ある日常の一つ
私こと小鳥遊樹は普通の人に無い力を持っている。
簡単に言えば記憶を保ったまま十秒ほど時間を巻き戻せるのである。
もちろんこの力は誰にも言っていない、俺だけの秘密である。
こんな能力があれば、人はどうするでしょうか。テストではカンニングし放題。武術では無敵。野球だってサッカーだって、俺に敵う人間はいないでしょう。
なぜなら失敗するたびに何度でも同じ事をやり直せるのだから。
しかし。俺はそんなことはしない。あくまでこの人生を平穏に過ごす事だけにこの力を使うと決めているのです。
だから・・・
「はい、小鳥遊君。夏休みの補習、頑張ってねくださいね~」
大きな丸が一つついた回答用紙を俺に渡しながら先生が言う。
考査の点数が酷いのは仕方のない事なのです・・・
嫌味かの如く照り付ける太陽。その熱線は時間と共に俺の体力と精神力を消耗させていく。
徒歩二十五分の通学路。自転車は禁止。バスに乗るほどの距離でもない。歩くほかないのです・・・
「おーっす樹ぃ!今日もしけた面してんなぁ!」
「あぁ、螢か。今日も浮ついた面してんな・・・」
神社に続く山道から俺への悪態と共に走ってきた馬鹿面の男。岡崎螢だ。
螢とは小学生からの付き合いであり、所謂悪友である。こうして夏休みを返上して学校へ向かい補習を受ける程の学力を持ち合わせる奴だ。
「しっかしなー嫌になっちまうぜ。こんなクッソ暑い中登校だなんて。俺たちは働き蟻かよ。」
よくわからない例えだ。
「まぁでも、高橋先生を毎日拝めるって考えりゃあ、幸せってもんよ!」
「お前ほんと好きだよな、高橋先生の事。」
「あったりまえよ。あんな美人、なかなかいねえぜ?しかも若い!」
「まぁな・・・」
高橋先生というのは俺たちの担任かつ、補習を受け持つ数学の教師である。なかなかの美人、スタイルもよく、生徒からの人気はずば抜けている。とはいえ、先生目当てで理系クラスに来た馬鹿はこいつくらいのもんだろう。
「あ、そういえば樹知ってるか?」
二歩ほど前に進んだ螢が体ごと振り向きながら訪ねる。
何だ?と俺がそう答える間もなく、螢が石に躓き、車道に飛び出す。
「うわっ」
最後に聞いた螢の声。
速度のあるトラック。響くブレーキ。間に合わない。空を裂くような歩行者の叫び声。広がる赤い池。
螢の日常はそこで終わる。
焼け付くタイヤの臭いと、揺れる陽炎。それだけが残される。
「あ、そういえば樹知ってるか?」
二歩ほど前に進んだ螢が体ごと振り向きながら訪ねる。
俺はすかさず螢の腕を引く。
「なんだよ。」
突然の俺の行動に螢はいささか驚いた様子で俺の顔を見る。
「お前よお、足元気をつけろよな。」
俺が指差したのは石。螢の足元に転がっている。
「おお~助かったにゃぁ~」
螢は石を軽く蹴り飛ばした。螢の後ろの車道を、猛スピードでトラックが走りすぎていく。
「ここ最近、変質者がこの辺うろうろしてるらしいぜ。樹、お前じゃないだろな。」
螢がにやにやしながら俺を見てくる。ああ、助けなければよかった。
俺はさっき自分の力を使った。十秒だけ、時間を戻した。
螢の命を救うために。自分の人生を、狂わせないために。
「おい、何黙ってんだよ。まさか図星か?」
「んなわけねぇだろ!おら、さっさといこうぜ」
小走りしだした俺の後を螢が涼しい顔でついてくる。
まったく、お前のせいで嫌な物見たってのに。
俺が見たあの血は、しばらく脳裏にしがみついているだろう。
「あーつっかれた。先生気合入れすぎなんだわぁ。補習だからもっと楽にしてくれりゃあいいのに。」
午前で終わる補習の後、学校近くのファストフード店で螢がハンバーガーに齧り付きながら喚く。
「それじゃあ補習の意味ないだろ。」
でも確かに今日の高橋先生、やけに気合が入ってたな。
「『君たちが考査で点が取れないのは私のせいなんです!だから私が一から君たちを鍛えなおします!!』なーんてな」
高橋先生の真似をする螢。先生を敬っているのか馬鹿にしているのかよくわからんところだ。
「ハハハ、似てんじゃん」
登校時の憂鬱さも、補習からの解放感とクーラーで吹き飛んでしまったようだ。
「なあ樹。」
ストローでジュースをかき混ぜながら螢が問う。
「なんだ?」
窓の外に視線を移しつつ適当に返事を返す。
「お前この後どうすんの?」
「うーん・・・俺も疲れたしなあ・・・。今日は帰って寝るわ。」
へぇー・・と螢が氷を噛み砕きながら相槌を打ったかと思うと
「おっけ!じゃあ市民プールに一時な!」
「は、ちょ、」
螢はそう言ってポテトを無理やり飲み込み、遅れんなよーと言いながら早足に帰っていった。
「はぁ・・・」
なんてこった。体力的にも精神的にも疲れてるってのに。
しかし行かなかったら螢怒るだろうしなぁ・・・と思いつつ俺は重い腰を上げ家に帰ることにした。
「あれ、樹じゃん。何してんのこんなとこで。」
店を出たところで、夏らしい麦わら帽子に、水色のワンピースと白いカーディガンに身を包んだ小柄な少女に声をかけられる。幼馴染の早乙女朱里である。
「補習の帰りだよ。さっきまで螢と飯食ってたんだ。」
「あーそっかぁ。あんたたち、考査の点、壊滅的だったもんねぇ。」
笑いを含みつつ朱里がそう答える。すこし悔しかったが事実なので仕方ない。
「で、今から家帰るとこ?なら一緒に帰ろうよ。」
「ああ。いいよ。」
力なく答えた。
十分ほど歩いたところで何気なく朱里を見る。斜め下に視線を動かさないといけないのがネックだ。
そこで初めて朱里が肩にかけている紙袋に気が付いた。
「朱里、それなんだ?持ってやろうか。」
さり気ない優しさを惜しみなく出していく。
「いいよいいよ。軽いし。さっきまで買い物行ってたんだよー。水着買ったの。新しいやつ。」
水着・・・忘れかけていた・・・この後まだイベントが有るんだった・・・
「ん?どうしたの?まさか私の水着姿想像しちゃった?」
くすくすと笑いながら朱里が言う。だれが朱里のお子様体系を想像するか。
「いやさ、この後螢に無理やりプール行く予定作られちゃって・・・」
「え!?プール?いいなぁ、私も行きたいよー!」
朱里が目を煌めかせながら言う。
「なんなら俺の代わりに行ってきてくれ・・・俺は疲れてんだ。」
そんなことを言うと、朱里は岡崎君に襲われちゃうよー、樹が心配しちゃうよーとか、喚いていた。
螢も朱里みたいなおこちゃまは襲わんだろ・・・これは言わないでおいた。
「わかったわかった。じゃあ三人で行こうな。」
そう言うとわかりやすくにんまりして、
「んふふー」
と、何だかよくわからない声を出した。