軋む歯車とその回転
「んじゃ、俺こっちだから。明後日の補習遅れんなよ」
そう言って螢は一人山道を登って行った。プールから帰ってきた俺と螢、そして朱里の三人は夕暮れの日の赤に包まれ、閑静な住宅街を歩いていた。今は二人になった。俺たちの住むN市は田舎というには都会だが、都会というには田舎、そんな場所だ。自然も多く、夏の夜には星が散らばる。騒音に悩まされる事も無い。強いて言うなら、梅雨時には蛙の輪唱に目を覚ます事があるくらいだ。事件や問題といった俺の嫌悪する言葉からは真逆と言える。俺の人生の目指す場所だ。両隣の市はいい噂を聞かないが。
「そういえば樹、あんたこんな噂知ってる?」
螢と別れてから数分。遠くを鳴く烏の声が搔き消してしまいそうな程小さな声で、朱里が俺に話を振ってくる。朱里が噂話とは珍しい。迷信だとか占いだとかに興味がない朱里も、女子高生なりに噂を気にするところはあるのだろうか。
「何だ?噂話はあんまり耳にしないけど。」
正直俺も噂話には疎いのだ。螢はそう言う類の話は大好物なのだが、生憎俺は螢のする話は全て話半分に聞いている。
朱里が顔をこちらに向ける。もしも、もしも何だけど。と朱里が神妙な顔で前置いて言った。
朱里の言う噂話を、俺の脳が認識した。信じられなかった。
「な・・・」
言葉が出ない。冷や汗が吹き出る。動悸が激しくなってくる。おいおい、何で朱里がそんな事・・・いや、あくまで噂だ。過剰な反応は不審がられるか。とにかく何か話さなくては、と俺が口を開いた。
刹那
辺りが黒い霧に包まれる。仰々しい魔法陣のようなものが、空に浮かぶ。それが妖しく光った。かと思うと、つい二十秒ほど前に俺と朱里が歩いていた場所で、聞いたこともない爆音が轟く。猛風が空を切る。ミラーが揺れる。木々が騒めく。崩れたコンクリートが空を舞う。心なしか、空は濁って見える。俺はまだ振り向く覚悟が出来ていない。後ろに目をやってしまうと、今まで築き上げてきた平穏。日常。きっとそれらはもう戻らない。それを理解していた。それに、俺はその正体を知っている気がするから。その轟音の主を。俺は一息つき、あまりの衝撃に声も出せずに腰を抜かす朱里に手を差し伸べ、そしてやっとの思いで振り返る。ああ、知っている。二十秒後の俺がきっとその正体を知っている。
黒いロングコートに身を包み、左目を眼帯、口元を黒いマスクが覆った、小柄な女性。あまり長くない髪は後ろに束ねられている。
一転して静寂に包まれた空気を切り裂いたのは、その空気を作り出した張本人だった。
「迎えに着たよ。父さん」
崩れた家の壁に手を掛け、状況と見合わない涼しい顔をしているであろうそいつは、ぽつりとそう言った。
明らかに異常だ。空に浮かぶ魔法陣が、あいつの存在が普通では無いことをひしひしと告げる。
時間を戻そうとも、あいつの出現は避けられない。既に結果は知っている。ならどうすべきか。朱里だけは逃さなくては。あいつは俺に危害を加える。そして、朱里にもだ。そんな気がして止まない。未だ動けない朱里を抱え、全速力で走る。疲弊しきった体に鞭打ち、全力で。丁字路の角を右に曲がった。兎に角撒くことが目的だった。
目の前に、あいつが居た。
どんな原理かは知らないが、あいつは俺より速く動く。
未だ動けない朱里を抱えて、丁字路を左に曲がる。全速力で走る。疲弊しきった体に鞭打ち、全力で。
やはり結果は同じだった。
「いいか、朱里。この先を右に曲がった先に、交番がある。お前はそこに逃げ込め。分かったか?ダッシュしろよ。」
「な・・・何。何なの。訳わかんないよ。どうなってるの。」
当然だ。俺は見飽きてきたあの顔も、朱里は初めて見るのだから。
説明は後だ。そう言って俺は朱里の方を振り返らずに、あいつに向かって全速力。そして大胆にジャンピングキックを繰り出した。格闘技を微塵もやったこのないこの俺でも、体重と勢いがあればそれなりの威力になるだろう。
説明は後だ。そう言って俺は朱里の方を振り返らずに、あいつに向かって全速力。そして右手を大きく振りかぶり、あいつの顔をめがけて振り下ろした。ケンカなんかまともにやったこともない俺だが、顔面に入れば怯むことぐらい知っている。
そして俺は体制を低くし、腰をめがけてタックルした。ラグビーの助っ人として螢共々活躍した俺だ、人の制圧にくらい役に立つ。
説明は後だ。そう言って朱里が交番に向かうのを見届ける。
「どうしたもんかな・・・」
どの択も、結果は同じようなもんだった。そして得た結果は、俺はこいつに指一本触れられない。と言うものだった。
こいつとの距離は僅か数メートルまで迫った。もうあの時間には戻れない。
「四回・・・いや五回かな?」
こいつが呟く。何を言ってるんだ。
「何の事だ・・・。お前は何なんだよ。ここに何しにきた!俺と朱里に何をするつもりだ!」
「質問は一つずつにしてくれないかな・・・。順を追って答えるからさ。」
長くフェイスラインにかかる髪を手でいじりながら女性は答える。
「やり直したでしょ?五回。」
な・・・何を言ってるんだこいつは。俺の力は他人は認識できない。今までずっとそうだった。だからこそ、俺はこの力を自分の平穏のためだけに使えたんだ。
しかしだ、この女は確かに認識している。回数まで数えている。どうなってるんだ。俺が詳しく話を聞こうとするも、この女に遮られた。
「二つ目の質問ね。私の名前はイラカ。まあ分かってると思うけど、この世界の人間じゃあ無いよ。」
分かってはいた。察してはいた。が、実際本人にそう言われるとやはり信じられない。
俺の動揺を横目に、イラカが話を進める。
「三つ目の質問ね。私はズバリ、樹。貴方を迎えにきたんだよ。私たちの世界に。」
俺が出した質問にイラカは答えている。しかし何故だろうか、全く答えになっていない気がする。
「目的だ、目的を教えろ。言っておくが俺はお前の世界なんざ行く気は無いからな。俺には日常がある。平穏をこの世界で生きる権利がある。」
そう答えると、イラカは少しムッとしたように見えた。
「あえて言うなら後始末かな。言っておくけど、お父さんに否定の権利、無いからね。」
さっきから気に障るお父さんと言う呼び方。聞きたいことは山ほどある。だが、こいつは思ったよりも物理的な危害を加えてこない。今の所は。なら焦ることもないのかもしれない。じっくりと情報を聞き出そう。
・・・なんて甘い考えはイラカの発言によって粉々に砕かれた。
「じゃ、そろそろ行こうか。私たちの世界に。」
イラカがそう言い、何やら呪文めいた言葉を呟く。すると今度は地面に既視感のある魔法陣が現れる。唸る風が吹き荒ぶ。まるでその中心に樹を吸い込むかの如く。
「嫌だね。」
精一杯強がった俺は、もうその運命に逆らえないことを知っている。何故なら・・・
「十三回目だもんね。」
イラカは右目だけで妖しく笑った。その目を、俺は何故か知っている気がした。
「こっちです!こっち!幼馴染が!こっちにいるんです!」
早乙女朱里が交番にいた警官を連れ、樹達が居た場所に駆けつける。が、そこには樹の姿は無く、イラカの出現と共に崩壊した壁面も何もかもが、まるで息を荒げる朱里を嘲笑う様に日常に姿を戻していた。朱里は思わず膝から崩れ落ちた。悪戯かと怒り交番に帰る警官。しかし朱里は樹の残した足跡を見ながら呟くのだった。
「やっぱり超能力。あるんだ。」