六 カフェとコイバナ
年末が近くなった頃、ある資格試験の大幅な試験内容の変更が発表されることになった。移行のため次年度秋の試験はこれまでどおりらしいが、当校も大幅なカリキュラムの変更を余儀なくされるだろう。国家資格に準ずるものなので、担当省庁が大きなホールを借りて説明会を行い、資料が配られるという。こういう場合は教務課か我が教材二課の課長が行くのだが、教務課の課長さんはここ数か月、体調を崩していて会社を休みがちだった。
「花房さん、今回は説明会に一緒に行ってみようか」
課長は言った。おおっ、新任務。
「本当は、教材を作る部署だから、全員で行ったほうがいいのかもしれないけど、古葉君には今回ちょっと留守番してもらってもいいかな? うちの会社からは、僕と花房さんと、あと暮沢さんが行くから、四人も五人も行く必要まではないかと思って」
「ああ、どうぞ、行ってきてください。俺より花房さんのほうが一年先輩だし、俺が留守番してますよ」
そんな会話があって、数日後、資格試験の内容変更説明会が開催された。私たちは午前十時の第一回に出て、資料をもらって、お昼ちょっと前に会場を出た。なお、課長は決して暮沢さんに色目を使うことなく、淡々と引率をしてくれた。
「ちょっと早いけど、昼、食べてこうか?」
時刻は十一時四十五分ごろ。確かに、オフィス街の飲食店は今がすいていて入り時だ。課長の提案に私も暮沢さんも賛成して、ちょっとおしゃれな中華料理屋さんに入った。
事件が起こったのは会計時だった。三人で立ち上がり、通路を通っていきながら、先頭にいた暮沢さんはすぐ後ろを歩く課長に「小上課長~、おごってくださいね~」とさわやかに言った。始まったな。私もいるのに、そんな酷なことを。私は、課長に三人分払わせるのは悪いので、暮沢さんから見えないところで自分の分をこっそり払おうと思った。
「もう、しょうがないなー」
課長はうれしそうに暮沢さんに答え、暮沢さんはそのまま店の外に出ていった。私がその隙に「私は自分で払いますよ」と言おうとしたら、課長は伝票をレジに置き、はっきりと言った。
「会計は、こっちの二つは一緒で、あとは別です」
…………。もちろん、「こっちの二つ」は課長と暮沢さん、「あと」は私だ。
私はオゴられるのが嫌いだ。それは明白なポリシーだし、常にそう行動している。だけど、ここはおかしいよな。もちろん「オゴって」と言ったのは暮沢さん一人だから、その通りに支払うのは「間違っている」とは言えないのかもしれない。私だって実際自分で払おうと思っていた。だけど、こういう時は「部下、あるいは後輩職員、あるいは女性二人を差別したらまずい」というのが世間の暗黙のルールではないのか。課長は私が「オゴリお断り」ってことも知らないはずだ。
オゴってほしいわけじゃない。でも、「彼女にはオゴるけど、キミにはオゴらないよ」とあからさまに扱いを変えられるのって……
課長が自分の分と暮沢さんの分を払って、ドアを開けて出ていくのを感じながら、私は自分の分のランチ代を払った。ものすごくみじめだった。
そして財布につり銭を仕舞いながらドアを開けて「お待たせ」と作り笑顔で言うと、暮沢さんは目を丸くしてというか、驚愕してというか、何かものすごく恐ろしいものを見たかのように凍りついていた。私はその様子にすごく救われた。暮沢さんは、当然、課長が三人分払うと思っていたらしい。……そうだよね、私、おかしくないよね。
課長はその場の雰囲気をまったく察知することなく、朗らかに雑談をしながら事務所まで我々を引率した。女性二人がすっかり口数少なくなったことには、とうとう最後まで気づかなかったようだった。
午後三時、いつものように、課長は打ち合わせのために出ていった。それを見計らったかのように――いや、明らかに見計らって、暮沢さんが教材二課に入ってきた。
「……なんか、ごめん、花房さん。あまりにありえなすぎて、全然理解できなかった」
彼女は呆然とした顔で私に言った。おかげで胸につっかえていた大きな石がぐっと縮んだ気がした。
「そうですね、……なんか、私もかえって、暮沢さんに悪かったなと思って……」
「花房さんは何も悪くないよ、おかしいのは小上さんだよ。すぐ小上さん出てきたから、花房さんと『私払いますよ~』とかやってた時間は絶対なかったなと思って」
「ええ、そう言うつもりではいたんですが、言うまでもなかったです……」
そこにギイッと音がして、古葉君が椅子ごと振り向いた。
「……俺、入らないほうがいい話? それとも、何かあったの?」
「ん、ああ……」
説明しようとしたが、全然言葉が出てこなかった。暮沢さんが代わりに言った。
「今日、出かけたついでに、小上課長と私と花房さんの三人でお昼を食べたんですよ。それで、私が『オゴってね』って言ったら、小上さん……、私にだけオゴったんです。花房さんには自分で払わせて」
古葉君も言葉を失った。やっぱり私がショックを受けたのがおかしいわけじゃないんだ、と安心した。暮沢さんは状況をもう少し詳しく話した。
「小上さんがすぐにお店出てきて、花房さんはすぐには出てこなかったから、私、『花房さんは?』って小上さんに聞いたんです。そしたら、『え、お会計中だよ』って普通に言うから……『はあっ?』と思って。そしたら花房さんがおつりの小銭をお財布にしまいながら出てきたからほんとに凍りました。私だって、私にだけオゴれとか、そんなつもりないですよ。若い女性二人連れてるんだから、いいカッコしとけよって思ってあげただけで」
なんだろう。これは、課長が元々変な人なんだろうか。それとも、暮沢さんにのぼせてわけわかんなくなってるんだろうか。いずれにしても、女性二人を堂々と差別して、自分でそれをおかしいと思えない人なんだ……。
私は実はすごく傷ついてるしショックだけど、だからこそ、暮沢さんが「もういいよね」と話を終えることはできまい。私が切り替えなければ。
「暮沢さん、わざわざ気を遣いに来てくださってありがとうございました。そんなもんだと割り切ることにしました。暮沢さんが美人だから、差をつけたかったのかな~とか思えば理解はできるし」
「そういう問題じゃないよ、でも……バカな男、としか言いようがないもんね」
暮沢さんって、なんか、ちょっと苦手っぽく感じてたけど、そんなに悪い人じゃないんだな。それがこの事件の最大の収穫かも。
女性二人が気の遣い合いをしている様子を察知して、古葉君が場をまとめてくれた。
「――暮沢さん、仕事戻ってください。ウチの花房はたくましいから、大丈夫ですよ。バーカと心の中で思って、あとは普通に仕事します。バカ課長が失礼して、かえってすみませんでした」
それで暮沢さんは教材二課を退場したが、その場にはやるせない雰囲気が色濃く残った。古葉君は一生懸命通常業務に戻ろうとしたようだったが、何か始めては手が止まり、うーんとかむーとかしばらくうなっていた。
「……ごめん、血圧上がっちゃって集中できない。男としてっていうか、人として、上司として、年上の人間として、ダメだろそれ」
そう吐き捨てると古葉君は手にしていたペンをぽいっと机の上に放った。
「うーん、でも私、美人とそうでない人がいろんな場面で差別されるものだっていうのは理解してるよ」
「そういう話じゃないんだよ。たとえば、もし好き嫌いの差がどれだけあったとしても、社会生活を送るうえで、建前ってものがあるだろうってこと。それに小上さんは花房さんのこと、嫌いとかじゃ全然ないんだしさ。頼りにしてるじゃない、いつも。それを……」
「でも、私、古葉君が怒ってくれるだけでうれしいよ。安心した」
「真っ当な大人や真っ当な男に成長しきれてないから、四十過ぎても独身なんだよ。――二十代後半で彼女の一人もいない男に言われたくないだろうけど」
「いや~、古葉君は、その気になれば一時間後にでも彼女ができる人だから、別にいいと思うよー」
なんかぷりぷり怒ってる古葉君見てたら治まってきちゃった。課長はもういいや。情けなくて可愛いと思ってたけど、矮小でみみっちくて幼稚な人だったんだ。
「だから俺、言ったじゃない。あの人信じちゃダメだよって。でも、俺が想定してたよりろくでもない人だった。想像を超えたクオリティ」
怒ってる怒ってる。ありがとう。怒りすぎてくれて可笑しい。
私がくすくす笑っているので、古葉君もクールダウンしてきたようだ。
「――俺が言ったの、正しかったってそろそろわかった?」
「えー、それは当時から伝わってたよ。でも、古葉君にとっては信用ならない、頼りにならない上司でも、私相手ならそうでもないって、分けて考えてた。でもおんなじだった。人生勉強になったよ、ありがとう」
そして二人でにっこり笑って、この話はもうおしまい。
本当に、古葉くんがいてくれてよかった。わかってくれて、感情を共有してくれる。「二人でいれば、喜びは倍に、悲しみは半分に」という使い古されたフレーズがじーんと胸にしみた。
翌朝、教材二課ではいつもと同じように明るくあいさつが交わされ、仕事が開始された。ひと晩経って、切り替えてから課長と顔を合わせられてよかった。
……と思ったのに、その数日後、またもバカバカしい出来事は起こった。午後、また課長が所在不明になり、またカフェリーヌの(今度は緑の)タンブラーを手に戻ってきたのである。これ、前回暮沢さんに「タンブラーはグリーンがよかった」って言われてたアレだ。もはや、気持ち悪い。
私も古葉君も事態は把握したが、もう戸惑いも疑問もなにもなかった。それはそれで淋しい。「アホだ、こいつ」としか思われない課長。ほんと情けない。
しかも、翌日課長がいない隙を見計らって、暮沢さんがますますガッカリする報告をしにやってきた。
「昨日、私、小上さんを試してやろうと思って、また『カフェリーヌ買ってきて』って使いっぱ指令出したんですよ。ただし今回は、『自分の部下の分もお忘れなくね』って言ったんです。……でも、買ってきた様子、なかったですよね……」
もういいよ、ほんとに。別に高級カフェなんて要らない。私、実はコーヒー好きだけど。それは小上さんも知ってるはずだけど。カフェリーヌができたせいで、課長は使いっぱを始めるし、私は野口さんに誘われるし、いい迷惑だ。カフェリーヌなんて。美味しいけど。ローズミルキーホイップカフェ、絶品だけど。
なお、暮沢さんが「です・ます調」でしゃべっているのは、報告対象者が私というより一緒に聞いていた古葉君なんだと思う。私と古葉君、同い年だし、暮沢さんもそれは知ってるのに、なぜか古葉君には「です・ます調」だ。やっぱり特別な感情があるんだろうな。
暮沢さんが出ていって、でも私たちにはもう悲壮感も憤懣やるかたない感じもまるでなかった。もう、いいよね、そんなくだらないこと。
その日の夕方、課長が帰ってきても、いつものように三人で笑ったりしながら普段どおりに仕事をした。そう、私ももう、大丈夫大丈夫!
その直後、課長が午後不在だった日に、もう一つちょっとした事件が……。
珍しく古葉君が「今日、俺がゴハン後でもいい?」と言うので、私が十二時半にお昼に行き、古葉君が一時半にお昼に行った。
戻ってきた時、古葉君はカフェリーヌの紙袋を持っていた。中にはレギュラーサイズの紙カップが二つ。教材二課にコーヒーとフレーバーの香りが広がる。
「前に、バラ味のがいいって話、してなかったっけ。ローズなんとかっていうのがあったから、これかなと思って。はい、どうぞ」
はえっ? え、何?
「こっちが俺の、これはキミの。しょうもない上司に代わって、俺がご馳走するよ。これは遠慮はナシね」
……ボーゼン。なんか古葉君がキラキラ超かっこよく見えるんだけど。
「……あ、ありがとう……」
私が夢見心地でカップを受け取ると、古葉君は苦笑しつつ、言った。
「緑のタンブラーで買った方がよかった?」
「うわっ、要らないソレ!」
大笑い。やだやだ、タンブラーなんて。私はこの、あったかい紙カップで十分。
ありがとう古葉君。実は思ったより心が傷ついていて、その分何倍もうれしくって、ほんのちょっとだけ涙がこみあげたことはナイショにしておくね。
専門学校も年末年始は長い休みになる。社会人向けの講座なども多いが、単発の「年末年始○○塾」的なものが二、三あるだけで、出勤するのは教務課の担当者のみ。我々教材課は教材を制作して手配を終えたら年末年始休みになる。
年末の最終出勤日は昼食で「納会」をやって、午後二時にはお開き、その日の仕事はそれで終わり。夕食でなく昼食なのが若干ケチだが、午後から悠々遊べるので私は歓迎している。皆さん「酒を飲むには早い」と言うけど、ひどい酔っぱらいが出ないのもいい。
席はくじ引きで、他部署の人と交流を深められる。変な出し物などはなく、せいぜい「今年の反省」とか「来年の抱負」とかを言わされて、ビンゴ大会があるくらいだ。
その日は本部事務所と本部校舎の社員(パートを除く)四十人余が一堂に会する。他の校舎は二つあり、各十人弱が所属しているが、納会は別々。新規立ち上げ中の校舎については不明。
古葉君はこの年が納会初参加だった。説明したら、「めんどくさいなー」と言っていた。どうせ政治力を発揮してまた株を上げるくせに。私はこういう集会、大好きだけどな。
ホントは古葉君の近くの席がよかったんだけど、世の中そんなに甘くなかった。セクハラ部長の近くになりそうだったが、幸い部長と私の間にイケメンの小松さんがはさまってよかった。野口さんと三人でカフェリーヌに行ったときに馴染んだから、話しやすい。
去年と同じようにしずしずと会は進み、「では、酔いが回らないうちに……」と、トークタイムになった。司会の庶務課課長がマイクを握った。
「毎年、ここで反省や抱負を話してもらっていましたが、そんなもんは部署ごとにやれと一部からお叱りを受けまして、今年はもっと面白い発表をやることになりました」
庶務の女性が苦笑いしつつ出してきたのは、「サイコロトーク」のサイコロだった。しかもなんか書き足したり紙が貼られたりしている。
「どのようなトークの面があるかは、追い追い見ていただければわかるでしょう。では、責任を取ってわたくしから……」
庶務課の課長がサイコロを振って、出たのは王道「コイバナ」だった。コイバナ、すなわち「恋の話」だが、庶務課長は五十六歳妻子持ち、ぬぼっとしていて猫背で時々髪に寝ぐせがついていて、色恋沙汰とは最も遠そうなキャラクター。全員が変な緊張を覚えた。最初から、スベりすぎではないのか……。
「ええー、そのー、なんか変なのを引いちゃいました……。どうしましょうね……」
ますます猫背になる庶務課長に、「奥さんとのなれそめー」と庶務課の女子から声が飛んだ。おいおい何十年前だよ。
「リクエストされたんで、簡潔に話します。妻と出会ったのは実は、幼稚園でして……」
ほんとに「何十年前」だよ。どよめきが起こる。
「卒業する時に、覚えたてのよぼよぼの字で『だいすきな ゆうくんへ』というラブレターをもらいましてね……私、その後ずっと女の子にモテなかったものですから、それを大事に大事にとってあったんです。
そうしたら、まさか、大学で再会しまして……飲み会で、まだラブレターを取ってあるんだと冗談のついでに言いましたら、その、来年までに返事を寄越せと。確かに、幼稚園の時、手紙に返事は書きませんでしたから……。その間に少しずつ少しずつ、好意のようなものを育てまして、翌年、幼稚園でもらったラブレターに、ちゃんとラブレターで返事を出しました。それで結婚して、今に至るというわけです」
ほおーという感心の声とともに拍手が湧き起こった。さりげなくいい話だな。人に歴史ありだ。
「お耳汚しでしたね。では、席のこちら側から順に、前に出てきていただきましょうか」
庶務課長のいい話の後で、いささかしゃべりにくい雰囲気だったが、二人続けて営業課の男子だったので、「○○さんのヒミツ」と「今年最大の失敗」で上手く笑いを取ってくれた。どちらも営業部長が慌てふためくような内容で、社長からも「どういうことだ!」と部長への怒りの声が飛び、最初からかなり愉快に騒然とした。
そこを庶務課長が、あえて空気を読まずに淡々と進行する。
「とんだ災難もあったようですが、えー次の方どうぞ」
おお……超、問答無用な感じ。初めて庶務課長をかっこいいと思った。
次は暮沢さんだった。「コイバナ!」という声が飛び、私は肝が冷えた。暮沢さんは古葉君のことをロックオンしてるみたいだし、うちの小上課長のことをネタにされたらしんどいし、とにかく地雷だらけな気がする。コイバナは勘弁してくれ。
だがサイコロは「うちの会社の好きなところ」で止まった。「つまんねー」の声が飛んだが、私は心底安堵した。
暮沢さんはパーティー仕様のエレガントなデザインスーツ(決して場を損ねない、かっこいいもの)を着て、いつもはまっすぐ下ろしている髪を少し巻いて華やかにまとめ、「私、美人です」というオーラを最大限に放って一同にお辞儀をした。職場の華だよなあ、こういうの。なお、私は大学の卒業式用に買ったツーピースを着ている。あまり着る機会がないから、絞り尽くすように着ようと思って。やる気の差が出てるなあ。ただ、さすがにそういう服装ですっぴんというわけにもいかないから、下手なりに薄化粧はしてきたけど。
「そうですね、ここの好きなところは……素敵な男性が多いことですね」
わあ、八方美人ビーム発射だ! そう来たか!
「最初、営業部のエリアのほうに席をいただきまして……見るからに素敵な男性揃いで毎日がドキドキでした。それから運営部の側に移って、最初は地味な印象を受けたんですが、実際には『おおっ』というような素敵な男性がたくさんいて、女子力が上がります~」
ニコニコ、キラキラ、もはやパーフェクトだ。ここの男ども、みんな持ってけドロボー!
そこに営業部男子から声が飛んだ。
「なお、イチオシは~?」
げげっ、せっかく綺麗に無難にキメたのに、そういう無粋なことを聞くなよ~。と、そこで思い出したが、その質問をしたのはランチの時に私に「誰推しですか」と聞いた人だった。名前覚えてないけど。
「えー、答えなきゃダメですか~?」
暮沢さんの照れたようなしぐさに私はゾッとした。これは多分、まずいぞ。だが私にこの場を止めるすべはなかった。彼女はふふふっと笑って、こう答えた。
「お昼オゴってもらっちゃったから、古葉さんかな~」
ほーら来た。やっぱり暮沢さん、こういう人なんだよな。一応冗談ふうに言ってはいるけど、古葉君、嫌だろうな~。
「古葉君、ぬけがけかよー」
「ちゃっかりしてんなー」
すっかり古葉君が暮沢さんを狙って食事に誘ったかのような空気が蔓延してしまった。だが、ここで問題なのは、古葉君が誤解されること以上に、女子がみんなムッとすることと、小上さんが不愉快になることだ。だって、小上さんだって、暮沢さんにお昼オゴってるし~。波風立てないでよ~。
古葉君はそこですっと立って余裕の笑顔を見せると、周囲を掌で「まあまあ」と諫め、
「皆さんの誤解は訂正させていただきます。あくまで状況に応じて都度対応するということであり、暮沢さんお一人を特別扱いした事実はありません。また、今の彼女の発言は、『私はごはんをおごってもらうのが何より好きです』という意味ですからお間違いなく」
とクールに言ってのけると、周囲に笑顔を振りまいて「笑うところだからよろしくね」という無言の信号を発した。私にオゴっておいたのが発言内で有意義に使われている。クレバーだな。古葉君がさっと座ると、暮沢さんがすぐに(わざと)むきになってふくれてみせた。
「ええー、私が食いしん坊みたいに言うの、ひどいですよ~。多分古葉さん、私が無理やりオゴらせたの、根に持ってるんです~」
周囲の認識は、明らかに「古葉→暮沢」から「暮沢→古葉」へとベクトルの向きを変えた。古葉君、上手いな。暮沢さんも、彼の「俺からは誘ってないんで」と主張する気配を感じて「私がやりました」と白状するしかなかった感じ。嫌われたくはないもんね。
でも、暮沢さん……、わざわざ爆弾を投げ込まなくてもいいのに……。恐る恐る課長を見てみると、ビールのコップを口にやっていたが、飲んでいる様子はまったくなかった。おそらく表情を隠しているのだろう。耳が真っ赤だ。多分あれ、酔ってるんじゃないと思う。フォロー不可能。もう、知~らない。
庶務課長がまたかっこいい問答無用ぶりを見せた。
「えー若干騒然としましたが、サイコロの目的達成というところですね。はい次の方」
しばらくして古葉君に回り、彼が出した目は「私の恥ずかしい趣味」だった。カッコいい趣味ならフットサルとクライミングがあるけどね。あるのかな。何だろう。
古葉君は照れたふりをして(絶対「ふり」だと思う)、こんな話をした。
「趣味と実益を兼ねて、コオロギのブリーダーやってます。もちろんケースには入ってますが、家の中、コオロギだらけで、皆さん見たらドン引きだと思います。爬虫類なんかの餌になるので、増やして売ってます。こちらに入る時に、そういう副業みたいなのをやっていて大丈夫かと了解を取ったので、庶務課の高森課長は最初からご存じでした。
この趣味の問題は……家に帰るとコオロギがうじゃうじゃしてるので、飲み会の後に、まったく女子をお持ち帰りできないことです。おかげで結婚を迫られるような危機にも遭わず、独身生活を謳歌させてもらってます」
何人かの妻帯者から「うらやましいぞー」の声が飛んだ。古葉君、結婚NGをさりげなく主張。しかもこの話聞いて、ますます女子一同は「コオロギは無理。古葉さんは難しすぎる」と思っただろうな。私はコオロギ全然平気だけどね。フナムシも手でつかめるし。
マリオ君は「今年最大の失敗」。
「半分はコイバナになっちゃいますが、実は先日彼女に三行半を突き付けられまして……」
この人はほんと、イタリア人の顔をして、「みくだりはん」とか美しい日本語をすらすら口にするよな。てか彼女いたんだ。女子一同、それ気にしてなかったよ。
「誕生日のプレゼント、何がいい? と聞いたところ、彼女は『女の子が普通に欲しがるようなもの』と答えまして、私は悩んだ末、素敵な服を贈ることにしました」
意外とハードルの高いプレゼントに挑んだな。サイズの合わないものを買ったとか、センスのよくないものを買ったとか、モメやすいと思うぞ。それで失敗したのかな?
「洋服屋さんの立ち並ぶ街角などを歩いて、やや変わった服を置いてある店を見つけました。そこで、肩口が三段フリルで胸元に大きな猫のブローチがついているけれど、他は黒くてシックであまり派手でなく、いいかなと思ったものを買いました」
ん? この時点で、若干「えっ」「それって」って反応がそこここで起こってるのは何だ?
「レジで、なぜか、黒の猫耳バンドを一緒に梱包してくれたんですね。ああ、おまけがついてるんだなと思って、そのままリボンをかけてもらって、彼女に贈ったところ……」
マリオ君はそこで、宣伝課の地味な男の子をなぜか「はい、あなた」と指名した。ほんと、この人は独特の空間を作るなあ。
「正解は?」
「それは、アニメ『黒猫にゃんにゃ』の主人公、にゃんにゃちゃんのコスプレ衣裳ですね」
えーっ、あーっ、と今度はいっせいに声が上がった。そう、マリオ君が買ったのは、幼女向け人気ヒロインアニメの、主人公のコスプレ衣裳だったのだ。
「まず、僕があのアニメのマニアではないと説得することには成功しました。でも、誕生日が台無しになったことと、一万円も無駄にしてしまったこと、ファッションショップとコスプレショップの区別がつかなかったことを責められ、現時点で修復できていません。このまま年を越すのかと思うと、本当にダークな気分です」
なんかこう「このまま年を越すのか」とか、感性が純日本人だよね。そして、宣伝課の彼はアニタクらしいぞと暗に知らしめて、マリオ君劇場は幕を閉じた。
とうとう私の列に来た。野口さんは「この会社の好きなところ」だった。多分これが一番つまらない質問で、野口さんも社交辞令みたいな無難なことしか言えなかった。この目が出てもセンセーションを巻き起こせた暮沢さんは、すごいんだと思う。
セクハラ部長は、なかなか出なかった最後の目「今年、実現しそこねた野望」。案の定、「俺、女子アナと付き合ってみたいんだよね~。いいよね、女子アナ」と気持ち悪いことを言って場をしらけさせた。
小松さんは「恥ずかしい趣味」。「エアギターが趣味で、数年前にはエアギターの地区大会に出たこともある。あれは賞を取れば格好がつくが、趣味でやっているとすごく寒い」と語った。だが、この人は見た目がカッコいいので、多分恥ずかしく見えないと思う。
いよいよ私の番。サイコロを振ったら、「今年最大の失敗」が出た。どうしよう、何があったかな――と思っていたら、目の前に人影がさっと現れ、サイコロの目を勝手に「コイバナ」に変えて戻っていった。古葉君だった。
私が目を白黒させて彼を見ると、口の前で掌を折って拡声器に見立て、「言っちゃえ言っちゃえ」のジェスチャーをした。それでも私が戸惑っていると、彼は皆に宣言した。
「これから、花房さんが、男性一同をガッカリさせる発表を行います」
――それでやっと合点した。今ここで、婚約の件を発表しろと言っているんだ。いずれは会社に伝えるし、面倒なこともあったし(主に野口さん)、確かに年貢の納め時かも。
「あの、いえ、別に誰も何も思わないと思いますが……その……私実は、来年、結婚することに決まってまして……」
元々知っていた女性陣が「わー、おめでとー」と拍手してくれた。なぜか私は「すみません、すみません」とペコペコした。
「仕事は辞めないんで、えー、仕事上は名字も変えないつもりなんで、引き続きよろしくお願いします、ということで……」
そう言って座ろうとすると、なぜか社長が「名字は変えた方がいいぞー」と声を上げた。会社の事務処理上のことを言われたのかと慌てて顔を向けたら、「一時的には大変だけど、十年後、二十年後、絶対楽だよ」と大きな声で言ってくれた。社長は男女問わず周囲にあんまり好かれていない人なんだけど、なんだか説得力があった。「ありがとうございます、検討します」と私も少し大きな声で答えてお辞儀をした。
「花房さん、相手いたんだねー」
隣の席の小松さんが言った。
「なんか変な発表しちゃってすみません」
私は恐縮してまたペコペコした。小松さんはクスッと笑って、
「大丈夫、知ってた。男子会で、もうみんなガッカリし終わってるから」
と言った。えっ! 何、もう、男子連中も知ってたの?
「フットサルの時、古葉君に、花房さんは彼氏いるのかって皆で聞いたんだよね。彼、最初は『そういう情報を得る気はないし、得ても流す気はない』とかカッコつけて黙ってたんだけど、野口さんが花房さんの周りをちょろちょろしだしたらすぐに教えてくれたよ。彼女もう結婚相手決まってるから、変な場面見たら助けてやってくれって」
……古葉君ったら……ほんとにいい奴!
あれっ、……ってことは、つまり……。
「あの、小松さん、カフェリーヌの時ってもしかして……」
「そう、古葉君の差し金って奴だね。でも実は俺も花房さんに興味あったから、それもあって野口さんの邪魔しちゃった。もちろん相手いるって聞いてたから、変な目的は全然なかったけど。やっぱ花房さんチャーミングだよね、カフェリーヌではホントに楽しかった」
ポカーン。小松さん、多分ウチの事務所一番のイケメンなのに、何面白いこと言ってんだか。
「花房さん、ホントに面白いよね」
なんでかわからないが、小松さんはしばらく笑っていた。うーん、ほめてくれたように思ったが、これは、違うのかもしれない……。男子会で、私って「ネタキャラ」なのか? ネタキャラになっているのは嫌だなあ……。
最後に近い頃、我らが小上課長のサイコロトークの番になった。もう各所若干飽きてきて、みんなそれぞれしゃべってたけど。
誰も聞いてないし、しょうがねえな……みたいな感じでけだるくサイコロを振った課長は、見事「コイバナ」を出してしまった。課長が最近暮沢さんにご執心な様子は各所で少なからず噂になっていたので、周囲の雑談が一斉に止まった。きまずいな~。もちろん、周囲も、四十代独身男性にとってはあまりにデリケートな問題なので合いの手もチャチャも入られなかった。
課長は茹でダコのように真っ赤になって(こういうところはやっぱり、可愛いんだけどなあ!)、目を伏せつつも胸は張って、短くまとめて発言した。
「逃げも隠れもしません、本気でお嫁さん募集中ですので、よろしくお願いいたします!」
その発言、この場にいる特定の誰かさんに向けてるんだろうけどね……。あんた、先日、彼女にだけオゴって私をスルーしたの、彼女から相当ドン引きされてるからね。自分が悪いんだからね。私だって、課長には幸せになってほしいけど、今は「だから独身なんだよ、アホ」と言ってあげたい。
散会して会場を出る時、私はダッシュで古葉君のところに行った。
「ありがとう、古葉君」
「どういたしまして。かなり強行突破だったけど、公表できてよかったね」
「ううん、それだけじゃなくて、いろいろ」
「いろいろ?」
「……うん、いろいろ」
なんだか言葉が続かなかった。だって、もう、ほんとに……
勝手に胸がいっぱいになっていたら、背後から声がした。
「花房さん!」
振り返ると、野口さんが立っていた。なんだなんだ?
「あのっ、――もしも名字が変わっても、僕の中では、ずっと花房さんですから」
はあ?
それだけ叫ぶと、野口さんは走って駅に向かっていってしまった。
「なんじゃ、ありゃ」
私がつぶやくと、古葉君は大爆笑した。
「結婚しても、ずっと好きだよ、ってさ。モテる女は大変だね!」
ほんとにもう……
世の中には、いい男と、そうでない男って、明白に存在するよなあ。全然、意味がわかんないよ。
私と古葉君は、そのまま並んで駅の階段を下りて、ホームで別れた。
「じゃあ、また来年もよろしくね!」
そう言ってくれた古葉君の笑顔が眩しくて、心から来年が待ち遠しくなった。