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十三 最後のメッセージ


 古葉君が自分宛の荷物を梱包しているのを、私は自分の椅子に座ってニコニコしながら見ていた。

 私を引き止めてしまってから、彼は、「ゴメン、俺、基本的に強がりなだけで、根本は全然ダメな奴なんだよ」と言ってまた梱包を始めた。「この最後の二週間ちょっと、他の人ばっかりで、キミと一番関わりが薄かったでしょ。さっき、じゃあねって見送ったら、急に強がって失敗したーってすごい後悔して……そこにキミが戻ってきたから」だそうだ。

 夜に二人っきりのこの事務所で、腕をつかんで女性を引き止めて、身の危険を感じさせずにこうして落ち着いてそばにいられる人っていうのも特殊だよね。多分、この人が女に対して面倒を起こすわけがない……という妙な信頼なんだろうけど。

「この荷物ね、庶務の高森さんが個人情報を保護しつつ俺の自宅に送ってくれることになってるから。ちょっと置いてくる」

 段ボールは二つ。一つ運んで、もう一つ運んで、古葉君は戻ってきた。

「さ、これで俺のここでの仕事はおしまい。お疲れ様でした。待たせてごめん、帰ろう。……どうしよう、なんかすごく気が大きくなってきた。誘わないって言ったのに、これから打ち上げの飲みとか誘ったら……」

 珍しく浮かれた様子で軽口を叩いていた古葉君は言葉を止めた。

「……地震だ」

 ――まさかの、このタイミングでの意外に大きな地震。それは東京の一部地域に長時間の停電をもたらした。そこに、この事務所は巻き込まれた。神様、確かに「もっと古葉君といられたらいいのに」と思ったけど、そこまでしなくてよかったのに。

 電気が突如消え、真っ暗になった事務所の中で、しばらくは余震が怖くてじっとしていた。外から急ブレーキの音が聞こえた。ブラインドの隙間から外を見ると、真っ暗なビルの向こうにわずかに見える大通りでは、車がかなり徐行運転をしている。信号機がついていない。さっきの急ブレーキは信号が消えたせいだろうか。

 私は、ブラインドから漏れるわずかな明かりを頼りに古葉君の顔を探し当て、見上げた。彼も窓の外を確認して、うーんとうなった。

「駅まで歩いたらあぶないよ、これ。信号動いてないもん。停電で電車も動かないかな。どのくらいの規模なんだろう、困ったね。すぐに復旧するのかな」

 古葉君は胸ポケットから携帯電話を出して、画面のバックライトで視界を得ると、とりあえず自分の椅子に座った。そしてライトを私に向けてくれたので、私も椅子に座った。二人で仕事の時のように机に向かう形になった。

「古葉君、こんなタイミングで停電なんて、行い悪いんじゃない? 小上さんの邪魔は入るわ、停電の邪魔は入るわ、さんざんだね」

「そうだね、花房さんに対して、『さっさと帰って』って言ったくせに結局引き止めたり、前に『思い出にディナーに誘うことはない』って言ったくせに飲んで帰ろうって言おうとしたり、今日二つも悪い行いしたからなあ。今、何時? ……八時すぎか……。さすがに終電の時間までには復旧するでしょ、ゆっくり待とうか」

 暗いのでやることがない。机に伏せて寝られたら寝ようとしてみたが、地震と停電でちょっとした興奮状態にあってなかなか寝付けない。古葉君もそれは同じだったようで、結局二人でとりとめのない話をして過ごした。途中で、停電の規模がけっこう大きくて、各所で電車が止まっていることを知った。会社付近を通る電車も軒並み止まっていた。

 梅雨の時期の夜は冷える。だんだん寒くなってきたので、ひざ掛けをして、肩からショールをかけた。

「寒い?」

「今のところ、これくらいで大丈夫」

「でも、もっと遅くなると冷えてくるよね……緩衝材ちょっと切ろうか。俺も冷えちゃう前に使おうかな」

 また携帯電話のバックライトで室内を照らして、梱包用の緩衝材(いわゆる「プチプチ」)を大きめに切って体にかけた。停電が回復する気配はなくて、携帯電話でネットを見たらこの付近で大きな送電用の鉄塔が一本倒れて折れ、修復のための工事車両等の手配が地震の混乱で遅れているとあった。都市部の停電が長時間になることはないとたかをくくっていたが、記事の書かれっぷりからはけっこう深刻な状況らしい。

「これ、終電の時間までに復旧しないかもしれないね……」

「ゴメン、花房さんはもう帰れてたのに、俺が引き止めたから」

「ううん、電車の中で一人で途方に暮れるより、ここで古葉君と一緒のほうが安心だよ」

 都会の真ん中で、まさかの遭難気分。でも……これで不可抗力として、古葉君と一緒にいられる。間違いは絶対にないから、今夜は見逃してねと、心の中で婚約者に祈った。

 とはいえ、この長い暗闇の中で私が考えたいろんなことは、とても古葉君には聞かせられないし、とても公開できたものではない。表面上は平穏に過ごしつつ、私の感情は決して平坦ではないまま、とうとう終電の時間を過ぎた。もう今夜はずっと二人っきりで過ごすしかない。彼はひたすら私を気遣ってくれた。私は改めて、古葉駿二はどこまでもつまらない男だと確信した。一応、ほめているつもり。……正直、すごく残念に思ったことは内緒だ。

 少し会話が途切れて、古葉君が携帯電話のスリープを解いた。画面のバックライトが室内を暗く照らす。

「もう帰れないから、一応寝たほうがいいよね。花房さんはここで寝て。俺は適当に、寒くなさそうなところ探して寝てくるよ」

 携帯電話のバックライトで室内を照らしたあと、古葉君はパーテーションの隙間から外を照らして、廊下を覗いた。私は、悩んで、悩んで、でも比較的早く、言った。

「一緒にいてよ。変な意味じゃなくて」

 顔は見えないけど、古葉君が振り返った。

「不安だし、人がいる部屋のほうがあったかい」

 変な意味なんかないのに、ちょっとモジモジしちゃった。だって、何事かあったらそれは運命とか思っちゃったし。

「一緒に仕事してて、時々思ったんだけど――花房さんて、意外と甘えっ子だよね」

 ええっ、仕事でとか、それとか古葉君相手に、そういうのを出した覚えはないけどな。男前を目指してたんだけどな。でも、ここは売り言葉に買い言葉で、甘えさせてほしい。ちょうど私に発言を促すかのように、古葉君の携帯電話がまたスリープになって明かりが消えた。

「変な意味じゃなくて、古葉君と、我々史上最大にそばにいたい」

 あ、闇の中だけど、古葉君が笑ったのがわかった。なんで笑うの!

「変な意味じゃないって言いすぎ。教材二課にいる間は守るって約束したでしょ。心配しないで大丈夫だよ。キミの許可する距離までそばにいくよ、どうする?」

 やっぱりこういう言い方がドキドキするんだよなあ、この人。「そばにいくよ」って、「どうする」って、どう答えちゃったらいいのかなあ。

「ありがとう、あのね……」

 答えようとしたら、古葉君がぶふっと笑った。何それっ!

「キミはホントにうかつだよ。俺がいなくなっても、ちゃんと男には常に注意してね。教材二課にいる間は守る、ただし定時の一分後まで、って言ったのに。今は守る時間をとっくに過ぎてる。俺が悪い男じゃなくてよかったね、はい、ご要望をどうぞ。時間外だけど、お守りしますよ、ちゃんとね」

 多分この人、恋愛では「S」のほうなんだろうな。なんでこう、いつも優位にいるんだろう! それでも素直に答える私は、本当に可愛いと思う。

「……肩貸して。壁に並んで座って休みたい」

 一緒に横になる度胸はない。だから、壁に寄りかかって、寄り添っていたい。

「もっとすごいのでもいいけど」

 えっ! 「すごいの」って、何がどうすごいの!?

「ホントに、キミはからかいがいがあるよね。暗くてもリアクションがよくわかる」

 古葉君は大笑いした。このドS男っ! すっごいドキドキしたんだけど!

「もう、私だって恥ずかしいのに言ってるんだから、茶化さないで!」

「俺だって照れくさいよ、だからからかってくるんだなって、そこは汲んでよ」

 お互いに照れを見て見ぬふりしながら、暗い中、それまで肩にかけていた緩衝材を二人分床に敷いて、その上に並んで座った。それから、二人でかぶっていられるくらいの大きさに切った緩衝材を一緒に肩にかけた。

 そろりと肩に肩を重ねる。腕一本分、古葉君の肩が私の背中に重なる位置まで近づかせてもらった。思った以上に心地よい。変な不安も一瞬よぎったけど、次の瞬間に温かさが伝わって、大丈夫だと安心できる。ふふ、と笑ってつぶやいた。

「よくある妄想で、雪山で二人っきりになって温め合うしかなくて……みたいなのあるよね。でも、まさか自分がそんなことになるとは思ってもみなかった」

 古葉君の声がすぐそばで響く。

「俺も、小上さんに『二人っきりで深夜になるな』って言われて、お泊まり疑惑の時に花房さんが部長に『職場にお泊まりはいかがなものか』って言われて、絶対そんなわけあるかって怒ってたのに、最後の最後にそうせざるを得なくなるとは思わなかった」

 この距離で聞こえるのは気持ちいい……。神様は、変なお導きじゃなくて、私にこの温かい時間をプレゼントしてくれたんだな。お仕事をがんばったご褒美かな。

「そうだよね、停電で誤解されても困るよね。朝には電車動いてなくても、できるだけ早くここ出ないと」

「あ――それなんだけど、俺、始業時間までここにいようかな」

「え? なんで?」

「小上さんのせいで、みんなに挨拶空振りさせちゃったから。『停電で帰れなかったよ、参ったな~』って言って、朝、みんなに挨拶してから出ていくのも面白いかなと思って」

 う、暮沢さんにチャンス発生。これは私も断固出勤しなくては。

「じゃあ、私は朝なるべく早く帰るけど、一回家に帰って着替えたら普通に出社するよ。みんなが古葉君を見送るのに、私が欠けてるのはシャクだもん」

「いいじゃない、今、こんなに長い見送りしてるのに。地震と停電のせいにして午前半休でももらったら? 帰って、ゆっくり寝なよ」

 そうじゃないの。男前じゃない、女子な私の本音を古葉君に初公開。

「嫌だ。女子一同が最後に古葉君に会えるのに、私がいないなんて絶対やだ」

「へえ、花房さんもそういう対抗意識あるんだ。ないのかと思ってた」

「女として人にあれこれ勝ちたいとかは全然ない。でも、私、ホントはずーっと『古葉派』だったから、古葉君のことだけは、他の女子に負けるの、やだ」

 古葉君が言ってくれたとき、私もって言えなかったから、こんなタイミングで告白。どうせ「知ってた」とか言うんだろうけど、白状しちゃったのは動揺する。

 古葉君が笑ってる振動が伝わる。……笑ってるよ。どうしてこの人は、なんでもこうして優位にいるのかな。ここで笑うのは、失礼だと思う!

「すごい花房さん、今、むすっとしたの伝わった。真っ暗でも感情表現ができる人、俺、初めて見た」

「私がわかりやすいとかじゃなくて、誰でもそういう反応になるでしょ、今の、笑うところじゃないのに!」

 照れてみせるとか、お礼の一つも言ったらどう?

「だって笑うしかないでしょ、口説いてほしいの?」

「こんな暗い中でそういう冗談は笑えない! 口説きたいの?」

 この時、私の心臓がものすごくバクバクしてたのは、果たして彼に伝わっていたんだろうか。深夜のこんな状況で、あまりにいい度胸してるよ!

 しかも、続けて言うのがこれだもん。

「期待しないで。俺、何もしないから」

「期待って何! される気もありません!」

 うう、でも、はっきり「何もしない」と宣言されるのはショボい……。難しい女心。

 微妙な会話はそこまでで、あとはひたすら、時々黙ったり、時々しゃべったりして夜は更けていった。長い夜の闇の中、古葉君は、いささか複雑な家庭の事情みたいなものも話してくれた。そして、だから結婚は苦手だと言った。けれど、私と過ごした日々で「幸せな結婚生活」を疑似体験できたから、自分の家庭のことを少し「別物」として見られそうだと、だから最後に自分の家庭の話ができてよかったと言ってくれた。

 私にとってもここは家庭みたいに居心地よかったし、古葉君は会社のダンナ様だったよ。今こうして肩を寄せ合って、恋愛のような甘さよりも、家族のようなぬくもりがある。

 ねえ、きっと、結婚したら古葉君はいいダンナ様になるよ。いいお父さんにもね。――そう言ったら、古葉君は穏やかに「そうだったらいいね」と答えた。

「少し寝よう。花房さん、明日、出社するんだし」

「うん」

 もうしばらく古葉君の体温を感じていたかったんだけど、そこから先の記憶はない。安心しきって、肩を借りてゆっくり寝てしまったんだと思う。

 深夜のうちに停電は回復したらしく、私が早朝に目を覚ました時、教材二課の電気はついていた。古葉君は起きていたが、動いたら私を起こしてしまうからと、じっとしていてくれたようだった。

 それが朝四時半。ネットで調べたら鉄道各線は遅延や本数減はあったが始発から動くようだったので、私は急いで事務所を出ることにした。数時間後、また再会するだろうけど、その時はもうお別れはいいよねと合意した。

 私は大切に、最後の言葉を告げた。

「最後に二人で一緒にいられてよかった。あと、正直言っちゃうと、一晩中くっついていられたの、すごく心地よかった。昨夜引き止めてくれてありがとう。生まれ変わったら、次は恋人やってみたい。そのくらい楽しかったし、ハッピーだった。本当にありがとう」

 古葉君ときたら、せっかく最後なのに、私に微妙な苦笑を向けた。

「キミは本当に素直に人に気持ちを言えるよね。俺、キミにはだいぶ素直にしゃべれたけど、絶対キミみたいにはなれないな。尊敬します。キミに憧れて、これから少しだけ素直に生きてみるよ。人生、ちょっと変わりました。ありがとう」

 お互いに、最後は「ありがとう」。

 約束どおり、今度こそ、教材二課を出たら私はもう振り返らなかった。

 早朝の電車に揺られながら、今頃、古葉君はあの場所でまた寝ているのかなと思ったらとても可笑しかった。


 数時間後、何食わぬ顔で私が出勤すると、古葉君はもう皆に囲まれて笑っていた。私も遠巻きに輪に加わったが、もう古葉君との会話は終えてあった。時折、共通認識を持つ者同士の視線の交わし合いはしたけれど、私はずっと「その他大勢」であり続けた。

 みんなの笑いと拍手の中、古葉君は事務所を去っていった。最後に一回大きく振り返って最敬礼のお辞儀をした後、顔を上げた彼は私に最後のアイコンタクトを投げた。私は多分、最高の笑顔で返すことができたと思う。それが、私と古葉駿二の別れだった。

 ……と思ったら、ちょっとだけオマケ。とうとう古葉君がいなくなってしまった……と、寂しさに身を浸しつつパソコンを立ち上げて朝のメールチェックをしたら、講師や業者に交じって古葉君から最後のメッセージが入っていた。送信時刻は五時半。私が今朝、ここを出てから打ったらしい。あれから一時間近く、何をやってたんだ。

 もちろんメールは一時間もかけて打つような力作ではなく、「無事退職してね」とか「相棒になれてよかった」とかいう、普通の(でも、愛情のこもった)内容だった。私はそのメールをプリントアウトして大切にカバンにしまうと、パソコンから消去した。


 古葉君がいなくなり、さらに、私の退職日が決まった。七月二十五日まで出勤、在籍は八月十五日まで。小上課長は、教務課の補佐はするものの、基本的には教材二課メインに戻ることになった。代わって、当社で一番美人のベテランミセスが課長代理に昇進した。

 彼女は小上さんより一つ年上だし、入社も小上さんより半年早い。なのに、教務課長の休職が決まった時、誰もそれを考えなかった。これまで、彼女はあくまで「事務をする人」でしかなかった。女性は上に行かない――よく考えたらウチの会社はそういうところだった。暮沢さんが以前、自然に「古葉さんを課長に」と言ったのも、その文化の中にいたのだから当然と言えば当然だった。

 暮沢さんと言えば、なんと教材二課の私の後任は彼女に決まった。私が辞めるから人員は課長と暮沢さんの二人。ベテランの小上課長だと一人じゃ無理で、三年目の私なら一人でやれ……だなんて、私はさぞ優秀なんだろうなあ。「ああいう上司、信用しないほうがいいよ。いざとなったら助けてくれないから」という古葉君の言葉を最後まで噛みしめることになった。

 暮沢さんは「宣伝課に交じった渉外課の人」で動かしやすい立場だったし、その前は教務課だったから講座のこともある程度わかる。言われてみればいい人選だった。

 教材二課に戻った課長は、日々淡々と机に向かいつつ、私に優しい思いやりを向けてくれた。懐かしい、古葉君がいない頃の小上さんだった。その優しさを単純に「いい人」だと思える私はもういなかったけれど……。

 私は課長の背中を複雑な気持ちで見ていたが、冷静になるにつれてだんだん見えてきたものがあった。部署をあいまいに管理して、日々なんとなく残業している課長に代わって、ずっと年下の古葉君がしっかり部署を仕切って残業なしで通常業務をクリアしてしまったら、「これまで小上は何をやっていたんだ」ということになる。毎日定時でしっかり帰れるだけでも、古葉君の存在は課長にとって、自分の立場を脅かすものだったに違いない。私はそこまで優秀じゃなかったし、女性である以上、この会社での立場が課長を追い越すことは決してない存在だったんだ。

 私は定時か、あるいは残業手当が出る定時一時間後にしっかり仕事を終えて帰宅した。世の中、人が三人いれば派閥ができるというが、十九時までに仕事を終えて帰る私は決して小上派ではなく古葉派だった。課長は時々教務課にも行ったし、たいがい十九時以降も会社に残っていたが、退職する私が無理して支えてあげる必要はもうなかった。


 七月前半は宣伝課が忙しい時期なので、暮沢さんは七月十五日から教材二課に異動してきた。隣にいるのが古葉君でなく、暮沢さんという不思議。初日、暮沢さんがお昼に誘ってくれたので、ご一緒した。

「古葉君と続けざまに辞めちゃってすみません。ご迷惑をおかけします」

 私は暮沢さんにまず詫びた。彼女はやや眉根が寄って眉尻を下げた笑顔になり、

「しょうがないよね、部下に次々辞められるっていうのは、小上さんの上司としての資質に問題があるわけだからー」

 と言った。それをわかっている人に仕事を預けてとんずらというのは本当に申し訳ない。この人、女子度はいささか高すぎるが、決してバカではない。

「でも暮沢さん、そのう、小上さんの恋愛アピールはどうするんですか。二人の部署で、しかも残業で遅くなったりもしますよ」

 私は恐る恐る聞いた。暮沢さんは、あっけらかんと答えた。

「ああ平気、結婚するから」

 私は雷に打たれたように全身が硬直した。暮沢さん、とうとう課長に陥落したのか。それで、「めおと部署」をやるわけ? でも会社はそれを許可するの?

 身動きもできない私の様子を見て、彼女は「やったあ」という顔をした。えっ、違うの?

「相手は小上さんじゃないわよー、やだー」

 やだーじゃないでしょ、もう。暮沢さん、いつ彼氏できたの。彼氏いないって何度も言ってたの、ちゃんと聞いてたよ。

 彼女は「うふふふっ」と笑うと、手品の種明かしをするように得意げに教えてくれた。

「私ね、五年くらい、付き合ったり別れたりしてる彼氏がいるの。あ、女子会で悪口言ってた元カレは全部、その人とは別の人だからね。イマ彼とは、一年付き合ってたり、半年別れてたり、一週間だけ復活して別れたり、そういうのをずっと繰り返してる。ちょうど女子会の時は別れてる時期ばっかりだったから、嘘はついてないよ。先月くらいから、またよりを戻して、そろそろあきらめて籍入れようかって話になったの」

 本当~に難しいな、この女子は。じゃあ古葉君はなんだったんだ。でも古葉君はさすがに慧眼で、「他に好きな人か、ホントは彼氏がいるんじゃないの」って、見抜いてたわけだな。「正解だったよ」と古葉君に伝える手段がないのは残念だ……。

「古葉さんのことはどうなのよ、って顔してるね」

 顔を読まれた、古葉君かあんたは!

「答えを教えてほしかったら、今日のここのお昼オゴって!」

 暮沢さん……「男性にオゴられたい女子」じゃなくて、単に守銭奴なのか?

 でも、じっと私を見ている様子を見て、真意は理解した。「お金を出しても知りたいくらい、彼のこと、好き?」って聞かれてるのね、私。

「わかりました、おごりましょう」

 古葉君みたいにかっこよくクールな口調を気取ってみた。私は好きだって白状したぞ。さあ教えてもらおうか。

 私があっさり答えたので、彼女は拍子抜けしたようだった。

「なーんだつまんない、『知りたいと思わないし!』とか言うかと思ったのに、案外正直ねー。ちょっとだけ、私のことケチだって思ったでしょ。でも、女子にオゴってもらう趣味はありませーん、自分で払いますー」

 男にオゴってもらう趣味があるのもどうかと思うが。

「私、基本的に、ハンターなのよね。でも、彼氏と私だと、向こうが追いかけてる感じになっちゃってて、なんか情熱がわかなくって。やっぱ、ドキドキしていたいじゃない? だから、いい男見ると、彼氏と別れてそっちに行っちゃう。だから、古葉さんとはホントに付き合う気があったし、私は十分、恋愛のつもりだったんだけどなー。全然ダメだったから、結局元の鞘に収まっちゃった」

 だから古葉君がいなくなった「先月」、よりを戻したのか。彼氏はそれでいいのか。

「それで、今回はもう結婚しようかな、って思った理由は何ですか?」

 少しは古葉君に相手にされなかったことに傷ついた? ハンターをやめようとか、やっぱり元の人がいいとか、そういう決意に至るくらいに。

「私、今二十九だよ。三十前に結婚して、三十五までに出産しないといけないじゃない」

 いや、いけなくはないけど……。ただ、「三十五までに出産」って厳然たる数値目標なんだよね。そういう実務的な理由か。古葉君はやっぱり単なるハンティングの対象だったということだ。そのせいで我々はえらい被害をこうむったのに。ああもう、この女子め!

 それから、暮沢さんは非常に楽しそうに、こうのたまった。

「花房さんが会社にいてくれるうちに、『結婚します』って小上さんに言っておかなくちゃな~。もう、今から、小上さんがどういう顔するか楽しみで~」

 それ、「小悪魔」とかじゃなくて悪魔だな。課長、ご愁傷様……。

 事務所に戻る道すがら、彼女は私の腕をがっしと掴んで懇願した。

「花房さん、古葉さんと連絡とってるんでしょう? 私、いい男はいつまでも好きだから、また会える機会作ってね」

「連絡なんてとってないから、無理ですよ!」

 大真面目に返事をしてあげたのに、「絶対嘘だ」「そう言えって言われたんだ」など、まるで納得してもらえなかった。まあいいか、面倒だからこのままにしておこう。ハンターめ、バカなこと言ってないで、さっさと結婚しなさい!


 いつ、どのタイミングで暮沢さんが課長に「結婚する」と伝えたかは知らない。課長が夕方から教務に行ってしまい、戻ってこなかった日があるから、そのへんかもしれない。

 私は暮沢さんにいろいろな引き継ぎをして、一緒にいろんな仕事をやって、この会社での最後の時間を過ごした。彼女との日々も、案外悪くなかった。

 私の送別女子会で、他にも女子の退職者が出そうだったので、「会社の女子会」でなく「仲良しの女子会」として、今後も同じメンバーで集まろうと話が決まった。寂しさが少し軽くなった。

 そして私の最終出勤日、課長が遅いお昼に出ていったタイミングで、暮沢さんは私に最後の戦い(?)を挑んできた。

「もう最後のチャンスだから絶対絶対『ウン』って言わせてやる。絶対、古葉さんの連絡先知ってるでしょ。花房さんだけが頼りなんだから、ほんとにお願い。連絡先を教えてとは言わないから、せめて辞めてからも、古葉さん呼んで、何かの機会作ってよ~」

 冗談でしょ。結婚してもハンターやるのか。それに、本当に、連絡先は知らない……。

「決着つけようよ、負けないから~。花房さんだけ古葉さんに会えるとか、ずるいよ」

 いや決着はついてるよ。私の勝ちだよ。言えるわけないけど。

「もう会えないのは暮沢さんも私も一緒です。もうおあいこですよ。古葉君はそういう人です、連絡先も何も残さないで、綺麗に消えちゃいました。なんにも知らないんです」

 でも、暮沢さんはなかなか引き下がらない。どうしたものか。

 そこで思い出した。プリントして、ずっと大事に持っていた古葉君からのメール。本当は誰にも見せないつもりだったけど、熱烈で特別なメッセージでは決してないから、ここでちょっとだけ使わせてもらおう。

「これ、最後に古葉君にもらったメールです。個人じゃなくて会社のアドレスからもらってるし、ホラここ、もう会えなくなるって書いてあります。これっきりなんですよ」

 手渡すのは嫌なので、手にしたまま、古葉君からのメールのプリントアウトを暮沢さんに見せた。


  このメールは出したら俺のほうでは消していきます。

  君も読んだら消してください。

  俺は君ほど素直になれないので、最後のメッセージ。


  君を 置き去りするのは気が引けるけど、甘えて

  好きに やらせてもらいます。仕事が大変に

  なる前に 君も無事退職してね。もうこれから

  会えなく なるけれど、本当に君と相棒に

  なれてよかった と心から思います。


  楽しい時間をありがとう。幸せを祈っています。

                    古葉駿二


 暮沢さんは全体にぱっと目を走らせるなり、すごい速さで顔を上げて私を凝視した。じっくり読んでほしくはないけど、私の言った「もうこれから会えなくなる」の箇所、ちゃんと確認してくれた?

「……花房さん、天然!」

 なんで私が、今、そんなことを言われなければならぬのか? しかも、もっとすごい天然ボケな女性に言われるのは釈然としない。何、その謎なリアクション。

「確かに、古葉さん、これじゃもうあなたには会えないよね……」

 暮沢さんは切ないつぶやきとともに目を伏せる。全然意味がわからない。もう会えないことは理解してくれたみたいだからいいけど。

「花房さん、わかってて私に見せたわけじゃないよね?」

「わかってて? 何を、ですか?」

 全然わからない。一体ここから何を読みとったの? しかも速攻で。

「女子力低い! 私、どうしてこんなに鈍い人に負けちゃったのかなあ!」

 あれえ、「負けないから」は撤回? ううん、女子はわからん。特にこの人はわからん。

 ポカンとしていたら、暮沢さんはあごを引いて私をじいっと睨んで、でもほんのわずか笑みをたたえたまなざしになって、言い放った。

「悔しいから、黙ってよっと。花房さん、もっと女子アンテナちゃんと立ててあげないと、周囲の男性が可哀想!」


 この時暮沢さんに何を言われたのか、私がやっと読み取ったのは、翌日のことだった。最終出勤日が過ぎて、とうとう出勤しなくていい一人の時間が訪れた時、感傷にひたりつつこの古葉君からのメールを読み返していて、文字の「隙間」に気がついた。そして暮沢さんの女子力アンテナのすごさに感服した。気づくまでに要した時間は、彼女が数秒で、私はメールをもらってからまるひと月以上。彼女との対決は、つまり私の方が天然ボケだという決着になったようだ。

 暮沢さんは秋に結婚するらしい。早いな。まあ、実際には付き合いが長いからそれでもいいのか。課長はガッカリしたのだろうが、さすがに最後まで、私にそういう気配を感じさせることはなかった。古葉君がいなければわりと大人なのね、とかちょっと意地悪に思ったりもした。

 そうそう、最後の日、私の課長への引き継ぎミーティングはちゃんと十七時半に終わった。おかげで皆が最後に声をかけにきてくれて、お別れができた。課長、古葉君の時は、明らかに皆とのお別れをさせないようにしたでしょう。そういうみみっちい性格だと、お嫁さん来ないからね。

 そして課長は、私がいなくなるのを、とてもとても悲しい目で見送ってくれた。あなたがもう少しきちんとしてくれていたら、古葉君がいなくなっても、私は残る気があったのに。でも最初の一年間をとっても仲良く楽しくハッピーに過ごせたことは、感謝したい。

 いろんな思い出がよぎるけれど、やっぱりあの職場は、古葉駿二と出会って二人で成長するための運命の場所だったな。最後、一晩(事件事故なく)一緒にいられたことも、今は恋のように甘く、愛おしい。

 あと一週間で私はこの住まいを引き払い、婚約者との新居に移る。会社を辞めて、住まいも変わって、何もかもがいきなり切り替わってしまうのは、いいんだろうか、よくないんだろうか。

 でもきっと幸せになれるから大丈夫。私は自分を心配していない。

 ただ――古葉君との思い出はしばらく消えそうにないし、まだ消したいとも思わない。この一週間は、最後の猶予として「会社のダンナ様」のために思いを尽くして過ごしたいな。


 君を好きになる前に会えなくなれてよかった――


 彼は私が気づくと思ったのか、気づかないと思ったのか。

 どうせ気づかないんだろうと、失笑しながらメールを打っている古葉君の様子が目に浮かぶな。実際気づかなかったんだけど。でも、何度も読み返せばきっと自分で……、うーん、自分では、気づかなかったかもしれない。暮沢さんのヒントがなければ、多分、文面通りのことしか読み取らなかった。

 最後の最後では、結局、暮沢さんがいてくれてよかったっていうことなんだな。運命って本当に無駄がない。


 あなたの住む町はこっちでいいのかなあ。

 窓を開けて、あてずっぽうだけど、方角を定めて空を見る。

 ――古葉君、私は一週間でちゃんと切り替えちゃうからね。いろんなこと、本当にありがとう。最後、笑ってたけど、生まれ変わったら今度は本当に恋人やってみようね!

 私が心でそうつぶやくと、七月の風が心地よく窓から入ってきた。

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