二人の進路
リリの部屋は、入り口が引き戸だった。そもそも、この家にはあまりドアがない。日本的な作りなんだろうな、と思う。ちなみに、この部屋の床は畳だ。
部屋の中央には、やっと二人入るかどうかくらいの大きさのちゃぶ台があって、部屋の隅には布団が畳んで置いてあった。それ以外には本棚が一つ、家と一体化した押し入れが一つ。本棚の中には、教科書と小説、若干の漫画が挿してあった。中段くらいには、黒縁の額に納められた小さな写真が一枚、飾ってある。優しそうな顔をした、中年の男性。……父親だな。俺はすぐにわかった。
それにしても、想像以上に地味な部屋だ。一人暮らしの男子大学生だって、もっと色々置いてある気がする。これが彼女の趣味なのか、それとも家計が苦しいからなのかはわからない。だけど、父親が亡くなったのは割と最近の話みたいだから、そこから推定するとこれは、彼女の趣味なのかもしれない。
これじゃあお世辞にも、「なんだ、意外と部屋は女の子らしいんじゃん!」とか言えない。こう言って機嫌を直してもらおうと考えていたのに、そんなこと絶対言えない。どう前向きに見積もっても、この部屋は地味だし女っ気がない。
「お待たせ!」
彼女は飲み物を持って戻ってきた。「昆布茶」という、最高に地味な飲み物をもって。
「寒くなってきたから、温かい飲み物がいいと思って!」
リリは、「抜群に気を利かせてあげたんだよ!」と言わんばかりの笑顔で俺に言ってきた。機嫌は直っていたようだけど、すぐにまた地雷を踏みかねない。俺は慎重になった。
「う……うん、この時期はやっぱ昆布茶だよな! 頭も冴えるしな! ちょうど、俺も飲みたいと思ってたところなんだ!」
「えっ、やっぱりたっちゃんもそう思う? 嬉しい! 前に友達にこれ出したら、シチュエーションが合ってない! って怒られちゃって……」
いや、それは圧倒的に友達が正しいと思う。少なくとも、「高校生のカップルが女の子の部屋で一緒に勉強するときに出てくる飲み物」ではない。温かいものなら、紅茶とか、ココアとか、そういうものだろ普通。そう、教えてやりたい。……でも、今の俺には無理だ。というか、もっと頑張れよ友達! リリに常識を叩き込んでくれっ!!
……だけどまぁ、いいか。別に、昆布茶を出されて困ることもないし、確かに体も温まる。コイツは特に意地悪してきたわけでもないんだから、こうやって……笑顔を見せてくれるのなら、俺は喜んでリリに合わせてあげるさ。
そう思いながらリリの方へ目をやると、彼女は両手でマグカップを持ちながら、昆布茶をゆっくりすすっていた。俺と目が合い、にへぇっと笑うリリ。地味だけど、やっぱり可愛い。
その後、俺たちは今日の目的だった「中間対策の勉強」を始めた。
お互い向き合う形で座っているのだが、いかんせん机のサイズがギリギリなので、二人の距離がかなり近い。たまに、フッと石けんのような香りがするのだけど、きっとこれはリリの匂いだ。リリの匂いは本当に控えめだから、普段は全然気づかなかった。コイツも、女の子っぽい匂いがするんだな。ついでに言えば、他の女子が解き放っている「人工的な香水臭」は正直苦手なので、これくらいが丁度いい。
「この問題は、tを0から8まで積分すれば解けるよ」
「……んーと、積分?? ……って、何だっけ??」
「そこからか……。例えば、秒速4mで5秒間歩いた時の距離は?」
「4×5で、20m!!」
「お見事。実は今、リリは簡単な積分をしていたんだ。あえて式に直すと∫4dtになって、定積分の条件を……」
リリは、理数系の科目が壊滅的にできなかったので、そこは俺が面倒を見てあげた。ただ、文系科目は思った以上に優秀で、古典などは正直、俺からは神に見えるレベルだった。まぁ、こんなに殺風景で何もない部屋に住んでいれば、惑わされるものもなく集中できるんだろう。そもそもが真面目で努力家なんだとは思うけど。
「たっちゃんって、勉強教えるの上手だね。積分ってそういう意味だったんだ! 先生の授業は、日本語に聞こえなかったよ」
彼女に喜ばれると俺も嬉しくて、俄然やる気が湧いてくる。勉強に対するモチベーションも、リリがいると全然違った。
「ところで……」
ざっと試験範囲の内容に目を通した後、気分転換に昆布茶を飲みながら、俺はリリに尋ねた。
「リリは卒業後の進路、もう考えてるのか? もしかして、就職するつもり?」
リリは、少し顔をあげて、遠くを見ながら答えた。
「私としては、早く就職して……お母さんを助けたいんだけど、お母さんは大学に行けって言ってくれてるんだ。お父さんも、それを望んでるからって。だけど、一人暮らしするほどのお金はないから、進学するとしても県内の国立大学になるね」
「そうか……」
俺は考えた。将来リリと別れることになる原因として、俺が病気になる、以外に何が挙げられるか。例えば、俺が県外の大学に進学して、関係が疎遠になって……というパターンも考えられないだろうか。
破局の原因になるリスクは、できるだけ無くしておきたい。県内の国立大学といえば一つしかないし、真面目に受験勉強をすれば十分可能性のあるレベルだった。
「……じゃあ、俺もそうしよう」
俺はぽつりと呟いた。
「えっ?」
「いや、進路の話。俺もリリと同じ国立大学を目指すことにした」
リリは、きょとんとしている。
「いいの? だってたっちゃんは、二ツ橋大学に行きたかったんじゃ……」
以前俺が、リリに「二ツ橋大学を考えてる」とか言ったのを思い出した。そんなことまで覚えてくれていたのは嬉しかったけど、適当に張った見栄を本気にされても……俺は困るぜ、リリ。
「別にはっきりした野望があったわけでもないし。ブランドっつーか、深い考えもなかったし。この県の国立大学だって、レベルとしては十分だろ。それに……」
一呼吸置いて、俺は言った。
「……リリとは別れたくないからな」
それを聞いたリリは、またにっこり微笑んだ。
「なにそれ。仮令違う大学になっちゃったとしても、別れたりしないよ?」
「ありがとう。でも、いいんだ。俺はリリと一緒の大学に通いたいから」
俺がそう言うと、リリは「そっか」と笑顔で小さく頷いてくれた。
「そろそろお昼だね。お母さんが作ってくれた昼食があるから、一緒に食べよ? 私……食べるの遅いけど」
「……いいのか?」
「もちろん! だってたっちゃん、食べるものもってないでしょ?」
「そうだけど。……俺としては、リリの手作りが食べたかったな」
「えぇと……。それはまだちょっと……。私のせいでたっちゃんが死んじゃったら、立ち直れないから……」
ものすごい苦笑いをされた。……まてまて、君の料理には一体どんな破壊力が秘められているんだ? 逆に気になるぞ。是非ともいつかご馳走していただきたい。どんな味でも、多分俺は食えるから。
結局この日は、丸一日リリの家で勉強していた。好きな人と一緒に……というのは、人によっては気が散るのかもしれないけど、俺にとっては逆だった。コイツのために頑張ろうという気持ちが芽生え、普段より一層、勉強に集中できた。
ここのところ、本当に毎日が充実している。俺はいままで、なんて無駄な時間を過ごしていたのだろうか。もっと早くリリに告白して、もっと早くから付き合っていれば、あんなに無気力な日々を過ごすこともなく、ヒロシとも喧嘩しなかったのかもしれない。
まぁ、今さら過去を後悔しても仕方が無いし、これからを後悔しない毎日にしていくことが大切だよな。俺は、リリと同じ大学に進学する。そしていつか……。
そしていつか、俺は……リリと結婚するんだ。