十二 お別れの日
野口さん他二名の最終出勤日が過ぎると、課長に呼び出され、接客ブースの隅で古葉君が辞めると聞かされた。ただ、課長も私が知らないはずはないと思っていたようで、
「古葉君は、六月のいつごろか、時期は正確に決めていないと言ってたけど、実際のところは聞いてる?」
と逆に質問された。彼は今、就職活動中。時々午前半休したり、早退したりしている。次が決まってから辞めるから、いつになるかは不明。
「時期は聞いていません。少しでも負担がかからない時期にしたいって言ってくれてはいますけど」
「そうか……」
そう答えて小さなため息をついた課長も疲れた顔をしていた。そりゃあそうだね。
「古葉君の異動の話があったんだけど、彼が辞めることになったし、そのほかにも予定通りにいかないことがいくつかあって、今後の体制については再検討中だよ。それで……花房さん、社長から話があったと思うけど、やれるかな?」
「無理ですね」
私も辞めますと、言おうか迷った。でも言わずにおいた。私のことは古葉君の退職の時期が決まってからでいい。
「そうだよな、どう考えても、無理だよな……」
課長は独り言のようにつぶやいた。わかってるんじゃない。私一人でやれなんて話は社長に撤回させてね。管理職でしょ。ある程度人を減らすのは仕方ないとしても、運営じたいが成立しないほどの状態にしてしまったら、後は滅んでいくしかないんだよ。私は心の中でそう訴えたのだけれど、この話はここで終わってしまった。
それからも、給料が出る残業一時間と、給料が出ない残業を一、二時間やりながら、古葉君の就職活動に協力する日々が続いた。私も、古葉君に「早く始めたほうがいい」と言われて、求人を見て検討を始めた。
ちょうどその時、「この業界にいる者なら誰でも、入れるなら入りたい」という大手の名門教育総合グループ会社が、若干名ながら中途採用職員を募集し始めた。私たちが試験制度改正で苦労した資格の講座を本格的に立ち上げるための、教材制作と教室運営の求人だった。これは私も古葉君もかなりの強みを持って応募できる。すでにこの新制度対応のテキストを一式作ったことのある人材なんて、世の中にそうはいない。
「さすがに無理だろうけど、もし二人とも採用されちゃったら、また一緒だね」と笑って二人とも求人に応募した。そうしたら、筆記試験の日が見事にバッティングした。私が午前中、古葉君が午後。試験時間は一時間半ほどで、私が午前十時から、古葉君は十四時から。これなら会社で顔を合わせて仕事をリレーすることができる。
「給料が出ない残業時間」に会社に義理立てする必要はないということで、私たちは夜の教材二課で業務分担の相談を兼ねて就職活動の話を小声でしていたのだけれど、その試験日のことについて古葉くんは、
「でも、花房さん、面接は?」
と意味不明のことを聞いてきた。めんせつ? その日は筆記試験だよ。
「いや、俺、二時から三時半までが筆記試験、その後四時くらいから面接だから予定を空けておくようにって連絡が来た」
なるほど、そういうことか。
「古葉君の書類を見た時点で、会社がかなり採用に前向きなんだろうね。私は筆記しか呼ばれてないよ。もう古葉君は、大本命に絞り込まれてるんじゃない?」
私は明るく言ったが、気分は正直、落ち込んだ。基本テキストのメイン担当者は私。古葉君は一年後輩だから、あのテキストに関しては主に「手伝い」の役回りだった。求人内容に、より合致するキャリアは私のほう。でも世の中、そうしたことを面接で確認するより前に、同じような条件なら――いや、勤続年数が一年少なくても男性を優先候補にする。
新卒で就職活動をしたときも、転職した時も、そういう壁に何度もぶつかった。私が定員いっぱいだと断られた会社説明会に、同い年の男友達二人は後から入れてもらえた。転職の面接で、本当は違法のはずの「妊娠したらどうしますか」という質問を何社からされただろう。世の中、そういうものだとあきらめてはいる。でも、「がんばったって、やっぱり女性の扱いはそんなものか」と何度もガッカリさせられる。
笑顔の奥に気持ちを隠したつもりだったが、そんなこと、我が相棒はお見通しだった。
「……俺より、キミのほうが適任でしょ? 俺がキミにこの資格試験の知識で勝てるとこなんて、何もないよ」
古葉君は気まずそうな表情で言った。私はもう少し頑張って笑顔になってみせた。
「でも、多分仕事全般では古葉君のほうが断然優秀だと思うよ」
「仮にそういうことにして考えてみても、あっちの会社の側は、俺とキミのどっちが優秀だとか知るわけないでしょ。俺とキミの間に待遇の差がある理由がわからない」
でもね、悪いけど、女性はそんなの、もう嫌になるほど経験しているの。どこに行っても、どんなに頑張っても、そうなの。言わないけどね。
「古葉君、私たち、この会社を出たら他人だよ。私に遠慮しても、なんにも意味ないよ。他の応募者より優遇されてるんだったら利用しないと。ここで転職、決めちゃおうよ」
古葉君はしばらく黙って私の顔を見ていた。私はもう落ち込んでいなかった。自分で言った「この会社を出たら他人」という言葉が私を冷静にしてくれた。今、こうして比較できる位置にいたから待遇の差に気づいたけど、退職してから別々に転職活動をしていたら気づかずにいた話だ。私たち女性は、見えようが見えまいが、ずっとそういうものと戦っていかなきゃならない。ここで古葉君が私に遠慮したって、社会は変わらないし、古葉君がただ損をするだけで誰も得をしない。持っていかれる相手が古葉君なら、私はいいよ。
「もし、午前と午後の試験問題が一緒だったら、問題の一部、リークしてあげる」
私は笑った。古葉君は慌てた。
「それはまずいでしょ」
「そんなことないよ、大学入試じゃないんだもん。それか、同じ問題を出す方が悪いよ。じゃあ、リークじゃなくて、私が受けてきた試験について雑談してあげる。まいったよー、こんな問題出ちゃってさー、って」
笑いながら、私は真剣に古葉君の目を見据えていた。この便利な顔は私の気持ちを的確に古葉君に伝えてくれたと思う。社会が正しいかどうかはどうでもいいから、あなたが、いい転職をしてくれたらいいなって。
新卒で就職活動をした時も思ったんだけど、縁がある時って、あっけないほど簡単に就職先が決まる。古葉君は、大手名門教育総合産業の会社に、講座用教材編集担当者として採用された。その会社に、私は落ちた。まあ仕方ないよね。
筆記試験では、「以下の五つの時事的な単語中から三つ以上について、適切に端的に説明せよ」という問題がけっこう難しくて、私は一つしか答えが書けなかった。試験の後、コンビニでお昼を買って十二時に出勤して、古葉君にその五つの単語を全部書いて渡した。
「同じなら、これを説明しろっていう問題が出るよ。あとは私がやるから、もう今から、その勉強して。お疲れ様でした」
そう言って古葉君を教材二課から追い出すと、私は彼との約束を破って「席で五分」のお昼を済ませた。本当は、古葉君にあと一時間やってもらわないと定期便に間に合わなそうなスケジュールだったから、彼を追い出した分は自分で余計にやらないとね。
翌日、古葉君は「おかげで、単語の説明、五つとも書いて出せた。でも、これは不正だと思う」と言っていた。そんなのはいいの。古葉駿二のために、こうして力になりたがる者がいる、それもあなたの実力のうちだよ。
結局、この筆記と、その日のうちにあった役員面接(案の定、いきなり役員だったらしい)だけで古葉君の採用が決まった。彼はものすごく申し訳なさそうな顔をしたけれど、私は心から、彼の力になれたことがうれしかった。
採用が決まったのが六月初め。古葉君の、当専門学校への在籍は六月いっぱい、最終出勤日は六月二十日に決まった。
古葉君の退職が発表されても、事務所に動揺はなかった。もう誰が出ていってもおかしくないし、彼のような賢明な人がこの会社に残るとは、皆、思っていなかった。
退職者が相次ぎ、ここのところ、送別会はあったとしても「一部の有志」で小さく開催するだけだった。古葉君は皆にこう宣言した。
「俺は送別会はお断りします。皆さんに、俺がやるはずだった仕事をいろいろ押しつける形になるのに、そのうえ送別会で時間を取らせるわけにはいかないです」
その代わりに、ということで古葉君は各部署の人たちや仲のよかった人たちと毎日ランチに出かけていった。古葉君は、その予定を立てながら、
「花房さんと、行けるかな……」
とカレンダーを真剣に見ていたので、私はどーんと言ってあげた。
「他の人を優先して。私はいいよ。毎日一緒だし、土曜出勤の時、たくさんお昼行ってもらったから。もう、お礼のオゴリも、してもらっちゃったし」
古葉君は私に温かく優しい笑顔で返してくれた。
「ありがとう。花房さんはホント、なんでもわかってくれて助かる。キミをないがしろにするわけじゃなくて、身内よりも他人への礼儀を尽くさせてもらうだけと思ってね」
うん。古葉君ともっと一緒にいたいけど、私たちはずっと別れの相談をしてきたわけだから、これからは他の人に残った時間を譲るよ。
暮沢さんは古葉君退職を大いに残念がり、彼と二人っきりでお昼に行くチャンスを得ようと必死で頑張ったのだけれど、「ああ俺、ご馳走してあげられないから、ご期待に添えないです、すみません」とにべもなく断られていた。「送別だから、今度は私が払います」と食い下がっても、「食事が終わったら『ごちそうさまー』って出てっちゃうんでしょ?」と笑われて撃沈。教材二課のすぐ外でそのやり取りをしていて、私には丸聞こえだった。結局、「宣伝課の人たちと一緒の日に、よろしく」と言って彼は逃げきった。
人事異動は、再検討されたものの、教材二課に関しての結論は同じだった。もう一度、今度は課長に呼ばれて、「主に一人でやってもらいたい」と言われたので、「私も退職するので、ご対応ください」と伝えた。課長には一時間かけて懇々と慰留されたが断り続けた。
「少なくとも二人の人員が必要な部署なのは課長が一番ご存じですよね。しかも私はまだ三年もいないし、力不足です。現在の三人体制の維持はあきらめるとしても、常時うちの課にいられる人員をあと一人は確保してください。そうしたら残ります。お話はそれからです」と締めくくった。
一人で教材二課に戻ったら、古葉君に「長かったね」と言われた。
「私も、辞めることは話してきた。辞めないでほしいって言われたけど、状況を改善する雰囲気はなさそうだった。それじゃ残れないって、ずっと断ってた」
スッキリした笑顔でそう報告したら、古葉君は苦笑した。
「俺、辞めるって言った時、次の言葉は『わかった。いつだ?』だったよ。ひと言も慰留なんてされなかった」
私さえ残っていればどうにかなると思ったのかもしれないけど、この優秀な人を、これだけ結果を出してくれた人を、ひと言の慰留もなしか……。なんだか、長くいればいるだけ、この職場に絶望していくような気がした。
古葉君がいなくなる分の人員補充がなされる気配もないまま、教材二課の二名は日々の仕事を淡々とこなした。私が辞めることは社内にまだ発表されていなかったが(時期も未定だしね)、さすがに二人ともいなくなることから、教材二課の仕事量は軽減されてきた。
各資格試験の講座において、基本テキストはあまり改訂されないものの、副教材は必ず毎年改訂か新規作成がされていたのだが、「そのまま使用しても『間違い』でない教材は、改訂せずに使う」というお達しが出た。有料の補習やミニ講座は、年末年始の開催から大幅減の予定で、その分の教材作りも減る。これまでこの会社には、それなりの品質の講座や教材を提供している誇りがあったと思うが、もう志は要らないということか。
もちろん、それは「私が一人で残るため」の軽減ではなく、古葉君と私が両方辞めることを踏まえた対応だ。結局、「誰もスタッフがいなくなる」という危機に瀕するまで会社は動かなかった。状況を理解させる方法が「辞める」しかないなんて、上司は一体何をやってたんだろうね。事前にちゃんと対応していたほうが、トータルでは会社にとっての無駄がなかったと思うが……。
まあ私と古葉君の能力が思いの外低かっただけで、他の人にやらせたほうがずっとよかったという結果になることを祈ってあげよう。
なお、コスト削減のため、講師に依頼せず、課長が教壇に立つことが増えるようだ。繰り返すけど、それ「有資格者による徹底指導」の謳い文句が詐欺になるから。もしかしたら課長が順次資格を取っていくとかいう無茶をするのかもしれないけど、今はハッキリ詐欺に違いない。
改訂の業務がほとんどなくなったおかげで、やっと私と古葉君が「残業は一時間以内」の範囲で帰れるようになった。でも、古葉君がいなくなればまたオーバーワークになる。これから、どうするつもりなんだろう。
古葉君は、最終出勤日の後に有給休暇を消化するから、普通に毎日出勤していた。そして毎日十二時から、別の部署の複数人とお昼に出かけていた。私は毎日、古葉君と入れ替わりに、十三時から一時間、お昼に行った。残業はあったりなかったりしたが、古葉君が「俺がいなくなったら大変になるんだから」と、自分が引き受けて私を積極的に定時で帰してくれた。
女子会にも普通に出られた。前回出たのは、「残業が多すぎる」と女子一同に伝えるミッションを古葉君に与えられた四月。まさか六月の今回の女子会で、もう古葉君の退職が決まっているなんてね。
女子たちの嘆きは相当のものだった。愉快なマリオ君も、見た目ナンバーワンの小松さんももういない。そして一番人気の古葉君もいなくなるのだから、まさにいい男の人材難だ。六月は暮沢さんを呼ばない回だったので、終始みんなが「古葉さんがいなくなるの、やだー」と遠慮なく心の内を吐露していた。
女子会の中にも、「これから会社に言うんだけど、私も退職します」と宣言する人が二人いた。迷いながらすでに転職活動をしている人もいた。
私は退職することをまだ口にしなかった。昔の私だったらもう皆に話していただろうけど、「会社の発表がまだだから」という線引きをしたのは、小賢しいけど賢明で客観的な古葉君の影響をちょっと受けたかな。
プライベートの方では、今度こそ、六月末には本当に婚約者が帰国することが確定した。もしも六月中に次の仕事が決まらなければ、転職活動を少しだけ休んで、ひと月くらい一緒に暮らして花嫁修業に費やしてみてもいいかな。でも一年以上遠距離恋愛だったから、同棲を始めてみたら途端にダメになっちゃったりしてね。多分、大丈夫だけど。
なんだかちょうど、「古葉君とお別れするまでは、婚約者と距離を置く」みたいな感じになったなあ。二人同時に目の前にいたら、私の心境は何か違ったんだろうか?
そしてとうとう、古葉君がいなくなる六月二十日を迎えた――。
最終出勤日の古葉君の仕事は、これまで担当してきた内容を部署の財産とすべくまとめることだった。あと、これまでのここでの実績を形で持っていたいと、教材をいくつか持ち帰る許可をもらって、それらを教材一課の倉庫や隣の校舎からもらってきていた。
私は、隣で片付けや梱包をしている古葉君の姿を視界の隅に感じながら、幾分呆然としていた。他の人にお別れの時間を譲りすぎて、いざ当日になってみたら、古葉君とお別れする心の準備ができていなかった。
十五時、古葉君は業者に挨拶の電話をひと通りかけた。十六時、今度は各部署にあいさつ回りに行った。各所で惜しまれて、大して大きくない事務所なのに、彼は三十分以上戻ってこなかった。
やっと古葉君が戻ってきても、私は仕事から手が離せなかった。彼はきっと自分の片づけを続けるのだろうと思っていたら、私に声をかけてきた。
「――俺、もう目処立ったから、手伝うよ」
「え、いいよ! 今日は、それどころじゃないでしょ?」
「でも、それ、今日の定期便に間に合わせようと思って急いでない?」
ご名答。メールで送って現場で対応してもらうには不安な要素がいくつもある教材だったので、なんとかこちらで全部手作りして今日の定期便に乗せたかった。
「自分の荷物の梱包は少し時間があればできるから、手伝うよ。今日が一緒に仕事できる最後だし」
古葉君にそう言われて、ちょっとだけ涙がこみ上げちゃった。すぐ飲み込んだからバレなかったと思う。
「……ありがとう、ゴメン」
二人でやる、最後の仕事。コピーを回しながら順次折って、各ページを折り重ねて一冊にして、各校舎ごとに数えて梱包。なんだか懐かしい。ゴールデンウィーク教材では、こんなことばっかりやっていた。
見事、定期便五分前にはこれら教材一式を箱に入れることができた。
事務所の隅にある定期便箱の前から二人で戻ると、校舎から小上さんが帰ってきていた。さすがに古葉君最後の日に、校舎に行ったきりってことはないか。
「――古葉君、これまでやってもらってた仕事のことで質問したいこともあるし、新規開拓した業者のこととかいろいろ聞いておきたいから、ちょっと時間もらえるかな?」
課長はそう言って、机の上に提出されていた古葉君作の資料を手に取り、彼を連れていった。おいおい、定時まであと三十分もないよ。最終日に残業させるなよ。あと、みんなが帰宅する際に個人的にお別れを言いに来ることも多いんだから、気を遣ってあげなよ。
課長と古葉君は学校長室に入ってしまった。外から覗き込める、接客ブースでいいんじゃないの? なんだか最後の嫌がらせみたい。さっさと解放してあげなさいよ。
十八時を回り、定時で帰れる人が教材二課を覗いては「あの、古葉さんは……」と私に声をかけていく。しかし課長と古葉君は学校長室にこもりっきりだ。
「花房さん、あの、古葉さんは……」
暮沢さんもやってきた。彼女は二人でのランチも振られ、今日この時に熱い別れを語りたかったろうに。……って課長、まさかそれを阻止するために古葉君を隔離したんじゃあるまいな。
帰るついでにと続々皆が顔を出したのに、古葉君はまったく戻ってこなかった。彼の机の上には「最後にお目にかかれなくて残念です」「お疲れ様でした、お元気で」などと書かれたメッセージが次々に貼られ、事務所からは順次、人が消えていった。
暮沢さんは五分に一度顔を出し、六時三十五分にとうとうあきらめると、がっちり封のされた封筒を持ってきて古葉君の机に貼った。多分、メッセージだけじゃなくて連絡先が入ってるんだろうな。でも、古葉君は彼女と決して連絡をとらないだろう。
まさかまさかの、課長と古葉君が戻ってきたのは十九時半だった。月末と月初が忙しい仕事ということもあって、六月二十日の事務所の中はもうほとんど空だった。「残業が増えた」と事務所じゅうで不満が増えてもこれだもん。残業代が出るのが十九時までだから、皆それ以上はやる気がないわけだけど。最近は、忙しい時期なら二十時、二十一時くらいまではサービス残業で残っている人もいる。でも、それも月に数日あるかどうかだ。ちゃんと手当が出ていたとはいえ、かつての私たちの毎日二十二時、二十三時までの残業状態がどれだけ異常だったかがわかる。
課長は「夜八時から打ち合わせなんだけど、間に合うかな」と言って急いで荷物をまとめると、最後に出入口のパーテーションの隙間の前で古葉君に、
「最後の日に遅くまで、悪かったな。本当にお疲れ様でした、今後もがんばって」
と声をかけ、礼をして出ていった。アホ課長、最後まで古葉君に迷惑をかけるな。
古葉君は机の上を見て、「あーあ」と呆れたような、ガッカリしたような声をあげた。私は、課長が出ていったと思しきドアの音が鳴るのを確かめてから、
「バカ課長、何やってんの。みんながお別れできなかったじゃない!」
と文句を言った。古葉君は苦笑しつつも、
「でもまあ、皆とお互いに気を遣い合って、変に時間を費やすよりよかったかもね」
と言って貼り紙やメモを丁寧に集めはじめた。
「花房さんは残ってくれてると思ってた。ゴメンね、残業代出ない時間なのに」
そりゃあ……古葉君を見送らないなんて、考えられないよ。
しみじみしていたら、彼は平然と言い放った。
「さ、じゃあ、ここでお別れにして、花房さんは帰って」
えっ! 何、その薄情な別れ方。私は彼に連絡先を教えていないし、もちろん彼からも教わっていない。今、この瞬間も聞く気はない。断られたらショックだし、教える気なら彼が自分で言うだろうし。だから今日、これで帰ったら本当に最後になるのに……。
「だって、まだ古葉君はやることがあるでしょう? 私、最後までいるよ」
「あとはこの教材類、自分ちに送る用に梱包するだけだから。給料も出ないのに付き合ってもらうのも悪いし、あと、最後なんだーってウェットになるのも苦手。ここは俺らしく、明日も来るみたいに、普通にじゃあねって済ませたい。俺が見送られるよりも、俺がキミを見送るよ。お疲れさん、どうぞお先に、って」
確かに、裏の職員用出口はオートロックだから、古葉君が最後に一人で戸締まりできる。でも、それが私たちの最後の場面だなんて。
「もちろん、俺、一人で残っても悪いことはしないよ。火をつけたりペンキ撒いたり、落書きしたりしないから安心して」
「そんなこと心配してないよ。でも、今日が最後の人を置き去りって……」
「いいのいいの。涙の別れ、みたいなの苦手。さ、帰って帰って。俺、花房さんがそこにいる限り、荷物の梱包しないよ。必ず、キミが帰った後に梱包やって帰る。だったら早く帰ったほうがいいでしょ」
「……かわいくない」
古葉君らしいけど。
「かわいくなくて結構、男だからね。あ――でも」
彼の視線が宙をしばらくさまよった。でもすぐに私の瞳へと戻ってきた。
「キミはね、かわいかった。これ本当。恋愛はしないけど、『この会社で、誰派?』って聞かれたら、俺は花房派」
まじか。
「以上、恥ずかしいこと言っちゃったからさっさと帰って。そうそう、結婚、お幸せに。心から幸せを祈ってます。絶対にキミはいい嫁さんになるよ。じゃあね」
古葉君は早口でぱーっとそう言って、とっくに帰り支度の済んでいた私のカバンをつかんで力強く手渡してきて、ちょっと乱暴なくらいに私の背中を押した。そしてぽいっと教材二課の出入り口から追い出した。
「もう、バカ!」
「それを俺が聞いた最後の言葉にする気?」
「……これまで、ありがとう」
「ありがとう、じゃあね、本当に元気で。一回向こう向いたら、もう振り返らないでね。俺、一人で号泣してるから」
「……ウソつけ。楽しい時間いっぱいいっぱい、本当に、ありがとう。それじゃ……」
とてつもない淋しさの中、私は教材二課に背を向けた。
「ありがとう、じゃあね」
積極的に私に届けようとはしていない、静かな古葉君の声が聞こえた。私は彼に言われたとおり振り返らなかった。多分今のは、私への最後の言葉が『一人で号泣してるから』になるのを避けたんだろうと考えたら可笑しかった。
暗い通路を通って事務所の裏の職員用出口にたどり着く。タイムカードを切って、気持ちを強く持って、深呼吸をして、ドアノブに手をかけた。
その時、携帯電話を忘れたことに気がついた。
実際のところは携帯電話なんてあまり使わない。婚約者は海外だし、親とも大して連絡をとらない。友人ともそんなにメールはしない。まるっきり、会社に置きっぱなしにして帰ってもいい。明日充電が切れたって、まず困ることはない。
だけど私は、どうしても――ここで携帯電話を忘れたことが、何かのメッセージのように思えてならなかった。このまま古葉君を一人で残しちゃダメだよと、もう少しだけ一緒にいなさいと、神様が言っているような気がした。
きっと、戻ったら古葉君は「おいおい、せっかく締めくくったのに」と思うだろう。でも……それでも、もうちょっとだけ。携帯電話を回収したらすぐに帰ろう。きっとそれなら、「花房ひとみ、最後のオチ」ということで済むだろう。
そろーっと、足音を立てずに教材二課まで戻り、
「ごめーん……」
と言いながら出入り口から顔を出した。
「わ! ビックリした! 何やってんの、振り返るなって言ったのに」
古葉君は目をしばたたかせた。
「あっ、古葉君、泣いてない。号泣してるって言ったのに」
「心で泣いてるからわかんないんだよ、それより何やってるの、まさか俺が泣いてるかどうか見に来たの?」
「それが、あの~……」
てくてくと自分の机のところまで歩いていき、ちょうど古葉君の席からは死角になる位置から、そろーっとストラップを手にして携帯電話を持ち上げた。
「これ……、忘れちゃって……」
エヘヘと私は照れ笑いをした。古葉君は呆れた顔になった。
「最後、綺麗に締めたと思ったのに」
「そう言われると思った……。でも、ケータイ忘れたら、普通、取りに戻るでしょ?」
「まあね、必需品だからね」
本当はそうでもないけどね。
「でも、ちゃんとすぐ帰るよ。今度は普通に、ウェットじゃなく普段みたいに帰る。お疲れ様。そうやってスッキリ帰るのが、古葉君流でしょう?」
私は淋しさに目を伏せて古葉君の前を横切って、ここを出ていく――そのはずが、そばを通る瞬間、腕をつかまれた。もちろん手は物理的に私を引き止めただけで、すぐに離れたけど。
「もうちょっと、ここにいて」
どうした古葉駿二。らしくないぞ。
初めて見る、淋しそうな顔が私を見下ろしていた。




