涙の報告
ダイナの住まう土地は、神国ジュリの片隅に位置する人口が千人ほどの村だ。役所と、学び舎と、いくつかの商店があるだけの小さな村。その小さな村の一角で、ダイナとダイナの父はこれまた小さな神具店を営んでいる。神具店には工房が併設し、ダイナと父は休みのたびにここで神具を作るのだが、店の売れ行きは芳しくない。というのも、売られる商品がいささか地味であるためだ。ダイナと父は微力の神力しか持たず、例えば武器に加護を与えるなどの派手な真似はできない。精々手持ちの文具に、少し便利な効果を与える程度のものだ。だからダイナの父は神具店の一角をカフェスペースにして、コーヒーや紅茶、茶菓子の給仕を行っている。神具店に閑古鳥が鳴いていても、日々一定額の売り上げは稼げるという寸法だ。そうはいっても主となる神具店の売り上げが伸びなければ、当然2人の生活は楽ではない。
「婚約破棄?何故、突然そんな話になったんだ」
ダイナの父―ユークレースはそう言って声を荒げた。場所は神具店の2階に位置する小さなリビング。年季の入ったダイニングテーブルの上には、夕食と呼ぶには質素な2人分の食事。
「クロシュラ様は、他に好きな方ができたんですって。だから私との婚約は取りやめ、神都にはその女性を連れて行くって」
ダイナの婚約者であったクロシュラは、元々の村の住人ではない。所属は神国ジュリ神都隊、位は部隊長。元の住まいは神国ジュリの中心地となる神都であるが、対魔獣相手の戦績を積むために、3年の任期付きでダイナの村に滞在しているのだ。そして、間もなく任期は明ける。クロシュラは3年間の実戦経験を得て、大手を振って神都に帰ることができるのだ。そしてそのときに、ダイナも一緒に神都に連れて行くと約束していた。約束していた、と最早過去形ではあるが。
「好きな人ができたと簡単に言うが、婚約破棄とは一方的に成立するものなのか?俺の意思と、ダイナの意思はどうなる。ダイナを神都に連れて行く代わりに毎月一定額の仕送りをすると、クロシュラの方から提案してきたんだ。その言葉を信じ、先月工房拡大の決断をしたばかりだというのに…」
クロシュラがダイナを神都に連れていけば、ユークレースは一人になってしまう。たった一人では神具店を成り立たせることなど不可能だ。だから現在の手狭な工房を改修し、優秀な神具師を一人雇い入れることを予定していたのだ。また神具師に払う分の賃金は、クロシュラの給料から仕送りをするとの約束も取り付けていた。国家で1,2を争う高給取りの神都隊部隊長の財力を以てすれば、辺境の村で支払われる賃金など微々たるものだ。
しかし今となっては全てが夢の話。ダイナは目頭に力を込めて、溢れようとする涙を押し止める。
「…ごめんなさい。私が、クロシュラ様の心を引き留められなかったばかりに」
「ダイナが謝る必要はない。しかしその…一体どこの娘御だ。クロシュラ様のお心を射止められたのは」「サフィー、とクロシュラ様は呼んでいました。赤茶色の髪の妖艶なお方。ご存じ?」
「サフィー…聞いたことがない。この村の者でないなら、隣村の住人だろうか」
ダイナの住まう村の近くには、同規模の村がいくつか点在する。クロシュラの活動区域はその村全てに及んでいたはずだから、別の村に住まうサフィーと出会うことは不自然ではない。ともすればクロシュラは、ダイナとの関係を保ったまま日々サフィーとの逢瀬を重ねていたのやも知れぬ。ダイナの目の届くことがない隣村で。想像すれば悔しくて、歯痒くて、視界がかすむ。
「クロシュラ様は、婚約破棄にあたりいくらか金銭を支払うと仰ってくださいました。父上が交渉にあたれば、工房の工事代金程度は負担してくれると思います。だから、お金の心配はしなくていいの。あとは私が、気持ちの整理をつけるだけ…」
ダイナ、と呼ぶ声がする。顔を上げれば、優しい笑みを浮かべる父がいる。
「食事を終えたら、今日はゆっくり休むと良い。今後のことは明日また話そう」
包み込むような父の声音に、ダイナの瞳からは一粒の涙が零れ落ちた。