とある人魚は溺れ死ぬ
西暦2111年、世紀の大発見と評される一連の事件がアマゾン川を中心として起こった。アマゾン川最大の支流と言われるマデイラ川にて、上半身が人間で下半身が魚の奇怪な生物の死骸が発見される。そして数ヶ月後、この生物は現生の人類とは別の進化を果たした歴とした人間だという研究結果が発表された。
それからというもの人魚を生きたまま保護する活動が活発となり、アマゾン川では何百匹もの人魚が保護されるが、これが後に国際問題へと発展する。
人魚も人類なのだから大切に扱い、人魚を無闇に捕獲して傷付けず、コミュニケーションを少しずつでもとるべきだと主張する団体が複数現れた。人魚を一人二人と数えるのではなく一匹二匹と数えるのも差別とされ、こうした大論争を巻き起こした末に特別保護地区を作り、人魚をそこへ移すことで一応の決着が付いた。
しかし特別保護地区へ不法に侵入し、人魚を生け捕りにして一部のマニアに高く売りさばく蛮行がたびたび行われた。それを阻止すべく警備の強化に努めるが、特別保護地区は広い故に侵入者を許してしまう。この事態への対処として、各国にそれぞれ東京ドームほどの広さの特別保護地区を作り、各国がそれぞれその特別保護地区を警備するということが決まった。
それから数年の時を経て人魚にもある程度の知性があることが確認されたことにより、人魚と人間の両者の間を取り持つ機関が創設されることとなる。
創設された人魚国際保護機関(通称・MIS)は人魚に関する事件に限り捜査権が与えられていて、この場合は警察の捜査よりMISの捜査が優先されている。
西暦2180年某月某日、日本の特別保護地区で死因不明の人魚の遺体が発見された。この遺体は他殺の可能性があり、MISの捜査官である俺──新浜涼太郎は現地へと赴くことになった。
「すげー」俺は息を飲む。「特別保護地区なんて初めて入ったな」
特別保護地区の中は一般公開されておらず、MISの人間でも特別保護地区に入ったという人はなかなかいない。俺はそんな特別保護地区へ足を踏み入れ、人魚が湖で泳ぐ様を湖畔で目に焼き付けた。
その湖畔にはブルーシートを被せられたところがあり、そこに例の他殺体と思われる人魚が横たわっている。その人魚は湖から引き上げられたのではなく、発見時からこの湖の畔にいたようである。
俺はブルーシートを引っ剝がすと、遺体の状況を見て唖然とするしかなかった。この遺体の死因はほぼ間違いなく溺死だったのだ。
遺体を見て固まっていると突然肩を叩かれたので、俺は後ろを振り返った。そこには顔馴染みの刑事である志摩弦太さんがいた。
「久しぶりだな、新浜の若造!」
「志摩さん、お久しぶりですね。最後に会ったのは二ヶ月前くらいでしたっけ?」
「馬鹿言え、先月お前が署に来た時に廊下ですれ違っただろ」
「あ、そう言えばそうですね」
「まったく、ちゃんと覚えてろよ。──んなことより、その仏さんは溺死体か?」
「はい、俺もそう思います。解剖はまだしていないようなので断言は出来ませんが、口内に白い泡が付いているので溺死でしょう」
溺水が肺に侵入することで肺の内側から粘液がにじみ出て、その粘液が溺水や肺の中にある空気と混ざり白く泡立つ。溺死体の場合、この泡が口や鼻から溢れ出ていることもあり、溢れ出ていなくても肺を切り開けば白い泡が確認出来る。
人魚はえら呼吸と肺呼吸の両方が出来る両生類であり、えらは人間に例えるならば脇の辺りにある。つまり人魚にも肺があり、体の構造は人間に近い。そのため、溺死の時は人魚とて白い泡が溢れ出してくる。
志摩さんはため息をつく。「人魚は水中で過ごすため人間のように言語を持たない。だから意思の疎通は身振り手振りで行うわけだ。言語を持ってない人魚に日本語が理解出来るわけないし、人魚相手に聞き込みは出来ない。例え一部始終を目撃した人魚がいようとも、言葉を交わせないからその情報を知り得る手段はない。とんだ負け戦だぜ」
「もしこれが人間による殺害事件だと仮定しても、動機は何でしょうか。人間と人魚は接点がないので怨恨などの動機は当てはまりませんし、八百比丘尼伝説のように不老不死になるために人魚の肉目当ての殺害だとしても遺体に欠損個所はありませんが......。犯人は人魚とは考えられませんか?」
「人魚同士が殺し合うなんてことは過去一度も確認されていないが、可能性としてはあるな。まずはこの遺体を解剖してみるしかないが」
「人魚専門の法医学教室が近くの大学にありましたよね? そこへ運ばれるのでしょうか」
「人魚を専門にする法医学教室は少ないし、十中八九そこに運び込まれるだろうな。俺達は司法解剖の結果を待つだけだ。特別保護地区内に手掛かりが残っているはずもない」
「今日は解散ですか」
「ああ。暇だしこれから呑みにでも行くか?」
「いえ、MISの仕事がまだ残っているので」
志摩さんとはそこで別れ、俺は自分の仕事場へと戻る。人魚が溺死するのはどういった場合なのか。俺は自分の机に積み重ねられた人魚の資料に目を通し、人魚の生態などを再確認する。
人魚はクジラと同じで魚類ではなく哺乳類であり、人魚も元を辿れば人間だった。古の時代に水中で生活を試みていた人間が水中に適応するために進化し、下半身を魚類に近づけて泳ぎやすくした。やがて尾びれを獲得する。現生の人魚の尾びれには人間の名残として足の骨のような形が確認されている。
人魚の上半身は人間の上半身と何ら大差はないが耳の穴は塞がっている。けれど鼓膜などはあり、骨伝導によって音を聞いているのだと近年報告された。
首を回して周囲を見渡せるので目が側面に移動するような進化は見られず、手の指の間には水掻きを獲得している。しかし水掻きを獲る代償として人魚は人間の持つ手先の器用さが失われた。
人間は手先が器用のため武器を作ったり投石したりなどができ、そのため旧石器時代以前から動物への一方的な攻撃が可能だった。これが人間が生き残った理由である。人魚は水中で生活するため手先の器用さは必要なかったので、退化したのだと考えられている。
髪も必要ないので退化したが、その代わりに人魚の頭には髪に似た海藻が生えている。この海藻は生まれた後でわざと頭に生やすもので、海藻に擬態するためであると推測される。
人魚にはそれなりの知性があるが、人間のような感情は今のところ確認出来ていない。つまり自殺する個体も他殺を行う個体も人魚にはいないと考えるのが自然だと人魚研究家は言う。また人魚は仲間想いなので争いも起こらず、非常に心優しい。
とある動物学者が人魚を見習うべきだと生放送のテレビで発言し、ちょっとした騒動になったのは記憶に新しい。
「ってことは人魚が人魚を殺した可能性も、自殺の線も薄いってことか。加えて人間による殺害も不可能に近い状況、か。人魚に限って事故で溺れ死ぬなんて非現実的だしな。厄介な事件だ、畜生め!」
腹が立ったので嫌な上司愛用の椅子を、鬼の居ぬ間に何度も蹴っていると後輩の捜査官である神崎が俺の元へ駆け寄ってきた。
「ちょ、ちょっと腹立ったから蹴ってただけだかんなっ! 誰にも言うなよ!?」
「い、言いませんよ」神崎は首を横に振る。「そんなことより先輩、例の人魚の遺体の解剖結果が......」
「それを先に言え! 解剖所見寄越せよ」
「どうぞ」
人魚の解剖結果は、人魚の死因は溺死とのこと。水質汚染によって汚染物が人魚のえらに詰まり、えら呼吸が出来なくなって事故死したようだ。
この解剖結果を踏まえると、えら呼吸が出来なくなった人魚は地上に出て肺呼吸をしようとするも誤って肺に水が入り、最終的に湖畔で力尽きたのだと推測出来るな。この推測ならば人魚が湖畔で死んでいた理由も白い泡が口内に付着していた理由にも説明が付く。
ただ俺は腑に落ちない。本当に人魚は事故死なのだろうか。というか、特別保護地区の湖の水質を綺麗に維持するようにと条約で定められている。もし事故死だと露見すれば国際問題になるぞ。
「おい、この解剖結果に間違いはないのか?」
「間違いはないそうです」
「言われてみると特別保護地区の湖の水質は悪かったような気がするな。だが不味いだろ、この結果は......」
「国際問題になりかねません。確か人魚国際保護条約に則って特別保護地区の湖の水質維持を任されているのは我々MISですよね?」
「ああ、その通りだ。もしかするとMISの上層部は人魚が事故死だということをもみ消そうとするかもしれない。はあ、胃が痛い」
MISは水質汚染による事故死だと発表しにくいだろう。MIS的には人魚は事故死ではない方がよろしい。ということは人魚の死因を引き続き調べたいと上層部の方に掛け合ったら、まだ捜査を続けられるかもしれんな。いや、事後報告でも構わんか。
「神崎はあの糞上司に解剖所見を渡しておいてくれ。俺は本当に事故死なのか調べてみる!」
「ちょ、先輩! あの人にこの解剖所見を渡したら絶対怒るじゃないですか! 置いてかないでくださいよー!」
「知らん! 後は任せた!」
足早に去ると車に乗り込み、荒々しい運転で人魚専門の法医学教室のある大学へと向かった。無論、この法医学教室が先ほどの解剖所見を提出したわけだ。
俺は法医学教室に入り、前に一度会ったことのある監察医を呼び止めた。
「神谷先生!」
「おや、新浜さんじゃないか。水死体となって発見された人魚の件かな?」
この神谷先生は白髪がやけに多い太めのフォルムの初老男性で、非常に優秀な監察医だ。
「ええ、よくわかりましたね」
「新浜さんなら来るだろうと思ってたよ。あの人魚が事故死ではないと疑っているのかい?」
「はい。確かに特別保護地区の湖は水質が悪かったですが、どうも事故死とは考えられなくて。考えられる可能性としては自殺なんですが、人魚は自ら死ぬ事例は報告されていませんし、動機も不明です。だからこそ、神谷先生ならわかるのではないかと思い、聞きに来ました」
眉間に皺を寄せて目を鋭く光らせた神谷先生は、着いてきなさい、とだけ呟いて奥の個室へ入っていった。俺も個室に入ると扉を閉じ、目の前にある椅子に腰を下ろす。机を挟んで向かい側にある椅子には神谷先生が座っている。
「あまり公には出来ない会話の内容になるから個室に入ったんだ」
「は、はあ......」
「結論から言わせてもらう。あの人魚は間違いなく自殺だ」
その言葉を耳に入れた瞬間、怒りに任せて机を叩いた。「自殺だと断言出来るなら、何で事故死だと偽った解剖所見を提出したんですか!」
「落ち着いてくれ。私は人魚が望んだようになるように手を貸したまでだ」
「くわしく説明してください!」
「人魚は自殺しないと言われている。確かに事実だが、場合によっては自殺することもある。人魚が自殺をする動機として今現在わかっているのは、仲間のために自分の命を捧げる場合だ。人魚は仲間想いだからね」
「だ、だとしても事故死だと偽る理由にはなっていませんよ」
「では新浜さん、今回の人魚が自殺をした動機を考えてみてくれ」
「動機!?」
人魚は仲間想いな性格で、今回の人魚が自殺した動機は仲間のため。しかも事故死に偽ることが人魚の目的で......! そうか、そういうことなのか。
「人魚が自殺した動機は水質汚染を我々に訴えるため、ですか?」
「そうだ。人魚も元は人間だからそれなりの知性がある。だから水質汚染が原因でえらに汚染物が詰まり、息が出来ずに死んでしまう仲間が続出すると危惧する個体がいたんだろう。だが手に水掻きのある人魚は、人間特有の手の器用さを失ってしまっていて、えらに詰まったものを自分達だけで取り出すのは困難だ。それだけでなく、人魚は言語を持たないから我々に水質汚染を伝えることも出来ない。そこで一人の人魚は考えた。自分のえらに汚染物を詰めて死に、水質汚染が原因の事故死に見せかければ湖の水質が改善される、とね」
つまり人魚は自分を犠牲にして仲間のために自殺したのだ。神谷先生は一人の人魚の死を無駄にしないため、水質汚染が原因の事故死だという報告をしたというわけだ。
自殺でも死ぬ時は苦しむから、今回自殺した人魚は水面から顔を出して肺呼吸に切り替えようとしたが誤って肺に水が入ってしまい、そのまま死亡してしまったと考えられる。地上に出て湖畔で苦しみ、そこで溺死したというわけか。
「すみません、何も知らずに」
「私も少し心苦しかったよ。人魚の死を無駄にはしたくないけど、事故死だと偽るのは......」
「真実を知ったからには俺も共犯です。罪の意識を等分しましょう」
そんな会話があった個室の空気は最悪であり、俺と神谷先生の二人は下を向いたままの状態で沈黙が続いた。
事件から数ヶ月後、MISは警察と合同で例の人魚の死因は水質汚染による事故死だと発表した。特別保護地区の湖の水質管理はMISの仕事で、この事件はMISの落ち度が招いたものだと激しく非難されることになる。
俺の予想通り今回の仕事は国際問題へと大きく発展し、人魚の環境を再度見直すべきだという意見が飛び交った。これにより人魚の待遇は各国で改善され、一人の人魚が何千人もの人魚の命を救う結果となる。
俺達の仕事は真実を伝えるわけではない。人魚の意志を最大限に汲み取り、人魚が望むことへの手助けをするのが俺達の仕事なのだ。これがこの事件で俺が得た教訓だが、今でも俺がしたことは正しかったのかと思う時がある。
神谷先生が天寿を全うした今となっては、その件で話し合える相手はいなくなってしまったが。