九 土曜日は二人きり
古葉君に言われたとおり、出退勤時刻のプリントアウトを手に、私は女子会に臨んだ。ひと通り普段の話題が済んだ後、私は愚痴のふりをして残業があまりにひどいのだと主張し、出退勤表を見せた。
証拠品の効果は絶大だった。みんなが覗き込んで、わいわい文句を言いだした。
「ありえない」
「しかも、毎日じゃない。ひどくない?」
「月、残業五十時間以上だ。いやいや? 六十時間近い?」
「計算したら六十一時間でした。こことここ、二十三時が二回あるんですよ。夕飯の時間は考慮されてないから、相当しんどいです」
私はさも大変そうに言ったが、世の中の「ひどい残業」はもっとひどい。最初に入った出版社ではこのくらいが「通常」だった。今のこの会社では、残業が多い人(うちの課長とか)でもせいぜい四十時間だ。だが「当社比」では六十時間は突出してひどい。
この日の女子会は暮沢さんも呼ぶ回だった。
「小上さん、何なの、ひどいよね。私が文句言ったら、言うこと聞いてくれないかな」
暮沢さんも怒ってくれたけど、もしも私たちの抗議はスルーで、暮沢さんの言うことは聞いたりしたら、課長のこと拳で殴っちゃうぞ。
そしてやっぱり暮沢さんは、じりじりした上目遣いで私を見て、
「……毎日、深夜まで、古葉さんと二人……いいなあ」
とおっしゃった。こっちは本気で大変なのに、お気楽なことで。
「あの、大変すぎてピリピリして、ケンカすれすれになることもありますよ。全然余裕ない中でずっと一緒って、なんにもよくないです。古葉君と、重苦しい雰囲気の中、疲れてイライラしながら向かい合いたい方は、どうぞ教材二課へ」
実はそれはウソ。彼とはストレスを軽減できるくらい、いたわり合い思いやって上手くやってる。でも、深夜まで二人だと要らんことを言われるかもしれないから、大変さの主張も兼ねて「ピリピリしている」と周囲に言おうと二人で決めた。
こうやって大変な荒波の中を二人でがんばっていると、古葉君って紳士だけど意外と亭主関白なのがわかる。日々、夫唱婦随の仲良し夫婦状態。でもそこはヒミツで、女子会では「私と古葉君は劣悪な状況で殺伐として深夜残業をしていて可哀想」ということを皆に強調しておいた。
果たして女子会の効果は絶大で、「教材二課の三月の残業、六十時間超えって異常だろ」という話があっという間に広がった。課長は、私たちには黙っていたが、運営部長に「説明せよ」と呼び出されたらしい。だが、運営部長は例のセクハラオヤジなので、これまた頼りにならない。職場の人間関係を真っ当に築ける者は、セクハラなどしないのだ。
運営部長の席は教務課の奥にあるので、教務の女性が私にその時の話の内容を教えてくれた。「特定の部署だけ残業が過酷だと、パワハラって言われたら反論できないから困る」という、翻訳すると「俺の立場がまずくなるようなことはやめてよね」程度の話だったらしい。つまり部長は教材二課の状況をまったく把握していないことがわかる。小上課長は、運営部長をスルーして社長との直接のパイプが強いから、部長の苦言を聞くより、社長に格好つけてみせることを優先するだろう。それでも、課長の上司が動いたのは、まったく意味のないことではない。
その週のうちに、古葉君が課長に「平日の深夜の残業の仕事量を少し、土曜の休日出勤に回したい」と提案したら、即了承された。私が背後のその空気から読み取った課長の反応は、「部長に対して、これで深夜残業はやめさせた、ちゃんと対処した、って言おう」という感じだった。全然状況は改善されてないの、わかってるのかなあ。
古葉君は、そこでわざとらしく私を振り返って宣言した。
「花房さん、そういうわけで夜は九時で帰ってね。俺、女性一人置いて帰れないから。もう、ひと月残業続きで疲れてきたでしょ、ある程度は俺に任せて、少し休んで」
「……でも……」
私は遠慮を装ってみたが、古葉君はぱっと課長に向き直って、強く言った。
「いいです、土曜は俺一人が出ます」
課長は、それなりに古葉君に負い目を感じてはいるらしく、
「そうか、大変だろうけど、頼むな」
と控えめに答えていた。
その週は、既成事実を作るために古葉君一人が土曜出勤した。翌週には今月制作分の新テキストが大詰めを迎えるので、それを理由に私も土曜出勤を始める。それからなし崩し的に二人で「平日は二十一時まで、あとは土曜出勤」という勤務形態にしていく予定だ。
私は、土曜日に一人で洗濯や掃除をしながら、ふとした瞬間に「今、古葉君は一人でどうしてるかな」などと考えていた。
私(と、古葉君)の放った二の矢は暮沢さんということに(結果的に)なった。月曜日、彼女は、もはや課長不在が日常の教材二課にやってきて、大きな声で報告をしてくれた。
「小上さんに、あの残業なんなのって言っちゃいましたー。ひどすぎますよー。イジメですよねー」
私は慌てて「暮沢さん、声小さく、小さく」と小声で言った。このです・ます調は古葉君向けで、彼もそれは認識しているのでスルーはできず、二人で椅子を回転させて話を聞いた。暮沢さんは課長の椅子に座ったが、私は個人的に、自分に懸想してる男の椅子には座らないな。なんか、いろいろやだ。
「先週の金曜、小上さん、校舎からわざわざ外線で渉外課に電話してきて……飲みに誘われたんですよー」
なんだと? 私と古葉君は二十一時まで残業してたのに、飲みだと? 暮沢さんは定時で帰るのが常だから、どう考えても私たちの残業中に二人で飲む想定だ。視界の隅で、古葉君の眉がピッと吊り上がったのが見えた。
「私、嫌だったんだけど、女子会で花房さんからひどい話聞いてたし、とっちめてやろうと思って誘いに乗りました。頑張ったんですよー」
なぜそこで古葉君を凝視する。アピールはおやめ。彼が困るでしょ。
「一部の部署だけ深夜残業とか、ひどすぎるってさんざん言いました。『部長にも言われちゃったんだよなー』って言ってましたよ。じゃあ改善してあげてください、って言ったら『大丈夫、五月までの辛抱だから』だそうです。それまでに死んじゃいます、って文句言ったら『それで死ぬくらいだったら、もっと世の中の人は過労死してるよ』だって。『俺なんか土日も全部仕事だよ』とか自慢しはじめたから、私、けっこうキツく『管理職は会社の責任をとって当たり前じゃないですか』って言い返しちゃいました。グウの音も出なかったらしくて、しぼんでました」
おお、暮沢さん、正しい理屈でやりこめたね。まあ飲み会で私も、そういう理屈をこねてもらえるように、伏線は引いておいたけど。
「二人が倒れる前に、小上さんは教務の課長になって、古葉さんを教材二課の課長にしたほうがいいんじゃないですか、そしたらバイトかパートも雇えるし、って言っときました」
あ、古葉君の顔が曇った。私の方が一年先輩なのに(年齢は同じだけど)、彼女が古葉君を課長にって言ったのを、「まずい」と思ったんだな。いや、世の中そんなもんだよ。男女似たような立場の職員がいたら、選択の余地なく男が上に行くのが日本って国だ。
「私、力になりたいんで、何かあったら言ってくださいね」
そう言い残して暮沢さんは出ていった。彼女の気配が消えてから、私は、
「私、古葉さんの力になりたいんで、何かあったら言ってくださいねぇ☆」
と小声で口真似をして、ぶふっと笑った。からかったフリをしたけれど、たまには女子らしく、ヤキモチ焼いてイジワルしてみたの。あと、古葉君を課長にどうとかこうとか、気にしてないから。そういう微妙な気配も消したくて。
古葉君が何か言いたそうだったので、私はさっさと「はい、仕事仕事~」と流してしまった。彼も黙って前に向き直り、しばらくはじっと仕事をしていたが、どうしても我慢ならなかったのかぼそっと言った。
「暮沢さんが活躍するのは、俺はあんまり望んでない。あと、男だから俺が上に行く、みたいな話も好きじゃない」
わかってますよ、そんなこと! と、思えば通じる便利な私の顔。古葉君は、私の笑顔からちゃんとその返事を読み取って、まだ若干不本意そうながらも自分の仕事に戻った。
さて、その週から、私も土曜出勤が始まった。課長に「テキスト校了まではどうしても」と言って了承を取ったが、その後はゴールデンウィーク教材地獄で土曜出勤必至だろう。
思った以上に、土曜出勤は楽しかった。まず、電話がいっさい鳴らないのがいい。土日は本部事務所の電話を留守番電話のみにしてしまうので、そもそも着信音が鳴らない。それから、教材二課の隔離空間が入口から少し奥まったところにあるから、車の音もほとんどしない。まさに都会の静寂。なんとも言えない異空間。
そして一緒にいるのが古葉君、というね。二人っきりの土曜日がとってもハッピー。これ、状況はいいとして、私の心境が婚約者にバレたらほんとにまずいよなあ。もちろん(絶対ないけど)迫られたら殴ってでも断るから大丈夫、浮気はしませんよ~。
古葉君は線引きをきちっとする人なので、土曜出勤だからって気を抜いてだらだら雑談したりすることはない。タイムカードに打刻している以上は給料が出ているわけで、私もそこはきちんと認識しているし、何より古葉君に軽蔑されたくないから仕事のこと以外会話しない。私が初土曜出勤した日、教務の仕事の合間を見て課長が様子を見に来たけど、入口から中を覗いて、「物音ひとつしないから、誰もいないかと思った」と驚愕していたくらいだ。古葉君はそんな課長に、嫌味にならないようにちゃんと笑顔で「仕事以外のことをする暇があったら、さっさと帰ります」とクールに言い放った。
一番いいのは、土曜出勤だと古葉君が一緒にお昼に行ってくれること。隠れ家の喫茶店に行く必要はなく、お店も好きなところに行ける。一緒の初日に「お昼はどうするのかな」と思っていたら、古葉君が「こういう時くらい一緒に行こうよ」と言ってくれた。
休日出勤は時間制の手当加算なので、実動は八時間なくてもいい。二人で「九時か十時を目安に出勤」と申し合わせていたが、なんとなく九時半に出てくる感じになった。普段と同じ九時に出勤するのはせっかくの休みなのに損した気分だし、かといって仕事の分量はそれなりにあるし、夜は遅くなりたくないし……ということで九時半。
なんだか、土曜日の二人出勤、二人ランチが楽しみで、異様に多い仕事量もまるで苦にならなかった。婚約者の帰国が六月末に決まったこともあって、古葉君がいなくなる「夏」まで、せめてめいっぱい一緒に楽しく過ごしたかった。これ、気持ちのうえではもう浮気だよな。永遠に私の心の中だけに秘めておこう。
私自身がこの資格系の専門学校を去るかどうか、結論は出ていない。二人そろって辞めるのは、会社への「仕返し」にしか見えない気がして。
辞めるとしたら、古葉君をちゃんと送り出してあげて、次の人を育てて、仕事をすべて任せてから。少なくとも、あとを濁さずに……。私はそう考えていた。
四月最後の一週間を前に、教材二課は緊急事態に陥っていた。この時期になってもゴールデンウィークのミニ講座用の原稿が一つも来ていない。昨年は四月二十日過ぎからもう教材の制作に入っていたのに、遅すぎる。私は本部校舎にいる課長に内線で講師への催促を頼んだ。
翌週の木曜から講座が始まるのに、金曜日の定時の段階で原稿の提出はゼロ。校舎に行っている課長のメールを見ることも許可してもらったが、どこにも来ていない。
「どうしよう、とりあえず、原稿来るまで動けないから、今日はあきらめるしかないかな」
金曜の十九時過ぎ、私は古葉君に問いかけた。この道ベテランの課長がいなくて、昨年のペースでは作れないのに、日程が全然ない。去年はこの時期、もう五つ六つできていた。
「……明日出勤してきても、原稿来てないかもしれないんだよね」
古葉君は言った。私は深刻な顔でゆっくりうなずいた。絶望的状況だ。
「だから何か、……せめて、来週の平日の仕事をこの土曜で済ませておいて、スタンバイだけはカンペキにしておくとか……」
全力で対応を考えたが、原稿がない以上、直前の仕事を空けておくくらいしか考えつかない。でも、これ以外の普段の仕事がゼロになることはどうしてもない。手詰まりだ。
古葉君はふいと顔を上げて言った。
「――去年のこの時期の教材ってすぐ、まとめて出る?」
「ああ、ファイリングしてあるよ、ここに……」
私は棚から三色の(資格試験ごとにキーカラーを決めてある)「GW教材」のファイルを出して古葉君に渡した。
「ちょっと俺考えるから、花房さんは講師への原稿の催促のほうをお願いしていい?」
教材原稿の担当講師は七、八人いる。私が必死で悲壮感を伝える催促メールを順次出していると、古葉君の声がした。
「――うん、ちょっと希望の光が見えてきた」
とりあえずはメールを出し終えて、ファイルを繰っている古葉君の手元を覗き込んだ。彼は顔を上げて説明してくれた。
「GWのミニ講座って、この、埋め込みの解答欄作るのに時間がかかってるよね。複雑な解答欄はないけど、一つ一つに欄を作ってるから、ページ内の配置も考えないといけないし、教材のページも増えてコピーと綴じの手作業が増えるでしょ。でも、『○○字以内で』っていうのはほとんど二十字か四十字か百字だから、二十字のマスが何行も並んでる解答欄を作れば何にでも使えるよね。試験をやるんじゃなくて授業で使うんだから、二十字の問題に百字分のマスがあったっていいし。他の解答欄も、上のほうに大きめの枠を切って、下のほうにノート用のリーダー罫を入れておいて、何の問題にでも使える解答欄ペーパーを作るのはどうかな。解答欄はもう明日のうちに全部作る。枚数は多めに用意して、たくさん配って、好きなように使ってもらって……」
つまり、解答欄用紙を汎用タイプにして先に今作ってしまうわけだ。そして講師から原稿が来たら、それだけを整えて羅列すれば講義に使えることになる。
「実際は、問題の内容によっては使いづらいことも出ちゃうと思うけど、こうなったら最大公約数でやらせてもらうしかないよね。いいほうの紙で刷ってパンチで穴あけて、リーフレット状にしてあげれば手抜きには見えないでしょ。受講者に自分でバインダーを持ってこいって言うのも不親切だし、穴あきファイルつけてあげて、綴じてもらえれば、見直した時わかりづらくはならないと思うよ。小上さん、というより『教務課長』に、二つ穴パンチ用の紙のファイルを生徒に配れるか聞いてみて。俺じゃなくて花房さんが言ったほうが絶対いいから、課長に連絡よろしく」
さすが、教材見直しはお手のものだね。コストじゃなくて手数を基準に因数分解して教材の構造を整理し直したのか。私は課長に連絡して、古葉君の案を「私が考えました」の体で語って聞かせた。古葉君が優秀だとへそを曲げそうだから、課長にだけは私の手柄。
「間に合わないのは困るからな、任せるよ、俺は手が出せないし……」
課長の返事は頼りないが、教材二課長と教務課長の了承を同時に取りつけたぞ。しかも教務の倉庫には、二つ穴パンチ用の厚紙のファイルがけっこうな数あって、最近はこれが使われず在庫が減らなくて困っていたとのこと。まあ古葉君もそんな記憶があったから考えたそうだけど。よし、準備OK。なんとかなるような気がしてきた。
この金曜の夜のうち、本年度GW講座全体に一律に使用する「解答欄」三パターンの版下を作った。最初に考えた二つの他に、三つめとして、講座名や単元を書く欄だけで、他は広々と無地のものを追加制作した。
あとは原稿を催促し続けながら来た原稿をすぐに教材に仕上げていって、とにかくがんばって間に合わせるしかない。せめて土曜に少しでも原稿が来てくれることを祈った。
土曜朝九時十五分、気持ち早めに事務所に出勤してみると、古葉君はもう来てコピーを回していた。昨夜は版下だけ作って帰宅したから、今日はコピーとパンチ。パンチ穴を空ける作業まで教材二課がやるかどうかは検討のしどころだったが、古葉君の「課長の原稿依頼ミス、つまり教材二課の責任でこういう作りになってるんだから、ウチがやるべきだと思う」という意見に納得した。この土曜出勤でさばききれないほどジャンジャン原稿が来るとも思えなかったし(来たほうがよかったんだけど)、物理的にも作業は可能だろう。
祈りつつ私のメールを開けたら、添付ファイルつきの講師からのメールが一通来ていた。いつもやたらと原稿制作が早くて助かる、橋上さんという講師からだった。
『今回は依頼が二週間遅かったので心配していました。実はあらかじめ作ってあったので小上さんの指示に沿って若干手直しをしたものを送ります。』
二週間も依頼が遅かった!? 私は驚愕した。この講師は「あらかじめ作って」いてくれたからすぐにくれたが、他の講師は一体……。
本部校舎にいるはずの小上さんに内線してみたが、講義に出ているという。こうぎ?
「講師の手配が上手くいかなくて、この時間のこの講座、小上さんが講師やってるんです」
内線を受けてくれた教務課の人はそう言っていた。小上さん、その資格持ってないじゃん。当専門学校の宣伝文句は「有資格者による徹底指導」だぞ。以前も小上さんがプレ講座で講師やってた話があったな。多分、教材ずっと作ってたから、小上さんの講義はそんなにおかしくはないだろうけど、すでに瓦解してるよウチの講座。
課長への連絡は後回しにして、手に入れた教材原稿を編集しはじめた。果たして、こちらの先まで読んでくれる優秀な講師の原稿は、必ずきちんとしているものだ。文字部分はすぐに仕上がった。
次は教材としての体裁を整える。今年のGWミニ講座用の教材ヘッド(大見出し部分)を作るのは、昨年のデータをアレンジするだけだから楽なもの。そこに今の原稿をそのまま流し込み、ふりがななどの、組版ソフトで加工しないと整わない部分を入れて完成。
土曜の午前中で一丁上がり。文章をただ流しただけでほぼ完成するのだから、早いわけだ。解答欄のボリュームや形状に悩んだり、全体のページレイアウトに手間取ったりする時間が全然ない。
「できちゃった」
「早いね! さすが花房さん、ベテランだけあるよ」
古葉君のヨイショが入る。私、まだ三年目だよ。
「項ごとの解答欄づくりと全体のレイアウト調整がなくなるだけで、こんなに早くできちゃうとは思わなかった。すごいよ、古葉君」
恐れ入りました。全部がここまで簡単ではないだろうけど、なんかあの絶望から突如見通しが立ってきた。古葉君、ほんとに課長やらない? コミュニケーション能力高いし、マネジメントの概念を理解してて管理能力ありそうだし、視野も広いし視点も多角的、トラブル対処能力も高い……。あなた適任だと思います、マジで。
なお、教材は担当講師たちに講座の準備として読んでもらう必要もあるので、出来上がった教材を解答欄用紙とともにメールで各校舎教務課に一斉送信した。
ちょうどそこで講義が終わったであろう時刻になったので、課長に内線した。
「小上さん、橋上先生から原稿入ってたんで一つ終わりました。各校舎教務に送ってるんで、そっちの小上さんのアドレスにも行ってます。でも、依頼が二週間遅かったってメールに書いてありましたよ。二週間って、他の先生はアウトじゃないんですか?」
「橋上さんやっぱり早いな~。あのね、依頼内容固めてから依頼しないといけないでしょ、それがはかどらなかったから、遅い先生には先に、早い先生には後から頼んだの。だから橋上さんのは依頼が遅いの。原稿遅い先生のは、ちゃんとひと月前に急いで頼んでるよ。スケジュール調整、大変だったんだから」
何自慢だ。大変なのはこっちだ。でもまあ、全員に二週間遅れで頼んだわけじゃないことがわかってよかった。
「教材二課のほうの小上さんのメールも開きますからね。橋上先生は私の催促メールへの返信に添付してくれたけど、小上さんの依頼メールへの返信だと、原稿データそちらに行っちゃうんで」
「いいよ、開けて。悪いけど頼むね」
課長、殊勝だけどさ、できないなら今後は最初からこっちに振って。今後もこの調子で「いつの間にか遅くなってる」とかやられたら、たまらん。
小上さんのメールを開けたら別の先生からも原稿が届いていた。これも比較的手のかからない原稿を書いてくれる講師なので安心。もう一通、すぐに作れそうだ。
その時点で時計を見ると、ほぼ正午。古葉君に声をかける。
「もう一通原稿来てるから、お昼、もう少し後でいいよね」
「いつでもいいよ、こっちは単純作業だから」
古葉君は、私が仕上げた橋上先生の教材をコピー中。普通のコピー用紙じゃなくて、少し厚くてアイボリーの色調の教材用紙を使う。ホントは、版下を印刷所に入れてダイレクト印刷をかけたほうが楽だし綺麗なのだが、「今日版下できたから、明日までに刷って」とはいかないので仕方ない。
二つ目の原稿の全体の文章を整えて、素読みと校正のために一旦プリントアウトしたら、十二時半を回っていた。
「古葉君、おなかすいたー」
「じゃあ、メシ行くかー」
土曜出勤はこれが最高に楽しみ。よこしまだな~私。真面目に働け。いや、充分真面目にやってるよね。
その日は私のお気に入りの、かなり特殊なエスニック料理を出してくれる店に入った。
「原稿の依頼状況、どうだって?」
古葉君はすでに怪訝な表情になっている。もはや課長とは完全に相容れないね。表面上は上手くやってるけど、信頼関係はゼロ。
「『遅い先生には先に、早い先生には後から頼んだの。スケジュール調整、大変だったんだから』だってさ。全員に遅く依頼したわけじゃないみたいだけど……」
口真似を入れて答えると、古葉君はしばらく呆れた顔でじっと私を見ていた。この構図、私が呆れられてるみたいで不本意な感じだ。
「スケジュール管理に時間を費やす、これは仕事が遅い人の典型的なやり方だよね。それは実働時間ではない。そこに三十分かけたら、単純に三十分仕事が遅れる」
うーん、正論なんだけど、古葉君、いささか優秀すぎない? それができたらベストだけど、課長はまあ、悪いなりにそこそこがんばったよ。私も、古葉君ほど優秀には仕事できない。そしたら、いずれは私も軽蔑されちゃいそう。
「……またつい愚痴っちゃった、ごめん」
古葉君が詫びる。私が「それは古葉君が特殊なだけ」って顔しちゃったからな。
「そういうことじゃないよ。古葉君は、世の中の人の能力が自分より劣るという認識を、ちゃんとしたほうがいい。愚民とはいえ、皆、がんばってる。もちろん今回のこの事態は課長クソバカ野郎って思うし、迷惑かけられてるんだからめっちゃ愚痴っていいよ。愚痴はたくさん聞くよ。でも多分、世の中の多くの人は、古葉君ほどの能力はないんだよ」
私、説教くさーい。でも、それを認識してないと、古葉君が人生で疲れるでしょう?
「俺、なんも別に能力ないし」
「素直に聞け! もう。あなた優秀なの。私より一年遅れてるのに、どっちかが課長やるんだったら絶対古葉君が適任。古葉君の指示で動いてると、筋が通ってるし効率もいいし、トラブルへの対処も最善を尽くしたと思える。そんな人、そういないよ?」
古葉君は目を伏せて水をしばらく飲んでいた。少々長い間コップを口にやっていたので、私は「あっ、これ、感情を隠したい時の人間のよくある行動だ!」と思った。私が本気の本気で褒めたから、相当照れた模様。面白~い。
「……お褒めにあずかり、恐縮です」
やっと言葉を見つけたらしく、彼は目を伏せたままそう言った。どういたしまして。
「キミは本当に素直に人を褒めるよね」
古葉君の褒め返しだ。うれしい。
「ふふー、心根が素直で美しいからー」
なんつってな。そこで調子に乗るのがダメだよな。
「……そうだね、本当にそう思うよ」
ええーっ、私の返事は、笑うところ! こんなねじ曲がってカッコつけでウソツキな奴に、そんな冗談言ったらイカンって!
内心ではそうして言い返しつつ、実際には全然言葉が出なくて血圧上がっちゃった。絶対今、顔赤くなってる。案の定、えらく笑われた。
「最後は、俺の勝ち」
なんだと、何の勝負だ!
「でも、言ったことはホントだよ。相棒が花房さんで、よかったよ」
古葉君は上機嫌な様子で珍妙なエスニックの肉料理を食べはじめた。何その、変な肉。
彼はちらっと私の顔をうかがって、可笑しそうに言った。
「冷めるよ、変な肉」
しまった、同じものを頼んだんだった。人の心を読むな!
事務所に戻って二つ目の教材の版下を仕上げた時点で午後三時。ホントに早いぞ、これ。あとはコピーするだけ。解答用紙もまだ順次制作中だけど、あとは単純作業。……本当なら原稿がもう一通くらい来てくれると助かるんだけど。
古葉君がその状況を見て私に言った。
「後は俺やるから、帰っていいよ」
「古葉課長のご指示とあらば……」
「そういう冗談、好きじゃない。花房さんは俺の先輩。でも、単純作業だから、もう帰っていいよ」
「大変でしょ、私も普通にやるよ」
「……実は俺、もうここでタイムカード切っちゃって、この後音楽かけながら楽しくやりたいの。でもキミが仕事中だと音楽かけられない。帰って帰って。俺のプライベート空間にして、だらだらやる。ここにあるのは今日、間違いなく終わるから、ご心配なく」
えっ、楽しそう。でも私がいるのは邪魔ってことかな。プライベートには入り込んでほしくなさそうだし……。
私が戸惑っていると、古葉君は説明してくれた。
「今のは、俺が一人になりたいっていう意味じゃない。俺がだらだらやるのに人を付き合わせられないってだけ。花房さんのプライベートタイムは、それはそれで自由だから、出ていけとは言わないよ」
じゃあ、もうちょっと、古葉君と一緒にいたい。
「そうだ、無断より、内線一本入れとくね、小上さんに」
「それは賢明だね、よろしく~」
また、教務に内線。今度は課長本人が出た。二科目分を教材のスタイルにまでできたことを報告して、「音楽をかけたいから、ここから仕事扱いでなくプライベートタイムとして作業する」と告げた。課長は、自分も一人で休日出勤している時は音楽をかけているそうで、「普通に、仕事中の扱いで音楽かけていいよ」と言ってくれた。
「多分、あと二時間もかからず終わると思います」
そう言って電話を切って、古葉君に確認。
「仕事中の扱いで音楽かけてもいいってよ?」
「花房さんは仕事扱いにしたら? 俺は音楽をかける以上、仕事にはできない性分だから」
古葉君はさっと立って、事務所入り口にタイムカードを切りに行ってしまった。あーもう! そういう人だよね。融通がきかない、変なとこだけ賢くない!
タイムカードの機械の前で並んで、順番に打刻する。
「私もプライベートで紙折るよ。邪魔だったら言って、ホントに帰るから」
「いてくれていいけど、俺、……歌うよ」
えーっホント? すっごい、聴いてみたいんだけど。歌うって……何それ。
「完全に俺が好きな曲かけて、俺が音痴な歌ずっと歌っててよければ、どうぞご一緒に」
古葉君はそれから、なんかかっこよさげな洋楽をかけて、ずっと英語の歌を歌いながら紙を折ったりパンチの穴を開けたりしていた。私はそれがおかしくて、ずっと笑っていた。
一回、課長が様子を見に来たが、私たちのそのヘンテコな様子にやっぱり笑った。
「楽しそうだな、心配いらないな」
課長のその声に、二人揃って、
「大丈夫でーす!」
と答えて課長をそのまま見送った。
こんな楽しすぎる休日出勤を本当にありがとう、古葉君。あなた、可笑しすぎ!