玄鬼(げんき)といふもの
五賢帝会議に出向くのは今日が初めてだ。
父上から玄鬼の討伐を命じられ、その経緯を理解する為に今回は劉元を連れて巫女の地を訪れることになった。
やはり巫女が産まれてから玄鬼の被害は少なくなっている。
--とはいえ巫女の加護が及ばぬ場所は被害がひどい。町一つ無くなったという話も少なくない。
...そんな玄鬼の脅威を相手に、私が対抗出来ると言うのだろうか。
そもそもこの五賢帝会議とて、もはや形だけのものになってしまい、自国での警護に力を入れざるを得なくなっている。
父上はいよいよ私を始末しようと考えているのではないか...そう思うと胸が苦しくなる。
「公主さま、もうヘカオア領に着くそうですよ。
お召し物のご準備を...って、考え事ですか?」
「劉元、お前こそノックを忘れているぞ。
初めての航海に浮かれているのではないか?」
私の軽口にぷうと頬を膨らませてむくれる劉元。
私より一つか二つ上のはずだが、まだ小さな少年のような顔つきだ。
まぁ学ばかりの男だから、他の臣下たちと比べて体つきが小さくてそう感じるのかもしれない。
「そうむくれるな、浮かれているのは私の方だ。
今回初めて会う者が多いが、時雨に会うのが楽しみでな。
即位し、雨月帝と名を改めたとは聞いたが、会うのは子供の頃以来だ」
いつもの甲冑を身につけながら、呟いていると劉元からいけません、と注意が飛ぶ。
「お二人の時はそれで良かったのかもしれませんが、今や公主さまもあちらも立場がおありです。
あまり安易に声かけをなされぬよう心がけくださいませ」
確かにもう子供の頃の我らではない。
雨月は名前の通り、夜の雨音のように話すやつだった。
物静かで品のある、黒髪の美しい少年。
まるで女のよう。あいつと比べると、私の方が男のようだった。
「分かっているさ、もう私も名を改めた。
...それに、昔話だけをしに来たのではない」
船から降り、島の真ん中で一番高い塔を目上げた。巫女の塔だ。
なんとかして玄鬼の襲来を抑えなくてはならない。
...眠り続ける兄さまの為にも。
巫女への接見の為、部屋に通される。
以前来た際は父上と一緒だったので気にしなかったが、そこかしこに置かれたヘカオアの調度品などがさりげなく美しい。
珍しい瑠璃の水瓶を手に取り、劉元と眺めていた。
「おや、此度は父君を伴ってはおられぬのか」
挨拶にと通された懐かしい声は、やはり黄賢君だった。
相変わらず年に見合わず、口調が老君のようだ。
「久しいの、今は紅炎公主と名を改められたのであったな」
「ああ、紅炎で構わないよ。
まさかイルムス国王の代理で、黄賢君が来られるとは思わなかった。
さすがに巫女の前だ。風呂に入らされたのだろう?」
軽口を言うと、この通りよと穏やかに笑っていた。
黄賢君と私は呼んでいるが、名をダレクレイオス。
口調とは違い、壮年の男だ。
イルムスに関わらず、学を志す人種は彼の名を必ず聞くことになる。
西国の賢人...遠く離れた私の国でも彼の名は有名だ。
その才気は素晴らしく、まるで国の宰相のように国王から頼りにされている。
「黄賢君とは懐かしい。公主殿にはよくその名で呼ばれていたの。
私はただの学者じゃよ。今回の会議に参加するのも王に懇願されてのこと。
まだ幼い我が王が、国を出るのを怖がったのでな。可愛いものじゃ」
相変わらず自身の事をいち学者と思っているが、周囲からは王の次に権力を握る者として敬われている。
その意識の差があるのか、黄賢君の常の姿を奇妙に感じる者は多い。
みすぼらしい格好で何日も風呂にも入らず、わずかな銭だけを持って食事はほとんどとらない。
とはいえ、さすがに巫女の前。
湯浴みは断れず、今は小綺麗な格好をしていた。
「公主さま、お時間です。
ダレクレイオスさまも差し支えなければご一緒にとの事ですがいかが致しますか」
「おお、すまぬ。
では公主殿が構わぬなら、ご一緒させていただこうかの」
劉元に促され、巫女との接見の間へ。
天井が高く、開けた広間。美しい木と硝子が組み合わされた大きな窓。
入った瞬間、緊張感が漂う。
しばらくの沈黙の後、しずしずと奥の扉から巫女が現れた。
褐色の肌に似合う真っ白なヘカオアの民族衣装。首や腕には大きな金の装飾品。
歩くたびに軽やかな金属音が響く。
「お待たせ致しました。
...本日は東国より紅炎公主さま、西国よりダレクレイオスさま。
遠方よりご足労いただき、ありがとうござります」
長い黒髪に映える黄色い花を耳にかけている。
私が巫女に会ったのは、誕生以来だ。
彼女はまだ幼い。この前ようやく十になったと聞いたが、年齢よりも幼く見える。
同時にこんな小さな子供に頼らねばならぬ今の自分を恥じた。
まだ巫女の力も満足に扱えておらぬだろうに、一人前以上のことを求められて。
そんな儚い雰囲気が、巫女の神秘性を高めていた。
「久しいの、巫女殿。
御身体は障りないか。
我が王もお会いになれないのを大変嘆いておられた。
私のような学者風情が力になれるか分からぬが、尽力しよう」
親しげに話しかけたのは黄賢君。
誰に対しても相変わらず口調は気取らない。
「ダレクレイオスさまもお変わりないようで...。
わたくしはまだ未熟な巫女、微力ながら身を尽くさせていただきまする」
「そう謙遜するな、巫女殿。
巫女殿の誕生によって、玄鬼の被害が少なくなったのは確かじゃて」
相変わらず控えめすぎる謙虚な巫女をつい勇気付けたくなる。
人を惹きつける不思議な魅力というのも、巫女の能力なのだろう。
「もったいなきお言葉にござります。
紅炎公主さまにおかれましては...蒼燐さまの事、聞き及んでおります」
そう言葉を切り、巫女はしばし俯く。
「...わたくしが力不足であるばかりに...申し開きもございません」
「よいのだ、巫女殿」
蒼燐とは我が兄のこと。
父上からも期待をされているその兄上が玄鬼に襲われ、消えることこそなかったものの(巫女殿の加護によると思われる)、ずっと眠り続けてしまっている。
それ以来母上は伏せってしまい、父上も床からほとんど動かなくなってしまった。
兄上さえいてくれたら...そう願って仕方ないが、私だけでも国を守らねば。
「皆、一刻も早く対処したいと願う者ばかりが集まっている。私も力を尽くそう。
会議は明朝だったな。慣れぬ長旅で疲れた体をしっかり休めて臨むつもりだ。
よろしく頼む」
「はい、それではまた明朝に。
ささやかではございますが、夕餉を用意しておりますので、召し上がってくださりませ」
夕餉の後、劉元を先に休ませ、部屋で報告日誌をまとめる。
そろそろ寝ようかと筆を片付けている所へ、外にいた侍女が来客を告げた。
こんな夜更けに珍しい、と思ったが、入ってきたのは雨月だった。
「雨月!久しいな!
...と、即位したのだったな。
御門とお呼びした方が良いか」
「...今は二人だ。誰が聞いているわけではない。雨月で構わないよ。
... こんな時刻にすまない。
到着がすっかり遅くなってしまった」
声はもう男性のものだ。
背も高く、黒髪と口調だけが昔の名残を思わせる。
美しい青年になったものだ。さぞや宮中では人気になっているだろう。
「...皇帝陛下ではなく、公主殿が来ていると聞いて...夜更けに失礼かと躊躇ったが、つい」
「よいよい。私も会いたかったからな。
なかなか会議の場では親しく話すことも出来まい」
灯りをつけ、椅子に座る。
雨月とは子供の頃によく遊んだ仲。
同い年だが物腰柔らかい彼を、弟のように可愛がっていた。
「太子殿...蒼燐さまのこと、聞いた。皆、さぞご心痛だろう」
「...ああ。おかげで陛下も母上も伏せってしまい、こんな所に私が出張るまでになった。
代わることができたらと何度も思ったよ」
「...それは、僕も同じだ」
「雨月...」
雨月も幼い頃玄鬼に母上を襲われている。
その時はまだ巫女が誕生していなかった為、加護もなく儚くなってしまった。
私と会うことが少なくなっていた頃だったので、どれほど彼が苦しんだのかは分からないが、玄鬼の脅威はその頃から諸国王族の近辺に届くほどとなった。
「...母様がお隠れになって僕が即位しても、何も打開策が得られていない。
あれから玄鬼のことは一度足りとも忘れていないのに」
「雨月は無事に即位して国を治めているではないか。
何を謙遜することがある」
大きくなっても雨月は変わらない。
自信のなさそうな、儚げな印象。
雨月の母君が儚くなってから、前帝...雨月の父上は退位し、出家してしまった。
今では雨月の弟君しか家族がいない。
「公主殿...近頃思うのだ。
玄鬼は一体何故に人を襲うのかと。
それも母上や蒼燐さまのように周りから大切に思われている人達ばかり。
僕のように虚ろな者の前に、どうして現れぬのだろうかと...」
「雨月...?」
変わらぬと思っていたが、雨月の目は昔より憂いが強くなったよう。
慣れない政治で疲れているのかもしれないが...。
「...すまない。つい公主殿の前だと昔のように頼ってしまうな。
公主殿の部屋に私が夜近くに入るのも都合が悪いだろう。
...疲れている時にすまなかった。
明日もある、休もうか」
雨月はふわりと笑うと、席を立つ。
確かに、お互い長旅で疲れているのかもしれない。少し昔話をしすぎた。
「...ではな、公主殿」
雨音のような声で、雨月は部屋を後にした。
彼の哀しそうな横顔が、なぜかしばらく頭から離れなかった。
会議の始まりは、美しい鐘の音で開始された。
塔の最上階に位置する小さな部屋は、四方を大きな窓に囲まれ、南国らしい明るい日差しが差し込んでいる。
中央に置かれたヘカオアの調度品である彫刻の美しい大きな木机。
それを囲む私と雨月帝、そして黄賢君と巫女の四人。
五つ目の国であるアブラーダ国は今回の玄鬼の被害が酷く、復興政治に尽力とのことで欠席となった。
「それでは本日の会議を進行させていただきます、カフナ・ヌイのラメハと申します。
宜しくお願い致します」
巫女殿に仕える神官の一人、白髪混じりの老君が静かに会議の始まりを告げた。
まずは諸国の被害状況から各国内での研究結果や論文の発表。
前半の殆どは王に伴ってやってきた臣下たちが話していたが、黄賢君はずっと一人で何役もこなしていた。手元には資料も持たずに、記憶だけで細かい数字などをすらすらと話している。
「...とはいえ、皆どこの国も似たような状況じゃな。
我が国も巫女殿の加護があるとしても被害は予測して抑えることは出来ず、玄鬼の正体もつかめておらぬ」
黄賢君の言う通りだった。
各国内の研究成果も我が国も、それほど目を引くものはなかった。
「各国の被害状況から、それぞれ優秀な者たちがそれこそ何年も玄鬼の事を研究しているのじゃろう。
じゃが、そもそも被害対象に共通点が全くない。何年もかかっているのにだ。
...まるで、玄鬼が共通を避けているかのように感じないだろうか。
様々な場所、身分の人間を何年もかけて...
何かを探っておるのではないか?」
空気が変わる。
劉元も背中越しに息を飲んでいるのを感じる。
...玄鬼が、意思を持って対象を選んでいるとしたら?
最初は動植物から始まり、農民から貴族にまで被害が広がってきている。
ここ最近は王族が狙われている。
「では次、玄鬼が興味を持つとしたら。
これは私の憶測じゃが...」
黄賢君の言葉は続かなかった。
辺りが真っ暗になったのだ。
...まるで部屋の中に暗い雲が立ち込めたかのように。
「まさか、玄鬼か?!
皆、無事か!
近くの者と手を取り、声を出せ!」
声を張り上げ、後ろにいるはずの劉元に手を伸ばすと、かすれた声で手を握ってきた。無事だ。
「...僕も武官も無事だ」
「私の近くにおる神官殿も無事なようじゃ。
...巫女殿は」
巫女の声は聞こえない。
劉元の手を握ったまま、巫女のいるはずの空間に手を伸ばす。
「巫女殿!
おるのか、おるならば声を張り上げよ!」
ぱん、と何かが割れる音。窓だ。
硝子が割れ、強い風が部屋に吹き荒れる。
「わたくしは」
巫女殿の声だ。
目を開ける。
「ようやく、このばしょにたどりついた」
ざわと鳥肌が立つ。
違う。
この雰囲気は...巫女殿のものではない。
「やはりか...お前、玄鬼じゃな。
巫女殿を探しておったのじゃろう」
辺りがうっすら明るくなり、人影が見えた。
私の真向かいに座っていた巫女殿は、
宙に浮いていた。
「わたくしは、これを、ずっと、さがしていた」
目は虚ろだ。力無く動く唇から巫女殿ではない何かが言葉を発している。
今までの玄鬼の被害と違う。
まさか人を乗っ取るなど。
「これがあれば、やまにすわり、ちとひとつになれる。
そして、このちは、わたしとおなじになる」
よく分からない。どういう事だ。
巫女殿をどこかへ連れて行く気なのだろうか。
「...玄鬼よ、ひとつ聞きたい」
話しかけたのは雨月だった。
「...お前は、寂しいのか?
だから僕のところに来なかったのだろう?」
玄鬼と雨月はしばし見つめ合っていた。
「おまえには、なにもない」
吐き捨てるように呟き、玄鬼は巫女殿の体を使ったまま、宙に溶けるように消えてしまった。
それと同時に暗い雲が消えて、元のように明るい日差しが差し込む。
なぜか、雨月は納得したような顔をしていた。
「弱ったことになったの...」
黄賢君が珍しくしかめ面をしている。
「巫女殿が、玄鬼が呟いていた『やま』というのは、どこなのか分かるものはいるか?」
「わ、我が国で山といえば」
私の言葉に震える声で答えたのは、黄賢君の後ろに立っている老君。
「古来から信仰している、キラキル火山が有名ではありますが...とても人が立ち入れるような場所ではありません」
「キラキル...じゃと...?」
老君の言葉に何かが繋がったのか、黄賢君は目を見開き、声を漏らす。
「...そうじゃったか!
成る程、玄鬼はこの地の影の寄せ集めじゃ!
なれば、雨月帝殿、公主殿、しばし臣下の皆をお借りして良いかの?
各地の地質と神話の話を私の中で照合したい」
「それは構わぬが...劉元、お前は地質の知識はあるか?」
急に白羽の矢が立ち、劉元は泣きそうだった。
「す、少しは。専門ではありませんが、ダレクレイオスさまのお役に立てるかどうか。
それに資料を作るのに時間がかかるかと...」
「いや、資料を作っている時間も惜しい。
恐らく玄鬼はキラキル火山を起こすつもりじゃろう」
キラキル火山。
先程老君が口にした山だが、私でも聞いたことのある有名な山の一つだ。
確か神話の一つにあそこが火の山として伝えられていた物があったが、もう昔の話のはず。
「あそこはもう死火山の一つでござりまするが...」
老君も私と同じように首を傾げる。
「地脈を手繰れば、あそこは星のへそと呼んでもいい場所じゃ。
今は死火山じゃが、あれが起きれば諸国の山に繋がり、星が火に包まれる」
なんと。
その場にいた全員が息を呑む。
それでは星の誕生と同じ時代に逆戻りではないか。
そんな事、どうやって玄鬼が出来うるのか。
「その前に手を打てる算段を神話の何処からか対策つかねばならぬでな...。
ここは私らのような学者が向いておるじゃろう。神官殿もだ。
数刻で構わぬ。皆、集まってくれ」
はい、と側近たちと老君が黄賢君の元に集まった。
「...僕が連れてきたのは武官だから専門外だろうが、博之は雅な道も優れているから事足りるだろう」
私の側に椅子を移動させて座ったのは、雨月。
いつものように静かな目に戻っていた。
「...紅炎は皇帝陛下より玄鬼の討伐を命じられたと聞いたが」
「ああ。巫女殿が玄鬼に襲われた以上、国に帰る暇も無い。
このまま命に従い、必要であれば国に応援を頼むつもりだ」
ふうん、とうなづき、雨月は僕も行こうと普通に返してきた。
「...僕もこのまま紅炎について行く。
一応、剣の心得はあるつもりだから、ある程度は力になれると思うよ」
「何を言う、お前は御門だ。
非常時とはいえ、国に帰って検非違使やら陰陽寮やらの派遣隊を寄越せば良いのだ」
御門が化け物退治とあらば美談にでもなろうが、命を落とすやもしれぬ事。
それに部下たちの立場がない。
御門をお守りするのが、臣下たちの勤めなのだ。
雨月はそこのところを分かっているのかいないのか、そうだなぁと思案している。
「...じゃあ僕は道中で退位して、出家をしたことにでもしよう。
そうすれば弟の明光が即位するだろうし、その方が国にとってずっといい。
あちらには文を送らせるよ」
「馬鹿者」
つい立場を考えず、口をついて出てしまった。
一瞬ヒヤッとして部下たちを見るが、幸い議論に夢中で誰も聞いていなかったようだ。
私の言葉に微かに笑い、雨月は伏し目がちに続ける。
「...なんでもいいんだ。
...僕だって玄鬼をこの手で倒したい。
母上の為にも、頼む」
頼むと言われても、元より私が決めることではない。
雨月は意外と頑固なところがある。柔らかい印象だが、決めたことは何を言われても曲げない。
恐らく雨月が連れて来た武官に止められても、柔らかい物腰のまま押し通すのだろう。
...それに雨月の母上の為という彼の決心からということであれば、仕方ない。
「待たせたの、おかげでだいたいの予測はまとまった。
唐突じゃが、誰かに山を登って欲しい」
臣下たちと黄賢君は話が済んだのか、私と雨月に向かい合う。
誰かに、という言葉だが、ここで一番早く動けるのは私だろう。
もともとそのつもりで、陛下から命を受けているのだ。
息を整える。
「では詳しく話を聞こう」