本日未明の宣戦布告
狭窄する喉で凍りつく空気を吸い込めば、ヒュー、と小さく音が鳴った。
PHSを持つ右手、通話中のスマートフォンを持つ左手、両方とも小刻みに震えている。
「いつでもいいぞ、苗代沢。お前の好きなタイミングでやるといい」
左手のスマートフォンから冴えざえとしたアルトの声が聞こえた。大ホールの舞台から聞こえてきそうな、澄みわたって堂々としたその声は、持ち主の艶姿を映したように麗しく凛としていた。それはひどく聞く者心を揺さぶって、昂らせて、視界が真っ赤に染まらんばかりに激しく血を巡らせる。
真冬の深夜四時。辺りは真っ暗で、停電に灯を奪われた街に夜空はプラネタリウムのようで、それは言い過ぎかもしらんが、しかし、そう感じるほどには、まるで祝福しているみたいによく晴れて、あまねく星々は歓声を上げるその時を待っているようだった。
PHSのボタンをあとワンプッシュ押しさえすれば、俺は目的を達成する。大丈夫、なにせ、あいつが大丈夫だって言ってるんだから、大丈夫に決まっている。ほかの誰でもない、存在が奇跡みたいなあの人が言ったんだ。神様のいたずらみたいに冗談みたいな美貌と、それに不釣り合いな、救いようのない不道徳とアナーキズムを引っさげたあいつが、奇跡すら自在に操る幸運そのものみたいなあいつが言った。彗星のように現れて、神様みたいに世界を捻じ曲げて、嘘も真も何もかもがシュレディンガー式のあいつがそう言うんだ。
「私たちは共犯者、というわけだ」
俺は肺いっぱいに冷気を満たし、白い呼気を吐いた。
共犯者。俺とあいつは共犯者になる。それだけで、きっと世界は大きく変わってしまう。今までのうのうとやり過ごして、とうとうやり過ごせなくなってしまった世界は後ろに飛んで行って、きっと次の世界を見ることになる。確信はない、予感めいたそれに俺は期待していた。いまだ半信半疑ながら、脳裏に焼き付く深紅に拐かされるように。
「共犯者、ね」
ああ、そうだよ、と喉を鳴らして笑うあいつの声が聞こえた。きっといつもみたいに企み顔で、猫のように笑っているのだろう。あいつは悪人だ。この世を二分するまでもない、正真正銘、どうしようもないクズで犯罪者で、社会になじめない無法者だ。奇跡を振りかざしこの世界をめちゃくちゃにして闊歩する、今世紀一の不遜な異端者だ。
「安心しろ、苗代沢。私のした仕事だ。証拠なんて残らない。私もお前も共犯だが、一切手は汚れない。誰が死ぬわけでもない。奇跡なんてのは案外、安い」
俺は目を閉じてスマートフォンから聞こえる声に傾聴した。
安心しろ、誰が死ぬわけでもない。
「背中を押すとすれば……そうだな、この時間には誰もいないと。お前はそう聞いている。もし誰かが残っていたのなら、お前は嘘をつかれていたことになるな。となれば、嘘をついた奴が悪い。だろう? おめでとう、お前の手は真っ白のままだ。良かったな」
「……俺は、悪く、ない。ですか」
「そう、お前は悪くない。誰もお前を責めやしないよ。だからやれ、苗代沢」
俺は悪くない。
俺が悪いわけじゃない。
ただひたすら、一方的に世界が悪い。大義名分は我に在り。
ガキの駄々みたいな言い分を心に灯すと、幾分か視界が晴れた気がした。
「ミソノさん」
「ん」
「ありがとうございます」
「礼ならお前の先祖に言っておけ。世話になったんだ」
「こんなときにいつもの冗談ですか?」
「冗談なものか。遠い昔ではあれど、たしかにあったことだ」
俺は笑ってその言葉を受けとめた。反論はしない。いつも通りわけのわからないことを嘯くミソノさんに、俺はニヤッと笑うだけ。笑うことができたなら、次は祝砲だ。
環状線を挟んで向かいの低層テナントビル。自分の職場の入っているそいつを、渡れそうなくらい車の少なくなった環状線の向かいから見上げて、ガンをくれてやった。
あばよ。クソども。
手の震えは止まっていた。薄着で出てきたせいでバカ寒くて震えていた体も、しっかり幹が通っていた。深呼吸、そんな野暮なことはしない。してたまるかってんだ。こんなことはいつも通り、ルーチンで回す意味のないタスクみたいに、慣れた手つきでこなしてしまうのが一番いいんだ。
短縮ボタン、一番。
プッシュ、スリーコール。
「オーケー苗代沢、派手にやろうか」
俺がコールしたことなど知る由もないはずあいつの声がスマートフォンから響いた。
そういう人なんだよな、あの人は。
ミソノさんの声とコールの終わりが重なったその瞬間だった。
向かいのテナントビルは、俺の職場は、ド派手に大爆発をかました。
冬空に上がった大花火はオリオン座を吹き飛ばして、星々に歓声を上げる余裕なんて与えなかった。
鮮やかに吹き荒れる炎。透明度を失う紺碧。煙幕に飲み込まれたアルデバラン。壮観は爽快に倦んだ日常を喰らい尽くした。
これはきっと、俺の人生の初勝利だ。
そして、俺たちの戦争の始まりだった。
×××
炎上するテナントビルを、夜空を焦す灼熱を、その人物は少し離れた街路から見上げていた。
すらりとした長身は男女とも見分けのつかない華奢な体躯。目深に被ったフードから覗く前髪は長く、緩い夜風に揺れている。
今、胸につかえた言葉を吐き出そうと口を開いた。それは声にならない。澄んだ冬の大気を震わせない。呼気が白く霧散しては、それきり。
遠くに揺らめく炎は、その情動は、熱量はここに届かない。
ぐんと冷え込む夜の底よりもさらに沈み、ここには深海の冷たさが横たわる。
ついには光の差さぬ奈落の果て、救いも掬えぬ泥濘は沈黙するばかりだ。
さらば、かの者の瞳に灯る焔は何を燃やして生まれたというのか。
呼吸するための酸素すら乏しい闇の底で、一体、何を?
やがてブーツの踵がアスファルトを鳴らした。
背中を丸め、奥歯を噛み締め、煌々と眩い炎に背を向ける。一歩、また一歩。早足で歩き出す。そうして昏い路地の奥に溶け込んでゆく。
その姿が夜に同化する直前、とうとうその唇が言葉を紡いだ。
「——ずるいじゃないか。お前ばっかり」
その声は誰に聞かれることもなく、朽ちゆくビルの外壁に吸い込まれてゆく。