八 人事異動
二月に入って間もなく、各所で人事異動への内示が出はじめた。私はこっそり古葉君に「どうだったの」と聞いたのだが、彼に内示は出ていなかった。あれ?
だが、教材二課に異動は無関係ではなかった。
「――二人とも、ちょっといいかな?」
朝、始業のチャイムが鳴って数分後、課長が椅子ごと振り返って私たち二人に声をかけた。私も古葉君も椅子を回して、体が課長に向くようにした。時々やる、軽いミーティングのスタイルだ。
「実はね、僕が教務課課長を兼任することになったんだ」
えええ! あ、でも、教務課長はこのところ、かなり休みがちになっていたっけ……。
「教務の佐藤課長は、先日、入院が決まって、半年から一年の休職となりました。それで、教材もわかるし、講師とも話ができるので、僕がここと教務を兼ねることになりました。ただ、教務はうちのメインだし、現場にいることが多くなると思うので、教材二課はかなり二人に任せることになると思うんだけど……」
そうか、教材二課は、古葉君が異動して「課長+私」になる案と、課長が兼務になって「私+古葉君、不足分は課長も力になる」の二つの選択肢があったんだ。どっちがいいかと聞かれて、私は課長と答えたけど、今いる誰かから教務の課長を兼ねる人が出るなら、明らかに小上さんが適任だろう。
ただ、三人必要だった部署が二・五人、あるいはそれ以下になるのだから、負担が増すのは間違いない。
「それはもう決定ということですね」
古葉君が確認した。課長は黙ってうなずいた。
「わかりました。がんばりますので、お力添えをお願いします」
座ったまま古葉君がお辞儀をしたのに合わせて私もお辞儀した。
「よろしくお願いします。私もがんばります」
まもなく発表された辞令によると、営業課から三名退職するため庶務課から野口さんが人員補充として異動。うちの課長が動くから古葉君が動かせず、野口さんを移したんだろう。野口さんは、営業、上手くやれるのかなあ。教務のマリオ君のほうが……と言いたいところだけど、営業担当「山田麻利男」でイタリア人顔の人が出てきたらびっくりだよな。
あと、渉外課は総務部所属から営業部所属に変更。「渉外」は一応残したものの、元々広報業務をやっていた宣伝課とほぼ合併という構図だろう。
教務課長が長期休職、教材二課長(つまりうちの小上さん)が教務課長を兼務。
そして一番大きいのが、学校長の退職だった。元々若干お飾り気味ではあったけど、この学校を興した人なので、現在確か六十二歳くらいのところ、七十すぎてもそこに座っているものだと思っていた。でも、もしつぶれるのなら、今いなくなるほうが賢明ってことになるのかも。
二月半ば、退職者の送別と部署再編の挨拶を兼ねた飲み会が開かれた。バレンタインの時期でもあるが、さいわい「社員同士の儀礼的贈答は禁止」なので義理チョコに頭を悩ますことはない。暮沢さんは「つまんないよね」と言っていたが、私は大いに結構。
飲み会では、退職する小松さんが「花房さん、こっちこっち」と隣に私をご指名だったので、そこに座った。この人、ホントに私のことを気に入っているらしい。変な人。
小松さんの隣に座っていた営業部の男子が、「こいつ、すっごい花房さん推しだったんだよ」とせっかく暴露したのに、小松さんはしれっと、「うん、ちゃんと告白した」と答えて済ませてしまった。視界の隅で、斜め前方から野口さんがこっちを見ているのがわかる。なんだこの構図。モテ期か。
野口さんは、納会で私が婚約者について発表して以来寄ってこない。なんかまだ見てるっぽいけど、とりあえずこの場は気にしなくてもいいだろう。
小松さん他の若い男性陣としゃべっていたら、視界のはるか先で、暮沢さんが古葉君の横に座った。古葉君が、涼しい顔を維持しようとしつつも微妙に強張っているのがわかった。大人の対応をすると言っていたけど完璧にはできないみたい。彼も所詮は人間だなと、安心しつつ笑ってしまった。
「ねえ、最後のチャンスだから今度こそ教えて。花房さんも古葉くん推しなの?」
小松さんが、一応気を遣ってちょっと小声になって聞いてきた。他の人たちはちょうど会話の輪から外れていた。
「ほんとに誰推しとかないですー、天に誓ってー」
天よすまん。嘘つきました。小松さんも「嘘つきー」という顔で見ている。ダメダメ!
「古葉君については特に、二人だけでいることが多い部署なんで、変なふうに思っちゃったら仕事に集中できないじゃないですか。別の部署ならわかりませんけど、近すぎて別格です」
そう、自分を騙すことも社会人として大事な務め。変なふうには思ってないぞ、と。
「そんなもんかな。彼の何が女子を引きつけるのか聞いてみたかったんだけど。彼、女子からすごく好かれてるでしょう、うらやましいなと思って」
小松さん、モテたい人なんだ。案外、もうちょっとイケメンじゃなければ、もっとモテるのかもよ。そのへん、不思議なものなのよね。
「うーん、古葉君かあ。親切なナイスガイですけどね。真面目で、ウソをつかない人。でも、そんな人はたくさんいますね。古葉君特有の長所とかは、私は、よくわかんないです」
古葉君の特徴は、小賢しくて手堅いところ、ひねくれてるところ、頭でっかちで可愛げがないところ、だけどね。これ、ホメてるつもり。
私の無難な回答で、小松さんは引き下がってくれた。よかった。野口さんが一瞬横目で私を見て、ちょろっとビールを飲んでその様子をごまかしたのが見えた。今の話、がんばって聞こうとしていたらしい。そういえば前、課長も暮沢さんが古葉君トークしてるとき、口元をコップで隠してたな。人が変な所在ない感じで口元に飲み物を持っていくのは、何か隠したい感情の動きがあるときなんだな。
それからしばらくして私は「イケメンなんだから、ちゃんと他の女子にもお別れの挨拶をしてこないと」みたいなことを言って小松さんを送り出した。それから、暮沢さんがたまたま一人でいたので(彼女が一人というのはけっこうレアだ)、隣に行ってみた。
「暮沢さん、お疲れ様です」
「おつかれさまー。小松さんが花房さん推しなんだって? 聞いたよー」
「ただの冗談ですよ。相手のいる女子を言っておけば無難だし」
「見た目的には、彼、一番のイケメンじゃん。うらやましいぞー。古葉さんとも、いつも密室で二人っきりだしさー」
人聞きの悪い。あれは密室ではない。ドアないし。
困惑した笑いを浮かべていると、暮沢さんは、ぐっと真面目な表情になって顔を近づけ、小声で私に言った。
「――ねえ花房さん、私に、古葉さんちょうだい」
「はえっ?」
変な声を出してしまった、フォローフォロー。
「私のモンでもなんでもないんで、あげようがないです」
暮沢さんがじっと私を見据える。何をおっしゃる、私のものだったら断固あげないよ。
しばらくにらめっこをした後、暮沢さんはぷうっとふくれて前に向き直り、
「彼、手強いんだよね」
とつぶやいた。いやいやアレはアナタには落ちませんよ、本気でいい男を落としたいなら他を探したほうがいいと思います。でもとりあえず、このことを確認してみよう。
「暮沢さんは、結婚したくない系の人ですか?」
古葉君を狙うならその前提条件があるんだが、そこはどうなの。
「うふ、古葉さんとは結婚する気ない」
なんじゃそりゃ。でも、古葉君の条件はクリアするわけだ。
今度は暮沢さんは、私に横からしなだれかかって、ささやくようにこっそりと言った。
「私の勘だけど、古葉さんあなたのこと好きだと思う。……負けないから」
どうしてこう、女子女子した女子って、勝手にいろいろ恋愛に結びつけて人を疑ったりするんだ。古葉君はそういう無駄な誤解がないようきちっと線引きしているのに。
「私は負けるので、『勝負あった』でいいですよ」
私は背筋をすっと伸ばして座ったまま、自分なりにかっこよく答えた。彼は、私が好きなんじゃなくて、あなたが苦手なの。言えないけど。あと……『勝負あった』は私の負けじゃなくて、ホントは私の勝ちだからね。
また暮沢さんはぷうっとふくれた。私はそういう可愛いっぽいしぐさがどうしてもできない。できる人がうらやましい。
「花房さんだって、古葉さんのこと好きなくせに」
そうだけどね。っていやいや、そんなことないよ。
「ええ、人として好きですね。でも恋はしませんから」
「決まった相手がいたって、恋をすることはあるでしょ」
おいおい。恋なんかしませんよ。まあ確かに、かるーく好きにくらいはなるけどね。そのしなだれかかってるの、若干重い。
膠着状態のところに、下世話な声が降ってきた。
「おーおーそこ、なんかレズビアンっぽくなってて色っぽいぞ、新境地開拓か?」
いつもだと「げげー」と思うところだが、ここはセクハラ部長に感謝。暮沢さんは私に預けていた肩を離して、部長にというより周囲にアピールするような風情で言い返した。
「もうー、そういうのじゃなくて、女の戦いですー」
私は速攻チャチャを入れた。
「私は戦ってないです」
「そうなんです、この人、勝ち誇っちゃってて勝負してくれないんですー」
これをきっかけに彼女は矛をおさめ、また各所といろいろしゃべりはじめた。
でも、暮沢さんは面倒な人だが、私にストレートにこうやってぶつけてくるんだからタチは悪くない。本当に面倒な女子は、表面的には私に好意的なふりをして、古葉君に私の陰口を吹き込んだり、仕事の足を引っ張ったりするものだ。「女子は、幼稚で可愛くってしょうがないなー」と、男らしく看過してあげることにしよう。だって、古葉君は絶対に彼女には取られないもん。うふ。
週が明けて、月曜。課長は私たちに指示を出すとすぐに教務課に行ってしまった。辞令の発動は三月からだが、教務課長がもう休んでいるのでやむをえまい。課長も大変だ。
お昼タイムの十二時半、古葉君は机の上を整理して、カバンを手にしたが、立ち上がる前に声をかけてきた。
「金曜、飲み会で、暮沢さんにからまれてたね」
例のバトル、見てたのね。自分の話がされていることにもうすうす気づいてたかな。
「彼女、大好きな古葉君と部署が一緒の私がとにかくうらやましいんだよ。大丈夫、古葉君のことは私が守ってあげるよ」
今の自分の言ったの、ちょっと面白いな。騎士役逆転だ。古葉君は渋い顔をした。
「……俺、言っちゃおうかな、めんどくせえって」
「せっかく女子に人気者なんだから、おやめなさいそんなこと。もう、ごはんはあからさまに断っていいと思うけどね。でも大丈夫だよあの人、ストレートな分、怖くないよ」
「何てからまれてたの?」
「『古葉さんちょうだい』だって。大変ね~。あと、古葉君が私のこと好きだと思うって言ってたから、それはがっつり否定しておきなさいね」
私は面白がっているふりをしつつ、実は古葉君のリアクションをうかがってもいたのだが、彼は表情一つ変えず冷静そのものだった。残念ながら暮沢さんの邪推は本当に「邪」推でしかないらしい。ちょっとくらい動揺してくれてもいいのに。
「ああいう人は、俺が『花房さんのことは別に』とか言ったところで、じゃあ誰々でしょ、それとも誰々だ、って延々とやってるよ。花房さんはそういうのも上手く立ち回ってくれるから、今のままにしておいて」
「ありがたく承りました。頼りにしてよ!」
私が言うと古葉君はニコッと笑って、それを返事に代えてお昼に出ていった。俄然やる気。古葉君を守るミッションは目下のところないから、代わりに仕事をがんばろうっと。
その週のうちに営業課の希望退職者三名は会社を去った。小松さんは最終日、私とお昼に行った。そして夕方挨拶に来て、親しかった古葉君がいることもあって、少し教材二課に長居をした。事務所のイケメンが一人減った。しかも私に好意的だった人。惜しいなあ。
その翌日、古葉君が帰っていった途端、久方ぶりにノックの音がした。小松さんがいなくなって気が楽になったのか、野口さんの登場だった。
「花房さん、ちょっとお聞きしたいのですが……」
緊張の面持ちで教材二課に入ってきた野口さんは、左右を見て、課長の椅子を指した。
「ちょっとだけ、座ってもよろしいでしょうか」
古葉君の席は避けたようだ。普通はわざわざ上司の席のほうに座らないと思うが。どうせ二人ともいないから、いいんだけど。
「ああ、どうぞ。課長は戻らないですから」
あんまり長居しないでね~、私も帰るところだから。
「失礼します。その、僕は三月から、営業課に異動するんですが……他の人より、講座に対する知識が少ないので、今のうちに少しでも勉強しておきたくて……」
「パンフレットはもう読みました?」
営業ツールの基礎の基礎だ。事務所の玄関のパンフレット立てに全部揃ってるぞ。
「あ……そうですね」
見てないのかい。庶務課は意外と縁がないのかもしれないけど。
「あの、うちの講座の中で、一番大きいのは何なんでしょうか?」
うちの柱の資格二つ、まさか知らないの? いや、いずれにせよ、そんな問答に割いている時間はない。資料を読め。社内にいくらでもある。
「庶務課がやってる人事の採用活動の時に使ってるパンフレットが、一番、ウチのことを客観的に書いてあると思いますよ。採用担当は高森さんがやってるんでしたっけ」
「ああ、そうですね。その……」
あ、モゴモゴしてる。この行動、あまりいい状況下でなされなかった気がする。
「採用活動のパンフレットは庶務課、講座のパンフレットは全部事務所の玄関。異動前に予習しておくんですね、熱心ですね。がんばってくださいね」
私は、話をさっさとまとめると、「これで会話終了ね」とばかりに無邪気を装った最大の笑顔を向けてあげた。その空気は読めたらしく、ほどなく野口さんは去っていった。
翌朝、課長が教務の仕事をしに校舎へと出ていくなり、「仕事中にごめん」と断って、古葉君に野口さんが来たことを伝えてみた。そうしたら、彼は即座に切り捨てた。
「知らないわけないよ。この前、パートさんの採用で会社説明してたの、野口さんだったよ。理由をつけて、花房さんと話したいだけだよ。また来るんじゃない? 定時のチャイムから一分は待ってあげるから、俺より早く帰れるように頑張ってね」
うーん、私、古葉君ほどジャストタイムで仕事をオシマイにできないよ。
――でも、まるっきり別の形で、私は野口さんを相手にしていられなくなった。三月を待たずに、他部署より一足早く、教材二課には大きな変化が訪れた。
二月下旬からの教材二課の状態を何と表現したらいいんだろう。課長がほぼ不在になり、三年目になった私と二年目の古葉君(彼もここに来て一年が経った)しかいないのに、年間の通常の仕事に新教材の制作が大幅にプラスされた。当校で大きな比率を占める資格試験の内容が大きく変更されるため、旧制度最後の試験がある秋までの「半年コース」の教材はこれまでどおりとして、夏から夏までの一年間コースの教材は新試験対応になる。一年コースが始まるまでの三、四、五月で教材をかなり新規制作しなければならない。
新試験対応教材の概要はその資格を持つメインのベテラン講師がミーティングして整え、制作の順序や大まかなスケジュールは課長が計画を作ったが、教材二課の物理的な仕事量は完全にキャパシティをオーバーしていた。古葉君の一年目の仕事だった「教材原価の見直し」が今年はないから、単純に負担が増しただけではないが、定時に帰れることはまったくなくなった。古葉君が常に残っているためか、野口さんが意味不明の訪問をしてくることもなくなった。
大きな資格試験のテキストを十冊新規作成するのがどれだけ大変か――というのは、どんなに書いても表現できない。三か月で専門性が高くて誤りが許されない「教科書」を十冊、つまり月に三冊以上、制作するというのは無謀そのものだ。扱っている資格試験はそもそも十を超えているのだから、それらの分のルーチンワークだってある。
どうしても厳しいので、コピーによる急な改訂増刷や単純増刷などは、状況に応じて教務課か教材一課がやることになった。それでも教材二課はどんなに早く帰れても二十時だった。
定時の十八時を過ぎると他の部署は帰りはじめ、十九時には事務所に残っている人はほとんどいなくなる。教務課は夜間の講座があって遅いことがあるが(ただし仕事場は校舎なので、やっぱり事務所は空っぽ)、その分「遅出出勤」がある。教材二課だけ、朝九時から毎日二十時以降までの勤務。まだ二十代なので体力的にはさほどこたえなかったが、他の部署が帰っているのを見ると精神的に不満は増した。
そこにさらに、小松さんが言っていた、買収した専門学校の新講座の教材改訂が加わった。教材・講師ごと買い取ったのでそのまま講義をすればいいはずだが、授業の都合で単元の区切りを変えるため、それを教材に反映して改訂するという。私と古葉君は「学校ロゴの差し替えで全部を印刷し直すだけで手一杯」と強く言ったが、課長が「俺がやるから」と押し通した。だが結局時間が取れず、全十項の教材を八項に区切り直す赤い区切り線が入っただけの教材を渡され、私が辻褄を合わせた。
私と古葉君は、テキスト三冊の制作と、買収した二つの資格試験の講座の改訂を、たった一か月でやりきった。だが、この騒ぎの後は、春に開講する各講座の準備で全社的に忙しくなる時期がやってきた。三月末から四月はじめは例年残業が多い時期なのだから、今回は本当にひどかった。会社を出るのが二十二時、二十三時になることもざらだった。
さすがにある日の夕方、古葉君が課長に苦言を呈した。
「なんでこんなふうに、一部の部署だけに負担が集中する運営になってるんですか。バランスから見てもうちの部署だけ異常な負担を強いられていて、これだと不測の事態が一つでも起これば仕事が完全に回らなくなります。『教材ができませんでした』というのは通用しないんですから、もっと社内の業務のバランスをとって、負担が正常になりませんか」
私も加勢した。
「私たち、頑張りたくないというわけじゃないんです。でも、ひと月後、同じようにこの体力と集中力で頑張っていられるかわからないです。ほとんど綱渡りじゃないですか。綱から落ちて、取り返しがつかなくなってからじゃ間に合わないです」
課長はじっと何かを考えていた。元々頼りにならない人だが、この時本当に、きっとこの人は頼りにならないんだろうと感じた。
案の定、課長の返事はこうだった。
「上には一応、伝えてみるけど……たぶん五月からはもっと楽になると思うし、それまでをなんとか乗り切れば……なんとか、頑張ってくれないかなあ」
五月って。まだ三月だよ。さらに言うと、四月後半はゴールデンウィークのミニ講座のために小さな新教材をいろいろ作らされるはず。基本テキスト三冊以上にミニ講座教材どっさり、全部「新規作成」だぞ。改訂じゃなく「新規」。
古葉君が若干ムッとした口調で言い返した。
「根性論でダメだったらどうするんですか。やりたくないんじゃなくて、システムとして正常じゃないって言ってるんです。結果的に失敗した、ってわけにいかないでしょう」
彼は自分が課長から無駄に反感をもたれている自覚もあったし、課長が正面切って何か言われるのを受け止められないのもわかっていたはずだが、心身とも疲れていたし、相当腹を立てていたのだろう。古葉君ですら賢明に立ち回れないこの状況を呪うしかなかった。私がそれを言えれば少しはマシだったかもしれないとだけ思った。
課長の反論は実にお粗末だった。
「ちゃんと残業代は出てるじゃないか。会社が決めたことなんだから、仕方ないだろう」
我々の進言を、課長は「忙しくて、部下が不満を言っている」としか受け取れないらしい。「なんか、無理かもしれないと思ってたら、やっぱり無理だった」というわけにはいかないのに。危機管理がグズグズだ。私は、ずっと前に古葉君が言っていた「課長の仕事は課のマネジメント」という言葉を思い出していた。
古葉君がこれ以上何か言う前に、私が話を終わりにしてしまった。
「私たちは状況をちゃんと上司に報告したので、そうして努力したうえで結果が出なかったら、課長の責任ということでいいですね。私たち、きちんと報告はしましたから」
私の強い口調に課長はたじろぎ、古葉君は私の意図を汲んで自分の言葉を飲み込んだ。
「あとは課長、状況の改善をよろしくお願いします。私、明日までに赤字戻さないといけないんで時間がありません」
それで私がぷいっと仕事に戻ってしまったので、古葉君も課長も自分の仕事に戻った。
それから一時間ほどして課長は校舎に出て行ったが、その際に悲壮な声で、
「俺は、土日も休みなしで出勤してるんだよ。理解してよ」
と言い残していった。課長の気配が消えると、古葉君がため息混じりに言った。
「あれが『管理職』だなんて呆れ果てるよ。会社が決めたから……じゃないだろ、全社がこれならともかく、うちの部署だけなんだから、対応すべきだし、できるでしょ。永遠のヒラ社員だなあの人。現場の仕事はそれなりにできても、マネジメント能力ゼロ」
「うん……私も、ずっと前に古葉君が言ってた、課長の仕事はマネジメントだよ、っていうのを思い出してた。課員が不満だとか不公平だとかじゃなくて、最終的に『仕事の結果を出す』ことを最優先する、そのために危機管理をする、ってことでしょ。私も古葉君の教えで少し賢くなったよ」
「教えたなんてことじゃないけど」
珍しく古葉君が照れた。でも、私、古葉君が来て初めて「仕事とは」っていう概念が整理できた気がしてる。この仕事はこの時間内でやる、帰る時は帰る、残業しない工夫をして、自分自身が「無駄なコスト」にならないようにする。その感性は、つまり、会社全体にとって「無駄を出さない」「危険を回避し、安全な運営をする」という、安定経営の基本になることなんだよね。「発展する」となるとまた違うんだろうけど。
機会がなくて言い損ねていたことを、やっと古葉君に言った。
「ねえ、小松さんが退職する時、会計課で聞いたことって、教わった?」
「ああ、小松さん、花房さんにも話してあったんだ。俺も聞いたよ。状況が改善されない理由はそのへんにもあるのかもしれないけど、そんな状態に根性論で対処してたら、うちの部署がとどめをさしちゃうよ」
壁に耳あり障子に目あり、遠回しであいまいな言い方になったけれど、二人とも「会社が経営的に、まずいらしい」という共通認識があると伝わっただけで十分だった。
教材二課の業務は一向に改善される気配がないまま、ある日三人の職員の退職が発表された。一人は営業課の若手、一人は小松さんと親しかった会計課の男子、もう一人はマリオ君だった。マリオ君退職は全社に衝撃が走った。彼は各校舎で人気者になっていて、職員のみならず講師からも受講生からも惜しむ声が途切れることはなかった。
「残念です。でも、英会話能力が活かせる仕事をしたくて、転職を決意しました。結果的に一年しかいられず、お世話になるばかりで申し訳なかったです」
皆にマリオ君は詫びた。英会話なんて必要ないのに意味不明の採用をしたウチの会社が悪いと、皆がマリオ君に同情した。
「悪いけど明日、定時で帰らせて。大変だと思うけど、ごめん」
そう言って古葉君は、金曜日に送別男子会に行った。全体での送別会が開催されなかったので、若手男子だけの会になったようだ。
明けて月曜、古葉君はすぐに私をお昼に誘ってくれた。お馴染みの喫茶店で、また、シナモントーストとクロックムッシュを前に向かい合った。
お昼は、こういう特別な時以外、ずっと二人別々で通してきていた。私が仕事に追われてお昼を席で五分で済まそうとしたこともあったが、古葉君が「お昼は必ず一時間取ろう。無給で仕事するのは結果的に会社に対して正しくないし、集中力も続かなくなる」と言ったので、納得して必ず一時間取ることにした。でも、私のランチタイムはずるずる十分、二十分、三十分……と後ろにずれることが多かった。一方の古葉君は必ず十二時半に食事に出た。後ろに私がいるのもあるが、自分の時間をきちんと管理できているのだろう。それだけの事実を見ても、古葉君がこの部署の長をやれば、もっとまともに機能しただろうに……とつくづく思った。
向かい合って顔を見ると、古葉君の目の下にはうっすら隈ができていた。二月下旬からひと月残業続きで疲れているんだろう。私は会話を要求する気配を出さないように努めつつ、彼が口を開くのを待った。
「……いろいろあって、何から話そうかな」
古葉君は重々しく口を開いた。気が重くなる。よくないことが必ず含まれるはずだ。
「どうやら何一つ改善される様子はないから、今度課長に提案してみようと思うんだけど……、土曜出てきて、平日はもっと早く帰れるようにしようかなって。毎日、会社を出られるのが夜九時十時、ひどいときは十一時でしょ。晩飯も遅くなるし、遅い風呂は隣とか下の部屋に迷惑かけるんだよね。平日は何が何でも九時に帰りたい。でも、花房さんを一人で会社に残しては帰れない」
「じゃあ私もまったく同じでいいよ」
「いや、平日は九時に絶対終業することにして、土曜出るのは俺だけでいいか……と思ってる。指示出してもらって俺がやるよ。キミは九時で帰って土日ゆっくりして。例によって男女差別する気はないけど、それでもやっぱり、男のほうが体力あるだろうから」
カッコイイな、あんた。でも、仲間じゃねえか。と熱血青春ドラマ風に心で返事をする。
「じゃあ、小上さんにはそう言って、結局私も土曜出勤が必要になっちゃった……みたいな感じにしようか。課長、ずっと前は私がだらだら残業してて古葉君がきちんと帰ってたせいで、私の方がやる気があるみたいに思ってるふしがあるのね。それで余計、古葉君に『残業を減らすマネジメントをしろ』って意味のことを言われるのに反発してる気配を感じる。古葉君の方が仕事熱心だっていう演出をしておくと、少し、素直に対処を考えてくれるかもしれない。状況が改善されるまでは手が必要でしょ。私も土曜、来るよ」
「土曜出勤なんて、することないよ。俺がただ普段の日に帰りたいだけだから」
「もう」
せっかくさっき、言うのは心の中だけにしておいたのに。
「仲間じゃねえか、一緒に頑張ろうぜ」
恥ずかしいから男言葉になっちゃったぜ。照れ笑いするのも恥ずかしいから、わざと満面の笑みを見せてみる。
ふう……っと古葉君のため息。そして、彼はびっくりするほど優しいまなざしで、この上なく温かい笑顔を浮かべて答えた。
「……ありがとう」
ひゃあ、今の何? 慈愛を人の顔で表現するとあんな感じ? 今の顔リプレイ、プリーズ。この人の本質は、きっと本当に温かい。
「さて、それからね」
古葉君が居住まいを正す。私もつられて背すじを伸ばす。
「キミに一つミッションを頼んでいい?」
はい、なんでしょう。
「女子会に行ってきて。この前、女子会誘いに来た子に、無理って断ってたでしょう。あれ、行ってきてよ。出退勤時刻のプリントアウトを持ってね。タイムカードの打刻時間を自分で確認できるシステムのページ、確かそのままプリントできたよね。
他の部署、教材二課が大変だとは言っても、夜の九時十時まで仕事してるなんて全然わかってないらしい。課長が『教材二課の負担は大したことない』って話をしてるみたい。あの人は、ウチの部署の仕事がとうとうダメになって、思い知るまで今のままだと思う。でも、男の集会でそれを主張しても効果はない。俺、世の中では女性の方が『これは正しいかどうか』ってことに反応してくれると思ってるのね。サークルでも会社でも、男の場合は、母集団のルールを逸脱したくない感じがあるんだよね。だから花房さんが女子会で愚痴ったほうが効果が高い。幾分政治的で恐縮だけど……このままだと、俺たちのためにも、会社のためにもならないから」
あ、その女性の「正しいかどうか」の感性の話、わかる。
新卒で入った会社で、研修の時、私たち新人が三十分も別室にほったらかしにされた事件があったんだけど、男子一同は指示されたとおり黙って突っ立ったままで、女子が「これ、おかしいでしょ」と担当者を探しに出て行った。結果的に引率者の交代のミスで、男子はあのまま一体どうするつもりだったのかと思った。
他にも、部下たちを守ろうと上と闘ってくれた上司は、私の経験上、女性ばかりだった。でも彼女たちは「女は感情的」としか思われず、会社を変えることはできなかった。現場の多くの声を受けて闘ってくれたのに。――ただ、古葉君に出会って考え直したんだけど、組織の中ではそういう真っ向勝負じゃなくて、きっと「上手いやり方」があるんだろう。
古葉君は女性じたいが好きじゃないと思ってたけど、「感情的だ」ではなく「正しいかどうかに反応する」って思ってくれるんだな。
「わかった、女子会行ってくるよ。古葉君が大変だとなったら、一肌脱いでくれる女子がいっぱいいるかもよ」
私がからかうように言うと、古葉君は渋い顔をした。
「いや、あんまり大ごとにならないよう、よろしく……」
わかってますって。冗談、冗談。やっぱり女子が苦手だよね、古葉君。
「会計課の彼は、口止めされてたみたいだけど、みんなのためにしゃべってくれた。会社の状況はよろしくない。上半期の受講人数の空きが例年になく多い。新しい専門学校の買収で解約者が予想外の二割も出た。返金はウチの持ち出しになった。しかも買収は無駄に高い金額だったらしい。社長、『M&A』とかの経営用語が大好きだから……一度やってみたかったんだろうね。足下を見られたんだよ」
……その尻拭いが私たちの苦境に拍車をかけ、それを二年目と三年目の若手だけで根性論で乗り越えろって言ってるのがウチの上司か。
「花房さん」
古葉君の真剣なまなざしが正面から私を見つめた。
「俺、夏までに転職します」
うん。……最後に「辞める」って言うだろうって、話の途中から、感じてた。
「キミを残していくのは心配だから、一緒に辞めようって言いたいけど、それはキミが決めることだから……。俺は出て行きます。ただし、逃げたと思われるのは悔しいから、今のこのひどい状況は全部クリアして、やりきってみせてからね」
五月末までには、主な教材の改訂は全部終わるはず。六月か、遅くても七月にはきっと……。
「キミが決めることだけど、俺は、一緒に辞めよう……って、言いたい」
古葉君は目を伏せたまま、さっきと順序を変えて、似て非なることを言った。
私は答えられなかった。