失せ物
夢の一時から一夜明け、翌日。『カフェひとやすみ』は早朝から大繁盛であった。どうやら近場の定食屋が昨日で閉店したということで、狭い店内は朝食を求める人々で大混雑だ。厨房担当のベリルが店の奥から古びたテーブルを引っ張り出してきて、屋外に簡易席を設けたものの、それでも足りない。接客担当であるダイナも、今日ばかりは料理の補助や皿洗いにと大忙しだ。
「ダイナちゃん。悪いんだけど。手が空いたら買い出しに行ってくれる?卵と牛乳が足りなくなりそうなの」
厨房からヤヤの声がする。客が去った後のテーブルを拭き上げながら、ダイナは答える。
「分かりました。食器を下げたら行ってきます」
それから5分後、ダイナは買い物袋片手に『カフェひとやすみ』を飛び出した。時刻は午前8時半を回ったところ。神都の街中でも、この時間に開いている食料品店は多くはない。少し遠くまで足を伸ばさねばならないと、ダイナは全速力で道を駆け抜ける。
それから更に30分が経ち、大荷物を抱えたダイナは無事『カフェひとやすみ』へと帰り着いた。大きな買い物袋の中には、40個の卵と5本の牛乳が詰まっている。それにおまけで貰った小袋の菓子。出入り口の扉を足で押し開けたダイナは、手荷物を下ろし一息を吐く。すぐに厨房からヤヤが顔を出す。
「ダイナちゃん。悪かったわね。ご近所さんが店を閉めるのは知っていたんだけど、こんな小さなカフェに人が流れて来るとは予想もしなかったわ。とりあえず朝の分はあり物で間に合ったけれど、明日からは仕入れの量を増やさないとねぇ」
そう語るヤヤの額にはいくつもの汗の粒が浮かんでいる。厨房からは食器のぶつかる音が聞こえてくるから、どうやらベリルが洗い物の真っ最中のようだ。激闘を終えたばかりといった様子のヤヤとベリルであるが、今や店内は静かなものだ。朝食を求める人々は捌け、日当たりの良いテーブル席に一人のご婦人が腰掛けるだけ。コーヒーを片手に本を開き、優雅な佇まいだ。
「きっとお昼時のお客さんも増えますよね。足りなくなりそうな食材があったら、今のうちに買ってきますよ。幸い、大通りはまだ空いている時間ですし」
「確かにそうねぇ…。それならベーコンと玉ねぎと人参と…あと卵を買い足してもらおうかしら。多分お昼時には、オムライスがたくさん出ると思うのよ」
「ベーコンと玉ねぎと人参…あとは卵。分かりました。すぐに行ってきます」
ダイナは頷くと、満杯の買い物袋を持ち上げた。再出発は、買い物袋の中身を食糧庫に仕舞い入れてからだ。よたよたと厨房に向かうダイナを見て、ヤヤはあらと声を上げる。
「ダイナちゃん。今日は耳飾りを付けていたのね。珍しい」
「あ、はい。そうなんです。実は人から頂いた物で―」
「可愛いけれど片耳だけなのね。そういうデザインなの?」
「…え?」
ダイナは買い物袋を床へと下ろし、左右の耳朶に触れた。銀色の髪束に埋もれた耳朶。右側の耳朶には、朝と同様紫水晶の耳飾りがぶら下がっている。しかし左耳は―
「…嘘」
そこに耳飾りはない。街を駆けるうちに、どこかで落としてしまったのだ。