大きな試練
その後の月日が流れるのは早かった。高校を卒業し、同じ大学でリア充全開の4年間を惜しげも無く堪能した俺たちは、お互いに違う企業だったけれど、県内に職を見つけていた。
そういえば、リリが三つ編みではなくロングのストレートを披露してくれたこともある。確か、大学の合格発表が終わり、思い切りデートを満喫することになったあの日のことだった。
受験勉強を乗り越え、無事同じ大学への合格を果たした俺達は、ようやく「本格的なデート」をする余裕をつかみ取っていた。それまでは基本的に「一緒に勉強する」以外のイベントが無かったので、俺もリリも、初めてのデートにむちゃくちゃ気合いが入っていたんだ。リリに至っては、このデートのために相当色々オシャレの仕方を勉強したらしい。
「リリ……、お前……。頑張れば地味じゃないじゃん!」
リリの姿を見た俺の口からは、思わずそんな言葉が漏れてしまった。
「やだな、恥ずかしいよ。今までと違う自分をお披露目するのって、勇気いるね」
三つ編みからロングのストレートになっただけじゃなく、メガネも外してコンタクトにし、白いワンピースに薄いピンク色のカーディガンを羽織ったリリ……。その姿は、さながら妖精のようだった。一歩大人に近づいた彼女に、俺は心底感動したことを覚えている。
「いやいや、いいよ! 自信持てって! 高校在学中からそれだったら、もっとモテてたんじゃないのか?」
「えー、そうかなー? でも、もてもて過ぎて下駄箱がラブレターでいっぱいになっちゃっても困るし……」
「うん、それは行き過ぎだぞリリ。可愛いけど、カテゴリー的には”地味な女”だから」
「えー!! ひどぉ~い!!」
彼女がいない野郎が聞いたらぶん殴りたくなるような他愛ない会話を繰り広げつつ、幸せいっぱいの俺達はその日、水族館へ向かった。行き先が遊園地でもレジャーランドでもなく水族館になったのは、リリが「マグロって鯨の一種じゃないの?」という、信じられないような天然っぷりを炸裂させたからだった。
「たーっちゃん! 手、つなごう?」
そして、いつもよりキレイなリリはいつもより大胆で、俺の左腕にしがみついた挙げ句肩に頬を押しつけてくる始末。
「リリ、それ……手つなぐのと違くない?」
「こっちのほうがいいんだもん! だっちゃんは、嫌?」
「……すげーいい!」
……それが普通に嬉しくて、俺はリリのサラサラした黒髪を、くしゃくしゃとなで回したのだった。
お昼は、水族館のレストランで食べた。高校を卒業したばかりの俺達には少々ハードルの高い値段だったけれど、それ相応の思い出にはなっている。出てきた肉があまりにも美味しかったので、もしかしてイルカの肉なんじゃないか……? なんて訝しんだ記憶があるが、声に出したかどうかは覚えていない。
その後、イルミネーションがきれいな夜の噴水の前で、俺とリリは初めてキスをしたんだ。お互いに緊張して、実行までに30分以上もかかってしまったというのは、二人だけの秘密。リリの姿がいつも通りの地味子だったら、もう少し早くキスできていたかもしれない。
ちなみに、リリが「その姿」でいたのは、わずかな間だけだった。黒のロングは「風で髪の毛がぶわぁってなるのが嫌だ」という理由でいつの間にか三つ編みに戻っていたし、コンタクトも「維持費がかかるから」という理由でいつの間にかメガネに戻っていた。人間、背伸びは続かないんだな……と、痛感した出来事だった。
大学を卒業し、企業に就職してからは、お互い忙しい日々が続き、会うことが難しくなっていった。何度か同棲も考えたけれど、勤務地や家族の問題でなかなか話が進まず……。そんな毎日に焦りを感じていた俺は、リリとの間で一つの約束を交わした。その内容は、こうだ。
毎月、最低でも第二土曜日だけは、都合をつけてデートしよう。
この約束は、それなりにしっかりと守られた。リリも同意してくれて、その日が休日出勤だったとしても、結構無理して有給を申請してくれた。どうしても会えない日は、お互いに納得できる理由を説明する、というのもルールだった。
こうして俺達は、最低でも月に一度は会えるようになった。とても十分な頻度とは言い難かったけれど、その日を目標にして働く分には幸せだった。リリも、同じ気持ちだったと思う。
……しかし。そんな平穏だった毎日にも。……暗い影が、ゆっくりと忍び寄ってきていた。
いつ、何が起きるかなんてわからないのが人生であり、幸せな毎日が今後もずっと続く約束などされていない。……それは当たり前のことだし、俺にはその覚悟があったはずだった。だけど……
……何事もない幸せすぎる毎日が、俺達から「負の感情」を取り去ってしまった。それはメリットであると同時に、「苦しいことへの耐性を下げる」というデメリットも併せ持っていた。
平和ぼけしていた俺は、乗り越えなければならない試練がいずれ訪れることを、すっかり忘れてしまっていたんだ。冊子と出会ったばかりのあの頃は、あんなにムキになっていたのに……。
――そんな俺へ活を入れるかのように、残酷な未来が俺に牙を剥いてきた。そのとき、俺はもう……25歳になっていた。
その日、いつものように会社から帰宅した俺がふとスマホを確認すると、リリからの不在着信が何件も入っていた。
「リリ……? どうした? 何かあったのか……?」
嫌な予感がして、すぐにかけ直す俺。電話は間もなく繋がったが、声が聞き取れない。スマホの向こうから聞こえてくるのは、嗚咽のようなものに混じった、鼻をすする音だけ……。
「……おい、もしかして……」
……泣いてるのか? そう続けようとしたとき、リリの声が届いた。
『おかあ……さんっ……っがっ……!!』
それは、とてつもなく苦しそうな声だった。むせび泣くような音、そして「お母さん」という、苦しそうなリリの声……。俺の背筋を、何か冷たいものが迸る。まさか……
『おか……っ……さんっ……、し……しん……っじゃっ……た……』
……嘘……だろ?
頭の中が、真っ白になる。ショックのあまり、俺の口からはしばらく何の言葉も出てこなかった。
リリの母親が……亡くなった……?
リリの家に初めて行ったあの日から、リリの母さんにはずいぶんとお世話になってきた。休日にリリの家で受験勉強をしていた時は毎回のように昼を用意してくれたし、家まで送ってくれたこともある。「リリのことをよろしくね」……いつも俺は、そう言われていた。
歳に似合わない童顔はリリに勝るとも劣らず、「白」という言葉がぴったり当てはまるような清純な人だった。ずぼらでがさつな俺のお袋に、何度見習って欲しいと思ったか分からない。
そしてなにより、リリの母親はとても美しい絵を描く人だった。初めてその絵を見たときのあの衝撃は、今でも忘れられない。画材は様々で、鉛筆だけのデッサンもあれば、水彩画や油絵もあった。そのどれもが美しく繊細で、俺は食い入るように見入ったんだ。
「結婚してからはほとんど描いてなかったみたいだけどね。……お母さんは自分の絵が嫌いらしくて、それは……お父さんがこっそり保存してたヤツなんだ。だから、今日見せたのも内緒だよ?」
絵を見せてくれたとき、リリはそう言っていた。父親から託され、大切に保管してきたらしい。リリの顔は、とても誇らしそうだった。
素晴らしい絵を描く画家として、あるいは俺の世界で一番大切な人をこの世に産んだ人として、リリの母親のことは尊敬もしていたし感謝もしていた。……そしてリリの母親もまた、俺の大切な人だった。
……そんな大切な人の、あまりに突然の死。
リリの電話を受けてから、俺はすぐに病院へ向かった。案内された場所は、病室ではなく霊安室……。そこでリリは、母親の遺体にすがりつくようにして……泣いていた。
「どうして私ばっかり……こんな目に遭うの……?」
ポツリと呟かれたその一言は、俺の涙腺を破壊するのに十分すぎる威力を持っていた。
リリは、25歳という若さで……天涯孤独となってしまったんだ。