何にも食べてなくて……その……」


 かくして、苗代沢は初対面の女子高生とカフェデートと相成ったわけである。


 本当に初対面かどうかは、さておくとして。

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