むつと太郎
わたしが生まれたのは山の中腹にある小さな村だった。そこは何もこれといって特産物も名所もない辺鄙な村だが、行商の方や旅のお侍様なんかが立ち寄る宿屋町のような所だった。だからいつも人々の賑わう声や旅の疲れを癒し、もう一踏ん張りしようとするやる気の溢れた平和な村で私は育った。
私は親を知らない。私が物心つく前に死んでしまったらしい。だから小さかった私はこの村に住む人に――この村に育ててもらった。
両親が残したのはずっと貯めていたお金と、小さな茶屋だった。両親が死んだ後、最初は茶屋を取り壊して新しい宿を建てる予定だったらしいのだが、幼い私がそれを聞くと一晩中泣き喚いたそうで、村の皆がその茶屋をそのまま私に残してくれた。だから、記憶にない両親との繋がりは私にとって、この茶屋だけだった。
「むつは本当にいい顔で笑うね」
私は村の皆によくそう言われた。でも、本当はなにが嬉しくて、何が正しいのかも分からずにただ皆に合わせていただけだった。ただ皆に嫌われたくなかっただけ……自分の居場所を求めてただけ――。
私は近所のおばさん達の協力もあって、一人で茶屋を再開した。それは五つの子供には無謀な事だったかもしれないけど、私も何かの形で皆の役にたちたかった。
最初は下手くそな料理も苦いだけのお茶も、年を重ねるたびに成長していった。だんだん茶屋にも村の人だけでなく、旅の方々も顔を出すようになって、一人で生活できるまでにはそれから五年の月日が流れた。
「なぁ、俺のとこに嫁がないかい!」
そんな求婚を何度も断った。別にその皆が嫌いだったわけじゃない。中には強引な方もいたけど、私はただ、そんな事に興味が無かっただけだ。いつかは誰かとそういう関係になる日がくるかもしれないけど、今はもう少し、家族を感じるこの茶屋で過ごしたいだけ。
しかし、そんな生活も長くは続かなかった。
「むつ! 久しいな! 俺のこと覚えてるか?」
茶屋を閉める時間になって、片づけを進めていると、一人の男が水を求めて入ってきた。その男は小さい頃に何度も遊んだ商人の息子だった。
その男が姿を現した日から、その男は毎日のように茶屋に通ってくれた。二人で閉めた茶屋でお茶を啜りながら彼の旅の話しを聞いた。彼は決まって「いつか連れて行ってやるよ」と言って私の頭を撫で、時には二人で夜まで昔話に華を咲かせて語り合った。
「なぁ、いつか……貰いにいってええか?」
ある日の帰り際、彼はそう言いながら恥かしそうに顔を赤らめた。きっと私もその言葉に頬を染めていた。だって……その時にはもう彼の事が恋しくなってしまっていたのだから……。だけど、私は照れくさくて、背中を叩いて曖昧に笑ってしまった。きっと答えは決まっているのに、この家を出る覚悟も……。
私はその日から今まで以上に彼がくる時間を長く感じた。店の扉が開くたびに何度も何度も彼が来たと思い胸がときめいた。たまに来ない日があると寂しくて小石を蹴ったりしながら朝日を待った。次に会うときは答えを渡しに行こうと心に決めて――。
彼が村を発つ前日に、私はこの村を出る決心をした。その事を彼に伝えに行こうとしたときに旅人の話し声が聞こえた。
「魔獣が近くに出たらしいぞ! こんなとこに魔獣なんておっかねえな……それに今回の魔獣はなんだか大きい体に鋭い眼光……首が三つもあるらしいぞ!!」
「ほえぇ!! そんなばけもんが近くにおったら気が気じゃねえや!」
魔獣はひどく恐ろしい生き物だと聞いた事がある。この村には何も無いからめったに魔獣は現れないけど、少し山を下った小さな村には時折現れて、作物を荒らし、追い払おうとする村人を傷付けるらしい。
私は彼がこのまま出て行ってしまう前に、この気持ちと、彼に魔獣の存在を伝えに暗い夜道を駆けた。しかし、私が見たものは、私の心を粉々に打ち砕き、心に大きな穴を残して夢から目を覚まさせた。
彼が私に囁いたように、私以外の女子に同じ言葉を告げていた。所詮、私は田舎の村娘で、立派に成長した商人の若旦那の遊び女の一人だった……。そんな事を再度認識してしまうと、私は何も考えずに森へ走っていってしまった。やけに静かなその山道はいつのも晴れやかさはなく、漆黒に塗りつぶされた闇が私を包んでいた。
「こんな時間に一人歩きなんて危ないじゃないか……」
彼が私の存在に気がついたのか、背中から声がした。その男の表情はひどく歪に目が釣りあがり、私に囁いた唇は時折薄気味悪く震えていた。
私は彼を拒絶した。彼はその言葉に次第にイラつきを表し、優しいと思っていた表面が崩れ落ち、どのひどく汚らわしい正体を現した。
私は必死に抵抗した。しかし、何度も何度も顔やお腹を殴られ、蹴られて次第に抵抗も弱まってしまった。
――もう――いいや――
私はその男に馬乗りにされ、満足したような顔で私に罵声を浴びせるその顔を哀れむように見つめた。
私はきっと依存しただけ――
私はきっと間がさしただけ――
私はきっと――……。
その男の瞳に映る自分の姿を見つめ、私は静かに目を閉じた。
その男の手が私の胸元へ這うように近づいたとき、静かだった森に異変が起きた。
それは噂の魔獣だった。
地響きは次第に近づき、低音の唸り声がはっきりと近くで感じた時、私はそれを見た。それは目を見開き、天高くから三つの顔で男を見下し、世の理不尽に罰を与えるために冥府より遣わされた番犬のようだった。ひどく恐ろしい姿の魔獣だったけど、その時の私には、何故だかその光景がとても神秘的なものに思えた。
捨助がその姿に気がつくと、尻に火がついたように飛び跳ね、私には見向きもしないで「たすけてくれぇぇ!!」と逃げ去ってしまった。
私は体の痛みと心の歪で、しばらく動けなかった。時折目から流れる雫の意味を知っていても、心は必死に否定しようとしていた。
・・・・・
私が村へ辿りついたのは一夜を森で過ごし、日が昇りかけた、白い夜明けの頃だった。村は既に魔獣の噂で持ちきりで、昨夜、森に魔獣が現れたことは誰もが知っていた。
行き交う叫び声と不文律な足音、そして愛を誓い合った者達の別れの音。
私はゆらゆらと家に帰り、汚れた手の平で腫れた頬を覆った。口からは血の味がしたが、もう立ち上がる気力は無かった。そして、そんな日々が何日か過ぎると、村には誰もいなくなった。行き場のない――家族のいない女達を残して。砂埃が舞う静かな街道に人の姿はない。ただ去っていった人々の空蝉をのこしてこの村は灯火をなくした……。
私が輪稚屋の女将さんに拾われたのは、一人で静かに曇天を眺めている時だった。食べるものもなくなり、整えなくなった髪は散々に伸び、着物のほつれが目立った頃に優しく、そして呆れたように声をかけてきた。
女将さんの姿は以前のまま気張った着物に凛とした髪、そして、背を正して胸を張って人のいない道を歩いていた。最初はなんでこの状況で平然としていられるのか私には理解が出来なかった。しかし、半ば強引に引き入れられた輪稚屋の看板の中には、私と似た境遇の者達が胸を張り、勇ましいほどの表情で働いていた。
「今日からアンタもウチの人間だよ。いいかい? タダ飯を食わせるつもりは毛頭ないからね! きちんと働いてもらうよ!」
「あの……私は別に――」
「別になんだい? 別に助けてなんて言ってないってか? はん! 笑わせるんじゃないよ、あんな誰かに助けて欲しそうに――そう、一人で生きているつもりになっていた小娘が何を偉そうに事語るんだい! アンタは生きなきゃいけないんだよ、この村の娘として、そしてこの先に誰かの帰る居所として――アンタがこれから村に恩返しをするのさ!」
女将さんは厳しく私に言葉を放ったが、恐る恐るその顔を私が見つめた時、女将さんは優しく微笑んでくれた。
「いいかい? アンタはウチの子になったんだ。ここにいる皆もそうさね……。男に捨てられたからって自分を捨てちゃいけないよ」
そう女将さんは言うと、しわとま新しい手まめの手で私の頭を撫でた。私は久しぶりのその温もりに涙が溢れてきた。
「なに泣いんだい。涙を堪えて笑いなさい、それがこの村で生きる女の強さだよ。一人で生きてるうちは憶えておきなさい」
私は心に決めた、強くなろうと。その日を境に私は涙を流す事は無くなった。
・・・・・
輪稚屋でお世話になって数ヶ月が経った。姐さん達の中に狩猟が上手い人もいて、食料にはさほど苦労はしなかった。私は生憎そのように上手く猟も出来なければ、山菜とりに出かけた山で、間違えて毒キノコを持ち帰るなどの失敗を繰り返し、今やみんなのお掃除係だ。
「むつはほんとにどんくさいねぇ」
「ほんとほんと! でも料理の腕と洗濯の極め細やかさは達人並みなのよね!」
私がみんなの食事を作っていると、猟から帰って風呂で汚れを落とした姐さん達がつまみ食いがてらに私をおちょくりにきた。
「いつもごめんなさい、量とか力仕事を姐さんたちにまかせっきりで……」
「ん? そんな事は気にしなくてもいいけど……あれだな! むつには早く男が出来るといいな! むつの特技は素敵な旦那様に奉仕する事だからな! こんな色気のない女達の中だと息苦しいだろ」
「奉仕って……でもそうね。むつは好きな殿方はいないの? ほら、この前――『俺は鬼を何十、いや、何百と斬った武士だ! ええい! もっとちこう寄れ!』――って息巻いていたあの自称豪傑の男とか、むつに惚れ込んでいたじゃない」
「あっはっはっはっは! だめだめ! あんなへたれ親父。むつにはもっと――『俺の帰る場所になってくれるか? 愛しき人』――って膝をおって求婚するくらいのお人じゃないと――」
二人の姐さんは濡れた髪を手拭いで拭きながら、面白可笑しく話していた。私は少し胸が痛くなったが、大きな笑い声を上げて二人の会話に相づちを打っていた。
この村にいるのは総勢二十人ばかりの娘だった。皆が輪稚屋の女将さんに拾われた行き場の無い女達だった。一人で生きる術のない女達は皆で協力しながら、この輪稚屋で生活している。狩猟が得意な人もいれば、洗濯や掃除などの家事の方面が得意な人、そして、たまに村の噂――魔獣の噂を聞きつけた自称豪傑の夜伽の相手をする姐さんたちもいる。
噂を聞きつけた人間は皆同じだ。少しの恐怖と余計な好奇心、そしてその全てを含めて娯楽の一つと考えてしまうような小さな人間達ばかりだった。私たちには死ぬか生きるか、そして村ごと捨てられた出来事を娯楽の一環で事語られるのは正直腹が立った。しかし、そんな男達に頼らなければ魔獣を追い払う事が出来ないのも事実だった。自称豪傑でも侍は侍だ。帯刀を許可され、それだけの力もある。そんな男達に私達女子は愛想を振りまき、そして失望していく。
「むつ! 今日も獲物がかかったよ!」
ある日の夜、それは月が雲に隠れ、とても暗い夜だった。私は台所で明日の朝食の支度を進めているときに姐さんの一人に声をかけられた。
その言葉はいつもの合図だった。今日も久々にもの好きのお侍様が魔獣の噂を耳にして来たのだろう。皆が急いで接客用の着物に着替えて女将さんの合図を待った。私も乗り気ではなかったが、いつもみたいに義務的に着物に着替え、聞き耳をたてる姐さんの傍へ座った。
「今回の男はやけに若いな……あんなの魔獣に一発で食い殺されてしまうだろ。今回もハズレだな」
「女将さんもよくやるよ、毎回毎回……。でもこれしか魔獣を追い払うには――」
その時女将さんの手を叩く音がして皆が襖を開け、その男にひし寄せた。
「にいさん、とてもお強そうですね!」
「その小顔に鋭い目つきはこの国に二人といない美青年ですわ! 旅の途中ですか?」
私も姐さんたちに並んでその男の傍へ駆け寄った。
「いや、あの、えっと――」
男は私と同い年くらいだろうか、この周辺では見かけないほどの綺麗な顔立ちに艶やかな髪、そして、どこか貧弱そうな物腰の男だった。腰には二振りの刀を差してはいるが、こんな青年は人はおろか、小魔獣すら討ち取った事もなさそうな雰囲気だった。
「――」
彼と目が合った。彼は童男のように心細そうに顔を赤らめて、今にも泣きそうだった。こんな軟な男に『魔獣討伐』なんて任せるのは酷なことだと私は思った。
私が何か言葉をかけようと思った時、女将さんが手を二回気前よく叩くと、姐さん達は愛想を振りまくのを止めてそそくさとその男のもとを離れた。私も半分開いた口を静かに閉じ、姐さんたちに続いた。
それからは女将さんのいつもの交渉が始まった。男は女将さんの話を呆けた顔で聞きながら、時折、私達のほうをチラッと見て、頬を染めていた。私は肩口が大きく開いた着物を整え、姐さんの後ろへ隠れた。
「金が払えないなら体で――」
女将さんのいつもの追い詰め口が言われると、男は焦ったように懐をあさった。女将さんの提示する額はいつも破格だった。故にいままで誰一人として払われたためしはないし、送り出した侍がこの村に帰ってきたこともない。魔獣討伐の知らせは未だに聞けぬまま月日とこんな無意味な懇願は続いていた。
しかし、この男の行動は私達女達を仰天させるものだった。
「あの――これで足りますか?」
男はなにやら重そうに一枚の布の包みを取り出し、女将さんの前に置いた。女将さんが怪訝そうに包みを開けると、そこには『大判』が一枚入っていた。
大判とはこの国で軍事目的で使用されるお金だった。私は本物の大判を見るのは初めてで、しばらく開いた口が閉じられないでいた。それは姐さん達も同様で、その輝きに呆然とする者もいれば、浮き足立ちに抱き合う者達もいた。
女将さんは腰を抜かしたように大きく後ずさると、その金をニヤニヤ眺めながら小さい声で何かを言っていた。
男は足りなかったと思ったのか、また懐から小さな銭入れを取り出し、あたふたしていた。
こんな軍事資金を持っている人間ということは、この男はもしかしたら只者ではないのかも知れない――そう皆が思い始めた頃、男はサッと立ち上がり帰ろうとしていた。女将さんは必死に引き留め、姐さん達も其々の思惑を持ちながら男に愛想を振りまいた。結局男は根負けして、困ったような表情で席に座り、真剣な面持ちになった女将さんの話を静かに聞いていた。
・・・・・
その男の名は『桃山 太郎』というらしい。姓があるので武家の人間かと思ったら、本人曰く『只のこうこうせい』らしい。なんとも貧弱そうな風貌だが、時折見せる無邪気な笑顔は私の心に温かさを取り戻してくれるようで、少しだけ嬉しくなった。これが多分女の母性というものだろうか――。
「本当に魔獣を退治していただけるのですか!?」
「え、ええ……、なんか、困ってるのは本当らしいし、一人旅っていうのも悪くないし――」
太郎さんはなんだか疲れきった様子で女将さんの話を聞き終えると、大きな欠伸をしてとても眠そうに船をこいでいた。
「ささ! 女達が部屋まで案内します! 明日の魔獣討伐へむけて今宵はゆっくりとお休みください」
「――え? 明日?」
「太郎さま、今宵はわたくしと共に――」
「いえ、わたくしと――」
姐さんたちは我先にと太郎さんの腕を引っ張り、部屋へ転げ込もうとしていたが、当人の太郎さんは顔を真っ赤にして姐さんたちを部屋から追い出した。
「きょ、今日は疲れたんで! また今度!!」
今までの男達は口は達者で、散々に飲み食いをし、女を抱くと、明日には誰にも気取られないように姿を消した。今回も明日にはこの男も姿を消し、私達を裏切るのだ……。男なんてみんなそんなものだ――。
しかし、私が翌日目を覚まし、台所に立っていると「おはようございます――」そう太郎さんは声を私にかけ、眠そうな目をこすりながら、拳が入るくらいの大きな欠伸をし、私に微笑みかけた。
「おはよう、ございます……」
私はおもわず口を半開きにしたままその男の姿を見ていた。
「なんで、いるのです――?」
「……へ?」
「いえ! し、失礼いたしました!」
「いや~、今日はいい天気だね。魔獣討伐にはもってこい!ってかんじっ!」
太郎さんは窓の隙間から空を見ると暗雲ない笑顔で微笑みかけた。
なんでこの人に限って残ってしまったのだろう……こんなにも人畜無害そうな青年が、なんにも得も関係もない村のために命をかけて戦いに行って――死んでしまうのだろう……。
「怖くないのですか?」
「怖いさ」
太郎さんは一瞬、その優しい目を鋭く尖らせて私を見つめた。でも、すぐにまた優しい声で話し出した。
「でも、そんな怖い魔獣が辺りをうろついていたら、村の人たちは気が気じゃないでしょ? なら早いとこ退治しなきゃ! 俺もおっかない鬼をこれから退治しなきゃいけないのに、こんなことで躓いていられないしね!」
この人は本当にお人よしだ……でも、こんなにも生き生きとした表情でそんな事を言われたら、本当にやってのけてしまうんじゃないかと思えてきてしまう。
「あら、太郎さま、もう目が覚めたのですね。」
「今日の魔獣討伐、頑張ってください!」
姐さんたちは狩りの支度や朝の薪割りなどをしながら太郎さんに声をかけた。太郎さんはなにか手伝おうと必死に声をかけて周るが、皆が口を揃えて「魔獣討伐がありますから!」と断っていた。
朝食を済ませた太郎さんは、女将さんに魔獣の出現位置を確認してさっそく出かけようとしていた。とても行動が早い御仁だと私は関心したが、もっとよく考えてから行動したほうが自分のためだと心から思った。だって、これから彼は死にに行くのだから……。
太郎さんが腰に刀を差し、輪稚屋の玄関をくぐると私達は皆見送りに立った。相変わらず雲に立っているようなその男の背中には『天下無双』と大きく言葉が刻まれていて、少しだけ私は不安になった。こんな痛みも知らないような青年に討伐はやはり無理だと思った。やはり止めるべきだった……だって、あんな優しい目のお人を私は見殺しにしようとしているのだから――。
「あの――」
私は声をかけようとした時、姐さんの一人に肩をつかまれ「およし、私達にはもうあの方を信じるしか道はないのだから」と言われた。たしかにその通りではあるが……あんな優しい御方を死なせたくなかった。
私達には時間があまり残されてはいなかった。食料は狩りをすればいいと思っていたが、限界がある。日によって狩りの成果が悪ければほとんど草を食べるような日も続く。病気に関しても例外はない。薬師が来ないこの村では、病に伏せてしまうとそのまま死んでしまう……。早く魔獣を討伐して道を開かなければいけないのは明白だった。
私はそんな現実を前に開いた口を閉じた。そして、私達の為に死にに行く男の背中を見つめた。すると、男が不意に振り返り目が合った。
「天下無双の桃山太郎! 悪鬼羅刹のお調子者を成敗してくるであります!!」
私達の不安を消し去るように不敵に笑ってみせたその男『桃太郎』に姐さんたちは火照った声で声援を送った。
「必ず……生きて帰ってきて――」
そう本心から思えた。
雲一つない晴天に輝く太陽に私は彼の無事を祈った。
・・・・・
太郎さんが出発して時刻は昼飯時になった。
私は皆の着物や太郎さんが着ていた寝巻きの洗濯などをしながら、少しだけ憂鬱な気持ちで時間を過ごしていた。姐さんたちも時々逢引寺の方に顔を向けて、小さい溜息や期待に胸を焦がしている人もいた。
「むつ、今日はやけに元気がないね」
姐さんが声をかけてきた。それはそうだ、だって太郎さんに私達はわがままで討伐を依頼して、優しいあの人は了承してしまったのだから。
「太郎さま、だいじょうぶかしら……」
「なんだいむつ、惚れたのかい?」
「っえ――そんなんじゃ――」
「あの人はなんだか金持ちみたいだし、もしかしたら都の武家の方なのかもしれないね。むつ、いいかい、今のうちに唾つけとくんだよ? あんな生娘みたいな反応の男なんだから、まだ経験も無いはずさ! 帰ってきたら、いの一番に胸に飛び込んで接吻するんだよ! そして今夜――」
「ああもう! 姐さんったら――私はそんな――」
姐さんのからかいには慣れてはきたけど、私だって生娘だ……それに、やっぱり男の人はまだ怖い……。だけど――あの太郎さんの優しい瞳で見つめられたとき、少しだけ私の鼓動は高鳴ったのも事実だった。でも、今はただ――あの人の無事を祈るしか――。
「ただいまぁぁ!!」
ん? 声がする?
私達は店を一斉に出た。その光景に最初は阿呆面で見つめる事しか出来なかった。なぜなら、半日も経たないうちに『桃太郎』は帰ってきたのだから。
太郎さんは泥まみれの体で、無邪気に私たちに手をふりながら笑っていた。
「ほんとうに……やりきった……んですね……」
皆が一斉に感極まり、地面を飛び跳ねたり、抱きしめあう者達がいたりで、私達は太郎さんの帰還と魔獣討伐に喜んだ。
しかし、太郎さんはなんだか困ったように笑いながら女将さんに近づいた。そして姐さんの一人が太郎さんの後ろにいる『紫色の犬』を見つめて叫んだ。
「ど、どういうことですか!? 太郎さまはワシらを裏切りよったんですか!!?」
女将さんも動揺を隠せずにあたふたしていた。私も同じくらい動揺していたが、なぜだか太郎さんの姿をみると妙に落ち着いた。
結果、魔獣は太郎さんの家来になったということだったが、私達が恐れ、男達が逃げ出した魔獣の正体が、こんなにも可愛らしい犬だったなんて、正直拍子抜けだった。
魔獣と太郎さんは姐さんたちに店に引き入れられ、感謝の言葉や今宵の相手の約束を取り決めようとしていた。やっぱり困ったような顔をした太郎さんに私は少しだけ朗らかな気持ちで微笑んだ。
「今日もおいしいご飯が食べたいな」
太郎さんはそう呟くと私と一瞬だけ目が合った。私はその時確信してしまった。
ああ――この人なら――信じれる――かな――?
・・・・・
ケロ太と名づけられた魔獣は、姐さんの膝の上で満足げに舌を垂らしながら酒を飲んでいた。太郎さんは皆の話を笑顔で聞きながら、そして夜這いの話に耳を赤くしながら曖昧に相づちを打っていた。
日は沈み、ひぐらしの鳴く声が静寂だった村に木霊する頃、私達、輪稚屋の女子達は太郎さんに感謝の意を込めて宴を開いた。それは、村の灯火が消えた後の初めての第一歩、祭囃子のような笛の音に村に伝う歌を唄い、踊った。皆が幸せだったあの頃のように、村に篝火が灯されたように雲が晴れた満月の夜だった。
だけど、やはり私は何も変わらずにここに立っていた。感謝すべき相手が目の前にいるにも関わらず、私は何も話せずにただ太郎さんの隣で酌をするだけだった。
私は一度、他の男に心を許し、そして裏切られた。そんな哀れな女が、人に合わすだけの女が何をこの人に話しかければいいのだろう? 姐さんのようにいっそ夜這いでもかけてしまおうかしら……いいえ、そんなんじゃない、私はただいつものように振舞えばいいのだ。心を隠して、ひっそりと咲く野花のように、誰にも気付かれず、そして散っていく……。心を許すのは怖い事だから……きっとどんな人でも怖さをもっている。きっと太郎さんだって……。
「魔獣討伐……ありがとうございました……」
私は太郎さんに酌をしながら呟いた。すると太郎さんは私に優しく微笑みかけてくれた。ああ、なんでだろう……なんでこの人はこんなにも優しい目をしているのだろう……。まるでガラス細工のように透明で、その瞳に吸い込めれてしまいそうなほどに尊く、儚い。私は頬が朱に染まるのを感じた。
「むつの大切な人、かえってくるといいね」
太郎さんはやはり笑顔で答えた。しかし、私は少し胸が痛くなった。捨助のことはもう好きでもなんでもないのは本心だった。しかし、あの時の私達にあった絆のような細い線はいったいどこまで紡がれ、どこでほつれ、どこで見失ってしまったのだろう――。そう思うと悔しくて、初めての自分の気持ちを踏みにじられた実感が湧いて、目頭が熱くなった。だめだ……泣いてはいけない……私は一人でこの村で生きていくんだ。この村で生きる女の強さを私は知っているのだから、泣いてはいけない――。
「泣けるときに泣けばいい――涙を隠すのと心を隠すのは訳がちがうから。じゃないと――壊れちゃうよ?」
太郎さんの温かい手が私の髪に触れた。ああ、この人は私の事をどこまで知っているのだろう。いいえ、知ってなんかいない。ただ、この人は私と同じ、心を隠して今まで生きてきたんだ――頭に触れたその手の優しさは、けして強くない自分の唯一の心の寄る辺だと思わせた。私はあの日以来初めて泣いた。太郎さんの膝に転がるように顔を埋めて声をあげて泣いた。みんなは私が悲しくて、男が逃げた悲しみと向き合って涙を流したと思っただろう。だけどそれは違う。私は嬉しかったんだ。こんなにも私を肯定してくれた言葉に――。
太郎さんの体からは土の匂いがした。それは私と同じ、いいえ、皆と同じここに立っている証のように感じた。
・・・・・
私はそれからは生まれ変わったように、毎日が楽しかった。朝が弱い太郎さんを起こしにいくのも、太郎さんの着崩れた着物を直すのも、そして、太郎さんにいっぱい食べて欲しくて狩りにも出かけた、結果はやっぱり散々だったけど、あの人に喜んでもらえるなら、私は何にも苦にはならなかった。
「むつはほんとうにいい顔で笑う」
「はい! だって……幸せですものっ!」
今なら自信をもって答える事が出来る。私は幸せだ。あの人に道を教えてもらい、私は自分の生き方を見つけた。今ならこの道も胸を張って歩いていける――そして、そしていつかあの人の隣で――なんてね。
輪稚屋の裏庭の井戸で、太郎さんとケロ太さんが水浴びをしているのを偶然見つけた。私は声をかけようと思い、足を進めようとした。しかし、太郎さんは上半身裸で、その華奢な体なのに程よくついた筋肉と細い線に少し見惚れてしまって、しばらく物陰からひっそりと見つめていた。
「にしても、お前のその傷……誰かに斬られたのか?」
……っえ……?
「いいや、斬られたってよりは事故というか……まあ、激しい訓練があったんだよ――お師匠様は本当におっかねえ人だったからなぁ……」
太郎さんの背中にはいくつもの傷があった。それは昔に付いた傷だとすぐにわかったが、きっとそれは幼少の頃のことだろう……この人は幼い頃から生きるためにこんなにも苦労をして、そして、その身につけた力で私達他人を助けてくれたのだ……。
この人もきっと私と同じだ――。歩む道が分からず、ただひたすらに彷徨う異邦人だ……。私は決めた。この人に教えてもらった道が私にはある――私がこの人の歩く道を照らし、その行く末までお傍で支えようと――。
満天の空に降る星をいつか見にいこう――もう――空は晴れたのだから――……。
・・・・・
太郎さんが村を出ると言った。
太郎さんはまだ旅の途中で、この村に来たのは、ただの偶然――本来なら出会うわけもなかったのだと知った。しかし、そんな事は私にとっては些細な事で、意外と近場の村に住んでいる太郎さんには、会おうと思えばいつでも会える距離なのだから、旅の帰りにでもまた寄ってもらえばいいだけのことだった。しかし、私はやはり寂しく感じた。それに、今度は鬼退治に行くというのだから、皆は一様に驚きを隠せない。
鬼と人間は相容れぬ――親の仇は鬼にあり――。
私達人間と鬼の間には古の時より因縁というか因果がある。
赤鬼族の頭領が代わった時期から、大きな戦はないものの、やはり各地ではいざこざや殺し合いが絶え間なく噂で流れてくる。
そんな危険な鬼と対峙する事になったら、いくら太郎さんでも無傷では済まないだろう……やはり心配だった。
「別に今回は、鬼と本格的に戦うつもりはないよ! ただ、近隣の村に鬼が出たっていうから偵察を頼まれただけだからね。でも、もし鬼が人々を襲うような奴だったら――やるしかないよね。その村も此処みたいに悲しい思いをしてる可能性もあるからね」
太郎さんは私に優しく語りかけた。私は目を伏せたまま静かに話を聞いていた。
「太郎さまは政府から来た御武家様なのですか?」
「政府? いいや、俺はただの高校生で、家にいるおっかないさっちゃんに無理やり仕事を押し付けられただけだよ」
「なら……なぜ、そんなに嫌な仕事にそんなにも真剣になられて、ましてや面倒事まで引き受けてくださったのですか?」
「う~ん……そうだな、うん、きっと皆が俺を必要としてくれたから。いままで俺は誰かに必要とされた事がなかったし、家にいても暗い牢獄のような部屋でいつも外ばかり見ていたんだ。だからこの村の――むつ達に必要とされた時、正直嬉しかったよ。俺にもなにか出来る事があるかもしれないって思えて。」
「でも――これ以上太郎さんが傷つくのは私……嫌、です――」
私は太郎さんの背中に触れながら、その重くのしかかっている鎖を解くように願いを込めた。
「いかないで」「私と生きて」――そう言えたらどんなに幸せだろう。いいえ、太郎さんはどんな顔をするかな? また顔を赤らめて、照れくさそうな愛しい笑顔を見せてくれるかな……。でも、私にはそれを言う資格がない。私の幸せ、生きる道はこの人の道を照らす事。どんなに迷った道に歩みを進めてしまっても、帰る場所は必ずあるっていうことを私は伝えなければいけない。それがたとえ、あなたの隣にいるのが私じゃなくても……。
ああ――やっぱり――いやだな……。いかないで――。
・・・・・
太郎さんが今日この村を発つ。次にいつ会えるかなんて分からない。もし、鬼と戦って敗れたりしたら――なんて考えると体の震えが止まらなかった。
「むつ! なにしてんだい! はやく太郎さまのお見送りに行くよ!」
「えっ……もう太郎さんは行ってしまわれるのですか――」
「そうよ、アンタはそれで本当にいいの? 男は皆、いつでも命をかけて生きている。それに帯刀しているお侍さまなら尚更よ! 今行かなきゃ後悔するよ、アンタ!」
「でも――わたしは昨夜、太郎さんに無礼なことを――」
姐さんは私の胸倉を掴んで、布団から無理やり立たせると、ひどい剣幕で私に怒鳴った。
「いいかげんにおし! いつまでかわいそうなむつを続けてんだい! いいかい、あの御方はそんな事で無礼だなんのだなんて考えるような、尻の穴の小さな男じゃないだろう! アンタは今まで何を見てきたんだい! アンタが一番よく知っているんじゃないのかい!」
そうだ――私は結局変われていなかった。また、太郎さんという男に依存して、自分が可哀相な女だと思いこんで我儘に生きる――そんなこれまでのような人生を私はまた繰り返そうとしていた。
今だ、今なんだ、私が本当に強くなるところは。涙を堪えるだけが強さじゃないことを太郎さんに教えてもらった。心のままに生きる強さを教えてもらった。だから私は――。
「姐さん……私の顔、むくんでない?」
「ああ! いつもより好い笑顔だ!」
姐さんに背中を押されて、私は駆け出した。愛おしきお人の無事を祈り、私があの人の帰る場所だと、胸を張って言えるように――。
太郎さんの背中が物語るものを私は知りたい。いつまでもここで貴方の帰りを待っています――。
・・・・・
太郎さんがこの村を去って幾日か過ぎた。姐さんたちは、魔獣討伐の噂を聞きつけた旅人や商人の相手に毎日を忙しそうに過ごしている。私も同様にこの輪稚屋で料理を作ったり、たまに男の人のお酌をしていた。
「ちょいと旦那、その子には触れてくれないでおくれよ。その子はあの桃太郎の女なんだから。あの三つ首の魔獣を一人で討伐するような豪気な男に喧嘩売ることになるよ」
「もう! 姐さんったら! 私はただ……お傍に居たいだけです……」
酔った男の人が私にちょっかいを出そうとすると、いつも誰かしらの姐さんが庇ってくれる。そして、皆が口々に『桃太郎の女』と私に言い、実に楽しげに私の尻を叩く。
「へん! なにが桃太郎だ。たまたまそこに居たのがその男なだけで、俺だって魔獣の一匹や二匹、この愛刀で成敗してくれる! ――なぁ、だからそんな男のことは忘れて、俺と――」
「はいはい、そうですね。その愛刀で何匹斬ろうと構いませんが、太郎さんは斬らずに許す道を示す御方です。私は、いいえ、私達はそんな御方初めて出会いましたわ」
「なんだと! 女のくせに生意気いいやがって!」
「なんですか、そんな大口叩くなら、たまりに貯まったツケを払ってから言ってください。だいたい太郎さんは――」
「あーはいはい! むつも太郎さんの事が絡むと熱っぽくなるわねぇ……。お侍様も堪忍ねぇ」
姐さんは愛想良く笑い、男に酌をして、私に部屋を出るように促した。私はあくまで礼儀良くお辞儀をし、その部屋を出た。
最近の私は変わってしまった。いいや、きっと変わることが出来たと言う方が正しいだろう。朝起きて、日が沈み、月が出る。そんな当たり前の毎日ですら今までとは違う世界のように見えて新鮮だった。
空を見た、雲の流れる先に太郎さんは居るのかな? なんて考えながら私は朗らかな気持ちで毎日を過ごしている。
川へ洗濯へ出かけると、村には沢山の人で溢れていた。籠屋の走る音、景気のいい行商の声、ツバメの番いの鳴き声。こんな風景をもう一度この村で見ることが出来たのは、本当に嬉しく思った。早く太郎さんにも本当のこの『篝火村』の風景、そして生活を見せてあげたいと思った。
「ただいま!」
聞き覚えのある声が背後から聞こえて、私はその声の主があの人の声だとすぐに悟った。
「おかえりなさい! 太郎さん!」
優しい風に誘われてきた花びらのように、颯爽と吹く生命の息吹のように優しく、あの人は私の前に現れた。私は嬉しくてつい、彼の胸元に顔を埋めるようにして駆け出してしまった。
彼は相変わらずに傷だらけの体で優しく微笑んでは、私の頭に温かい掌をのせて、ゆっくりと撫でてくれた。それは私がずっと待ち続けた、私の家族のような温かさだった。
「またそんなに傷だらけになって……。今度は誰をお救いになったのです?」
「あはは……まぁ……ちょっとね。」
言葉を曖昧に濁す太郎さんだったけど、私はそんなことよりも、また出会えて、また触れ合うことのできるこの距離がとても嬉しかった。
村は太郎さんの帰還の知らせで賑わっていた。輪稚屋の皆はもちろんのこと、旅人までもが魔獣討伐の桃太郎を見ようと騒ぎ立てていた。私はなんだか自分の夫でもないのに誇らしい気持ちになった。それは傲慢でいやらしい事なのかな?
太郎さんは何日も村のために働いてくれた。家屋の修理や山道の整備、そして、新しく家来にしたと言うフィーネさんを使って、村の周囲に不審者がいないかと警戒もしてくれた。次第に太郎さんはこの村に昔からいた人のように思えて、この場所が彼の生きる場所なのだと私たちは錯覚し始めていた。
事件が起こったのは太郎さんが帰ってきてから十日と経たない頃の夕暮れ時だった……。
幸せだった時間は水泡の如く儚く消えゆく……。
私はこの日、彼に自分の想いを伝える決心をした。
今日の夕飯は少し気合を入れた。太郎さんが美味しいと言ってくれた山菜の天ぷらに、野兎の丸焼き、そして私が密かに作っていたお漬物も用意した。太郎さんの喜ぶ顔を想像しながら作る料理はいつもより楽しく、そして一人で、一人のためだけに作っていた頃を忘れさせるように温かい気持ちになった。
今日の食事が終わったら太郎さんに想いを伝えよう。そして、今度こそ私は自分の選んだ道で新しい人生を送るんだ――そう、思っていた。
私は作業中の太郎さん達を呼びに出かけると、そこには彼らの姿はなかった。青空が次第に茜色に染まる頃、ひぐらしは優しく鳴いていた。太郎さんが好きだと言った風鈴の音がそよ風に乗って村を包んでいた。
「むつ? 太郎さまを探しにきたのかい?」
「はい、でも見当たらなくて……もう、どこに行っちゃたんだろ」
「ふふふ、むつは本当に太郎さまを好いているね。私もアンタみたいに可愛けりゃ相手をしてもらえるかねぇ?主に夜の――」
「もう! 姐さんったら……」
姐さんは太郎さんなら行商人の所へ行ったと言って、私の尻を叩いた。最近はなんだか尻を叩かれることが増えた気がする……だけど、いやじゃない。みんなに背中を押してもらっている気がするからだ。いつか私も誰かの為にそう出来る人間になりたいと思った。
輪稚屋の方角に大きく都の旗を立てた商人が来ていた。その周りに人だかりができていて、その隙間に太郎さんの背中を見つけた。私はその太郎さんの顔を見ると、なんだかハレンチな事を想像してそうな顔を見た。思わず私は頬を膨らませた。いったい誰を想ってその変な薬を見つめているのだろう!
「太郎さん! お食事の準備ができましたよ! 早く手を洗ってきてください!!」
そう声をかけ、太郎さんの背中を引っ張ったとき、私は目の前に映る男を見て、背筋が凍った。
私の目の前に不気味な笑みを残して細い目をギラギラと輝かして見つめる男がいた。その男は『捨助』だった。
私は心のどこかでは、もう赤の他人のような気がしていただけに、激しい悪寒は全身を瞬時にはしり、激しい眩暈がした。
隣に立つ太郎さんが私になにかを話しかけて、肩をゆする。私はとにかく頷くしか出来ず、自然と涙が溢れてきた。無論、再会に喜んだわけではない。あの日の痛みが鮮明に残酷に脳裏に浮び、溢れ出る雫は止まらなかった。
ふと、我にかえったときには、私は信じられないような光景を目の当たりにした。
あの、優しく、博愛の人の太郎さんが捨助に容赦なく『鬼』の形相で殴りかかっていた。振りかざした拳には捨助の口から出た血と、太郎さん自身の拳の血が滲んでいた。
私は恐怖を感じた。太郎さんが怖かった。だけど、なにより哀しかった……。
私はすぐに太郎さんの前に立った。真正面から見るその顔は怒りしかなくて、やはり一瞬怯んだ。しかし、太郎さんは私の鼻先のところで拳を固く止め、驚きの表情と少し哀しそうな顔をした。
私は捨助を助けたかったわけではなかった。
ただ――太郎さんには笑っていて欲しかった――
私はもう、この人にこんな顔をしてほしくなかった。村を救い、自分の欲などなく、それが当たり前と言うように行動し、無邪気に笑うこの人が私は大好きだ。
だから、こんな女のために、この男を殴って、傷ついて欲しくなかった。ただ、それだけだった。
しかし、私は考えが甘かった。捨助はこの事までもを見越して、罠を仕掛けていた。
背後の捨助に体を抑えられ、伏兵の弓の盾に私はされたのだった。無数の矢は弧を描くように飛んできて、村に叫び声があがった。その叫び声の中、一際大きな声で太郎さんがなにかを叫ぶと、傍らに居たフィーネさんは、その大きな翼を広げ、私達を包むように羽を広げた。しかし、私の方へいくつかの矢が向かってきた。ああ、終わっちゃうんだ……。私……まだ、太郎さんに本当の気持ち伝えてないのに――。そう思った時だった。目の前の太郎さんが、必死に走りよって、私の前に大きく体を広げ、背中に無慈悲に矢を抱えた……。その顔を私はおそるおそえう見た。死なないで……なんで、私なんかのたあめに……。
『よかった……間に合った……』
太郎さんは静かに笑うと肩膝から崩れるように倒れた。背中の天下無双の文字に黒い血が滲んでいる。太郎さんはもう、息をするのがやっとの思いで、私の足元へ手を伸ばしてきた。私はすぐにその手に触れようとした。涙は自然と出てきた……本当に苦しかった。先ほどの涙とは訳が違う。これが涙なんだ――。
しかし、捨助は私を乱暴に後ろへ飛ばして、太郎さんの背中を何度もけり始めた。その男の甲高い笑い声が心臓を揺さぶるほどに憎く、私は殺意を覚えた。
しかし、女の私が男に勝てるわけなどなく、私は捨助の要求を呑むしかなかった。
それは捨助と婚姻を結び、子を孕むこと。そして、生涯反論も外出も許されず、籠の鳥のように生活する事だった。何故、捨助が私にこんなにも執着するかはしらない。しかし、私はこの男の目的が私なら、私はその要求をのむことにした。太郎さんが助かるなら、私の命など安いものだ。太郎さんと共に歩む事が叶わなくなったのは哀しい。しかし、これから、彼の人生の一部にでも、彼の記憶の片隅に少しだけ私を思い出してくれるなら本懐だ!
私は倒れる太郎さんに触れることすら許されなかった……。せめて手当てだけでもしたかった。それすらこの男は許さないのだ。
遠くの逢引寺から怒りに満ちた咆哮が聞こえた。ああ、ケロ太さんだ……彼が後はなんとかしてくれる……私はもう、行かなくては――。
満足したように笑う捨助の隣に私は座らされた。変な臭いが立ちこもる馬車に私は揺られながら、愛おしきお人が小さく遠のいていくのを見つめた。きっと……さよならなのだ。涙はもう流さない。
・・・・・・
捨助の行動は早かった。それは全部自分で考えているのか、もしくは誰かに指示されて動いているのかは分からないが、一つだけ確かなのは、自分の欲の為に行動しているということだった。
私の入れられた檻に鬼の女の子が連れられてきたのは、おそらく二日ほど経ってからだろう。暗く、外も見えない洞窟のような場所に入れられて、日の流れがわからないのだ。
凛と背筋を伸ばし、何事にも恐れを知らぬような態度で檻に入ってきた少女は、私を見ると、少しだけ目を丸くし、驚いたようにみえた。いや、もしかしたら驚きではなく、困ったようなそんな仕草なのかもしれない。
「姫様……お怪我はありませんか?」
「ウチはだいじょうぶや……そんな事より、稲鬼のほうが――」
姫様と呼ばれる少女と、その後ろにピタリとついて守るように体を重ねる女の子が話し出した。
稲鬼と呼ばれる女の子はひどく傷を負っているようだが、痛みを感じないのか、平然を装いながら少女の身を案じていた。
二人の女の子と他にも女達が入ってきたが、皆一様に美しく、角が生えていた。そう、彼女達は皆、鬼なのだ。
この檻の中には私以外にも人間の娘達がいる。他の村からさらわれたのか、知らない人たちが集まっていた。
姫と呼ばれた女の子はその部屋を一回り見渡すと、勇気を振り絞るような、微かに震えた声で皆に声をかけた。
「――人の子らよ、少しばかり同席させてもらうぞ。なに、怯えることはない。私達も皆と同じ捕らわれの身……仲良うしようぞ――」
鬼の一声に人間の娘達は怯えた。恐怖で泣き出す者もいた。
女鬼は困ったようにその娘に近づいて、袖から綺麗な手拭いを出してそれを渡した。
「泣くな、人の子よ……私達は鬼であってもお主となんら変わらぬただの娘よ。それにじきに助けがくる――」
「えっ! 本当なのですか!?」
「ああ。ウチらの里が襲われた時に、里の子にあるお侍様のところへ向かうように伝えた。その方がこの事を知れば助けにきてくださる! なんせあの悪鬼をお一人で討伐なさるお方だ! 優しく、頼もしく、そして――」
女鬼はそれだけ言うと、頬を朱に染めて、少し照れくさそうに笑った。
「あの! そのお方の名は――」
私はきっとその人を知っている。いや、確実にあの人の事だろう。
「桃山太郎さまじゃっ」
その名を聞いた時、私は胸が熱くなった。やはりあの人は優しいお方だ。それは人間だけでも、話せる魔獣だけでもなく、鬼と言われるこの人たちにとってもだ。
「太郎さんを知っておられるのですか!」
「うむ、何度も命を救われておる。ウチだけでなく、里の皆の恩人である。お主も太郎さまを知っているのか?」
「はい……私も――私達も何度も助けられています」
「そうか――やはりあのお方は素晴らしいお方じゃっ! ここで会ったのも何かの縁、太郎さまについて話をしようではないか」
私たちはお互いに名乗り、鬼姫という少女は嬉しそうに私の手を握った。その手の温もりは人間となんら変わりなく、優しい温もりだった。鬼姫は太郎さんの話をするときも、聞くときも実に可愛らしい笑顔をしていた。それはまるで曇りなき蒼天のように、清らかで美しかった。
「あのお方は時代を――いや、世界を変えるお方や」
鬼姫は静かに言った。私もその言葉に頷いた。
鬼と人間が争い数百、人と人が争い数千の歳月が経っている。その全てを太郎さんはひっくり返すような希望の光がそこにはあった。だって、こんなにも今、私達は優しい気持ちで溢れているのだから。この温もりは太郎さんが教えてくれたもの。だから私はもう諦めない。貴方が疲れて足をとめてしまうまで、私は傍にいたいと願った。
・・・・・
それからしばらくして、私は捨助の手下の山賊に檻から出るように言われた。
「なんや! その子になにするつもりや! 変な事したらウチが許さへんで!!」
鬼姫は私の腕を掴み、山賊を睨んだ。山賊は息を呑んで、めんどくさそうに咳払いをした。
「鬼姫ちゃん……私はだいじょうぶ。絶対に諦めないから。でも――でもだよ? もしも私に何かあったら、太郎さんに伝えて欲しいの……ありがとうって――」
鬼姫は少し困ったように手の力を強く握ったが、私の目を見てそっと離した。
「絶対に太郎さまが来てくれる。しっかり自分をもつんやで!」
私は鬼姫に太郎さんのように優しく笑って檻を出た。後ろは振り返らなかった。私だって太郎さんの隣にいたい女だ。少しくらいは気張らないと……震える足は正直だった。しかし、私は皆に尻を叩かれるように、力強く一歩を踏み出した。
捨助の部屋に私は入れられた。目の前には異国の飲み物だろうか、赤い血のような水を舌で舐めるように呑んでいた。
「やっとこの日が来たんだ。さあ、むつ、今宵は俺達が晴れて夫婦となる日だぞ! もっと嬉しそうな顔をしたらいいじゃないか!」
「私はアンタの嫁にはならない」
捨助は笑った。
「いや、お前はもう俺の物だ。それはもう約束しただろう? あの男の命も救ってやった、あんな小汚い侍のためにお前は自分を売ったんだよ」
「私はそんな小汚い侍が好きなの。アンタみたいなずる賢く、一人ではなにもできないような男には興味ないわ!」
捨助は顔を真っ赤にして、手に持っていたガラス細工の器を私に投げつけた。それは赤い水を私の着物に残し、床に割れて粉々になった。
「なあむつ、いいかげんにしろよ。お前はあの時みたいに俺に尻尾をふってればいいんだよ――また殴られたいのか?」
「好きなだけ殴ればいい。抱きたいなら抱けばいい。私はそれでも――桃太郎の女だ!」
私は震えそうな声、体を必死に堪えて答えた。私の気持ちはどんな事があっても穢れない。あの人が笑ってくれるなら、私は闘える。
捨助は呆れたように溜息をついた。そして、椅子から立ち上がり、私の肩に手を置いた。
「そんなに言うなら抱いてやる――が、その前に、お前に見せてやるよ、俺の商売を――そして、あの娘達がこれからどうなるのかを――」
肩を掴まれて、私は半ば強引に引きずられながら部屋をでた。湿った空気に冷たい石の壁、そして響き渡る女の泣き声。
「商売はとうにはじまってんだ。見せてやるよ」
捨助の不気味なほどに冷淡な言葉が響いた。
鉄の扉を開くと大きな広間の袖に出た。目の前には異国の服を着た男と、その隣にはほとんど裸に近い女が首に鉄の輪をつけて鎖で繋がれていた。それを品定めするようにお面をつけた男達が口々にお金の額を放っていた。
女は泣き崩れるように顔を両手で覆った。すると異国服の男が両手を縛り上げるようにして女の体の自由を奪った。女は裸体を隠すことも出来ぬまま、哀しく泣き崩れるしかできなかった。
「ひどい……」
私は思わず目をそらした。
「お前達はこれからこうなるんだ。あの女の姿は近いうちのお前達の姿だ、よく見ておくんだな。なあ、むつ、お前にはこうなってほしくないんだ……だから俺を怒らせるな――」
捨助は私の肩を抱こうと近づいた。しかし、私はそれを拒絶した。
「落札いたしました! こちらの商品は九尾の狐様の物となります! 末永くご愛用くださいませ!」
女が買われた……鎖は狐面の男の手に渡った。その鎖を力強く引っ張って女を引きずった。
「いやだ!いやだぁぁぁ!! 助けてぇぇぇ!!」
女が叫んだ。その女と一瞬目が合った。その女はあの日、捨助に声をかけられていた篝火村の娘だった。その表情は恐怖でゆがみ、瞳やには怒りの炎が宿っていた。女は肥えた腹の男に担がれ、闇の中に消えていった。私は恐怖で足がすくんだ。
「なあ! 嫌だろ!? あんな未来は!!」
捨助が不気味に笑った。そしてまた私の髪を掴み、来た道を乱暴に引き返した。
部屋に投げ捨てられるように入れられると、捨助は私の着物を引き裂いた。私は乳房と股を両腕で隠した……。すると捨て助は置くの箪笥から異国の煌びやかな宝飾の着物を私に投げつけた。
「今すぐ抱いてやりたいところだが、まだ商品が残っている。その後でかわいがってやるよ――」
私は引き裂かれた赤く染まった着物を見た。溜息が自然とでた。そして異国の悪趣味な着物を着て、捨助を睨みつけた。
「ふん、じきにお前も快楽におぼれるさ。せいぜい俺を楽しませる準備をしているこったな」
そう言うと捨助は部屋を出た。私は鏡に写る自分の姿を見た。太郎さんならこんな姿の私になんて言うかな? まさか似合うなんて言わないよね? いや、もしかしたら困ったように笑いながらそう言うかもしれない。私はそんな事を思いながら笑った。涙が一滴床に落ちた。だめだ、だめだ、私は今が闘うところなんだ。こんな事で負けてられない。太郎さんや鬼姫が待っているんだもん。私が諦めてどうする!今はどんな恥辱にも耐えて見せよう……。
・・・・・
鬼姫が言ったように太郎さんは姿を現した。その姿は勇ましく、両手に抱えた鉄砲を山賊に向かって威嚇したり、刃向かう山賊を体術で投げ飛ばしたりしていた。不思議と太郎さんは人を殺さなかった。何かに迷うように、しかし、一点を目指して闘っていた。
輪稚屋の姐さんたちも人質に取られた、私も捨助に縄で繋がれ、身動きが上手くできない。
ついに捨助は自分の悪鬼なる怪物を呼び出し、不敵に笑っていた。不気味なその顔は捨助同様、悪に溢れていた。
悪戦苦闘の剣劇の中、幾度も太郎さんは傷つき、その数だけ、立ち上がり刀を手にした。もう、私はその姿を見ているのが辛かった。いっそ私を殺して、太郎さんは逃げて欲しい……そう私は思った。太郎さんがいない世界に私は意味をもう持てないのだから。このままでは太郎さんが死んでしまう、そう思った時、転機は訪れた。
悪鬼に痛烈な一撃を刺し込み、その大きな体を飛びのけ、山賊から奪った鉄砲を捨助に向けていた。
勝った
そう思った。しかし、太郎さんは撃たなかった。私の目を見て、一言『ごめん』と言った。私は撃たれてもよかった。それでこの戦いが終わるなら、私は本望だった。
太郎さんは静かに納得したように頷くと、私の瞳をまっすぐにみつめたまま優しく笑った。私はこの心臓に脈打つ感覚に何を伝えるべきかを迷うようにその人の瞳を覗いた。
彼の瞳は何故か輝いていた。それはまるで子供が何か悪さを企んだ時のような、安堵と不安の交じり合った輝きだった。
「わかぁぁぁ!!!」
フィーネさんの声が響いたのはそれから間もなくだった。堅く閉ざされた扉は二人の魔獣の猪突猛進の体当たりで吹き飛び、土煙るその中に姿を現した。一人の魔獣は首を三つ生やした犬の魔獣で、その大きな姿を私は憶えている。この魔獣はケロ太さんだ。あの夜に私を救ってくれた優しい魔獣だ。もう一人の魔獣は金色の翼を大きく広げ、太郎さんのもとへ必死に駆けていく。余程大切に慕っているのか、太郎さんを見つめるその瞳は母親を見つけた子供のようで、その逆のようでもあった。
「いや、まじで助かったわ。お前達が来れば形勢逆転だ!」
「わか、こやつらを皆殺しにすればよいでござるか?」
「まてまて、殺しが目的じゃない。 俺達は皆を助けに来たんだ。だけど……刃向かう者には容赦なしだ! こちとら命懸けだからな!」
そう言うと太郎さんはフィーネさんに素早く指示をだして、あっという間に姐さんや女達を助けた。
私は少し遠い場所でその姿に見惚れていた。私もいつかこの人たちの力になれるだろうかと思いながら。
悪鬼を倒した太郎さんは銃を捨助に構えながら、私のところへ来てくれた。私はもう、胸がいっぱいの気持ちになった。捨助から開放された安心感と再び触れ合える距離にいる太郎さんの温もりで、私は人生で一番の幸せを感じていた。
抱きしめてくれる愛おしき人の肩越しに私は悪鬼が動き出すのをみつけた……戦いはまだ終わっていなかったのです。




