Ⅱ-Ⅴ.職員食堂にて
猫が、浮んでいた。ふよふよ、羊水に包まれて。
まるで現実に見ているかの様な表現。そう、かれは現実に見ている。
現実に見る事は、簡単だ。羊膜を破らぬ様、母体から慎重に切り離し、カプセルへ移す。この作業が非常に難しい為、かれは予めカプセルの中で母猫を捌いて、母体を引き揚げるという逆の試みをした。だが、羊膜というのは実に脆いもので、すぐに破水し、胎児は浮けなくなってしまう。胎児もまた弱いもので、浮けない胎児は己の重みに耐え切れず、底から潰れてしまう。
如何して神は、之程にも弱い生体をお造りになったのか。そして、何故之程まで繊細に造る事が出来るのだろうか。
羊水に母体の血が雑じる。其だけで胎児はもう死んでしまう。かといってそちらを重視すれば、胎児は潰れる。理論的には簡単なのに実践となると困難を極めた。
かれは常に独りだった。そう、私と同じ―――
併し、私とかれには、決定的な違いが一つ有った。かれの方にはある日、共に取り上げる助手が現れたのだ。
女は言った。
『手伝いましょう―――』
サン=バジリデは、呑気に職員食堂でチキン南蛮をオーダーしていた。え、ちょっと待って。不審者は!?の意見は一切受け付けない。とにかく彼は、食堂で優雅にランチを摂ろうとしていた。
そして、食堂は通常通り営業していた。何故か?不審者で国家刑事警察機構そのものが揺らぐ中、人間の三大欲求の一であり人間が人間である為の基礎部分・食欲の砦だけはどーんと構えていなければ、職員等は心の支えを失ってしまうだろう。食堂は謂うなれば職員の家であり、心の拠り所なのだ。
この食堂を切盛するのは『食堂のおばちゃん』。殆ど一人で食材調達・調理・後片付けを行なう逞しい女性。本名・年齢・出身地すら不明だという、謎に包まれた彼女だが、乙女座のA型という中途半端な個人情報だけは、何故か明らかにされている。
この食堂は、一度中へ入るとオーダーしたメニューを食べ切らないと、外へ出られない仕組みとなっている。詰り、バジリデの場合、ライス・ミソスープ・チキン南蛮は元より、千切りキャベツやトマト、フレンチ‐ドレッシングも飲み、タクアン、そして彼の何より嫌いなウメボシまでを食さぬ限り、永遠に扉の向うの、真っ青で美しい空を仰ぐ事は出来ないのだ。
「お残しは許しまへんでー!!」
声の割に丁寧にプレートの上に置かれた、タクアンとセットのかりかりウメボシ。赤と黄のアクセントに、バジリデは思わず溜息を吐いた。
(タクアン有るから別に要らないじゃん・・・)
バジリデが顔を上げる。おばちゃんが物凄い形相をして彼に庖丁を向けていた。
「!」
バジリデは普通にびびった。カニ歩きでカサカサと、器用に縦方向に後ろに下がりゆき、両手を上げてフリーズする。
「食べます!食べますから・・・!」
するとおばちゃんは、フレーメン反応を起こして庖丁を引っ込めると、並んでいた次の人のオーダーを取り始めた。
「老麺を」
次の人は予め決めていたかの様に、スマートに言って去ろうとする。が、カッコ悪くも引き留められ、再びメニューを示される。味つけを選べという事らしい。だが、その人は老麺であれば後は如何でもよかった様で、5分ほど見ているとおばちゃんから適当に選んだ醤油老麺を渡されていた。
後ろ姿から察するに、年の頃二十前後、背は自分より5cmほど高く、白いタートル‐ネックのセーターを着ていた。
不審者情報と少し被ってはいたが、食堂は職員の憩いの場。そして、食堂のおばちゃんは国家刑事警察機構最強だと噂されている。悪い奴が来れば、中に入る前におばちゃんが退治してくれる。俺はおばちゃんを信じてる。
タートル‐ネックの青年が振り返る。少し横髪が長い。
黒髪・・・だが眉はオレンジ色。
「!!」
ガタッ!バジリデは慌ててチキン南蛮定食を間近にあったテーブルに置いた。大きな音を立てる。これはマナー違反だ。混乱状態の国家刑事警察機構、なのに長蛇の列を成す食堂。並んでいる職員は皆、蛇の様にバジリデを睨みつけている。
「えっ!?」
待って?前に並んでいた老麺頼んだお兄さん、アレ髭眼鏡だよね?
バジリデは一人、口をパクパクさせている。何で?どうして皆気づかないの?おばちゃんが退治してくれるんじゃなかったの?食堂は、安全地帯じゃないの―――?
裏切られたショックで、思考が子供返りする。そして、有ろう事か彼の日常的平和を冒した髭眼鏡の男は、彼の真正面の席に来た。
「此処、よろしいですか?」
丁寧に、そう言って。
「え・・・あぁ!どうぞ」
バジリデは呆気に取られてついそう返した。そう返したのがいけなかったのだ。
(拷問だ・・・)
正面で老麺をがっつく髭眼鏡に、彼は笑いを堪えるので精一杯。髭眼鏡の前には、ウメボシどころかチキン南蛮もいけなかった。
鼻先でぽよぽよしているオレンジのちょび髭から、どうしても目が離せない。髭眼鏡の男は不快そうな顔をした。
「ーーー食べにくっ」
男は髭眼鏡を外すと、普通にテーブルの上に置いて、再び老麺を食べ始めた。あれ?待って。素顔隠す為にそんな変な仮面つけてたんじゃないの?バジリデは混乱した。
そして、別に隠すような顔ではない。いや寧ろ、髭眼鏡で行動した方が目立つ。バジリデは立ち上がって、その事を強く老麺をがっつく男に訴えた。
「そっちがいい!!」
男は空中で、散蓮華に醤油のスープをつゆだくにした侭、呆れた顔でバジリデを見た。
「・・・・・・は?」
「・・・・・・ゴチソウサマデシタ♪」
バジリデがチキン南蛮を食べ終り、手を合わせた時には、相席の男はとうの昔に完食して胃も休まった様だった。腕を組み脚も組み、何か考え事をしている様だった。
バジリデは男の顔を遠慮がちに見る。見憶えの有る顔だった。マリネリス地区の方でお目に懸った様な気がする。
「―――あ!」
バジリデは思い出した。
「グローバル=サーベイヤーさんですよね?」
親しげに訊く。気難しそうな顔をしていた男は、意外にもソフト‐タッチに応対をしてきた。
「あぁ、貴方は・・・」
「マリネリス地方刑務所警部補・マーズ=サン=バジリデです!」
立ち上がって敬礼をする。先程は人数が多くて騒がしかったので音を立てて立ち上がっても、それほど気にはならなかったが、今は御昼のピークを過ぎて人は疎らである。そして、この時間に食堂に来る客は大抵の場合、静かな時間を過したくて昼のピーク時を避けている。故にこの大声と気合・音は今回は非常に目立ち、叉も毒蛇の視線を独占する事になった。
「まぁまぁ座って。別に上司じゃないんだから」
サーベイヤーが苦笑する。バジリデはいえ!と暑苦しい声を出しつつ、深く礼をしながらずん、ずんと段階を踏んで椅子に座った。
「その節はすみません!誤認逮捕をしてしまって!」
「いえ!いえ!」
サーベイヤーも大声を出す。バジリデのよく透る声のせいで、こちらの会話は周囲に筒貫けである。困るのはバジリデの方だが。
「次はマリネリスの失態!美青年冤罪事件ね!」
・・・リコネスみたいなのも居る。
サーベイヤーは立ち上がって、老麺皿の乗ったプレートを片付けようとする。バジリデが引き留めた。
「待ってください」
「・・・・・・なに?」
バジリデは、スープまできちんと飲み干したキレイな器を指さして言った。
「支那竹、残ってますよ」
・・・・・・白い老麺皿の中央に載せられた、直角の美しい黄土色の角柱。それがメンマだった。スープが残っていれば、それも豚骨やミソならば誤魔化せたであろうが、これではもう残せない。
「ああ」
食堂へ来て日が浅い彼は、バジリデの遠回しな親切“兼”警告に気づかず、途轍もない禁句をサラリと口にした。
「俺、この支那竹、嫌いなんだよね」
サーベイヤーの側面を、一瞬何かが通った風が吹いた。ダン!と音を立てて、木の壁に硬い物が突き刺さる。掠って髪まで切れた。
「・・・・・・!」
バレた!?今更になって己の身を案じるサーベイヤー。いえ、バレているといえばバレているのだが・・・寧ろ素顔はバレた方が逆に怪しくない・・・バジリデは返答に困った。
二人は現場検証に入る。壁に刺さっていたのは庖丁だった。それも先程、バジリデが突き付けられた・・・
(おばちゃん・・・・・・?)
背後に気配がする。二人は振り返る。ゆっくりと。
庖丁二刀流のおばちゃんが、カウンターからの距離100mを3秒で走り、此方へ来たところだった。
「「!!」」
「お残しは許しまへんでー!!」
庖丁がびゅんびゅん飛んで来る。併し負傷者は出ない。国家刑事警察機構内の食堂だけあって、客も卓越した運動能力の持主が多いのだろう。
サーベイヤーはさっぱり訳が解らないという顔をしながらも、取り敢えず来たものは全て避ける。
バジリデは避けながら彼を責めた。
「あなたのせいだ!!」
「へ!?」
サーベイヤー、驚きの余り口角が引き上がる。バジリデは此処ぞとばかりに、日頃の鬱憤を八当りという形で彼にぶつけまくった。
「食堂は・・・・一度食堂へ入ったら・・・・・注文した物を完食しないと、外へ出られないんですよ!!それでもねぇっ・・・やっぱり残す奴がいるんです!!だから連帯責任制になったんですよ!!どうしてくれるんですかーーっ!!」
「え、それ、俺のせい!?」
優しいサーベイヤーの面影は、この頃は余り無い。彼は機嫌を損ねた様にかぶりを振ると、勢いよく自分達の座っていた席を指さした。
「じゃあ、あれは何だ!?」
「!?」
バジリデがつられて見る。だが、視力が0.6の彼には、サーベイヤーが何を指しているのかがよく判らなかった。
「あの紅い物体は・・・・・・!!」
サーベイヤーが、蜻蛉の目を回す様にある一点を決めてその周りをくるくる指を回している。そのある一点に気がついたのは、バジリデよりおばちゃんが早かった。いや、おばちゃんが気づかなければ、彼は一生気がつかなかっただろう。
サーベイヤーは敢ておばちゃんに聞えるよう、いやおばちゃんに半ば訴える様に言った。
「あれは梅干じゃないか・・・・・・!!」
ん?二人はむんずと首筋を掴まれて、急に大人しくなった。その侭ぷらぷらと自分達の席まで運ばれると、椅子の上に降ろされた。
振り向くと、おばちゃん。
サーベイヤーの前にはメンマ。バジリデの前にはウメボシ。それ以外に邪魔な物、箸や小皿以外の食器は全て撤去された。
おばちゃんが無言の圧力で、互いの嫌いな食べ物を前面に押し出す。更に指さして、んー!!と地響きの鳴る音に似た声だけを上げた。
((誰・・・・・・!!))
斯くして二人は、これを機に好き嫌いを克服する事となったのだ。出来ればそんな事は、作品とは関係の無い所でやって欲しかった。
サーベイヤーは思う。
(・・・コレ、アレルギー持ちの人とか多分ココで死んでるよね・・・・・?)