Ⅱ-Ⅷ.火星最南端低地・ヘラス平原
気がついた時には、外はもう闇色に染まっていた。
―――いけない、眠ってしまった。オポは目を擦る。
ヘラスにはまだ到着していない模様。シドニアは北の大地なので、ヘラスとは正反対の位置に在る。そう簡単には着かないだろう。
リコネスはオポが眠りに就く前とそう変らない姿勢で、窓の外を未だ見ていた。髪が邪魔で、起きているのか眠っているのか判らない。
「・・・もう空も真っ暗ですねー」
オポが気恥しそうにリコネスに話し掛ける。反応はすぐには来ず、オポは更に恥しくなった。
「・・・・・・いや」
リコネスは起きている様だった。声はとても確りしている。だが否定の含まれたその言葉に、オポはえ・・・?と呟いた。
「緋いよ」
リコネスは一切のニュアンスを排除した、まっさらな声で答えた。余りにまっさらで、響きは物悲しくさえある。
オポが急いで車窓を開けた。夜特有の、澄んだ空気と冷たい風は健在だった。彼女にはとても平和な、日常的な夜にしか視えない。
「・・・さっきからずっと緋い。緋色の時間が日に日に延びてる」
オポの表情が不安に広がる。幾ら目を擦っても彼女には、単なる夜の闇にしか視えなかった。
応急処置を――― パスファインダーの声が、彼女の頭を駆け巡る。
「―――待つんでしょ」
割箸が二つに割かれる音が、オポの耳に入って来た。オポはびっくりして我に返る。
リコネスが、オポの耳元で箸を割っていた。オポが気がつくと、すすす・・・と退いて弁当箱のタマゴヤキを取る。一口で入れると、もごもごと顎を動かして彼女に言った。
「待つって決めたでしょ。実質ソレしか出来ないし。一人で戻るってんなら俺は一向に構わないけど」
次にリコネスが取ったのはコンニャクだった。見た目の割に器用に箸を遣う。玉子焼きを飲み込まない内に、彼はコンニャクを口に入れた。
「戻らないんだったら、心配するだけムダだと思わない?幾ら火星の危機でもさ。
事ってのは、俺達が動かさないとあらぬ方向にいくすんごーく自分勝手なやつよ?動けない時まで俺達が振り回されてやる必要あんのかね」
オポは目をめいいっぱいに開いてリコネスを見つめた。そのリコネスが見つめているのは、箸で摘んだ花の形のピンク色のカマボコ。
「火星の事も大事かもだけど、あの学者サンの様に、心が健康じゃないと救えるモノも救えない事もあるでしょ。別に火星の状況とアンタの情況が連動する必要も無いから」
リコネスに花。喩えるならばまさにそうだった。
“心”について語るリコネス。花の形のカマボコもそうだが、余りに意外で余りに合わなくて・・・・・オポは遂に笑ってしまった。
「・・・・・・」
リコネスはカマボコを口に入れる。すると、オポの笑いはぴたりと止んだ。リコネスは箸で正面にある弁当を指して、一言
「食べな」
と言った。
「ヘラスにはもうすぐ着く」
リコネスがシイタケを取る。その過程で、オポのコートが震えているのが目に入り、まだ座席から立ち上がった侭の彼女を見上げた。
「・・・まだ笑って――「有り難う」
リコネスの緑色の瞳が透ける。オポが涙を溜めて、切なげに微笑んでいた。
「有り難うございます―――」
彼女は何度下げてきたかわからない頭を、また下げた。
「・・・・・・」
寒い。そういえば、窓が開けっ放しだった。
リコネスはシイタケを口に放り込むと、桟に手を掛け未だ緋い空に別れを告げた。
「・・・・・・着いた」
リコネスが列車から降りる。オポがデザートの苺を口に入れて、窓からぴょんと飛び降りる。
「まだ食べ終ってなかったんだ・・・」
苺をしゃくしゃく言わせて食べるオポを見て、呆れた声で言うリコネス。だが、それにに軽蔑・批難は伴わず、ただ目の前に在るものを見ての感想に思えた。
駅を出ると、其処は砂嵐の巻き起る荒れた大地で、黄色い砂がとぐろを巻いて龍の如く舞い、視界を妨げてしまっていた。
「・・・・・・」
二人は呆然と立ち尽した。
「・・・ラッキー」
リコネスが呟く。オポがえ?と聞き返す余裕も与えず駅の中へ戻ってゆき、駅員室の戸を叩いて駅員を呼び出した。
「おぉ!M・R・O、来てたのか」
中から、箱の様に真四角な体型の駅員が出て来て、リコネスに親しげに話し掛けてきた。
「・・・コレ、預っててくんない」
リコネスが三脚とそれに取り付けるカメラ・道具一式を駅員に渡した。
「最新式じゃないか!まーた、買い換えたなー!」
リコネスがフラフラ持ち歩いていた道具一式を片手で持ち、更に彼の背を厚みの有る手でばんばん叩く駅員。リコネスはよろめいた。
「おっ?」
駅員がオポに気づいた。
「・・・まーた・・・怪しげなものを引き連れなすった様で・・・・・・」
オポが正体を隠す為、フードを頭からすっぽり被った状態で仁王立ちしていた。顔にはベールを巻いている。ぬおーん。
「今日は取材・・・じゃなさそうだね」
駅員が、自分の片手に揃う道具一式を見て言う。リコネスは駅の出口付近までひょこひょこ歩いてゆき、天候を視ながら訊いた。
「コレだと・・・休戦態勢に入ってると思うんだけど、どう?」
駅員はやっぱり取材なのかと思い、苦笑した。
「今日は・・・砲撃の音も聞えてこないからそうなんだと思う。元々エトルリアの気紛れなテロだ。これほどまでに天候が悪いと、開戦する気も起きないんだろ。どちらにしても、取材には今日は向いていないよ」
ふーん・・・ リコネスは呟いた。ベールの奥の森色の瞳に、目配せをする。すると、ドロレスは突然俊敏に動き始め、駅員を驚かせた。
「!待ちなよ。カメラマンの命を置いて、何処に行くつもりだい?」
リコネスは何の演技かは解らないがとにかく巧いドロレスに、半ば気を取られながら言った。
「出来れば休戦中に、ヘラス(ココ)を突っ切りたい」
「確かに休戦は休戦だけれども、ルールを破るのがエトルリア人でもあるよ。ヘラスの先で何をするんだい?」
リコネスはポケットに手を突っ込んだ。
「そりゃあ、勿論・・・」
ポケットから何かを引き揚げた。それは以前も使用した、片手に収まるコンパクト‐カメラ。
「取材よ」




