十一 アウトな男
会社はいよいよ危機的状況に陥ってきたらしい。「一日一時間以上の残業は禁止。それを超える残業に関しては、本人の能力の問題として残業代は支払わない」というお達しが出た。それ労働法規の違反になるんじゃないの。教材二課に関して言えば、ゴールデンウィークの剣が峰は越えたけど、とうてい一日一時間の残業じゃ済まないんだが。
「通常業務に仕事量が明白に上乗せされていて、人数は減らされて、それがクリアできなきゃ職員のせいっていうのはおかしいですよね」
古葉君が課長に静かに抗議する。「どうせ改善されないし、退職するからって思えば冷静になれるよね」と言っていたとおり、とても静かで大人な声。
「俺がもうちょっとこっちを手伝えるようにするから……」
「そこが『手伝い』になってしまってる現状が、会社的には問題だと思います。小上さんはあくまで兼務であって、教材二課の長でもありますよね。でも、結果的にほぼ教務課に行きっぱなしの状態ですよね。通常のルーチンワークでも二人必要な部署なのは、ご自身がわかってらっしゃると思います。そこにまるごと試験制度が改正されて、全部の教材が作り直しになっている現状では、三人必要なんです。――小上さんがこちらに戻れるのが一番いいとは思いますが、難しいようなら、人を一人増やしてもらえませんか」
古葉君の声には糾弾する響きがまったくなくて、最初ムッとしていたように見えた課長も、「そうなんだよな、厳しいんだよな」とうなずいた。多分頼りになりっこないけど。
そして、ハッとした。古葉君は、ここに残る私のために状況を改善しようとしてくれている。本当はもう、ただ出て行けばいいだけなのに、私のために言ってくれたんだ。
私はずっと迷っている。ここに残ることは多分私のためにならない。でも、古葉君が辞めるなら、逆に自分は残ったほうが格好いいと、変な対抗意識があるのを自分で感じる。……私自身は、本当のところはどうなんだろう。
それでもやっぱり課長は教務課に行ってしまい(まあ、仕方ないんだけどね)、古葉君と二人になった時に、私は言った。
「古葉君、いいよ、――良くならなくたって。もう、良くなんかならないよ」
口にするわけにいかないから、古葉君は目で返してきた。だってキミは残るんでしょと。
誰のために、何のために、私は残るんだろう。本当は、何か一つ古葉君に勝ちたくて、その方法が「私は残る」なのかもしれない。
「土曜、出てこなくなったから、ここのところあんまり、話、してないね」
古葉君は言った。もちろん仕事の会話はしているけど、つまりそういう、本音の話だ。
「久々にお昼ミーティング、する?」
私はうなずいた。久々って言っても、二週間ぶりくらいだけどね。
なんか、本音はこの場所で、って感じになってきたいつもの地下の喫茶店。
「来週面接が入りそうだから、どこかで午後早退させてもらうと思う。悪いけど」
「悪いけどとか、申し訳ないとか言うのは禁止ね。何々の用で……とかも、気を遣って説明しなくていいよ。古葉君のやることにはきっと、間違いも無駄もないだろうから」
今回、私は古葉君が毎度頼むクロックムッシュにしてみた。でも彼が私のお気に入りのシナモントーストを頼むようなことはなく(甘いものはメシにならない、とのこと)、今回彼は新メニューのBLTサンドに挑戦中。
「すっかり花房さんには買いかぶられちゃったな。それも気持ち悪いから、ほんとのとこ話して謝っとく」
「え、何、何?」
「土曜出勤、録音してたでしょ。あれは確かに勤務してるぞっていう証拠品のつもりもあったんだけど、もっと重要な役割も果たしてたんだよね」
私を見ていた目がふいと下を向く、その瞬間がすっかり好きになってしまった。おっと好きとか言ってちゃいけないな。来月婚約者が帰ってくるんだし。
また視線が上がり、じっと見つめられる。なんだなんだ。言ってもいいかどうか窺ってるのかな。いいよいいよ、どうぞ話しなさい、何があっても私は味方だよ。
「録音、使うことは多分ないと思ってても、万が一の時には使うかもしれないって意識はあるわけじゃない? そうするとね、……怠けないんだよね、仕事」
古葉君は最初苦笑いを浮かべて、それから、子供みたいな笑顔になった。
「土曜でしょ。こんな大変な中、無理して仕事に出てきてやってんだから、だらだらしたっていいだろって、ものすごーくテキトーな気持ちになるんだよね。毎回、土曜のたびにホントにやる気がなくって、無駄話したり昼寝したり雑誌読んだりとかしながら、だらんだらんにやってやるーって完全に切れちゃってた。元々怠け者なんだよね俺。でも、録音回してると、気が小さいからまったく怠けられないの。あれがなければ、黙ってずっと仕事してるとか絶対無理だった。花房さんは、『なんで土曜にこんなこと』とか、『テキトーでいいや』とか、そういうの全然なかったでしょ」
ああ、確かにそれはなかったな。教材作るの好きだし。余計なことを考えていたとしたら、古葉君といられてハッピーってことくらい。でも、黙々とやってたのは、古葉君が私語を嫌いだと思ってたからなんだけど。
「花房さんて、いろんなものに対して素直に前向きになれるよね。面倒くせえとか、なんで自分がとか、そういうの全然感じない。例えば教材二課の今の状態が正しくない、それに腹を立てるのは俺と一緒でも、『でも、仕事はやらないと』って思ってる。俺は、会社が間違ってるんだからやらなくていいだろって、何度も思った。キミがいなかったら絶対放り出してた。俺は間違ってない、だからやらない、って」
怠け者で、小心者で、仕事を放り出す古葉君? 想像できないな。
「今日すごくおしゃべりでゴメン、なんか堰が切れた。晩飯誘って話せばよかった。昼にしゃべるには本音すぎるけど、もういいや。
前にキミに言われたよね、周囲の人はそんなに優秀じゃないんだから……みたいなこと。俺は別に自分を優秀だなんて思ってないけど、何を言われたかは、今回すごくわかった。キミも気づいてると思うけど、俺、仕事で敵を作っちゃうの。今で言えば小上さんみたいに、俺のことを嫌がって排除したがる人。いつもそれで誰かに足を引っ張られて、なんでそういう劣悪な人種が世の中にいるんだって思ってた。でもね、同じことに腹を立てて、同じように酷使されてる花房さんの話は、小上さんもちゃんと聞いてくれるんだよね。花房さんだってキレて小上さんに文句言ったりしてたのに。
結局、俺の問題だったな……って思って。正しければいいって、それだけじゃ社会は回らない。もし俺が正論だとしても、それだけを守ってたら、正しくない部分は全部周囲の人がかぶって、俺は正論の範囲しか引き受けないことになる。それじゃ嫌われるよね」
仕事で敵を作る? 嫌われる? 男女問わず、皆に好かれてるのに。課長が古葉君に当たりが厳しいのは、多分大半、暮沢さんへの恋愛感情が理由だし。
「今回投げ出さなくてよかった。こうやって結果を出してみて、結局――正論をふりかざす奴が一番面倒なのかもなって思った。正しくないから俺はやらないって放り出して会社を辞めたら、じゃあそれでどうなるの。俺は転職で大変な思いをして、会社に残った人は俺がいなくなった分余計に苦労して……。あちこちに、無駄しか生まないよ。
この会社はトータルで考えてどうしてもメリットがないから出ていくことにしたけど、俺は多分、次のところではもうちょっと上手くやれると思う。ここに来たおかげ、それから、花房さんの忠告のおかげ。ありがとう」
「私、古葉君が敵を作るとか、嫌われるとか、全然理解できない」
だって、皆に一目置かれてるし、私も心から尊敬してるのに。
「――だから、俺のこと買いかぶってるって言ってるの。たいがいの人とはうまくやれるけど、でも必ずどこかに俺を煙たがる人が出る。徹底的に拒否してくる人がね。俺はそういう、問題のある人なの。花房さんは、小上さんも俺のことも素直に肯定できる人で、だからなんとなく皆に好かれてて、キミを嫌ってる人がいない。俺が優秀なんじゃないの。キミが肯定するから俺も前向きにやれるし、周囲からの俺の評価も良くなるの。だからね、……」
古葉君はそこで言葉を切って、ちょっとだけ言おうか迷ったあと、結局言った。
「キミを見てると、結婚って、悪くないのかもしれないってちょっと思った。俺にとっては結婚って負担や我慢のイメージしかなかったんだけど、こういうパートナーがいれば頑張れるんだなっていう、いいイメージが少し描けた」
確かに昼間から話してる内容じゃないかもね。でも、たくさん話してくれてありがとう。
うれしくて、笑顔になっちゃうな。私も思っていた。古葉君とならたくさんのことを乗り越えていけそうで、それがもし仕事でなく人生ならば、夫婦でもよかったって。でも言葉にしたら婚約者への裏切りになりそうで、でも……そういうことじゃなくて、こういう昼間に仕事の途中で出てきて、正面切って向かい合って言ってもいい普通のこと。これは信頼という名の愛情。古葉君も、変な恋愛沙汰に受け取られたら困るから一瞬躊躇したけど、そうではないと伝わると信じて口にしてくれたんだよね。
「古葉君がそんなに自分のこと話してくれるなんて、思ってなかった」
「うん、俺、自分のこととかまずしゃべんないんだけどね。弱みだらけだから」
「弱み? そう? 強みじゃなくて?」
「男はね、黙ってたほうが絶対カッコよく見えるの。しゃべっちゃうと恥になることばっかりだから。でもキミはいい。きっと悪いようにはしない。これは最大の賛辞。さて、しゃべりすぎて全然メシ進んでない、食べなきゃ」
そこまで言って、あとはハイペースでサンドイッチを食べている古葉君を見て笑いながら、私は考えていた。
これから結婚したら、夫に、前向きに楽しく生きてもらえるような気力を与えていかないといけないんだなあ。古葉君が私からいつの間にか受け取ってくれていたような、この漠然とした「なんかいいもの」。それがどんなことなのかは、古葉君がイメージを教えてくれた気がする。これは結婚前に神様がくれた贈り物。私がこれからパートナーに何を与えていけば幸せになれるのか、職場でバーチャルなハッピー夫婦体験をさせてくれた。
もし独身同士で出会ってたら、古葉君と夫婦になれたかな。でも、多分そうじゃないんだろうな。私は彼のプライベートの顔を知らない。私は、フリーの身だったら、古葉君を仕事の相棒でなく恋愛対象として見てしまったかもしれない。そうしたら彼の私への評価は真逆だっただろう。
この立場で、この時点で出会えてよかった。古葉君とはすべてが上手く噛み合ったんだと思う。人生にはきっと、こんな奇跡のような偶然が何度かはあるんだろうね。
私にはもう一つミッションがあった。暮沢さんとの対決だ。彼女のせいで古葉君がどれだけ大変なことになっているか……。古葉君にアプローチするのはいいけれど(いや、よくないけど)、うちの課長を巻き込むのは勘弁してほしい。
私からお昼に誘って、二人でおしゃれパスタの店に入った。暮沢さん、まさか私からもオゴってもらおうとか思ってないでしょうね。
「暮沢さん、小上さんにメールとか教えてるんですね」
「ん……聞かれて、断りづらくてね~」
「小上さんからもらったメール、誤解だっていうのはわかってもらえてますよね?」
「メール見せたら、古葉さんが『ありえない』って言ってたから。普通に帰ったし、って。その時の古葉さんの『はあ?』みたいな顔見て、ああ、違うんだ~と思ったよ」
穏やかな五月の昼下がり。おしゃれなお店で女のバトル。こんなのは私の趣味じゃない。でも一つだけ、どうしても確認しておきたいことがあった。
「あのう、私が女子会で残業が多いって愚痴言った後、小上さんと飲みに行って、ひどいって文句言ってくれたじゃないですか。その時に、小上さんに決定的な何かを言いませんでした? それも、古葉君が好き、みたいなこと」
潮目が変わる、というのか……。なんかあのへんから、課長がおかしくなったような気がする。それまでは仕事をギリギリ逸脱してなかったのが、そこを超えてしまったような……。
彼女があの時、「古葉さんを教材二課の課長にしたほうがいい」と言ったのは聞いた。これも古葉君を目の敵にする理由にはなる。私じゃなくて古葉君名指しだし、小上さんよりだいぶ歳が下なのに「課長に」とか言ってるし。でも、それだけで、自分の部署の仕事の足を引っ張るほどのことをするとは思えない。絶対何か言ったでしょ。言ったよね。
そこで心底うれしそうな顔になるのが暮沢さんという人だ。これ、うれしい話じゃないんだよね。私は、ランチだからもちろん楽しそうなフリをしてるけどさ……。
「やっぱ、効いちゃったかな~。ふふふー」
ほらきた! 悪いのは課長だし、暮沢さんを責めるわけにいかないけど、案の定震源地はここだよ……。
「えー、何を言っちゃったんですかー」
女子の恋愛トークのノリで問いかける。でも、気分は全然楽しくない。
「なんか、二人で飲んでて雰囲気盛り上げてきたから、これは拒絶しとかないと……と思って、最大に残念そうな顔して『こういうの、相手が古葉さんだったらいいのにな~』って溜め息交じりに言っちゃった。ホテルとか誘ってこられたら絶対嫌だも~ん」
アホ課長。でも、心中お察しするわ。クリスマス近くにコンサートも行って、携帯電話のアドレスも教わって、二人で夜に飲みに出て、ムード盛り上げてたら「他の男がいい」って……。職場にそれを持ち込むのは最低だけど……これはひどい。
「その後は、小上さんとデートとかしたんですか?」
「えー、デートしたつもりは一回もないけど。会社の管理職の人だし、断りづらいだけ。これでも誘われ慣れてるし、いざとなったら逃げられるから大丈夫。小上さん、あの日の飲みからメールだけで全然誘ってこなくなったし、このくらいなら相手しててもいいかなって思って、ずっとメールはしてる」
この女子ときたら、課長が傷ついてどこにも誘えなくなっちゃったこと、まるっきり気がついてないのね。古葉君は私を「変なとこ、天然なんだよね。暮沢さんと好対照」って言ってたけど、本当に天然ボケなのは暮沢さんだと思うよ……。
もう……あとはいいや。暮沢さんに悪意があれば、うちの部署や古葉君のために「恋愛沙汰に巻き込むな」って忠告したかもしれないけど、この天然っぷりじゃ、私に勝ち目はまるっきりないよ。
私の気持ちなどまるで気付くことなく、暮沢さんは上目づかいで色っぽく聞いてきた。
「ねえ、お泊まりはなかったって信じてるけど、深夜とか土曜とか古葉さんと二人っきりで、何かイイこととか、あったりしたの?」
だあ! お気楽な人だこと! おかげで、イイこともなにも起こりようがないほど仕事が大変だったのに! 古葉君の録音データでも聞いてみてくれよ!
それでも、このランチを盛り上げるために、冗談っぽく楽しい返答をしてあげよう。
「ありましたよ。『男の友情』が芽生えたかな!」
ほんとは「いい夫婦みたいに、いい関係が築けた」っていうのが正しいニュアンスだけどね。そんなこと言ったら大変な誤解を生じるから。
「花房さん、せっかくのチャンスに何を芽生えさせてるの! 女子力低い! もったいない、だったら私に譲ってくれればいいのに……」
どいつもこいつも、仕事をなんだと思ってるんだ。でも人間関係って、こんなものなのかもしれないな。……と、また一つ社会人として成長する私なのであった。
案の定残業は手当が出る一時間で終わったためしがなくて、私は古葉君に「私がやるよ、古葉君はちゃんと、(どうせ辞めるんだから)一時間までにしなよ」と言ったんだけど、「俺はもういい(辞める)んだから、ここは花房さんのためにがんばっておくよ」と押し切られてしまった。会話に意図の補足がしてあるのは、事務所の中で口にはできない部分ね。
古葉君にサービス残業をやらせるのは、なんか不本意。私はかつて無駄な残業をへらへらやってた馬鹿者だけど、古葉君はきちんと自分の労務管理をする人だったのに。
給料の出ない残業でも腐ることなく、ただ淡々と務めをこなしていたある日、私を奈落の底に突き落とすようなことが起こった。運営部長にセクハラ質問をされたことなんか、まるで問題じゃないほどの最低最悪の出来事だった。世間には一体どれだけの「最悪のこと」があるんだろう。
今度は、私を呼び出したのは部長でなく社長だった。
「まあ座って」
社長室の応接を勧められ、来客のような丁寧な扱いを受けた。クビにでもする気なのかと思った。
「教材二課が大変なのは、重々わかっているよ。でも実は、会社が今大変厳しい状況でね……」
知ってる。
「できるだけ営業の人員を増やしたくて、各部署からもう少し営業に人を回したいんだよ」
一瞬、私が営業に行くのかと思った。でもそうじゃないね、前にもあった話が再燃したんだね。私は口を結んで次の言葉を待った。
「古葉君には営業課に移ってもらって、小上君も今の状態は大変そうだから教務のほうを任せて、花房さんには、教材二課の中心になってほしい。一人で頑張ってもらうことになるけど……了承してくれるかな」
頭の中が真っ白になった。返事も何も出てこない。試験制度変更にも少ない人数で対応した。ゴールデンウィーク教材もあんなに無理してやりきった。とてつもなく頑張って結果を出したのに、会社の反応が「もっと人を減らせ」だなんて。
「……あの、物理的に無理なんですが」
ひょこっと、意図しないまま、自動的に声が出た。人って、しゃべろうとしなくてもしゃべれるんだ……と、びっくりした。
「小上君もそれは無理だって、絶対回らないって言ってたんだけど、そこを工夫するのが仕事でしょ。常に今よりワンランク上の仕事をしてもらわないと」
そうか、無駄なんだ。あんなに頑張ったことは何一つ評価されなくて、「なんだ、あれができるなら、一人でできるよね」としか思われないんだ。
ここでもっと頑張ったら、きっと、次にはもっともっと無理を強いられる。この話を社長がしているのは、課長もセクハラ部長も「無理だ」って言ってくれたからだろうと思っていたい。でも……現場をわかっている彼らに止める力がないのなら、私がどんなに限度を超えて頑張っても、「もっとできるよね」って言われ続ける。本当に限度を超えきって私がつぶれるまで。
課長に助けを求めても、あの人は私の力になってくれないだろう。きっと「会社が決めたことだから仕方ない」と、「なんとか頑張ってくれないかな」としか言わない。もうここまで頑張ってきた。いい相棒がいたから、支え合って知恵を出し合って、限界を超えて頑張れた。二人分(以上)を一人でやれと、今のこのさらに倍以上頑張れと――そう言われること自体が、心の最後の糸を切る。
私はすっきりさわやかな気分で返事をした。
「おっしゃることはわかりました。失礼していいですか」
え、それはOKの返事なの? という顔をしている社長に、それ以上は何も言わず、ただ儀礼的な微笑を浮かべてお辞儀をし、社長室を出た。
戻ったら、課長と古葉君がいなかった。こっちも異動の話かもしれない。課長がこんな時間に事務所にいるのは珍しいから、何か特別な用があるのだろう。
案の定、課長と古葉君は一緒に戻ってきた。二人とも微妙な顔をしていたが、課長はやっぱり校舎のほうに行かなければならず、私たちに声をかけてすぐに出ていった。
私も古葉君も言葉を発しなかった。ただじっと立ち尽くしていた。同じ思いを共有していることはお互いにわかっていて、ただ言葉が出ないだけだった。
「――異動って言われたから、俺、辞めますって言っちゃった」
古葉君がやっと、無表情なまま言った。次は私の番だ。
「うん。私のことは心配いらない。……結局いつも古葉君が正しいんだね。……」
自分自身で決意を確かめて、息を吐いて、吸って、やっと言った。
「この部署、一人でやってくれ、だって。一人で、全部。無理だから、そんな責任果たせないから、先に責任とって、私も辞める。……ここにいることは、私のメリットにならない。頑張った分だけ負担を増やされて、最後にはつぶれるしかない。……気がつくのが遅かったね」
古葉君は返事をしなかった。私たちに、それ以上呆然としている時間はなかった。ただ黙って仕事に没頭することが、とりあえずは正しい脳の使い方だった。
また、三人の退職が発表された。そのうちの一人は野口さんだった。野口さんの営業成績が上がらず、厳しいことを言われているのは話に聞いていた。そもそも、彼は女性陣からすぐに「言動が変」と言われてしまうような、ちょっと変わった人なのだから、営業に向いていなかったんじゃないだろうか。
発表のあった日、残業中の教材二課にノックがあった。私と古葉君が顔を上げると、もちろんノックの主は野口さんだった。
「失礼します。あの、花房さんに……」
古葉君は、一瞬私に視線を送り、そのまま仕事に戻った。退職する野口さんに、武士の情けということか。
「今週……いや、来週でもいいのですが、残業のない日はないですか」
う~ん……退職する人にこう聞かれると、無下に「ない」と答えづらいなあ……。とりあえずは返事だけするか……。
「正直、……わからないんですよね、けっこう余裕なくて……」
「もうお聞き及びと思いますが、僕、このたび退職することになりまして、ぜひ最後に花房さんとカフェリーヌに行きたいと思ったのですが……」
断りづらい誘いだ。でも、とりあえず猶予をもらおう。
「今日は無理なんで……ちょっと、状況を見て、って感じでいいですか?」
「ぜひご馳走させてください。またお誘いに上がりますので、よろしくお願いします」
野口さんは去っていった。うーん、微妙だ。こういう状況で誘われたら行ってあげたいが、多分二人っきりだろうし。とりあえず古葉君にひと言。
「お騒がせしました」
「いいえ、どうぞお気をつけて」
古葉君の言い方は「行ってらっしゃい」だな。私の声に「結局行くことになるんだろうな……」って出てたかな。でも、毎日誘いに来られて、古葉君に迷惑かけるのも嫌だし。
「あ、行けって意味じゃないから。行くなら、お気をつけて」
そうね……お見送りだし、カフェリーヌならただのコーヒー屋さんだし。
「……ホントに気をつけてね」
古葉君を見ると、「大丈夫かなこの人」という顔をしていた。私、暮沢さんみたいな天然じゃないから大丈夫!
それで古葉君に翌日少し早く帰ることを了承してもらって、野口さんとカフェリーヌに行ったんだけど……。なんか、何をどう言っていいのかわからない。端的に語ろうと思う。
まず、前日に続いて野口さんは「ご馳走させてくださいね」と言った。これは古葉君も聞いていたから証人になってくれるだろう。だが、カフェリーヌに着くなり野口さんは、自分の分のコーヒーを買うとさっさと席に座ってしまった。私は自分で自分の分を買って、遅れて席についた。「ご馳走します」って言ったよな。もちろん私はオゴリお断りだが、自分で言っておいて完全スルーは意味がわからない。「退職するので、お世話になったから受け取ってほしい」というフィーリングもあるんだと思ったのに。それでも自分が払うつもりだからいいけど。でもやっぱり変は変だと思う。
話をしていたら野口さんは「このあと、夕食に行きませんか」と言いだした。私は内心で「ここをスルーして、そっちをオゴる気か。貸しは絶対作らないぜ」と身構えた。偉そうな言い方になっちゃうけど、思い出にしたいのかなと、夕食もOKした。カフェリーヌを出て、「僕、優柔不断で内向的なので、どこ行きましょうか……」と言いながら、野口さんはためらいなく、カフェリーヌの奥の路地にあるフランス料理屋へ向かった。何が優柔不断だって?
フレンチでディナーは高い。入口で見たら、一番安いコースで五千円。絶対オゴらせないけど、自分で払うのはしんどい金額。ここ入るの絶対嫌だ。「どうしましょうか」と聞かれたので、こう答えた。
「ちょっと腰が引ける金額ですね、他にも美味しい店はあるんじゃないですかね……」
だが野口さんはためらいなくガッと店のドアを開け、入店した。私の意向完全無視か、だったらなぜ聞いたんだ!
「けっこうな金額ですから、ワインは一人一杯だけ頼みましょう」
なぜ野口さんが決めるのか。「もっとたくさん飲みたいのに」ということではなく、「水でいいです」という気分だったが、いずれにしても指示される筋合いはない。もちろん、野口さんがオゴるつもりで「さすがに一杯だけにして」ということなら辻褄は合うが……と状況を探りつつ、おとなしく一杯だけ頼んだ。
食事中の会話は「実は僕、○○なんですよ」という野口さんの謎の身の上話。「女性になかなか声をかけられなくて」と言っていたが、私にはいろいろ声かけてきてたよな……。声をかけても空振りになることを「声をかけられない」と解釈していないか?
そして驚いたのは最後、お店を出る時。私は「自分の分は払いますから」と言うタイミングを全力で見計っていたのだが、野口さんは伝票の入った革のフォルダーにこれみよがしに視線を送り、それでもあえてそれを手にすることなく席を立って通路へ出た。一応私が立つのは待って、つまりもちろん私が伝票を手にするのをしっかり目で確認して、そのまま店外へ出ていった。おいおい出ていくなよ!
私は平静を装いつつ二人分の支払いをした。もちろん野口さんが私に二人分払わせるつもりじゃないのは理解していたが、なぜここで私が二人分の会計をしているのかは理解できなかった。夫婦じゃあるまいし、相談もなく女性が二人分の会計を済ませるのは絶対変だよな。あと、私にそれなりの持ち合わせがなかったらどうするつもりだったんだろう。
店を出ると、野口さんはもちろん、
「おいくらでした?」
と聞いてきた。払う気があるのはもちろんわかっていたよ、でもね……。
サービス料も加算されて、一人当たりけっこうな金額になった。私はレシートを見せて「一人、六千三百八十円ですね」と答えた。暗算は苦手だが、「絶対にきっかり半額払えよ、この野郎」と思って計算してから店を出てきたので、十円単位までちゃんと割ってあった。
野口さんが私に差し出した金額は、六千四百円。
「お釣りはいいですよ。遠慮せずに受け取ってください」
スマートにカッコよく言ったふうの、ちょっと気取った口調。……二十円、これはこれはごちそうさま。……。…………。
別れ際、駅で野口さんは「ありがとうございました。思い出になりました」と言っていたけれど、私は別の意味で、ほんとにいい思い出になった。女子があれだけ「おかしい」「変だ」と言うのにはちゃんと理由があるのだと、最後の最後にやっと理解した。
翌日、古葉君は私より後にやってきて、とりあえずは涼しい顔で席に着き、
「ご無事で何より」
と、私のほうを見ないで言ってきた。私は反応して古葉君にぱっと顔を向けた。何をどう言っていいかわからない。ほんとにひどかった。でもそれを端的に伝える言葉がない。古葉君の横顔を見つめつつパクパクしていたら、彼はぶっと吹き出した。
「楽しかったみたいだね」
なんだとう! 見てきたような、わかりきったようなその言い方は何だ!?
「もう! お昼に聞いて! 今日は十二時から!」
「はいはい」
古葉君はまだ肩で笑っていた。そのときやっとわかった。野口さんについては男性陣も、女子のようにやいやい言わないだけで、同じような評価だったわけだ。
その日のお昼を古葉君につきあわせ、ひと通りを語って聞かせた。彼は笑い転げた。
「カフェリーヌおごるって言ってた。誘いに来るたび、計二回は絶対言った。そこのスルーもわかんないけど、最後の会計ひどいね。だいたい、勝手に高い店にしたのは自分なんだから払ってあげるべきだし、百歩譲ったってその展開なら最低でも一万円くらいは出すところじゃない? カフェリーヌに渋々つきあってやるだけのはずが、なんで六千円以上メシ代払わないといけないのかって話だよね。おまえとメシ食うのにそんな価値ねえよ、って店に入る前に言ってやればよかったね」
言えるわけないじゃん。しかも辞める人に。私も近日辞めるけど。
「野口さんは『思い出に』なんだろうけど、完全に弱みに付け込んでるよね。辞める人にああいう誘われ方したら、よっぽど嫌いじゃないと断れないよ。それにしても、ずっと変な好意を寄せてた花房さんに、最後のディナー一緒に行ってもらって、オゴリが二十円は恐れ入ったねー。二十円で偉そうなこと言うくらいなら、ピッタリ半分払う人のほうが、まだ考え方だけはわかる気がするな~」
笑いすぎだよ古葉君。ああ、そういえば、イケメンの小松さんは私と最後のランチに行って、「今回だけ、デート気分でオゴらせてね」ってスマートに払ってくれたっけ。これを固辞したら「デートとか、ナイわ」ってことになっちゃうから、断るわけにいかなくて、上手いオゴり方だなと思った。私、基本はカッコよくワリカンしてくれる人がいいけど、こんな私にも綺麗にオゴれる人ってきっと「いい男」なんだよね。
「もういいよ。授業料だと思って今後の人生に有意義に活かすよ。もしも私が野口さんのことを元々嫌いだったとしても、多分、あの誘われ方じゃ断れなかっただろうし、人生に必要な経験だったと思うことにする……」
私はすっかり消沈して力なく食事を済ませた。古葉君は「人生、そういうこともあるよ、元気出しなよ」と言いながら、やっぱり笑っていた。
十二時五十分過ぎ、そろそろ会社に戻ろうかというタイミングで古葉君が伝票を持って立ち上がり、さわやかに言った。
「申し訳ないけど、俺は思い出にとか言って花房さんをディナーに誘うことはないから、これまでのお礼はここの支払いでさせてもらおうかな。次、いつ一緒にお昼に来るかわからないし」
私は「えっ、ちょっと」と慌てて席を立った。
「それとも、ディナーをオゴってほしい?」
あ、いや、そういう意味じゃ……
「お世話になった感謝は表したいんだけど、重いのは苦手だから、気持ちだけね」
さっとレジに進んで、さっと会計を済ませると、古葉君は私がそこにたどり着く前に一瞬気遣うように私を振り返り、店を出てしまった。
スマートかつ問答無用。オゴリお断りの私だからこそ、「ディナーをたかるつもりはないから、ここはご馳走になっておこうかな」って思える。私の性格を見越したワザを使ってくるとは、さすが古葉駿二。そう、これがいい男ってやつだ!
普通はそこで綺麗にまとまるんだけど、この事件にはもう一段階「オチ」があった。
食事から帰ってしばらくすると、庶務の女性職員が一人、ぴょこっと顔を出して、
「花房さん、ちょっとお邪魔してい~い?」
と言ったので迎え入れた。すると彼女、怪しい笑顔を浮かべて、
「昨日、野口さんに、カフェリーヌの裏のフレンチ、ご馳走されてきたんだって?」
と言うではないか。なんだと!? ご馳走になどなっていないぞ!
「野口さんが出してくれたの、二十円ですけど!」
私は血相を変えて(でも、ちゃんと小声で)言い返した。
「……え、二十円?」
「二十円です。末尾が八十円だったので、『お釣りはいいよ』って言われただけです」
庶務課の彼女は目をパチパチさせて、「?」という顔をした。
「だって、野口さん、昨日花房さんとフレンチディナーしてきたとか言って、スカした感じで、『いやあ、痛い出費でした』って言ってたから……」
時間が止まった私に代わって、それまで知らんぷりをしていた古葉君が必死で笑いをこらえながら説明してくれた。
「それ、花房さんが、カフェ行こうって騙されて、野口さんの選んだバカ高い店に無理につきあわされて、高いメシ自腹で払わされただけですよ」
今度は庶務課の彼女の時間が止まった。そして、しばらくして驚愕の声をあげた。
「『痛い出費』って、オゴって、口説いたけど落ちなかったから無駄になったとか、そういう意味じゃないの!? え、なに、じゃああの人、花房さんには自分で払わせて、自分で自分の分を払ったのを『痛い出費』とか言ってるの? 自分が誘ったくせに?」
私は衝撃すぎてもう何周も感情を通り過ぎ、後は笑うしかなかった。
「私との食事が、自分の分のお金を払うのすら無駄なほどつまらなかったんですね。『痛い出費』ですみませんでしたって、言っておいてください」
ホントにマジに言っておいてください。晩メシ代返せ。こんなに失礼な人、見たことも聞いたこともないよ。
夕方、野口さんが、何がなんだかよくわからない顔をして「なんか怒ってらっしゃいます?」と聞きに来た。庶務の女性が本当に言ったらしい。でもこの御仁は、自分の何がおかしいかはまるでわからないようだった。その場で、私は涼しく「いえ、何も。お世話になりました、どうぞこれからもお元気で」と最後の挨拶をしてしまった。野口さんの出勤日はあと三日あるけどね。
そのまま机に向かって仕事を続けていたら、野口さんは首をかしげつつ去っていった。本当に、いい人生勉強になった出来事だった……。




