結婚しよう
『そういう……わけじゃないんだけどね、どうしても……この日じゃないといけないというか……』
蘇るリリの声……。あの日の用事というのは……。一年前の第二土曜日に入っていた、リリのあの用事っていうのは……!!
「会社から指示された……精密検査だったのかよ!?」
こんな大切な用事があったのに、俺はあの時……!! 直後に吐き気を催した俺は、急いでトイレにダッシュし、胃の中のものを全て吐き出してしまった。
「あっげぁあっ!!」
――お前は、全人類の中で最も愚かな人間だ。
吐くのと同時に、心の中のもう一人の俺が、俺を蔑み、そして罵ってくる。
「なんだよっ、ハァ……、うえぇぇえっ!!」
――お前がリリを殺したんだ。お前の我が儘にリリを付き合わせたせいで、こうなった。お前は、全人類の中で最も幼稚な人間だ。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
――お前は、最愛の人間すらも信じることの出来ない愚か者だ。
「うるせぇっ!!」
罵ってくるもう一人の俺をかき消し、立ち上がる俺。
「しょうがねぇだろ、もう……。 それに、まだリリは死んでない。大切なのは、これからじゃないか……」
後悔なんて、してもしきれない。俺がもっとあいつのことを信じていれば、こんなことにはならなかったんだ。リリが……浮気とか、そんなことするわけがない。他のヤツに気を惹かれるなんて、あり得ない。どうしてそこに、自信を持つことができなかったのか。
でも、俺がどんなに後悔しようが、どんなに自分を責めようが、今の状況は変わらない。そうじゃなくて、今俺にできること。それを全力でやるんだ。それしか、俺に償えることは無い。
「突然で申し訳ありません。『身内』が今大変な状況なので、一日有給を頂きます」
翌日。俺はまず、会社を休んだ。リリのことを『身内』と表現したのは、10年間続けてきた俺達の関係を……今日で終わらせることにしたからだ。……だけどその前に。俺は、例の「冊子」を発見しなければならない。
あの冊子は、探さなくても近々俺が発見することにはなっている。だけど恐らく、それはリリが死んだ後だ。それじゃあ、遅い。でも、リリが生きている間に過去を変えることができれば、もしかしたら、今のリリが……助かるかもしれないじゃないか。
未来の俺があんな曖昧な書き方をしてごまかしたのも、その時点でリリが死んでいたからに違いない。全てを失い、人生に投げやりになっていたとしたら、あんなことを書いても不思議ではないと思う。
だから俺は、それよりも早く冊子を発見しようと思った。早く見つけて、過去の俺に今置かれている状況を詳細に説明しようと考えた。どうせあの冊子は俺が見つけるんだ、俺の近くで眠っているに違いない。
俺は、あの冊子を最後に見た自分の部屋を、隅々まできれいに片付けた。部屋にある全ての本、冊子、雑誌を、一つ一つ丁寧に確認した。
……でも、冊子は出てこなかった。
「くそ……。やっぱりないか……」
よくよく考えれば、10年前の俺が冊子を発見しないと、こっちからの連絡はできない。今の俺が冊子を発見したところで、連絡は不可能かもしれないのだ。……今さらになって、そんなことに気付く。
俺は時計を見た。早くも、昼の一時を回っている。
心残りではあったけれど、ひとまず冊子の捜索を断念した俺は、車へ乗り込んだ。今日一番の大切な目的を果たすために、あるところへ寄ってからリリの元へ向かう。
「リリ、ポーチ。持ってきてやったぞ」
病室に入ると、突然の俺の出現に、リリは驚きながらも嬉しそうに笑ってくれた。顔色も、昨日より幾分かよく見える。
「ありがと……。えっ、たっちゃん、会社は?」
「会社なんて行ってられるか。休んだ」
「休んだって……、大丈夫なの!?」
「あぁ。有給も消化しなくちゃだしな。それよりさ、リリ……」
俺は一歩下がってから、リリに対して深々と頭を下げた。
「俺のせいでこんなことになってしまって……。本当に申し訳なかった! すまんっ、リリっ! 許してくれなくてもいい、でも、最後まで償わせてくれっ!」
リリは、まったく何のことだか分かっていない様子だった。
「ちょ……、どうしたの急に!? 何がたっちゃんのせいなの!? 私が……こんな病気になっちゃったのは、私のせい……」
「違う、俺のせいだっ!! これっ!!」
俺は、リリのポーチからおもむろに手帳を取り出し、例のページを開いて見せた。突然の出来事に、床に伏すリリには手も足も出せず、ただただ呆然としていた。
「俺があの時、無理をいってデートを優先させなければ、こんなことには……」
俺がそこまで言いかけたとき、
「かっ……」
リリは俺の手から、手帳をひったくるようにして奪い返した。
「勝手に見ちゃダメなのっっ!!」
そう言いながら、慌ててポーチに手帳をしまうリリ。かなり焦っているようだった。
「……なんで俺に、検査のことを説明してくれなかった……?」
俺が落ち着いた声でそう尋ねると、ポーチのチャックを閉めながら、リリは震えた声で言った。
「だって、もしかしたらガンかもしれない……なんて、そんなこと言って別になんともなかったら、たっちゃんに余計な心配かけちゃうと思ったし、それに……それにっ!」
そして、リリはついに泣き出してしまう。
「私だって、まさか自分がガンになってるだなんて、そんなこと思ってなかったから……! 検査なんか受けなくても、大丈夫だと思っちゃったんだよっ! たっちゃんに言われたからとかじゃなくて、私の判断で行かなかったの!! だから、私が悪いんだよっ!!」
俺は、泣きじゃくるリリの背中を優しくさすりながら、答えた。
「だから、泣くな。わかった、もう誰が悪いかなんてどうでもいい。ただ俺は、俺はな」
それから、ビジネスバッグのチャックを開け、書類を一枚、リリの手元に置く。
「最後まで、最後の一秒までずっと、リリに尽くしたい」
俺は、リリの瞳をじっと見た。
「……たっちゃん、これってもしかして……」
「結婚してくれ、リリ」
リリの手元に置いたもの。それは、婚姻届だった。ここに来る途中に、役所に寄って貰ってきたんだ。
「結婚って……。だって私、もう……」
俺は、戸惑うリリの両手を包み込むように握りながら、言った。
「この先のリリの寿命がどのくらいであろうが、関係ない。俺は最後までリリに尽くす。俺のことは心配するな」
「だけど……、だけどっ……!! 私は、助からないよ……!! たっちゃんには、私の友達を紹介してあげるから、その子もたっちゃんに興味あるっていってたから、だから……」
「バカ言うな、リリとの今までを他の女で取り返せるわけがないだろ? 今更他の女を紹介されたって、俺は困るんだ。俺には、リリしかいないから」
「……っ!!」
リリは俺の手を握り返しながら、歯を食いしばって泣いた。泣いて、泣いて、落ち着いてから、リリは改めて俺に言った。
「よろしく……お願いします」
「おう、よろしくな」
付き合い始めてから10年が経過していたこの日。
俺とリリは恋人という今までの関係に終止符を打ち、夫婦という新しい関係の第一歩を……踏み出した。