どうか、二度とあなたに会うことのないよう
ざわざわと草をかき分ける音がする。そう遠くはない。葉の擦れる音は、風だけを犯人にするには騒がしすぎた。
耳元の無線機から雇い主の声が響く。必ず刺客を殺せ、奪われた情報を取り戻せ!
片手にはナイフを握って、四足を地につけ、天を見上げる。きょろきょろと視線を巡らせて、まるで猫のように不自然に揺れた枝葉の動きを停止して追う。
もう少し先か。いや、フェイクか。そろりそろりと殆ど腹ばいになりながら、地面を這っていく。臭いがする。汗の臭いだ。近くにいるのは確かだった。
全神経を鋭敏に研ぎ澄ます。微かな音、生き物の気配を捉えるのだ。心拍も、体臭も、生きている間は止められないのだから。
おかしな空気の流れをとらえて――臭いを追って――ああ、聞こえる。
――呼吸音、心拍も、流れる血潮の音さえ。
気配を捉えた途端、それらは鮮明になって、俺の頭の中に再生される。人型の影が、見えないはずの場所に見える。ああ、そこだろう。その、木の裏だろう?
「――見つけた」
未だに煩い無線機をぶちりと切って、俺は木を挟んで、刺客の背後からナイフを顔の辺りに向ける。相手が硬直した瞬間に、ぐるりと幹に沿って半回転し、正面からぐい、と喉へと刃を向けなおした。
肘で圧し潰すように幹へと押し付けた首は、強靭な筋肉に囲まれていたが、ギリギリと締め上げる内呼吸は段々と乱れていく。
「……お久しぶりですね、センパイ」
「ぐっ……がッ」
俺を睨みつける団栗みたいな目は、相も変わらず日の光を弾いてキラキラしていた。
◆◆◆
密偵とか暗殺者だって、何も生まれた時から外道な訳じゃない。
孤児や、そういう血筋の人間をかき集めて、訓練する施設がある。俺は売られて来たクチで、センパイもそうだった。
俺たちの中では、その施設は『学校』と呼ばれていた。
教育なんて受けたこともないポヤポヤの餓鬼を纏めて、読み書きを仕込む。運動訓練をし、月に一度のテストで三回以上連続でDランクと認定された人間は、次の日から居なくなった。
俺とセンパイは、そこでは優等生だった。センパイは、センパイと呼ぶ通り、俺よりもそこで長く生きている人だった。
俺の何が琴線に触れたのか、親からの虐待で全身瞳と同じ色の青あざまみれだった俺を、センパイは甲斐甲斐しく世話をしてくれた。読み書きも、体の動かし方も、俺は『先生』からではなく、センパイから習った。
連れられたばかりの頃の俺なんて、虚空を眺めてぼんやりしているだけだったのに、彼はずっと、食事も排泄も、何もかもを手伝ってくれていた。
「しっかりしろよ、な? 明日はお前の好きなシチューだぞ」
「……別に、好きじゃない」
「なんだよ、じゃあ何が好きなんだ」
「……」
「まただんまりか……」
その時俺の脳裏に浮かんでいたのは、両親からの暴力を肩を寄せ合って耐えていた妹の姿だった。彼女が頑張って拵えてくれたポトフは、なんというか、煮ただけの芋といった風体ではあったが、俺の短い人生の中で、一番上手いものだった。
――そんな妹は、目の前で死んだ。
興奮すると、血管が開くせいか、俺の目は暗い赤色になる。赤褐色のその目を気色悪いと詰った両親は、うっかりと手加減を間違えて、いつもの延長線上の暴力で、妹を殺してしまったのだ。
俺は文字通り目の前が真っ赤になって、目が眩んだ。おかしくなりそうなくらい脳が沸騰して、耳鳴りがきいいいんと響いて、そして。
無我夢中で“何か”を“何か”へ振り下ろしていた俺は、まるで夢から覚めるように我に返った。
その時すでに、両親だった肉塊はぐちゃぐちゃのミンチになっていた。
だが我に返るのと、憎しみが消えるのとは違う話だった。
俺は幾分か冷静になった頭で、憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くてたまらない両親の体を、丁寧につぶしていった。荒い肉塊を、細かく、皮を割いて、内臓もすり潰した。
警備兵が突入して、俺からガラス片を取り上げる時も必死で抵抗した。まだ、足りなかった。俺のこれまで生きてきた世界は、このゴミ二つと妹しかなくて、その内の一つが壊されたのだ。
憎しみを向ける先も、怒りを覚える先も一つしかない。他の人が思考を踏み留めるための、『友人』とか『世間体』とかそういったものは俺の中にはなかったので、持ちうる感情、そして新たに生まれ続けるすべての感情を注ぎ込んだ。
純粋な憤怒。止まない憎しみ。恐怖からの解放の喜び。反逆の愉悦。喪失の悲しみ。空腹の苦痛。疲弊の鬱陶しさ。細かい作業への億劫さ。暴虐への興奮。復讐の満足感。
あらゆる、すべての感情を。
たぶん、俺はその時に一生分の感情を使い切ってしまったのだろう。警備兵とは違う制服を着た男が、俺を刑務所の看守から買い取った時も、突然見知らぬ施設へと背を突き押されても、何も感じなくなってしまった。
センパイはそんな俺に、執拗に構い続けた。俺は無視を続けるよりも、少しでも反応を示した方が彼が満足し黙ることに気づいてからは、時折返事をするようになったのだった。
「なあ、いい加減名前くらい教えてくれないか」
「……」
「教えたくないのか。じゃあ、せめてあだ名ぐらいは決めよう、なっ?」
「……」
「……いい度胸だ。お前のあだ名は今日から“名無し”にするぞ。いいのか? いいのか? 大事な名前を忘れちゃうぞ!?」
「……忘れる?」
「そーだよ! 呼ばれなかったら名前なんてすぐ忘れるんだからな!!」
やけに実感のこもった言い方をするので、俺は少し考えた。俺の名前なぞどうでもいいが、妹の名前は……。
彼女は、もう二度と俺以外に呼ばれないに決まっていた。なら、俺が忘れたら大変だ。久しぶりに、軽い焦燥があふれてくる。
「……ユーリ」
「! それ……お前の名前か!?」
「……うん」
俺が名乗ったのは、妹の名前だった。
それを黙ってこくり、と頷くと、センパイはとてもうれしそうな顔をした。俺の名前なんて――嘘だけど――知って、何が嬉しいのか、なんて思ったが、無駄なことを言って拗ねて名前を呼ばなくなったら困るので、黙っておいた。
俺だって、センパイ以外から名前なんて呼ばれない。この人のことは、これから先、ほんの少しだけ重宝しようと決めた。
訓練は過酷を極めた。当たり前だ。同じ人間を殺そうと言うのだから、同じだけの力で抵抗してくるに決まっている。俺たちはなるべく多対一を避け、身軽に逃げ出す術を教え込まれた。
センパイは相変わらず俺を構い、俺はそれに、少しだけ反応を多く返すようになっていた。
それはもはや反射というべきもので、そこまで俺に粘着質に絡んだ彼のことを、俺はいっそ尊敬すらし始めていた。極まったドエム野郎だな、と。
「ユーリ!」
「なんですか」
「いや、敬語はやめろって言ってるだろ!!」
「いえ、アンタ一応主席なんで。成績優秀者様は、おんなじ犬の中でもちょっとイイ犬じゃないですか。教官のお気に入りでしょ」
「お前は次席だろうが……!!」
わなわなと拳を震わせたセンパイは――彼は俺に名乗らせたくせに、自身は名前を忘れてしまっていたらしい――感情豊かにそれを耐える仕草をした後、俺の肩を組んだ。
「――とにかく! 明日からは実践任務だ!! 俺とお前は違うペアになるだろうが、頑張ろうな!!」
ってことで、精の付くものを食べよう! と彼が懐から出したのは干し肉だった。
先日の一か月生き残りサバイバルの時の食糧だろう。この人、どんな舐めプしてるんだよ。あんなに飢えたのは、俺でも人生で二、三度しかないほどの苦痛だったというのに。
「さすが主席様は格が違うっすわあ……」
「なんだその蔑むような目は!!」
センパイは騒がしく突っ込むと自室へと俺を引きずっていく。俺はそれに逆らわず、無感動についていく。
ユーリ、ユーリ、と彼は何度も呼んでくれた。おかげで俺は、ずっと妹の名前を憶えていられる。
俺の本当の名前は、彼がかつて言ったように本当に忘れてしまったけれど。それに、なんとなくささくれだった気持ちが、湧かないこともない――ような気もするけれど。
センパイだって名無しなんだから、悪いようにはならないんじゃないか、とどこかで思うようになっていた。
その実践任務で俺は初めて人を殺した。やはり何の感情も浮かばない。無味乾燥、平常のまま、首をかききって対象を絶命させたあと、ふと――どうしてか、俺はセンパイのことを思い浮かべた。
団栗みたいな大きな丸い目は、いつもキラキラ輝いていた。彼には、何か心の支え――希望のようなものがあるようで、いつだって、いつだって、まるで普通の人みたいに綺麗な目をしていた。
なんとなく――あの人はこういう任務に向いていない。そんな、気がした。
「ユーリ」
「……あ、はい」
あまりにも――あまりにも静かな声だったものだから、名を呼んだのが誰だか分からなかった。
センパイの声だと気づいて、反射的に返事を返し、遅れて振り返ると、彼の表情はすぐれなかった。
「どうしたんすか」
「ユーリ、お前……。お前は……なんとも、ないのか」
「……? 何がっすか? 人、殺したことっすか?」
「そうじゃ、ない。そうじゃなくて……」
彼がぽつりぽつりと語ったところによると、対象にされた命乞いと、死の間際の瞳が忘れられない、とのことだった。
「俺には、あの人を殺してまで生きる価値が……あるのか? こんな風に殺して、また『先生』の言うとおりに動いて……。あの人たちの方が、人間らしいじゃないか」
「でも、殺さないと殺処分っすよ。ていうか――俺たちそもそも、犬じゃないっすか」
そう言いながら、俺は内心愕然としていた。
死んだはずの感情が心にさざ波を立てる。なんだ、これ。
殺さないと、殺される。そうだ、だから殺した。俺はなんの罪悪感もなく――躊躇いも、なく。
センパイ、アンタどんな手品使ったんっすか。俺、なんで、いつの間に……。
俺はいつから――生きたいと思うようになっていた?
「俺もアンタも、『先生』の指先一つで殺されるんだ。俺たちみたいな猟犬がここには山ほど居て、そいつらに指示を出せばいいだけなんだから」
焦りからか、俺は捲し立てるように続けた。どうなってるんだ、俺は。なんで、生きたいんだよ。
「そう、だよな……」
生きたいなら、殺さないと駄目なんだ。
センパイの声が耳に焼き付いて離れない。
俺は――殺したってことは、生きたいってことだったんだろう。
なんのために生きたいのかも分からないのに、当たり前みたいに、生きたいと思うようになってしまっていた。
センパイの目は翳っていった。それに比例するように、彼の成績は緩やかに降下し始める。
俺はある日――センパイの成績を上回った。
「……おめでとう、ユーリ」
「はあ……あざっす」
Sと書かれた成績通知を見ながら、俺は苦々しく歯をかみしめた。
実力は訓練への打ち込みの反映だ。
俺はそんなにも生きたがっているのか。センパイは――死にたがり始めているのか?
奇妙なことに、俺はセンパイが死にたがるほどに生への望みが強くなるのを感じていた。まったく意味が分からない。俺はセンパイに洗脳でもされてしまっていたのだろうか?
自分の気持ちが、解きほぐせない。こんがらがって、ぐちゃぐちゃに混ざった糸を理解できない。
「ユーリ、なあ。ユーリ」
「……なんすか」
センパイが何故か少食になってしまったので、俺は自分の分のシチューを多めによそっておいたのを、食べ終わった彼の皿に勝手に足した。
センパイは苦笑いしながらそれを食べる。放っておけば絶食してしまいそうで、なんだかハラハラした。
「俺……最初は、お前のこと」
思いつめた顔で、彼はうつむく。なんだかその先を聞きたくなくて、俺は大きなニンジンの入ったスプーンを彼の口に突っ込んだ。
「……ここのシチューも具だくさんになりましたね。前は、シチュー味の泥って感じだったのに」
具材なんてなかったものが、こんな風になるなんて、わが国はどうやら潤っているらしい。戦争もないのに不思議なことだ。
澄ました顔でそう言うと、センパイは小さくはにかんで、「お前、あの時のこと覚えてるんだな」とつぶやいた。
最近は体調が悪くても笑って誤魔化すセンパイの、久々に見た本当の笑顔だったように思えた。
明日、俺たち三十六期生はここから『卒業』するらしい。
自分が三十六期生だということを初めて知った日にその肩書は消えるらしい。個人にはナンバリングすらされず、情報的な痕跡が一切ない組織でも、管理のために集団に名前を付けることはあるらしかった。
俺は主席に座り続け、センパイは真ん中くらいの成績に落ち着いた。俺たちはたぶん、明日を最後にもう二度と会うことはないだろう。
俺たちは殺して奪うための術は教えられたが、それ以外のことを何も知らない。他人と会話なんて、センパイ意外とは殆どしなかったし、そもそも俺たちは諜報のために育てられたわけではなかったから、金銭感覚すら危ういだろう。
ただの犬だし。
『卒業式』の日、俺たちはこれからの配属先を告げられるそうだ。衣食住すべてのそろった職場で、死ぬまで働くこととなるのだろう。野に放たれても生きられない、その上にもしかしたら、雇われ先でも監視を付けられるのかもしれない俺たちだが、暫定的に自由にはなるのだろうか?
俺は自室のベッドに横たわり、天井を見上げた。ここは元は十名の犇めき合う部屋だったのだが、俺以外みんな殺処分になった。
「俺は……いつまで生きられるかな」
あの頃の俺が聞けば、耳を疑うようなセリフだろう。俺だって、いまだに困惑するが、まぎれもない本心であるのは間違いない。
俺はセンパイに会ってから、変わってしまった。ユーリはもはや妹を指す名ではなく、俺のものになってしまった。
俺は、ユーリとして新しく生まれ変わってしまった。ある意味で、妹を二度喪失してしまったのだ。
「やっぱり……」
これも、センパイのせいなのか?
そう独り言ちた途端に、部屋にノックの音が響く。やけに広い部屋に反響したそれに「いいっすよ」と俺は敬語で返した。
俺が敬語を使うのは、センパイにだけだった。
センパイが首席でなくなっても、ずっと。
「悪いな、急に」
「別に。いつものことでしょ。用はなんですか?」
「……」
センパイは無言でベッドサイドに近づく。俺はそれを無防備に、寝っ転がったままに見上げた。
彼は俺の枕元に座ると、唇を噛み締めて、深刻な顔をしていた。
――ああ、嫌だな。
ここからだと、彼の顔は陰になっているから、あのキラキラした目が暗くなってしまっていた。
そうして、俺がそっと身を浮かせるよりも早く、センパイは俺の――首に手をかけた。
「っ――!?」
「ユーリ、ユーリ……。なあユーリ――どうして」
どうしてだって? センパイは翳った瞳で俺を見下ろす。淀んだ視線が俺に降り注いだ。
俺は混乱して、センパイの指に手をかける。みしみし、と俺の首に巻き付いた指が頸動脈を圧迫していく。
センパイは、俺を殺す気だった。
「俺は……俺は、お前が、好きだった……。お前を見るのが好きで……。お前を見ると、安心したんだ……。ずっと、ずっと、お前を見て――俺よりも、可哀相なお前を見て!!」
ぴくり、と俺の指が跳ねる。
彼の目は黒々として、見たこともないような色彩に染まっていた。俺が今まで知らなかった一面だった。
「なのにお前は――お前は、段々可哀相じゃなくなった! 生きたいって、なんの躊躇いもなく言えるようになって……俺は、自分の生きる意味なんてどれだけ探しても見つけられなかったのに、お前は! お前には、あったんだろ!?」
「ぅ……ッ」
そんなもん、俺にも分かんねえっすよ。
わかるわけないでしょ。アンタだよ。俺をおかしくしたのは、アンタなんだから。
「最初はずっと妬ましかった。俺より優秀で、生きたいって思えるお前が憎かった。だけど、お前は俺のことを気遣って、まるで俺が昔したみたいに世話なんて焼いて。俺と違って、打算もなしに! なんだよ、余裕ぶりやがって!!」
ぽたり、と頬に何かが当たった。暖かい水だ。なんだ、これ。どうにも、酸欠で狭まった視界ではよく見えない。
「ユ、ユーリ、なあ、教えてくれよ。俺にも、生きる理由をくれよ。おれも、おれも欲しいんだよ。俺が生きてる意味ってなんだ? おれ、どうすれば――生きてていいんだ……?」
しるか、ばーか。
耳鳴りが聞こえる。あの時みたいに。俺はなぜだか笑えてしまった。
あの時と違って、俺には殺意が漲ってこない。それはあの時に感情を消費しきってしまったから、なんて理由でないことは、生きたがりのユーリにはわかりきっていた。
抵抗もせず、手を降ろす。センパイがひっと息を呑む音がした。
俺がじっとあお向けになって、何分が経過したのだろうか。
いくらか意識が飛んでいたのか、次に目を覚ました時にはセンパイは居なくなっていた。
結局俺には、どうして自分が生きたがっているのかの理由は分からなかった。
センパイになら殺されてもいいと思った理由も、センパイが俺への妬みを隠してまでずっと俺の傍にいた理由も。
『卒業式』では、買い主の素性と所在が書かれた紙を配られた。
十年近く見た教官は、無感動に「そこに書かれた人間の指示に従い続けろ。どんな命令にも、だ。さもなくば死ぬ。お前たちの命も、尊厳も、すべてはその人間のものになっている」とだけ言われた。
センパイは俺よりも後ろの方に居たのか、式の間は一度も見かけなかった。
◆◆◆
「センパイ、暴れないでください」
ぐり、と強く肘を押し付けると彼は苦し気に呻いた。
俺がナイフを構えると、じたばたと余計に暴れ出したので、無言で力を強めると、しばらくしてようやく体が弛緩した。
刃先をブレなく目的の場所に向けて、俺はセンパイの体を強く木に押し付け、手足を抑え込んだ。
ナイフの切っ先が食い込んだのは――センパイの、団栗みたいな茶色の瞳だった。
「――ァァアアアあああああああああああああああああッ!!」
悲鳴が上がる。俺は黙って作業を続けた。切りつけた瞳からゆっくりと刃を探るように動かし、最小限の傷で眼球をくりぬく。
「……終わりましたよ」
「はぁっ――うぅ……っぐ、ぅ、ぁあ」
歯をかちかちと震わせて、センパイは頭を抱え込む。俺はその場に立って、黙ってその姿を観察していた。
痛みは相当だろうが、死ぬほどじゃないはずだった。中途半端に肉片を残すヘマもしていない。これなら、きっとすぐに治るだろう。運が悪ければ死ぬが。
やがてセンパイの呼吸が落ち着き、ペースがゆったりとしたのを見計らって、俺は背を向ける。
「……じゃ、さよなら」
「待て……ッ!!」
「なんすか。死にたいんすか? それとも、言わなきゃ分かんないんすか?」
逃がしてやる、と言外に示しているつもりだったのだが。憮然とした表情で見返すと、センパイは困惑し、動揺した顔で叫んだ。
「なんで俺を殺さない!? 俺はお前を……!!」
「別にいいっすよ。センパイなら」
こともなげに言ってみせた俺のことを、信じられないとばかりにセンパイは見上げた。
「殺したいなら、殺せばいい。その分、時間の無駄ですがね。逃がしてやるって言ってるんですから、納得してなくても我慢すればいいんすよ。アンタ相変わらずっすね」
「……逃げたってどの道俺は終わりだ。隻眼なんて特徴があったら、すぐに名が広まって警戒されてしまう」
「だからっすよ。……こんなの、向いてないんですよ、アンタは」
懐から紙を取り出してセンパイに無理やり握らせる。念のために用意しておいてよかった。この人、本当に昔からバカ真面目だ。
「これ、まだ文字忘れてないですよね?」
紙には紙幣の価値と、仕事を探す時の偽の身分の用意の仕方などが書いてある。俺が真面目に買い主の言うことなんて聞くはずがなかった。生きたい死にたい以前に、俺は人類のほとんどのことが薄っすら嫌いだ。
「どこにでも行けばいい。俺は、アンタのことを殺したって買い主に報告します」
「そんな……お前、俺がバレたら、どうするんだ……」
「どうでもいい。俺にはもう生きる理由がないんですよ」
「な……!?」
あの『学校』を出て、ここで働き始めてから、俺は幾らかのことを理解することができた。
例えば、俺の生きたかった理由。
――俺は、センパイのために生きようとしていたのだ、ということも、分かった。
センパイは、俺を見下して生きていた。俺は無意識に、それに気づいていたのだ。
俺が死んだら、センパイは寄る辺がなくなって死んでしまう。センパイは俺という可哀相な玩具に依存していたから。
だから、俺は生きようとしていたのだ。センパイを、死なせないために。
センパイと離れてから、俺はまた無味乾燥な人間に戻った。生きたいなんて欠片も思わない。買い主はそんな俺を気に入って、『学校』に寄付までしたらしい。
そして今、センパイは俺なんて居なくても生きていけるようになっていた。俺の居ない環境で、今まで生きていた。
なら、もう俺は必要ない。そういうことだ。
「――だがッ、やはりこれでは、お前にリスクがありすぎる!!」
キラキラした一つの団栗が、俺に追いすがる。変なところで義理堅い……というよりは、自身へのうしろめたさだろうか。気にしなくていいのに。
「ユーリ!!」
あ、この手があった。
「センパイ、あの時俺に言ったこと、気にしてるんですか?」
図星っぽい顔でセンパイが黙り込む。あんまりにもわかりやすかったので、久しぶりに笑ってしまった。
「でも気にしなくていいんですよ、そんなこと。俺だって嘘つきです」
「嘘……? それこそ、嘘だ。お前はいつも……いつも、おれのことを……」
事実だけど本人に言われるとつらいな。うん。確かにそうだけど。後半とか無自覚のままめちゃくちゃついて回ってたし。
「――その、ユーリってやつ。俺の名前じゃないんですよ。妹の名前です」
「……え?」
センパイの目がどうしてか凍り付く。何をそんなにショックを受けているのだか。玩具に欺かれていたのがそんなに癪なのだろうか。相変わらず、分からない人だ。
「じゃ、じゃあ、お前の……本当の、名前は……? 教えて、くれ……教えてくれ、ユーリ!!」
「さあね」
実はユーリって名前さえ、呼ばれなさすぎてちょっと忘れかけていたレベルだというのは置いておいて。
俺はセンパイが十分に元気だと判断し、今度こそ踵を返す。
「――そんなのとっくに、忘れちゃいました」
目を閉じて、らしくもなく小さく祈った。
もう二度と、センパイと出会うことがありませんように。
彼が上手くやって、健やかに生きる限り。俺と彼との縁が交わることは、決してないのだから。
▽センパイ
この人もそこそこ可哀相。貴族の落胤で最初の方は割と裕福な生活だったので、落差が酷いという裏設定。
最初はユーリを哀れんで自分を保っていた。(可哀相なこいつより自分はマシだ)
途中から純粋に友情を抱き、(こいつともっと話して同じ時間を過ごしていたい)それが生きる気力になっていた。
が、まさかの人コロ後にも生きたいとか躊躇いなく言うユーリに嫉妬。彼にとって、ユーリへの親愛だけでは他人を殺す理由には不十分だった。
でも自殺を止める程度にはユーリの存在は大きく、死ねないままに嫉妬が膨れ上がっていった。
上記の理由でノブレスオブリージュ的意識があり、「誰かのために何かをしなければ」という意識が根底にあるので、自分が生きる理由を強く必要としていた。
ユーリが偽名だと知って死ぬほどショックだった。ユーリのことは確かに親友だと思っていた。
▽ユーリ(?)
幼少期に自分の世界の内側のものすべてを失った。
怒りも恐怖も、生きる上では必要なものである。もちろん喜びも親愛も。でももう無い。
センパイに構われる内に自分が必要とされていることを薄々感じて、初めてのその感覚に未知の感情が湧いた。それに釣られるように親愛も湧いた。
ので、最初の方はセンパイに哀れまれ(必要とされ)てないと勝手にくたばっていた。
センパイが親愛由来で必要とするようになってからも、センパイからの嫉妬で必要とされたりされなかったりと不安定な時期も、純粋な親愛と友情で生きようとしていた。(この人と過ごすのは悪い気分じゃないもっと過ごしたい)
こっちは人コロにタブー意識がないので、センパイと過ごしたいという親愛だけで普通にコロせる。センパイはもっと建前がないと無理だった。
お互いだけが生きる理由だった。