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七 ランチタイムの裏情報


 新年、明けてすぐは年末年始休みの間に来ていたメールや休み明けの教材の手配でてんてこまいだったが、なんとかクリアして一段落した。

 一月の第二水曜日、課長が一日事務所内にいた日、定時の鐘が鳴って古葉君が出ていくと、課長は意を決したように振り返り、いささかおごそかな声音で言った。

「花房さん、俺と二人の部署になったら困る?」

 え、どういうこと? 古葉君がいなくなるってこと?

 私も課長を振り返って、平静を装って答えた。

「それはそれで、会社がそう決めたんだったら、やっていくしかないんじゃないですか?」

 古葉君を頼りにしているし、好意も満々にあるが、仕事は仕事だ。正直ものすごくショックだったが、顔に出さないことは成功したと思う。

 課長は、冗談を言っている顔ではなく、大真面目に真剣にまた問うた。

「古葉君と二人だけになるのと、俺と二人だけになるの、どっちがいい?」

 なんでその二択? 課長の顔を見るに、変な個人的感情の話ではなさそうだ。

「――私もまだまだこの仕事を十分わかってるわけじゃないし……。仕事だったら、課長と一緒じゃないと困ります」

 私は真剣に答えた。年ごとに教材の改訂の具合とか違うみたいだから定かでないけど、課長と二人だと若干手が足りなそう。でも、古葉君が来る前の数か月と同じ状態だから、残業と、私が成長した分とでカバーして、やっていけるかもしれない。でも、課長がいなくなって、いきなり教材の内容に踏み込む編集までやるのは絶対無理だ。

「……うん、わかった」

 課長はそう言ってまた自分の机に向き直り、残業の続きを始めた。心の中では、課長か古葉君か、どっちかがいなくなるのかと問いかけたかったが、課長の背中には何も言わせない気配がにじみ出ていた。

「お疲れ様でした」

 私はすぐに会社を出た。きっとこれまで楽しかった教材二課は近々変化するのだろう。でも私には何もできない。ただ処刑の時を待つばかりだ。

 翌朝、気分だけはと無理に明るい足取りで出勤して、給湯室へ行くと暮沢さんがいた。

「おはようございます」

「あ、おはようー。花房さん、あのさ、――たまには、古葉さんと、お昼、行ったら?」

 何か言いたげな暮沢さんの上目づかいは私の精神に思いっきり直接攻撃をかけてきた。彼女は何か知っているのか、古葉君には何かすでに内示か何かが出ているのか……?

「え、あ、はい、そうですね、たまには、えー、そうします」

 私はつっかえつっかえに答え、お茶を淹れて席に戻った。そこに古葉君がやってきて、教材二課が全員揃った。

 普段は隠し立てすることなどないので用があれば普通に会話するが、今回ばかりは課長の耳を憚って、すぐ隣にいる古葉君にメールを出した。

『課長いなかったら一緒にお昼行こう。 花房』

 数分後、メールに気付いたらしく、古葉君は一瞬私のほうにわずかに顔を向け、パソコンに向き直った。すぐに返事が来た。

『了解 古葉』

 だがその日、課長はまたずっと事務所にいた。十二時を過ぎた時点でもう一緒に行くのはナシなのだが、十二時半に「メシ行ってくるね」と古葉君が言って席を立ち、それでハッキリこの日一緒にランチに行くのはお流れになった。


 翌日、ギリギリ十一時五十五分に課長は「今日は戻らないから、よろしく」と言って出ていった。二人で「行ってらっしゃーい」と声をかけ、課長の気配が消えたら、

「じゃあ、今日……今から、行くか」

 と古葉君が言った。

 行き先は以前も一緒に行った喫茶店にした。席に案内されて、座りながら、

「暮沢さんとランチした時は、ここにしなかったんだ」

 と私が聞いたら、古葉君は片眉をくっと上げて答えた。

「せっかく俺の隠れ家になってるのに、教えないよ。鉢合わせたら面倒じゃない」

 あっそう……。あ、でも、私には教えてくれるんだ、なんて喜びかけたら、

「花房さんとは絶対にランチがかぶらないか、初めから一緒に決まってるからね」

 と釘を刺された。くそう、可愛くない。手堅く他人と距離を取る人だ。

 そのまま、古葉君はじっと私の顔を窺っていた。え、何、何。

「話は何?」

「いや、たまには古葉君とお昼でもと思って……」

「花房さんに限って、それはないでしょ」

 えーそんなことないよ。古葉君のことはまあなんていうか、どっちかというと好きだし。うん、でも、確かに彼がお昼に独りになりたいのをわかってて、理由なく邪魔する気はないな。

「その~、先日、小上さんに、自分と二人の部署になるか、古葉君と二人の部署になるか、どっちがいい……みたいに聞かれて」

 古葉君はあからさまに嫌な表情になった。若干誤解が生じたのを感じて、慌てて軌道修正した。

「別に、課長は、『俺と古葉君どっちがいい?』みたいな意味で聞いてきたわけじゃないからね。ものすごく真面目に聞いてきたから、なんか人事異動的な話があるのかなと思ったんだけど」

「そう、よかった。あのバカ課長、とうとう花房さんにも変な話を始めたのかと思った」

 私「にも」?

「俺は何度も言われてるの、『仲は良くても、仕事以上の面倒な関係にならないでね』とか、『二人っきりで遅くまで残って、変なことにならないように』とか。できるだけ定時で帰るのは、そういう誤解が面倒だからっていうのもあるの。上司の文句言ってると思われたくないからずっと黙ってたけど。あと花房さんに変な気を遣わせたくなかったし」

 それはさぞ心外だったろうな……。元々「余計な居残りはしない」主義だし、仕事にも人間関係にも筋を通す人なのに。

「なんか、悪かったねー」

「花房さんが謝ったら、俺、もっと課長を嫌になっちゃうから、それはヤメといて」

「じゃあ、ありがとう、気遣ってくれて」

 店員さんが注文を取りに来たので、私はシナモントーストとブレンドコーヒーを注文した。古葉君はクロックムッシュとアメリカン。少し沈黙があって、古葉君が口を開いた。

「だとしたら、あれも人事異動的な前提があって聞かれたんだな。俺は営業部の部長に、ウチに来ないかって聞かれた。とんでもないって即答したけど、実際はどうなったのかね」

 総合すると、古葉君が営業部に異動して、教材二課は課長と私の二人だけになるの?

「少なくとも春か、多分その前に人事異動はありそうだね。ウチは何かしら動くんだろうね。今の話からして、どう考えても、動くのは俺だよね。……お世話になりました」

 う、ものすごく悲しい顔になるのを抑えられなかった。クールで男前の女子でいたいのに。古葉君いなくなるの、すごく寂しい……。

 私が変な顔をしているので古葉君は所在なげに目を伏せて、水を飲んで、話を続けた。

「でも、今三人でやって、急な事件でもなきゃ残業ほぼなしで回ってるけど、二人だと足りないよね。単に俺が異動するだけで、他の人を入れるのかな?」

 ……あ、今、嫌な想像しちゃった。ウチに、もしも誰かが来るのだとしたら……

「今、『暮沢さんが来るんじゃないか』って思ったでしょ」

 わあ、心を読まれた! 私は慌てふためいた。彼は笑った。

「いや、冗談抜きでね、ヒマみたいだよ、渉外課。そりゃあそうだよね、無理やり作った部署だし……。話によるとあれ、社長じゃなくて小上さんのひと声でできたらしいね。うちって経営コンサルタントの講座とかもあるでしょ、そこの講師に『マスコミ対応は専門の部署がやらないと』って社長を煽ってもらって、『そういう部署を作るなら綺麗な女性がいい』ってことで小上さんが暮沢さんを引っ張ってきたらしい」

 私は、古葉君の言っている内容より、『古葉君も暮沢さんを綺麗だと思ってるんだ~』と、『思っていても直接聞きたくはなかったな~』と、そんなことに気を取られていた。でも返答しないのはおかしいので、とりあえず一瞬遅れたけど反応はした。

「ふーん……」

 古葉君はまた片方の眉をくっと上げて、それからふうっと深いため息をついた。

「俺は暮沢さんのこと、綺麗とかなんとか、全然思ってないからね。社長だか小上さんだかが、そういうことを言っていた、『という話を、聞いた』って言ったの」

 この人、とうとう私の心が読めるようになったらしい。すごいな。

「はい、今度は『わかったんだ、すごい』って顔したね。あのね、他の人の時はそうでもないと思うんだけど、花房さんは、俺と話す時、いろいろ顔に出てるの。感情に応じて、漫画の効果線とかびっくりマークとかがずっと出続けてる感じ」

「そうなの? なんでだろう~」

「意外と、暮沢さん相手にしゃべってるときも顔にいろいろ出てるよ」

「ええー! そうか、じゃあ、給湯室で暮沢さんが『古葉さんとお昼に行ったら』って言ってきたの、私の顔に『古葉君、異動するのかな』とか書いてあったんだね」

 そうかそうかーと勝手に納得する私に、古葉君は否定の表情と言葉を寄越した。

「それは多分違う」

 え、なんで? と、言わなくても伝わるか確かめようと、私はそのままじっと古葉君の言葉を待っていた。ちょうど注文したものが一式届き、テーブルに並べられていった。

 店員さんが行ってしまってから、彼は続きを言った。

「……この前、暮沢さんにまたお昼一緒に行こうって言われたから、同じ部署の花房さんとも行かないのに、別の部署の特定の人と何度も行くのはどうこう、とか言って断った。花房さんとは一度も行かないのかと聞かれたから、つい、一回しか行ってないって答えた。つまり彼女としては、これで花房さんとも二回行ったから、私とも二度目いいよね、って話になるんだろうな。なるほど、今日は、暮沢さんに焚きつけられたわけね」

 アグレッシブだな暮沢さん。この、社交的に見せかけて、実はひねくれた孤独好きの古葉君をグイグイ押してるな。うらやましい。私もフリーだったら、古葉君を押してみたかったなあ~。私じゃ速攻返り討ちにあうだろうけど。

 勝手なことを考えて若干想像に笑っていたら、古葉君もさすがにそれは顔から読めなかったらしく、リアクションはなかった。

 とりあえずトーストが冷めないうちに食べはじめた。

「そういえば、小上さんから俺とどっちがいいって聞かれたのは、何て答えたの?」

 古葉君が聞いてきたので、私はしばらくして口の中のものを飲み込んでから言った。

「まだこの仕事を十分わかるわけじゃないし、仕事だったら課長と一緒じゃないと困る、って答えた。古葉君は優秀だけどさ、さすがに私と古葉君じゃ回らないでしょ」

「そりゃあ良くないね」

 古葉君は視線を右上方にやり、眉根をしかめて微妙に首をかしげた。

「良くない? 課長と一緒がいいって答えてるのに? ちゃんとしてるでしょ?」

「一言多かった。『仕事だったら』……って、あの人、気にするよ」

「え? なんで?」

「あの人、俺に変な対抗心みたいなのがあるっぽいから、『仕事だったら課長』っていうのを無駄に『仕事以外では古葉』って裏返しにするよ。そういう人。面倒だけど」

 そうかな。でも、これまで、たいがい古葉君が正しかったんだよな。

「まあいいよ、もう言っちゃったものは。悩んでも意味ないし。あと、……もう、花房さんにはなんでも堂々と言っちゃうことにするけど、俺、暮沢さんのどこが綺麗とか美人とかなのか、全然わかんないのね。あの人、お笑いの、ヒョロー戸川に似てるよね」

 えっと……。脳内で並べて、比べてみて、確かにそうかもしれないと思った。ヒョロー戸川は背がひょろっと高くてちょっと気持ち悪い系の、でもよくよく見るとそんなに不細工でもない芸人だ。でも美形ではない。でも似てる。

「彼女、私って美人でしょとか、綺麗ですとか、そういう雰囲気を振りまいてるから、周囲の人が美人扱いしないと申し訳ないような感じになるんだよね。ゴハンは当然おごってくれるよねとか、コーヒー買ってきて~とか、私は当たり前でしょって。悪いけど、ああいうふうに当然だと思われてると、『これだから女は』って思っちゃう。俺、女性を差別する意識はないつもりだけど、唯一言いたくなるのはああいう人」

 けっこう古葉君、鬱憤溜めてたのね。でも、元々こんなふうに思ってたんだったら、納会であんな煽られ方したのも嫌だっただろうなあ。

「暮沢さんに言わないでよ、俺はこれからも大人な対応をしてくつもりだから」

「わかってるよ」

「女子会で『古葉ってこういう嫌な奴なんだよ』って言ってもいいけど、暮沢さん本人を傷つけたいわけじゃないからね。でも、なんかキミが、いつも『暮沢さん美人だもんね~』って言ったり、そう思ってたりするの。そのたびに俺は釈然としないの。俺は全然そうは思ってないのに。さっきも、勝手にガッカリしてるし」

 古葉君が暮沢さんを褒めたと思ってガッカリしたのは、つまり「私、古葉君に若干好意あります!」ってことであって、それが当の古葉君にバレてるのってどうなのか。婚約者がいてよかった。変な誤解は生じないからいいや。それより、「キミは、俺が他の女性を褒めてガッカリしただろう」と、さりげなく堂々と言っている古葉君が実はすごいような気がする。

 それからしばらく黙々と二人でトーストを食べていた。途中で古葉君が手を止めてつぶやいた。

「こんなふうにキミとしてられるのも、あとちょっとなわけだね、きっと」

 そういうセリフを、しかも「キミ」で言われるとドキドキしちゃうな~。

「同じ部署の同僚が、他の誰でもなくて、花房さんでよかったよ。キミって、いいとこだけ男前だからね。あとはいいとこだけ、女性らしい」

 それ、ほめてるの? と、言いたいけど口の中がいっぱいだ。

「ほめてるの。ほんと面白いよね、顔に文字が書いてあるみたい」

 また心を読まれたらしい。そういえば小松さんも私のこと、面白いよねってえらく笑ってたな。笑いのポイントはそこか。あの時って、何が顔に出てたんだろう。

「私、古葉君いなくなるの、やだな」

 これまでの感謝と愛情すべてをこめて、全力で古葉君を見つめてつぶやいてみた。さあ伝われ。

 古葉君は、なんというか、言ってみれば、「うわっ」という顔をした。私はガッカリした。

「気持ち、こめてみたんだけどな~」

「大丈夫だよ、伝わるから」

 古葉君は口を真一文字に結んでいささか乱暴にカップを手に取ると、残りのアメリカンを一気に飲んだ。それを見て、勝手ながら、ちょっと思った。古葉駿二、あんたちょっと今照れたでしょ。私だってちょっとくらい、心の中を……

 うーん、この人に、私の全力アピールが効くわけないか。いいけどね!

 当然私たちは二人別々にお会計をして、しっかり十二時五十八分に席に戻った。そして黙々と、午後の仕事をこなした。


 課長が新校舎に出張に行くことが多くなった。それに伴って、私が課長に代わって講師の人たちと教材の打ち合わせをする機会が生じてきた。すでに課長と電話などである程度の打ち合わせは済んでいて、講師から原稿や赤字をもらって、要望や指示を聞くだけだけど。幸い、いつも本部校舎(事務所に隣接する建物)で打ち合わせが済むように課長が手配してくれていたから、物理的にもあまり苦労はなかった。

 これまた課長がいないある日、十二時半に暮沢さんが教材二課の入口からひょこっと顔を出した。私があれっという顔で見ると、彼女はうれしそうににこーっと笑って、

「古葉さん、お借りするね」

 と言った。えっ、お昼一緒に行くんか。いや、いかん、感情を顔に出しちゃいかん。

「あ、どうぞどうぞ~」

 笑顔で答える私の様子を古葉君はちらっと横目で見て、なんでもなさそうな声音で、

「ちょっと行ってくる」

 と言った。いや、「ちょっと」行ってくるじゃなくて、普通にゴハン一時間でしょ。

 暮沢さんがうれしそうに「楽しみですぅ」と言う声が遠ざかるのを、仕事をするふりをして聞いていた。でも大丈夫だもん、古葉君、暮沢さんのこと好きじゃないし、美人だと思ってないよ。……なんてことを、なんで私はずっと考えてるんだ。さっさと結婚しよう。

 でも実は、結婚は延びる気配になっていた。婚約者は、年末年始に一時帰国する予定だったけど、仕事の都合で帰れなくなった。任務完了で帰国するのも「春」でなく「春以降」になった。帰ってくるのは確かだけど。

 結婚も楽しみだし、婚約者を尊敬してるし大好きだ。でも今の私は正直――もう少し、古葉君との時間を楽しみたかった。なんだろう、この「友達以上・恋人未満」みたいな「お仕事以上・友人未満」な感じ。浮気する気はまるっきりないんだけど、なんとも言えない慕情というか、一緒にいる気持ちよさがある。

 古葉君たちのことを気にしつつも一人静かに働いていたら、まるで誇示するかのような「また、お昼行ってくださいね~」という暮沢さんの声が響いた。はいはい、お帰りなさい。今の事務所中に聞こえたし、声のした位置と暮沢さんの口調から相手が古葉君だとまるわかりだ。彼もうかつだこと。別にいいけど。

「お待たせ、お昼どうぞ」

 古葉君は苦虫を噛み潰したような顔で戻ってきた。だったら行かなきゃいいのに。ぷふ。

「……面白がってないで、早くお昼に行っておいで。情報いくつか手に入れたから」

 なんかすっかり古葉君相手にはしゃべらなくても会話できるようになってる。私は彼の何を読めるでもないけど。情報仕入れにお昼に行ったんだ。というより私に「情報目当てでお昼に行っただけだからね」と主張したいんだろうな。

 出て行こうとしたら、ちょうど営業課の小松さんに声をかけられた。

「花房さん、これから食事? だったら、一緒に行かない?」

 そういえば、以前誘ってくれたとき、次回も気楽に誘ってって言ったよな私。

「あ、喜んで~」

 チェーンの和食系の定食屋で向かい合ってゴハンを食べながら、小松さんは言った。

「花房さん、実は俺、二月で退職します。二月末まで所属だけど、最終出勤は二月半ば」

 ……えっ! 私が言葉を失っていると、小松さんは教えてくれた。

「営業課、希望退職三名募集。俺、率先して応募しちゃった。――花房さん、なんで希望退職なんて募ったか知ってる?」

 そ、それはまさか、古葉君が異動してそっちに行くから、人数減らし……?

 私が怯えていると、小松さんは淋しいような悲しいような笑顔で言った。

「ウチ、ちょっと危ないらしいよ。転職できるなら、してもいいかもしれない」

 へ? なにそれ。ウチって、ウチの会社のこと?

「俺、会計課の奴一人とちょっと仲いいんだけどね、そいつが教えてくれた。ナイショだよ、新しい校舎立ち上げたけど、失敗したんだって。生徒はろくに集まってないし、講師も頭数揃わなかったのに、講座は立てちゃったから、小上さんが今、プレ講座の講師の真似ごとをしたりもしてるみたいだよ」

 それで最近水曜日の午後からいなくなるのかな。いつも「戻らないから」って言って出ていくな。

「その校舎立ち上げのミスの穴埋めのために、今やってない資格の講座を、弱小の資格試験学校買い取って新しく始めるらしくって、今ウチの部署がいろいろ販売促進の準備させられてる。でも行き当たりばったりなのが見え見え。多分、その買い取りのお金の借り入れが、最終的にはとどめになると思う、って話だよ」

 それは、単なるヒラ社員の推測にすぎないのかな。自己防衛をしたほうがいいのかな。

「新しい資格試験に手を出したら、教材二課がすごく大変になるんじゃない? 俺、それが心配だよ」

 学校ごと買うなら教材はそのまま使うんだよ、きっと。人数減らして仕事増やすとか、ないでしょ。でも、会社はいい方には向かってなさそうだなあ。

「そうかあ、小松さんは退職しちゃうんですか……。女性一同ガッカリしますよ」

 会社にイケメンは何名いてもいいからな。実に惜しい。

 小松さんはじっと私を見て、やや悲しげな顔をした。

「女性一同ガッカリします、って言い方ちょっと寂しい。花房さん個人は?」

「あ! 私も女性一同と同じく、本当にガッカリです、すみません……気持ちこもらないみたいで。そうじゃなくて」

 漫然と「カッコいい人がいなくなると、社内の華が……」程度に思っていたのが出てしまった。野口さんのことで助けてもらったりもしたのに、薄情だ。申し訳ない。

「なんか上手いこと言えなくてすみません。『私、寂しいですぅ』って、可愛い女の子みたいに素直に出てきたらいいんですけど、どうも根がオッサンで、『いや~こりゃ~女子は残念がるわ~』みたいになっちゃって」

 一生懸命フォローしたはずが、小松さんは口元を押さえて、こらえきれないように笑った。ええー、私、全然笑うこと言ってないよ。

「……ほんとに、花房さんは自覚がないよね。もう少し、自分がわりと可愛いってこと、自覚したほうがいい」

 うむ? 何か変なことを言っている。いや、前にも私のことを妙にほめてくれたから、この人は変わった趣味なのかもしれない。なんかまたポカーンとしてしまった。小松さんには以前もこんな顔を向けたな。その時も笑われたっけ。

「俺ね、会社では彼女いないことにしてたけど、ホントはいるの。ナイショだよ。でも、いなかったら花房さんに行ってたね、間違いなく。オッサンだなんてとんでもない。会社ヤメちゃうから、なんかひと言、『キミは可愛い人だよ』って言いたくって」

 適切なリアクションが思いつかないので、このままポカーンとさせてもらおう。

「前にお昼に行った時、花房さんと暮沢さんで人気二分してるよ、みたいな冗談あったでしょ。暮沢さんも確かに綺麗な人だけど、営業部のほうに席があった時、私のこと誘えよ、昼くらいオゴれよ、みたいな態度だったから俺は少々敬遠しちゃってね。花房さんは、目立つ人じゃないんだけど、笑顔が可愛くて気になるねってみんなで言ってたの。普段教材二課に籠っててなかなか関われないから、花房さんがこっちのPC使いに来てた時、これは話をするチャンスと思って、みんなでメシに誘ったわけ。そしたら、内面も結構大人で話せるし、気取らなくてサッパリしてて、オゴリは固辞して『また誘ってくれ』なんてところがかっこいいじゃない。以来、俺はウチでは花房派なの」

 ああ、男らしくかっこよく振る舞おうとはしたけど……でも、今言ってくれた褒め言葉はみんな、本当は、当てはまってないと思う。

「納会の時、ちょっと気合い入ってたでしょう。可愛かったよ」

「いや、あれは単に大学の卒業式の使い回し、っていうか着古しで……」

「そんなの、見てる方にはわかんないよ。こういう時にはビシッとオシャレして綺麗にキメるの、いい女だなあってみんなで言ってたんだよ」

「うーん、もしそれがホントなら、皆さん見る目がないと思います」

 私は全力で主張した。最後だからって、リップサービスが過ぎるよ小松クン。

「そうだね、花房さんは、自覚ないほうがいいかもね。――じゃあ、俺も花房派だって白状したんだから、こっそり俺にだけ教えて。キミはうちの会社では誰推しなの?」

 うげっ、やばい。絶対白状しないぞ。小松さん、男子だな~。古葉君は絶対そんなの興味持たないだろうな。

「そうですね、ウチの課長は株下げちゃったし、一番見た目がカッコイイと思ってるのは、小松さんですよ。マジで」

 ウソ言ってないよ。小松さん、ほんとにウチで一番カッコイイと思う。

 だが小松さんはじっと私の顔を見る。穴があくほど見る。いや、ウソ言ってないってば。

「ほんとにおもしろいなと思うんだけど、この話になると、社内に古葉君って人はいないんじゃないか、みたいにスルーするよね。前の時もそうだった」

「そうですかね~」と首をかしげるふりをして、しらばっくれた。小松さんは私も古葉君推しの一派だと疑っているのだろう。でも、追及はしてこなかった。

 あとは無難な世間話などしながら会社に戻ってきた。教材二課の前で小松さんと別れた途端、心がずしっと重くなった。もう絶対に、ウチの部署にも動きが出るんだろう。

「ただいま」

「おかえり」

 会社がやばいとか、古葉君に言うべきかな。聞いてきたことを考えもしないで話したら、おしゃべりだって軽蔑されちゃうかな。

「どうかした?」

 しまった、この人私の心が読めるんだった。

「え、別に……それより、今日のお昼の暮沢さんのラブラブアタックはどうだった?」

 わあ、古葉君が一瞬でげっそりした。面白~い。

 途端、彼はむすっとして怒ったような声で言った。

「くだらない話はいい。仕事についてのことね。案の定、小上さんが暮沢さんにいろいろしゃべってた。俺が営業課に移ることは提案されてるらしい。他にもけっこう動くみたい。退職者を募ってる部署もあるとかって――」

 そこで古葉君が何かを察したように話を止めた。私の頭の上にビックリマークでも出たかな。私はその空白に口を挟んだ。

「ちょうど今、たまたま小松さんとゴハン行って、聞いた。営業課は三人希望退職を募ったって」

 小松さんがその該当者だということは言わなかった。必要ないと思ったので。もう古葉君も小松さんが辞めるのは聞いているかもしれない。割と仲がよさそうだし。

「営業が減るんだったら俺、もう異動決まってるんじゃないの? ただ、暮沢さんは俺が異動するとかしないとか、一切知らなかった。それと、暮沢さんが教材二課に来ることはない。小上さんがすごく残念がってたらしいから、提案して却下されたんじゃないの。野口さんが来るとかもないみたいだよ。花房さんのために、それは聞いておいた。おかげで『花房さんのことが心配なの?』とか、すごく面倒くさかったけど。――どうも暮沢さんが小上さんから聞いている感じじゃ、誰かが俺の代わりに入ることはなさそう。異動は二月以降だって。今月はとりあえず一緒だね。もうしばらくは、よろしく」

 やっぱ古葉君いなくなっちゃうのかな。やだやだやだー。

「まだ、俺がいなくなるって決まったわけじゃないでしょ。決まったらガッカリしてね。一緒の間は楽しくやろう」

「……うん、そうだね。がんばろう」

 それだけ話して仕事に戻ったんだけど、ふと疑問がむくむくとわいてきた。ただ、古葉君は仕事中の無駄なおしゃべりを嫌う人なので、定時までモヤモヤしたまま黙っていた。

 定時の鐘と同時に、私は古葉君に声をかけた。

「駅まで一緒に帰ろう」

 彼は驚いた顔をしたけれど、少しだけ私を待ってくれた。一緒に会社を出て歩きながら、周囲に会社の人が誰もいないのを確かめて、私はやっと聞いた。

「……ねえ、でも、小上さんって、暮沢さんにいつそんなこといろいろしゃべったの? あの暮沢さんの席で人事異動がどうのこうのみたいな話をしてたら、まずいじゃない。まさかお昼に誘ってとか飲みに誘ってとか……」

 その「飲みに誘って」のところで古葉君は私に視線を向けた。それ「YES」ってこと?

「……小上さん、まさか暮沢さんを飲みに誘ったの? 彼女も誘われてついてったの?」

 目をぱちくりさせていたら、古葉君が一瞬宙を見て、勝手に納得したようにうなずいて、私に聞いてきた。

「花房さん、一人暮らしだよね。晩メシも一人でしょ?」

「うん、そうだけど」

「今日は緊急集会、つきあって。俺、いろいろ抱えて一人で消化しきれない」

 えっ、一緒に晩ごはん? 二人で? わあ、うきうきしちゃうな。

「いいよ、どこでも行くよ、好きなとこ」

 古葉君は、そこでなぜか考え込むような間をとった。何?

「キミがめんどくさい女子じゃないと見込んで、遠慮なしに言うけど……夜、男にどこか行こうって言われて、どこでも行くっていう言い方はしないほうがいいんじゃない」

「……えっと」

 何を言われたかわからず戸惑っていると、古葉君は心の底からあきれた顔をした。

「花房さんってホントに変なとこ、天然なんだよね。暮沢さんと好対照。『どこでも』なんて答えて、男に変なとこ連れていかれたりしないようにね」

 どこでも→変なとこ→ホテルとかそういうこと!?

「あっ……なるほど! すごい古葉君、今のツッコミ、セクハラすれすれだよ」

 正直、理解した時かなりドッキリしたので、大笑いしてごまかした。

「すれすれ以上のアウト発言かもだけど、花房さんはいちいちセクハラ扱いしないと信じて、注意するほうを優先したの。男につけこまれないように気をつけるのも女性の嗜みだよ」

 誰がつけこむんだ。いたら見てみたいわ。

「そういうの、私は心配要らないよ。でもお礼は言っとく。一丁前の女性扱いしていただいて、ほんに有難いことです」

「今日俺に言われたことを思い出して、猛反省する瞬間が来ないことを祈るよ」

 古葉君はあきれすぎて、中空に向かってふーっと長い息を吐いた。えーでも私の内面はそんなに男じゃないんだぞ。古葉君にセクハラまがいのこと言われちゃった。ドキドキしちゃう。「女性の嗜み」か、いい言葉で注意するね。

 二人で、比較的会社に近い、やや乙女なオムレツ屋に入った。

「古葉君、こんな女子な店でいいの? 晩ごはん」

「どこで誰が見てるとも限らないし、こういう、明るくて女性向けの軽食のほうが、健全で誤解されないからいいよ」

 ……古葉駿二、あんた、やっぱけっこうモテてきたでしょ。変な誤解とかに、ことごとく敏感だよね。クレバーにトラブルを避けて生きてる感じ。

 席につき、ひと息ついて、私は喜色満面で古葉君に聞いた。

「で、今日のお昼、暮沢さんにはどんなふうに迫られてきたの?」

 古葉君の眉根が寄る。私、やっぱりなんだかんだ自分も性根は女子だなーと思うけど、暮沢さんのことで彼の表情が曇るたびにホッとする。

「俺、最初から釘刺しちゃった。『小上さんから何か聞いてそうだから、教えてほしくてお昼OKした』って。でも、そのせいで『じゃあ、貸し一つですねー』とか言われて、またお昼オゴらされちゃった。情報料で払っておいたよ。そういう人だからしょうがない。

 彼女、邪推して、『お昼に行った回数やいろんなこと、花房さんを一番にしておきたいんでしょう』って言ってたよ。色恋沙汰の話、好きだよね。面倒くさいから、『回数で正確に比較する気はない。別の部署の異性と不必要に多く一緒にいるのは誤解の元だから避けたいだけ』って答えた。俺、筋の通ったこと言ってるよね?」

「くそまじめでつまんないこと、言ってるけどね」

「相手をいいなって思ってたらその限りじゃないよ。その時は不必要でも誤解でも結構」

 わあ、男の子発言。ほんと、やっぱ、枯れてるわけじゃないんだな、この人。

「小上さん、年末に地元帰って、おみやげ菓子買ってきてくれたじゃない。でも暮沢さんには柘植の木の櫛と藍染のハンカチあげたんだって。おいおい俺たち饅頭一個だよ」

 なんかますます課長に萎える。でも柘植の櫛とか藍染とか、なんだそのご年配なセンス。

「あと、年末にジャズのコンサート誘ってきたって言ってた。納会の前。多分若干クリスマスな時期じゃないの、イブじゃないだろうけど。暮沢さんは、それOKしておいて小上さんのこと『ナシ』とか、それこそナシでしょ。誘ったほうは期待するよね、普通」

 課長、実際は事務所で見てる何倍もアタックしてるんだ。正直、びみょーすぎる。

「俺、つい『もう、結婚してあげたら?』って言っちゃった。マジで怒られた。――小上さんに関して聞いたのはそんなとこ。あと一つ告げ口。小上さん、花房さんを俺に取られたってハッキリ言ってたってさ」

 少し沈黙、その後古葉君は私の顔を真面目なまなざしでじっと覗き込んだ。

「……何?」

 私は彼の心の中を読めない。ずるい。

「女々しい奴、って思った?」

「へ? なんで?」

「小上さんがどうだとか、暮沢さんがどうだとか、いない人のことをさんざんしゃべっちゃったから、軽蔑されたかなって思って」

「全然。愚痴くらい言ってもいいと思うよ。せっかく緊急集会にしたんだから、気持ち悪いもの全部吐いて楽になって。私、ちゃんと黙ってるし、よきに計らうよ」

 古葉君は目を伏せて、口元だけでふっと笑った。

「ありがとう。キミと結婚する人は幸せだね。今日は甘えて、吐いちゃおう、ホントに」

 ……その静かに落ち着いた表情と声が、ホントに素敵。見た目がかっこいいわけじゃないのに。でも、この人は、なんかすごく……いいんだよなあ。

「すごい愚痴になるけど、いい?」

「オッケーオッケー! むしろ、超~愚痴る古葉君とか、見てみたい。面白そう!」

 古葉君は、よっぽどたくさん吐き出すものがあるのか、肩で深呼吸をした。

「暮沢さんはしんどい。メシの間じゅう『私、こういう男に好かれて、困っちゃった』って話をしてて、話の中には確かに変な人もいたけど、よくも集めたなってほど、ずーっと男の悪口。前彼とはこういう理由で別れた、もう一人前の彼とはこういう理由って、別に恋愛遍歴とか聞きたくない。元彼たちの悪口も興味ない」

 ああ、女子会でもやってたなあ、元カレの話。私はスルーしてつまみ食べてたけど。

「それでも雑談なら笑顔で聞き流すけど、彼女の場合、『男が寄ってきちゃって大変!』っていうアピールなんだもん。二人しかいないと、相槌を打たなきゃいけないでしょ。さらに『私より、花房さんの方がかわいいですか?』とか聞かれても、どうしろっていうの?」

 そんなこと聞いちゃったんだ。これはしんどい!

「で、古葉君はどう答えたの?」

 思いっきり怪しい笑いを浮かべて問いかける。古葉君はこれをどうクリアしたのか?

「よっぽど『そうですね』って答えてやろうかと思った」

 わあ、ドキドキ~……と言いたいけど、これは「花房が良い」ではなく「暮沢は不可」という意味であり、私はホメられてはいない。で、実際はどう答えたの?

「バカバカしいから、『俺は別にどっちとも。暮沢さんと花房さんは、優劣じゃなくて好みの問題でしょ、お化粧とネイルが好きか、顔も手もすっぴんがいいか』でまとめちゃった」

 ガーン。顔も手もすっぴんって、ほめられてないよね。

「キミはそれでいいと思うよ。小松さんとか、営業の連中がキミのこといいって言ってたでしょ。あと野口さんも」

 あ、また心を読まれたね。でも、その根拠に野口さんは要らない……。

「暮沢さん、俺を持ち上げるために、『うちの事務所っていい男がいないですね』ってすごい言うの。みんなに失礼。ことごとく返事に困る。疲れた。でも、あの感じは、俺のこと全然本命じゃないっぽいんだよね。他に好きな人か、ホントは彼氏がいるんじゃないの」

「うーん、何度も彼女の口から『彼氏はいない』って聞いてるけど……」

 でも小松さんは彼女いるのをナイショにしてるって言ってたし、鵜呑みにしたらいけないのかな。相手がいることを隠す感覚はわかんないな。やっぱモテたいのかな。

「暮沢さんは、悪いけど、無理。女性の面倒くささを凝縮したみたいな人。でも、ここで今吐いたから、明日からはまた大人の対応をします。以上」

 本当にお疲れ様。ただ……古葉君、信用してくれてるけど、私も心の中は女子だし面倒くさいんだよ。かっこよく振る舞おうと思って表面飾ってるだけ。こんなふうにね。

「ご愁傷様。私は古葉君が大人できちんとした人なのは理解してるし、そういう愚痴とかは、適宜聞き流しつつ、いざとなったら味方になるよ。頼りにしてね」

 言ってることはウソじゃない。でも、綺麗な半面だけだ。もう半分の私は、暮沢さんに勝ったって喜んでるし、古葉君とディナー(オムレツだけど)できたことに浮かれてるし、普段も時々ドキドキしたりしてる。暮沢さんは素直なだけ。私はカッコつけなだけ。

 古葉君は安心した顔で、私にこう答えた。

「頼りにしてる。女子の味方がいないと、女性の集団は制御できない。女を敵に回すと怖い、理屈通じないから。キミは助かる、男の理屈通じるから」

 この人は根本的に女性が苦手で、恋愛も決して必要なものではなくて、結婚は向いていないのかもしれないな。私も信用しちゃダメだよ。女なんて所詮女だよ。もちろん味方になってあげるけどね。

 お店を出て駅で別れたのが二十時半。誤解なんて絶対に受けない健全な時間。さすが古葉駿二。小賢しく、手堅い。そしてやっぱり、その隙のなさが魅力的だ。

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