Ⅱ-Ⅲ.青い太陽・サン=バジリデ
珍しく、アンの部屋のドアが開いていた。そう、珍しく、だ。
結婚、いや、同棲してすぐ――私が科学者だと明かしてからかも知れない――彼女は自分の部屋が欲しいと言い出した。どれだけ愛していても、プライベートな空間は持っていたい――其は当り前だろうと私は思った。
部屋を与えた。すると彼女は「絶対に部屋を覗かないでください」と強く言った。この時は、何故そんな事を言うのか、私には解らなかった。そんな事を言わなくても覗かない。私もアンを愛しているが、彼女のプライベートが気になるかといえば、そうでもなかった。だから気が付かなかったのだが、私が彼女の部屋を見るのは、今日が初めてだった。別に覗きたくて覗いたわけではない。
床には、我々学者が使う資料がばら撒かれていた。以前、私がむしゃくしゃして投げ棄てた物を拾い上げたのだろうか。
と、其処で十数枚に亘る写真を発見した。一人の若い男の横顔―――其は、私の嫌いな学会の独裁者だった。
アンと奴は繋がっているのか―――まさか、アンは奴の事を・・・・!?
火星と同じく、私は急に、彼女のプライベートに興味を持った。こうなれば、私はもう止らない。
パンドラの箱を開く。この行動が、そんな大仰な用語になるとは、私はまだ知る由も無かった。
国家刑事警察機構の内部はてんやわんやだった。髭眼鏡を掛けたシュールな不審者が建物内で圧倒的な強さを以て職員を薙ぎ倒しているというのだ。
その連絡を受け、ボロ=マーシャルは吹き出した。
「フッ・・・其は大変だな」
デスクに飛び散ったコーヒーをちまちま拭きながら、マーシャルは今更不敵そうに、口角だけを上げて哂った。
「ええ。ですから―――」
真面目な好青年・サン=バジリデがツッコむ心の余裕も無しに訴える。彼はオポチュニティ脱獄事件の後処理の為に、国家刑事警察機構に出入りをしていた。
「何か命令をください!国家機構の司令塔である局長が命令をくださらないと、我々は動けません!」
「其は無理だな」
マーシャルが切り捨てる様に言う。柔かい背凭れの椅子に座り込み、まだ温かいコーヒーを飲みながら、彼は続けた。
「私は現在謹慎の身――命令を下せる立場では無い。命令を仰ぐんだったら、先日帰って来られたシェリフ長官か、事務総長のコンスタブルに言う事だな」
「其が・・・コンスタブル総長は出張中で、シェリフ長官は行方不明なんです。ですから、マーシャル局長!」
「・・・君は習わなかったのか?緊急事態に於いて、決定を下せる立場の者が居ない場合は独自の判断に任せると。たとえその判断に誤りが有っても、処分はしない」
「ですが・・・!有能な方が居るのであればその指示に従った方がいいに決ってます!警察官の仕事に失敗は許されないのですから!」
実に平々凡々な青年だ。才能も並といったところか・・・マーシャルはコーヒーを飲みながら思った。併し、正義感や理想はまだ折られていない青さを感じるか。
皆最初の内は、平凡な能力に有り余る気概を持って遣って来る。大体の人間は、その気概は一過性のもので、署内の不条理に適当に染まり、諦める。だから負け犬の遠吠えにしか聞えないし、この不条理な体制は変らない。この青年がこれから先、どうなってゆくのかは知った事では無いが、他人の脳を尺にしている様では、先ず奴の気概通りにはならないだろう。
「君より上の人間なぞ、山ほどいるではないか。其とも其等の人間は、無能だとでも言いたいのかね?」
「!」
バジリデの顔が紅くなった。デスクに手を着いて、必死に弁明する。
「そんな事では・・・!貴方だってカウンティ警視に仰っていたではありませんか!
『咄嗟の機転なんて役に立たない。すぐに私の指示を仰げ』と・・・」
マーシャルが眉をひそめた。
「其はカウンティには確かに言った事ではあるが――貴様、何故その事を知っている?」
バジリデははっとして益々(ますます)顔を紅くし
「なっ・・・何でも有りません!!」
そう叫んで慌しく荷物を纏めると
「失礼します!!」
と出て行った。一体何をしたかったのか、理解に苦しむ。
マーシャルは咳き込み、立ち上がる。洗面台に向かって、ガラガラ嗽をした。液体をペッと吐き出し、口許を袖で拭う。振り向き様にソファを見て、彼はニヤリと哂った。
「もうすぐだ、もうすぐ・・・・・・」
ソファには、ボロボロの毛布と壊れた手錠が忘れられていた。
換気に、局長室の窓を開ける。ドカドカいう階下を見下ろし
「さぁ踊れ。もっと舞え」
と呟いた。