五 いい男とよくない男
ある日の午後、課長が白板に何も書かずにいなくなっていたことがあった。その日の夕方の打ち合わせのことで講師の一人から電話があったから、急ぎかと思ってあちこち探してみたのだけれど、課長は見つからなかった。私と古葉君は顔を見合わせた。
すると、両手にコーヒーショップのタンブラーを持った課長が戻ってきた。
「小上さん、どこ行ってたんですか。今日の夕方のことで、先生から電話ありましたよ」
私が言うと、もう晩秋で気温も下がってきたのに、課長は汗を拭き拭き「急ぎじゃないから大丈夫」と言って、片方のタンブラーを手にしてまた出ていってしまった。
「ちょっとー、小上さーん」
教材二課の出入り口から外に向かって声をかけると、課長はまっすぐに暮沢さんのところへ行き、召使いよろしくそれを献上した。何やってんだ、課長。私は様子を探りに数歩踏み出した。二人の会話が聞こえてきた。
「えー、ちゃんと買えました~?」
「キャラメルフラッペホイップカフェ、Mサイズでしょ。ちゃんと買えたよ」
「えー、Mじゃないです、Pですよ、プチ。すっごいカロリーあるから、ちょっとでいいんです。そもそも、Mってサイズ、ないし。逆によく買えましたね」
「大は小を兼ねるから、いいでしょ。飲まない分は捨てていいよ。タンブラーも、あげるよ」
「うーん、タンブラー、私、グリーンのがよかったんですけどねー」
「あっそうなの? じゃあ、今度はそれで買ってくるよ」
「二つは要らないですー、これでいただいておきます、ありがとうございますー」
何、この状況。気がつくと、庶務の女性たちも課長と暮沢さんをぽかんと見ていた。あれは確か、ここから五分ほど歩くところに最近できた、高級フレーバーコーヒー店「カフェリーヌ」のタンブラー。そういえば時刻は十五時、おやつの三時だ。暮沢さんのおやつの買い出しに行ってたってこと?
課長が会話を終えたのを見て、私はさっと席に戻った。戻ってきた課長は若干浮かれた風情で、半分自慢、半分言い訳みたいなことを言った。
「いや~まいったよ、暮沢さんに、カフェリーヌのお使い頼まれちゃってさ~」
ごめん、全然楽しくない。仕事中だし。あんた課長だし。
「オゴらされちゃったよ、ほんと、まいったまいった~」
私は思いっきり冷ややかに言ってあげた。
「小上さん、さっきも言いましたけど、夕方のことで、電話がありました」
課長はピカピカの笑顔で答えた。
「大丈夫、さっきも聞いてたよ。ちゃんと電話しとく」
嫌な予感がする。どういう状況になってるのか、聞きたくない、知りたくないなあ。
初めから見ていた庶務の仕切り屋のお姉さんが怪訝な顔で言っていた。
「この事務所に来てひと月も経ってないのに、曲がりなりにも課長職にある人に、勤務時間中にカフェのお使いを頼むとか信じられない。でも小上さんが喜々として買ってきて、さらにありえない」
しかも、タンブラーつきでオゴりね。まさか課長が美人にシッポを振るタイプだとは思わなかったよ。この事件はあっという間に女性陣の間で「あれは、小上さんも暮沢さんも、ダメだろう」と評価が下された。それでも私はつい、課長をフォローしてあげちゃったりして……
「そうは言うけど、小上さんと暮沢さんは別の校舎で元々顔合わせてて、それなりに馴染みだから……。私たちから見ると『ひと月も経たずに』だけど、二人なりの仲良しルールが築かれているのかもしれないし……」
「きもちわるーい、二人の仲良しルールとか。小上さん、何頑張っちゃってんの?」
フォロー失敗。課長、女子の中で自分の評判が下がったら気にするタイプのくせに、知らないぞう~!
その日の夕方、暮沢さんが私に「ねえ、また女子会しようよ」と言ってきた。ええっ私に言ってくるんだ。一応「あ、はい、みんなに声かけてみます」と答えて、スキを見て庶務の仕切り屋のお姉さんが給湯室に行くのを追っていった。お姉さんは言った。
「上等じゃない、受けて立ちましょう」
やだ~、なんか、バトルな気配。すぐに女子にお達しが出て、翌週の金曜日に女子会と相成った。最近ちょっと、飲み会多い気がするな~。ふところが~。
さあ、そしてその席上。うふっと笑って、暮沢さんは皆に宣戦布告した。
「私この前、古葉さんにお昼おごってもらっちゃいました~♪」
語尾に浮かれた音符がついてるよ。聞いてる皆がいっせいに凍ったよ。ああ、言い返したい。古葉君に全然そんなつもりはないんだよと。でも今はそう言える雰囲気じゃない。折を見て、絶対に真相を皆に伝えなければ。
仕切り屋姉さんが代表して、涼しい顔をして暮沢さんに質問した。
「それって、古葉君が誘ってくれたの?」
ますますうれしそうな笑顔になる暮沢さん。怖い~。
「たまたま一緒になっただけですよ~。美味しいお店教えてくださいって、甘えちゃいました☆」
空気がピリピリする。ああ、古葉君は、まさにこういう状況を恐れていたことだろう。
「へえー……古葉さん、相棒の花房さんともランチ行かないのに、暮沢さんとは行くんですね~……」
とうとう恨み節が飛んだ。「私もお昼行ったし、オゴってもらったよ」って言い返したい。でも、彼の用意した切り札の使いどころは今じゃない。それに、暮沢さんにケンカを売る気もない。
「私も誘えばよかったな~、なんか、誘ったらいけないんだろうなって思ってた~」
続く女子の声。ほら、一部の女子とランチに行ったら、おのずとこうなるんだよな。古葉君はこれが面倒なんだよ。暮沢さん、彼の不可侵エリアをえぐるのはやめてあげてよ。これで負けじとお昼に誘う女子が出てきたら、古葉君が困るんだよ。
そこへ別方向から矢が射られた。
「でも、暮沢さんって、小上さんとちょっと気になる関係じゃないんですか~?」
オマエは古葉君でなく小上さんに行っとけ……という呪いの言葉だ。
「そうそう、小上さんが仕事中にカフェとか貢いじゃって、変だったの見たわよ~」
「小上さんとは、どうなのよ~」
追い討ちをかけるような声に、暮沢さんはバッサリ結論を出してみせた。
「悪いけど、オッサンはナシです。でもシッポ振って来るから、つい相手しちゃうんですよね~」
課長にこの言われようを聞かせてやりたい。悔しい。虚しい。
「暮沢さんって、モテるんですか~?」
「ううん、全然。変な男ばっかり寄ってくるんですよー」
モテるって答えとるやん。
「ありえない男の逸話なら、いっぱいありますよ」
暮沢さんはにっこりした。すぐに合いの手が入る。
「えー、たとえば?」
「人気のレストランに誘ってきて、『迎えに行くよ』って言うから、自宅知られたくなくって少し離れたパーキング指定して待ち合わせたら、まさかの自転車で現れた男とか」
一同驚愕。確かに、ありえない。
「迎えに行くって言われたら、当然車だと思うじゃないですか。違うの、自転車、自転車。しかも、後ろに座って乗るんじゃなくて、タイヤのところに足場がついてて、立って乗る感じになってる自転車でした。マジでぞっとして、『電車じゃないと行きません』って言っちゃいましたよ~」
すげえ、立ち乗りチャリで『迎えに行くよ』か。そいつはツワモノだ。
「他には、他には?」
皆が乗り出して、イイカンジになってきた。古葉君をめぐる闘いはどうやら一時休戦と相成った模様。
「ぜひ皆さんにも考えてほしいんですけど、高校生で、別に好きじゃない同級生の男の子から、真っ赤なバラの花束とプラチナの指輪を渡されて、『半年バイトして買った。返すくらいなら捨ててくれ』って言われたら、どうします?」
……うーん。返すなと言われても、返すしかないな。バラは生ものだからもらうけど。
「か、返す……かな。さすがにもらえない」
「高校生の安いバイト代を貯めに貯めて買ったわけでしょ。可哀想。だけど、指輪はどうしても受け取れない……重い」
「質屋に入れて、現金で返すっていうのも非情だしなあ」
「で、暮沢さんはそれ、どうしたの?」
「まずは本人に返そうとしたんですが、『断固受け取らない、捨てろ』と全然引かないからその男子のお母さんに返しました。お母さん、私の気持ちもわかってくれたし、その指輪の金額も惜しいから、すぐ受け取りました。自分で、これは模範解答だと思いました」
「なるほどねー」
「他には?」
「恐怖の荷物チェック男、っていうのがいます」
「えー、なんですか、それ」
「見た目的にそんなに悪くない男だったんで、食事の誘いはOKしたんですけどね……。『財布は持ってこないでくださいね、全部ご馳走しますから』とか言ってて、当日待ち合わせに行ったら、さっとカバンを持ってくれたんですよ。ああ、持ってくれるんだな……と思ったら、黙ってガバッと私のそのカバンを開けました」
再度、一同驚愕。
「『ひどいじゃないですか、財布持たないで来てくれって言ったのに、ホラ、財布が入ってます』って、カバンに勝手に手をつっこんで、私の財布を取り出しました」
怖~い。世の中、そんな変な男がいるの!? 私、見たことないよ~。
結局その日の飲み会はそれなりに盛り上がったので、良しとしよう。ただ、古葉さんにお昼オゴってもらっちゃった(音符つき)の誤解を解く機会はなかったので、私は翌週、各部署の女子をちまちまお昼に誘っては、「彼は本当は一人でお昼に行きたいのだが、暮沢さんの件は、仕方なく彼女の顔を立てただけである」と説明して回った。「変なふうに思われたくなくて、普段絶対一緒にお昼に行かない私を誘うほど気にしていた」と、代わって熱心に言い訳をしておいた。
女子会を仕切っている庶務の女性が結論を出した。
「うーん、仲間はずれにするみたいなのは嫌だけど、どうしても暮沢さんは仲間になれそうにないなあ。彼女がいると、なんか皆も本音でしゃべれないし。二回に一回のペースで誘うことにしようか」
私も、暮沢さんを排除するみたいなのは嫌だけど、毎回彼女がいるのは気が重い。他のみんなも同じ気分だったようで、女子会はそんなルールに決まった。
教材課のDTPパソコンがダウンした。もう、リースして長いからやむを得まい。もちろん、データは、教材の版下が出来上がったらその都度メディアに落としているので問題ない。単に数日、私の作業場が教材二課でなく宣伝課のところに移るだけだ。宣伝課が優先的に使うことになるが、この時期、彼らにそんなにDTPをいじる仕事はない。
宣伝課にお邪魔してパソコンに向かっていると、ちょうど庶務課と渉外課が見える。それで気づいたのだが、課長は通りすがりにちょこちょこ暮沢さんにちょっかいをかけていく。多分、邪魔だ。高級カフェくらいオゴらせてもいいような気がしてきた。
宣伝課は机に向かっていることが多いが、宣伝課の所属する営業部にはもう一つ「営業課」があり、そっちは電話営業や外回りがあってにぎやかだし華やかだ。そして、見た目がいいほうが顧客を得やすいからか、平均点以上のルックスの男性が多い。もちろん例外はいるけど。
私はいわゆる「イケメン」に興味がない。いい男を眺めるのはもちろん楽しいが、それ以上の感情は持てない。モテる男にくっついて、何人もの女性と競うほど恋愛にエネルギーは割けないし、浮気を心配する時間が無駄だ。もちろん「非イケメン」だって浮気をするかもしれないが、女が寄ってくる男よりは可能性が低い。それに、私は元々「枯れた人」を好きなので比較的心配は要らない。「小上さん、可愛くていいのになあ」と思っていた「いい」の中にもやや「枯れてて」のニュアンスが含まれていた。
だが、今の小上さんは決して枯れてはいない。美人にへらへらしていて、私の中ではポイントがぐっと下がった。ええ、暮沢さんに熨しつけて差し上げますよ。
「花房さん」
わあ、くだらないことを考えていたら突然背後から声がした。背後にあるのは営業部営業課。振り返ると、イケメン軍団(当社比)が立っていた。
「今日、ここ使ってるんですね。教材二課の人が出てきてるのって珍しいですよね」
「ああ、お邪魔しちゃってますー」
「僕らこれからお昼なんですけど、たまには一緒に行きませんか」
わ~珍しい。まるっきりこういう機会はなかったから、いいかもね。時刻は十二時、彼らは「業務の都合によってずらして取る」でなく、「十二時から一斉に」派か。
「ありがとうございます、古葉君が大丈夫なようならご一緒させていただきます」
とはいえ、私がここにいる時点で、留守番もなにもないんだけど。今日はずっと小上さんも席にいるみたいだし。
男性五人と一緒に通路を歩き、ぱっと教材二課に飛び込んで古葉君に「今から、お昼行っちゃっていい?」と聞いて了承をもらい、財布を掴んで出てすぐ群れに戻った。
「どこ行きます、男メシでいいっすか? それか、パスタとかのほうがいいですか?」
おお、お気遣いありがとう。こんなサボテン女まで、女性扱いしなくていいのに。
「男メシで全然いいです。どんぶりとか、好きですから」
六人組で近くの比較的広い定食屋に入った。私は親子丼に目がないので、地鶏となんちゃら卵の贅沢親子どんぶりとやらを頼んだ。
「花房さんって、けっこうお昼一人ですよね」
「そうですねー、時々女子ランチとか、しますけどねー」
「案外女子と群れてないんですよね、一匹狼ってやつですか?」
「女子会行ったり、そこそこ群れますよ。でも独自路線だと思うので、群れる一匹狼です」
へえ~、と一同感心。さすがこの人たち、人と話すのが仕事だけあって聞き上手ね。
「花房さんとは、会社の飲み会でも何度かご一緒してますけど、話す機会ってないですね」
「そうですよねー。自分でも反省してるんですけど、あちこち行かないで根っこ生やしちゃうから、誰かが来てくれないと話さないんですよね」
「じゃあ、今度は自分、隣空いてたらお邪魔しますよ」
「俺も俺も」
接待か君たち。なんにもメリットないぞ。これが男性の社内政治なんだろうな。古葉君もやってるやつ。
「古葉さんとは仲いいんですか?」
「いや~仕事だけですね。プライベートの話とか、ほっとんどしないです」
実際はなんとな~く、仲間意識的なものは共有してるけど。課長への不満聞いてあげたり、暮沢さんとのランチ事件のフォローをしたりしてあげてるし。彼は私が結婚することも知ってるし。でも、友情みたいな「仕事以上」の感覚はない。
そうだ、古葉君のことを逆取材してやろう。
「皆さん、古葉君とはフットサルやったりしてるんですよね」
「そうですねー、メンツはちょこちょこ変わったりしますけど、もう三回くらい行きました。古葉君って、場の手配とか仕切りとか、すごいしっかりしてて感心します」
さすが古葉君、各所で上手くやってるわ。聞くまでもなさそうだな。
「フットサルの後は、飲んだりするんですか?」
「あー、フットサルは集まる言い訳で、飲みがメインです、どっちかっていうと」
「女子会に対抗して、男子会ですね」
皆でハハハハ……と笑う。うーん、さわやかな人たちだなあ。フットサルやって飲み会やって、男メシで笑い合う若者たちか。いいなあ、青春だなあ。三十代の人もいるけど全然若い。みんなエネルギッシュだ。
「女子会って、うちの男子で誰がいいよね~とか、話すんですか?」
一人、勇気ある若者が問うた。聞いたら君らガッカリするぞ。
「えー……そこはまあ、女の子の秘密の花園ってことで~」
ふふふふー、とか意味深に笑ってみる。ゴメン、ウチの古葉君が一番人気だし、君らは「顔はいいけどね」でオシマイなのだ。まあ、普段から、関わる機会が案外ないせいもあるけど。こうして話してみると楽しそうな人たちだし。
「花房さんは誰推しなんですか?」
ぶはっ。
「いやいや、ないですそういうの」
即答したけど、ホントは多分、古葉推しの一派に片足突っ込んでるのかな~……
「えー」
「またまたー」
ここで「古葉さんとかって」と言われたらボロが出るから、先手を打っておこう。
「強いて言えば、ウチの課長が愛らしくて枯れてて、いいですねー。動物みたい」
それも失礼だけど、一応課長も独身男性なので、マジに好きみたいに思われないよう変な言い方になるのは勘弁してやって。
「小上さん、確かに、なんか可愛いですよね」
「あー、わかるー」
ウケた。しかも同意を得られた。いや、これも政治的な「共感」ってやつか。
「でも最近、小上さん、暮沢さんにアプローチ中ですよね。花房さん、対抗しないと!」
一同笑い。私も笑っちゃったけど、そこで笑いが起こるのって、課長の立場がない。完全にギャグにしかなってないという……
「まあ、暮沢さん美人ですからね。男子会でも、人気なんじゃないですかー?」
はははー、と笑いが起こって一人が言った。
「そうですね、花房さんと人気を二分してますよ」
おおっ、そう来たか。素晴らしい切り返しだ。
「上手いこと言いますね~、ここのお会計、持たないといけないかな~」
いやはや、まったくもって口の上手い連中だよ。私も、すっごい社交辞令言ってるわ。これが大人の会話ってやつだね。
「それはおいといて、マジメな話、誘ったんだからここはオゴりますよ」
最初に声をかけてきたイケメン君(顔と名前が一致してない)が言った。私は顔の前ですごい勢いで手を振った。
「貸しは作らない主義なんで、カンベンしてください。断固自分で払います」
「たまにはいいじゃないですかー」
「じゃあ、また誘ってください。毎回『今回はオゴる、オゴらない』とかやるの面倒でしょう。オゴリは一切なしで、そのかわりまた、気軽にぜひ」
「花房さん、男前ですねー。『え~、ごちそうになっちゃおうかな~』で、いいのに」
「そういうのは、女子らしい可愛い子にやってあげてください。私は男で結構」
そうなんだよね、この「男はオゴる、女はオゴられる、それで礼儀が尽くせた」みたいなのがとにかく面倒なんだよね。「オゴるって言わないとまずいかな……」と男に思わせるのがそもそも嫌だ。
私は下品でない範囲内で、気取らずに親子丼をがつがつたいらげた。食べ終わるスピードもそこそこ早くて男前だったと思う。唯一、猫舌なのは女子っぽかったかもしれないけど。これで彼らも、私に今後、「女性は……」とか意識せず気楽に関わってくれるだろう。
バカ話をしながら食後のお茶を飲み、ゲラゲラ笑いながら事務所に戻ってきた。教材二課の前で「ありがとうございました、またDTPしにそっちに行きますけど」と挨拶して男子五人と別れ、自分の席に戻った。小上さんはお昼に出て、古葉君だけ残っていた。
「お先にいただきました。急にゴメンね」
古葉君に詫びると、彼はふっと変な笑い方をして、
「モテる女はつらいね、おつかれさん」
と言った。いやいやいや、あなたと違って社内の人とお昼行くの全然苦じゃないから。
「おもしろかったよ。男子の間では、私と暮沢さんで人気を二分してる~とか言われちゃってね~」
ぶはっ、と自分で笑っちゃった。その前に化粧くらいしろよ、とセルフツッコミ。
「それはそれは、ますますおつかれさん」
古葉君は笑いをこらえながら立ち上がり、「じゃ、行ってくるわ」とお昼に出ていった。ちょっとー、そこで笑うのは失礼じゃないのー。もちろん、そこで遠慮なく笑ってもらえる自分のキャラクターは嫌いじゃないけど。
とにかく、珍しい男性陣と、楽しいランチタイムだった。古葉君が男にも評判がいいことがわかって、「ほんとに小賢しい人!」という思いも増したけどね。
結局、教材二課のDTPパソコンが使えなかったのはたった三日だった。初日には男子がお昼に誘ってくれて楽しかったが、その夕方から庶務の野口さんが「帰りに、一緒にカフェリーヌに行きませんか」と誘ってきたのには困ってしまった。教材二課に入ってきてまでカフェの誘いはしづらいが、比較的オープンなスペースにいれば誘いやすいのか。
一日目は「オゴりますよ」という誘い方をしてきたので、「そういうのヤメましょうよ、私、オゴリとかみんな断りますから」とポリシーを前面に出して断りつつ、自然なふりをして教材二課に戻ってしまった。
二日目は「オゴるとは言いませんから、ただ単に、一緒に行きましょう」と言われたが、その日は水曜・レディスデーで、仕事の後に見ようと映画のチケットを買ってあったのを理由にした。「断るために、嘘ついてたりしません?」とまさかの食い下がりがあったので、席まで戻ってチケットを持ってきて、見せてあげた。
「ね、昨日買ったんです。ホラ、上映時刻、定時ダッシュでギリギリだから、カフェは無理です」
「じゃあ、明日」
だが敵もさるもの、そう切り返されて言葉に詰まった。明日の分の断る理由がない。その時はまだ、翌日にパソコンが直るとは知らなかったから、「毎日これが続いたら、かなわんな」と思って渋々承知した。
「そうですね……そんなにおっしゃるなら、一度、ご一緒します」
「ほんとですかー、やったー」
くれぐれも一度だからな……と、心の中で釘を刺していたら、ここから思わぬ展開が。
「カフェリーヌ行くんですか?」
この背後からの声は、営業部営業課。振り返ると、お昼に誘ってくれた人だった。なお名前はまだ覚えていなかった。
「ええ、なんか、明日の帰りに行くことになりました」
こそこそしたらデートみたいなので、「全然なんでもないけど、誘われたから行くだけ」という感じを最大限に醸し出して私は答えた。野口さんは若干またもごもごした。
「僕もご一緒したいなー」
おお~、救いの手。いや、もしかしたら、私が前の日に断ったのも知ってて、ほんとに助けてくれてるのかも。私は笑顔で、野口さんの了承を取らずに答えた。
「あっ、ほんとですか、ぜひぜひー」
野口さんはノーリアクション。私はわざと野口さんににっこり笑いかけて、
「大勢のほうが楽しいですもんねー」
と言った。よし安全確保!
翌日、本当に三人でカフェリーヌに行ったけど、空気はとっても微妙だった。野口さんがえもいわれぬ気配で黙っていて、私と営業課の人(小松さんという名前だった。さすがにまずいので覚えた)で楽しく話してしまった。これで野口さんのお誘いにも乗ったからもう御役御免だし、その日の夕方にはパソコンももう直ってたし、今後隙は作らないぞ、と思った。それにしても野口さんについては困ったなあ。脈絡もなく「あー私婚約者いるんで」とか言うのも自意識過剰みたいだし。
古葉君は早耳で、翌日にはこのことを聞きつけていた。
「昨日、野口さんとカフェリーヌ行ったんだって?」
ええ、ええ、古葉君の心配してくれたとおりになりましたよ。
「うん、でも小松さんも一緒だよ」
しれっと答えたら、古葉君はなぜかえらく笑った。笑うな、こっちは大変なんだ!
しばらく笑ったあと、彼は真面目に言ってくれた。
「上手い機会作って、相手いること、社内に公表しないとね。野口さんが来るような場で」
それだよなあ。フットサルの男子飲みじゃあ野口さんはお呼びでないし、古葉君に情報流してもらっても、普通じゃ野口さんの耳にはまず入らない構図なんだよね。
「――ま、こっちのパソコンも直ったし、教材二課にいる間は俺がお守りしますよ。ただし定時の一分後までね」
うは、「俺がお守りします」だって。気分高揚しちゃうじゃん。でも騙されないし顔にも出さないぞ。私はわざと、若干あきれた目をして揚げ足を取った。
「古葉君、定時の後、一分もいないじゃん」
「ちょっと盛ってみた。残念ながら、花房さんを守るために居残ってあげる気はないんで、せいぜい気をつけてね」
そう、この、上げておいて落とす感じがあるから、古葉君ってちょっと気取ったこと言っても変な感じにならないんだよね。時々カッコいいこと言ったりして、受け取りようによってはカンチガイ野郎にも見えかねないんだけど、そこからぱっと距離を取る。しかも本音では気を遣ってくれてるのがちゃんと伝わる。
ほんと、「いい男」ってなんだろう。小松さんのほうが背も高くて顔も良くて、野口さんとの間に入って助けたりしてくれて、ストレートにカッコいいんだけどな。もしかしたら、古葉君がもっと見た目的にカッコよかったら、また印象が違ったりするのかもしれないな。