そして、永遠の幸せを告げる鐘が鳴る
この山の階段は全部で777段あるらしい。しかも、頂上には鳴らすと永遠の幸せが訪れるという幸福の鐘なるものがあると聞いた。ならば迷いはない。いっちょコイツを上ってやろう。パチスロに溺れ、闇金に手を出し、挙句妻と子には家を追い出され、頼る親はもういない。そんな救いようがない住所不定の無職に成り下がった俺には丁度いい。上へ行けば行くほど頭も冷えていくだろう。
1段目を踏み締めるようにゆっくりと右足を地面に沈ませる。そのまま自撮り。ピース。……まだまだ先は長いぞ、こんなことをしている場合じゃないな。
111段目に到達した。そうだ、今の心境をスマホのメモにでも記しておこう。『晴れやかな気分、今だけは現実を忘れられるほど和やかだ。』っと。
「おっと」
「あ、すみません」
「いえ、こちらこそ」
狭い階段で立ち止まってメモを取っていたせいで、階段を下りてきた青年にぶつかってしまった。猫背の気弱そうな青年だったが、優しい人で良かった。さて、俺もそろそろ進むとしよう。
222段目に到達した。まだ体力は大丈夫だ。このままどんどん進んで行こう。
「……こんにちは」
「ん、ああ。こんにちは」
突然、小学校低学年くらいの少女にボソッと挨拶をされる。驚いた、こんな小さい子が一人でこの階段を下りてくるとは。両親はどうしたのだろう。……気にしても仕方がない、先を行こう。
333段目に到着した。段々と疲れが見えてくる。案外777段というのは辛いものだ。だが、ここまで来て引き返すというのもないだろう。
「……」
若干参っている俺の横を通り、くたびれたスーツの社会人らしき中年男性が階段を下りていく。随分と顔色が悪かったな。やはり相当辛い思いをしたのだろう。まぁ、他人の事をいちいち考えていても仕方がない。とりあえず今は進むしかないか。
444段目に到達した。正直もう限界である。ここらで一休みしたい——そう思いふと横を見ると、休憩用のベンチが置いてあるじゃないか。なんとツイているのだろう。今日は勝てる日なのかもしれないな。今となっては、どうでもいいことだが。
「……ねえ、おじさんも、もう疲れちゃったの?」
休んでいると、ベンチの前に高校生くらいの女の子がやってきて、声をかけてくる。
「ああ、もう限界だよ」
「そっか。大変だよね」
「うん、辛いもんだね」
簡単な会話を交わした後、女の子は特にそれ以上何を言うこともなく階段を下りていった。酷くやつれた儚い表情が印象的な子だった。あんなに痩せこけて、一体あの子は——胸が締め付けられるような気持ちになりながらも、俺はいい加減足を進めることにした。
555段目に到着した。十分な休憩を取った後なので、流石に少し余裕ができた。この調子で一気に駆け上がってしまおうか……そんなことを考えていると、見覚えのある顔が下りてくる。
「先生……?」
「あら、キミは……もしかして、江口くん?」
「ええ、高校の時お世話になった江口です。先生も、この階段を?」
「ふふ、ちょっと疲れちゃって」
「……教師って、大変そうですもんね」
「あら、分かる? でも、やりがいはあるのよ。私には、ちょっとハード過ぎたみたいだけどね」
自嘲気味に微笑み、じゃあねと小さく手を振ってかつての恩師は階段を下りていく。そうか、先生もここへ来ていたのか。それは少し——思うところがあった。それでも、俺は進む。今更、引き返そうなどとは思わなかった。
666段目。流石にここまでくると、素晴らしい絶景を拝むことが出来た。吹き抜ける風が、急速に頭を冷やしていく感覚。なんだか新鮮だ。
「優馬?」
「……父さん?」
風を堪能した後に階段を下りてきたのは、紛れもなく俺の父親だった。かつて行方不明になった、俺の父親だった。
「……そうか、優馬も」
「父さん……親不孝な息子で悪かったよ」
「いや、いいんだ……。悪いのは全て、私なのだから……」
何十年ぶりの再会だろう。久しぶりに会えたというのに、心は驚く程晴れない。それどころか、どんどん気が沈んでいくばかりだった。
「……私は行くよ。優馬を止める権利なんて、私にはないのだから……」
そう言い残し、父は階段を下りていった。もう、俺は何も言わずに頂上を目指して歩いた。
777段目に到着した。頂上だ。目の前には、鳴らすと永遠の幸せが訪れるという幸福の鐘が見える。あれを鳴らせば、俺は晴れて住所不定の借金生活からおさらばし、永遠の幸せを手に入れることができるのだ。迷いはない。これを鳴らすために、皮肉にも俺は777段の階段を上ってきたのだ。
ふと、途中ですれ違った人たちの顔が順々に浮かんでくる。誰一人として、明るい表情の者はいなかった。当然だ。皆、疲れてしまったのだから。
さあ、俺ももう疲れきったことだし、どんな鐘の音が鳴るのか、金に溺れた俺が確かめてやろうじゃないか。
そして、永遠の幸せを告げる鐘が鳴る。ゴーンゴーン——全てから解き放たれた確かな幸せを感じたのは、それから間もない事だった。