十 お泊まり事件
日曜は休みで、月、火、水曜の三日間は「原稿が今来るか、今来るか」と必死でメールをチェックして、来るなりダッシュで教材を版下に制作して、講師の予習用に教務課に転送しつつ、コピーで実物を製作……というのを繰り返した。「平日は二十一時までしか残業しない」なんて取り決めはもはや機能せず、夜遅くまで一切余裕はなかったが、さいわい大半の教材が出来上がって残りは三科目となった。未着のうち二科目はゴールデンウィーク後半の講義なので、日程的にはなんとかなるだろうと思えた。
だが、五連休の二日目の日曜に講義がある一科目が非常に怪しい状態だった。この科目の教材担当、乱筆の手書き原稿をFAXで送ってくる七十歳の御大が原稿をまだ寄越していない。御大は、いつも締め切りを過ぎてからしか原稿を寄越さない。受講者が少ないので、刷るのは手間が少ないが、原稿を全文入力しないといけない。他の講師よりずっと手間がかかる。だがそれ以前に、原稿がちゃんと来るのかどうか。
体力的にも残業続きで疲れたが、何より、このゴールデンウィーク教材は神経が磨り減る。間に合わなかったらどうしようとピリピリし通しだ。汎用の解答欄を作ることにしなかったら、多分間に合わなかった。なお、試験制度変更のテキスト新規制作もまだ残っていて、並行でやっている。ホントに、よく死なないよ私たち。
金曜の朝、原稿は待っていた三通のうち二通が来ていた。もちろん、御大以外の二科目だ。この二つは、午後早いうちに版下が出来上がり、本部以外の校舎の分はコピー・製本を終えて定期便にのせられた。残りの、数の多い本部校舎の分をコピーで製作する時間は、夜までたっぷりあった。……御大の原稿を待たなければならなかったので。
原稿を受け取るデッドラインの日だというのに、御大とはなかなか連絡がつかなかった。十九時には本部の教材も必要数が完成したので、古葉君が一式を隣の本部校舎に届けに出た。私はその間に、この日五回目の催促電話をかけた。御大の奥様がまた取ってくれた。
「まあまあ、さきほど戻りましたので、どうぞお待ちくださいませね」
いた、つかまった!
御大は「あとちょっとでできるんだけどね、途中までできてるんだけどね」と、一応申し訳なく思っている口調で言った。そして、信じられない言葉を続けた。
「……おたくんとこの小上さん、明日の朝イチまで待てるって言ってたんだけどね」
一瞬、「ウソつけ!」と思ったが、この人はいつも正々堂々と「間に合わなかった」「忙しかった」「まだできていない」と言って遅れる。こういう人が、小上さんのせいにしてごまかすはずはない。でも小上さんが作ったスケジュール表では今日が〆切だ。
課長のパソコンのデスクトップに「依頼状」のフォルダがある。その中を見れば、課長の設定した締め切りがわかる。私は、御大に早く寄越せと念を押し、電話を切ると、課長のパソコンに向かった。メールを開けていいことになってはいるが、その他のフォルダを開けるのは多分よろしくない。でも、この確認は必要なことだ。それが正しいかどうかと考えてしまわないよう、古葉君が戻る前に急いでフォルダを開けた。
御大宛の依頼状で、締め切りは「金曜夕方五時までに」とあったが(それも遅すぎるけど……)、余計なひと言がついていた。「どんなに遅くとも、土曜日の朝一番までにはお願いします」……。確かに、これでは「明日朝イチまで」だ。しかし、よぼよぼ手書きのFAXで土曜の朝に原稿が来たらかなりの綱渡りになる。そもそも御大は、土曜朝までと言われたら、土曜の昼までかかりかねない人だ。私にはどうしても日曜午後の講義に間に合わせないための締め切り設定にしか見えなかった。
状況を古葉君に報告するつもりだったが、やめた。この依頼は不自然すぎる。課長がこの人の締め切りを「土曜の朝」にする怖さをわかっていないはずはない。唯一、課長がわかっていないのは、古葉君が優秀だから、今回の教材制作の手間が大いに削減されていることだけ。きっと、例年通りに教材を作っていたら、今回のゴールデンウィーク教材は何科目かが間に合わなかった。もしも徹夜仕事とかして根性論でクリアしても、この御大で失敗する可能性大だ。課長、絶対おかしいぞ。何を考えてるんだ?
古葉君が戻ってくる気配を感じて、私は慌ててフォルダを閉じた。
他の仕事を進めながら原稿を待った。二十時、二十一時に御大に電話をかけたが、まだできていないという。できたところだけでもと言ったが、全体のバランスがどうこうとごちゃごちゃ言って、送ってくれなかった。
金曜日、二十二時。事務所にいるのはもちろん教材二課の私たちだけだ。
「古葉君、帰ってよ。私を待ってくれてるだけでしょ?」
「……俺が帰ったら、どうするつもりなの? 徹夜して一人で作るの?」
最悪の場合それもアリかな~、なんて、思ってたことはお見通しか。
「多分もうすぐ、送ってくれると思うんだけど……」
「何時に送るかって今すぐ確認してもらっていい? その時刻によって対処を考えよう」
最悪の場合、メール送信で各校舎のコピー対応。それでも、「講師が講義の当日に教材の内容を初めて見る」なんてことは絶対に避けなければならない。明日土曜日のできるだけ早い時間に講師にメール配信、現物の製作は宅配便集配終了の十八時がデッドラインだ。
電話で聞いてみると、御大は原稿を三十分以内に必ず送るとのこと。私と古葉君は、腕組みをして一番いい方法を考えた。明日可能な限り早く仕上げるには、やるっきゃないか。
「古葉君は帰って。私、入力して版下だけ作ったら、それを置いて帰るよ。古葉君はその分今日早く寝てもらって、明日の朝九時とか、早めに来て。御大に著者校正させて間違いを直してもらったら、コピーと製本と発送は二人でやろう」
多分文字入力と版下制作で徹夜だな。だけど、さも帰るみたいに言ってみた。古葉君は帰ってね、私がこっそり犠牲になるから。
「終電までに終わるの、それ」
古葉君はビシッと問題点を指摘した。バレたか、終わるわけないでしょう。答えずに私が満面の笑みになるのと反比例して、古葉君の眉根がぐっと寄った。
「泊まり込みはダメ。俺はさっきから、絶対に徹夜をしない方法を考えてるの。……今日原稿が来たら内容が使えることを確認だけして帰って、明日の作業でこの一科目仕上がると思う?」
「これまでの経緯からいくと、朝早く来れば、案外、間に合うかもな~と思わなくもないけど……」
「不安だね、結果的にダメだったってわけにいかないからね」
その時FAXの着信が鳴った。
「ホントにちゃんと三十分以内に送ってきたね、意外」
そう言って少しホッとして最初の原稿が出てきたとき、私と古葉君は凍りついた。
図面があった。しかも飲食店店内の配置図。ていねいに描いてはあるけど、よぼよぼの手描きだから、図面としてトレースして整えなきゃならない。それだけでも二時間はかかるのではないか……?
私は急いで御大に電話をかけた。もう二十二時半だが関係ない。原稿が遅いのが悪い。
「先生、この図面、元のきれいなものはないですか」
「これねえー、去年お店から借りてその場で書き写して、図面は返しちゃった。きれいに書き写したと思ったんだけど、ダメかな?」
ダメだよ、こんな線が震えた書写。しかもエンピツ描きじゃないか。
「まだお店があれば、明日行ったらまた貸してくれるかもしれないんだけどねえ、先々月くらいに閉めちゃったでしょう」
ん?
「綺麗な喫茶店だったのにね、『ベル』。おたくの隣の隣。あそこの図面なのよ」
私は、少し保留して御大を待たせ、古葉君にすぐに伝えた。
「これ、『ベル』だって。今、貸店舗になってるでしょ。隣の隣」
電話に戻ると、私は御大に、可愛い女子ぶった口調ながらかなり強く「明日の午前中、著者校正が終わるまで絶対に家を出るな」と圧力をかけた。御大は了承し、明日の著者校正の目処は立った。
電話を切って振り向くと、古葉君の姿がなかった。あれ?
しばらくしたら、事務所の入口が開く気配がした。びくっとしたが、聞こえる足音が古葉君だった。
「貸店舗の連絡先見てきた。駅前の不動産屋が管理してるね」
なんと、『ベル』見てきたんだ。素早い。
古葉君はすぐにネットで不動産屋さんのページを開き、貸店舗の中から番地で元『ベル』を探し出した。でも、私たちの望む図面は上がっていなかった。一緒にパソコンを覗き込んでいた古葉君の、落胆した声がすぐそばで響く。
「うーん……ここに出てる簡略化したやつじゃダメだし……ネットから図面の画像もらって許可取ろうと思ったのに。これは、明日、不動産屋に突撃だな。でも、それでこの図面がなかったらどうしようか」
「夜中使ってトレースすれば図はできるけど……」
でも、手描きの図を私がトレースしたら、教材との整合性と図の正確性を御大にしっかり見てもらわなければならない。それも、FAXのやりとりで。どれだけ時間がかかるのか、そして正確性は……。私が途方にくれかけたら、古葉君がさっと暗雲を遮った。
「うかつに精密に作ってミスがあるよりは、最悪の場合、この手描きの方が誤解が生じにくいよ。人の目には補完機能があるから、手描きとかの整ってないものは、脳がきちんとした形に整理してくれる。逆に、綺麗な図面に起こすと誤りは完全な誤りになる。この科目の受講人数は少ないから、不動産屋さんで図が借りられなかったら『汚い手書きでゴメン』で済ませよう。各校舎の講師宛に先に送るのは、この手書きで事足りるよね」
判断早い。説明の根拠に説得力がある。確かに、教材としては大事なのは見た目でなく「正しい」ことだ。
なお、御大が、自分の言った通り「三十分以内」で送ってきたのは、四テーマ中二つだけだった。二十三時にはさいわい全部送ってきたけど。でもまあ、図面のところを三十分早く送ってくれたのは、対策が練れて助かったかな。
とうとう揃った原稿を前に、古葉君は毅然として言った。
「とにかく帰ろう、花房さん。絶対に泊まりはダメ。明日結果が出せなかったら、ゴメンナサイで、始末書でも書こう。明日めいっぱいやってダメなら、上司にも責任をとってもらわないと。この時間に原稿が来て、あさっての昼には講義ですなんて、会社の体制がおかしいんだから、犠牲になっちゃダメだよ」
私を見つめる強い瞳。このまっすぐなところ、惚れるんだよなあ。
「……うん、わかった」
そう答えたけど、古葉君が事務所の正面入り口などの戸締まりを確認している間に、私はちょろっと御大の原稿のコピーを取ってカバンにしまった。今から帰ると深夜零時半に家に着く。多分、三時までがんばれば、文字入力だけは終わるでしょ。
駅まで二人で歩き、深夜だからくれぐれも気をつけてねと強く念を押して古葉君は帰っていった。殺伐として悲壮かつ悲愴な状況だけど、彼がいると、本当に安心できる。
もう五月になる。残り少ない彼との時間、仕事が大変なせいとはいえ、長く一緒にいられるのはうれしい。あと少し、――あと少しだけ、一緒にたくさんいられますように。
夜中三時までかかって入力を終え、ついつい軽い校正もして、結局文章も直しちゃったので、寝たのは四時すぎになった。会社の古葉君のパソコンに宛てて、夜中(というより、朝)のうちに入力データを送信しておいた。メールには「十時には行きます」と書いておいた。朝四時半寝でいつもの九時半に出勤するのはしんどいので。まあ十時だからって三十分しか変わらないけど、ちょっとだけ寝かせて……ってやつね。
土曜日の朝十時、事務所に行くと、古葉君は優雅に音楽を聴いてのんびりしていた。
私が「おはよう」と声をかけると、彼は片目を開けて、すぐに閉じて、
「会社への無償奉仕はダメだよ、会社が従業員に依存するからね~」
と言った。でも、その声は全然私を非難していなかった。
「はーい、すみませーん」
「わかればよろしい。――冗談はそのくらいにして、キミが送ってくれたテキストは、もう一度校正してから、でっかい字でプリントアウトして御大にFAXしたよ。正午までに絶対見終えて修正の指示を送ってこい、って電話で言ってある。これでいい?」
さすが古葉君。ぬかりないね。
「さて……ゴールデンウィーク教材は、これで目処が立ったから、よかったね。本当にお疲れさん。ちょっと話があるんだ、外に出よう。俺、タイムカード切ってないんだ。今、まるっきりプライベート」
古葉君はそう言って立ち上がった。えっ、私は切っちゃったよ。
「花房さんは昨夜、三時間? 家でやった分、ちゃんと会社に請求しないと。このまま、仕事扱いでいいじゃない、行こう」
戸惑ったが、「話がある」と言われたのが気になって、彼に連れられて外に出た。そのまま二人で古葉君の隠れ家の地下の喫茶店に行った。
向かい合って座ると、すごく落ち着いた。他のお店にもいろいろ行ったけど、重い話をするならここが落ち着くな……と思ってハッとした。
「……何の話か、察しはついてるみたいだね」
そうだね。最大の山は越えて、今日終わる。次に来るものは……。
「これまでは身動きできなかったけど、俺、これから、転職活動を始めるよ。もし内定出ちゃっても、五月いっぱいはウチにいられるようにする。申し訳ないんだけど、面接とか入ってきたら、休んだり、早退したりするかもしれない。その分負担がかかると思うけど、それは逆に、俺を使って休んだりしてね。迷惑かけちゃうけど……」
申し訳ないとか、迷惑かけちゃうとか、そんな言い方、しなくていいよ。
「――謝るの、禁止ね。わかってるから。やりたいようにやってよ。応援してる」
いかん、声が全然前向きじゃないし、笑顔が不自然だ。気を取り直して顔を上げて、古葉君の目を見つめて意識してニコッとしてみた。
古葉君の穏やかな声が続く。
「ありがとう。それから、二月の終わりから今まで、このものすごい仕事量を全部クリアできたの――まあ、今日あと一つ残ってるけど――花房さんと一緒じゃなきゃ絶対に無理だったと思う。思い出すと、いろいろ、俺って偉そうなこと言ってたなって……けっこう反省した。でも、キミがいつも『そうだね』って、――また偉そうになっちゃうけど、素直についてきてくれたからやってこられた。ストレスでどこかおかしくなっててもいいくらいなのに、毎日、土曜出勤とかも、楽しくやれた。本当に楽しかった」
これはお別れの言葉。いいことを言われているはずなのに、ちっともうれしく感じない。
「花房さんは、残るの?」
古葉君が出て行くなら、私は残るよ。
「そうだね、そのつもり」
次に言われることもわかってる。でも、答えも決まってる。
「キミにいろいろ押しつけていくのは気が重い。あと一回しか言わない。――一緒に辞めようよ」
「……ありがとう」
ちゃんと回答しなかったけど、どうせ彼は私の顔から「辞めないよ」という返事を読み取るだろうから、返事はこれだけね。
喫茶店で三十分コーヒーを飲んで、それから駅前の不動産屋さんを言いくるめて『ベル』の詳細な図面のコピーをもらって、教材への転載許可ももらって(これで二時間以上の分の作業が不要になった!)、事務所に戻ったらほどなく御大から「修正なし!」と大書きされたFAXが流れてきた。
そこからは古葉君もタイムカードを切って、図面を入れて体裁を整え直した後、コピーして折ってはさんで、各校舎に送ったり届けたりして、夕方早いうちに全部が終わった。
事務所を出るとき、ちょっと感慨にふけった。
「もう、……土曜出勤はさすがに、ないかもね」
古葉君も事務所を振り返った。
「そうだね、残業はまだまだ続きそうだけど、深夜とか土曜は大丈夫だろうね」
ホントに楽しかった。でも、その感想はもうお互いに確かめ合わなかった。
打ち上げの代わりに、駅で同じタルトを一つずつ買った。とにかく疲れたので早く帰って、タルトを食べる時に「お疲れ様」と二人分言おうねと笑った。
夜、一人で食べたそのタルトはお別れの味がした。古葉君は寂しいなんて思わないんだろうなと、なんだかとても悔しかった。
ゴールデンウィークの五連休のうち、なんと四日間も休むことができた。明けて、ちょっとは疲れが取れて出勤したら、なんとまたもや事件が待っていた。
内線で運営部長から一人で来いと呼び出され、今は誰もいない学校長の部屋に通された。セクハラ部長と密室にこもるのは嫌だ……。しかも用件は、私が人生最大に愕然とするような内容だった。
「非常~に言いづらいんだけどね、ゴールデンウィーク教材を制作するのに、君と古葉君は、大変だったとは思うんだけど、やっぱり二人でお泊まりというのはね……」
は?
運営部のセクハラ部長は、半分は困ったような、もう半分は興味津々の顔と声で、私にからみつくように言葉を投げてくる。
「講師の一人がね、深夜に送った原稿が翌朝には教材にできてきたから、徹夜で作ってるんだねと言っていた……って報告が現場から来ていて、それも夜中に電話してきたのは女性、朝に電話してきたのは男性ということだったそうだね。それで、ずっと一緒だったのかなと……。教材作ってたのはわかるけど、夜は長いからねえ。やっぱり、何事もなかったっていう証拠はないわけだから……若い男女だからね……。もちろん二人でどこかにしけ込むのは自由だけど、社内でお泊まりは、黙っているわけにいかないからね」
下賎な勘繰りをするのに最適なキャラクターだな、この人。ぞっとする。古葉君が断固帰るべきだと言ったのは正しかった。一人でだけど、泊まり込もうと考えた自分を浅はかだったと思った。古葉君のおかげで、私は堂々と反論することができる。
「先生の言っているのはそのとおりですが、私と古葉君は、夜十一時すぎに教材の原稿が来たことを確認したら、二人とも帰りましたよ。翌朝は、古葉君が私より先に来て進めてくれました。夜の十時半に先生に電話したのは私です。翌朝先生に電話したのは古葉君です。でも、誰も泊まっていません」
「でも辻褄が合わないよね、あの先生の手書き教材、どうやって翌朝にデキてるの。夜中にヤッテるよね。ああ、そういうデキてる、ヤッテルじゃないよ」
ホントに下衆だ。上司として詰問してるのか、セクハラ質問してるのか、どっちだよ。
その時気がついた。なぜこの質問をしてるのが課長じゃなくて部長なんだ。部長に報告が行っていて、現場担当の課長が知らないとは考えづらい。今朝も課長は顔だけ出してさっさと本部校舎に行ってしまったが、今の時間、講義はないから、この「お泊まり事件(仮)」はまず直属の上司が問いただせばいいじゃないか。――そこで閃きが落ちた。
課長の設定したこのトンデモスケジュールは、間に合わせないためのものじゃない。私と古葉君の責任感の強さをわかったうえで、どこかの段階で、必ず徹夜仕事になるようにだ。なぜ? 私と古葉君の仲がいいのが気に食わないから、徹夜にかこつけて糾弾したいのか?
いずれにしても、これを課長がやらないのは、自分が仕組んだせいに違いない。自分のせいでこうなったのを誰よりもわかっているから、私たちに問えないんだ。
私は絶対零度下の物質のように微動だにせず部長に言った。
「帰宅した証拠があります。今、すぐお持ちします」
私は一旦学校長室を出て教材二課に戻り、古葉君に「土曜の朝の、私が自宅から送ったメールをプリントして」と告げた。私が内線を受けてやや不審な様子で出て行ったので、古葉君は若干私を心配そうに窺ったが、すぐにプリントしてくれた。古葉君がメールをまだ消していなくてよかった。
取って返して部長に突きつけた。
「送信時刻は朝の四時十分です。自宅のPCから送ってます。文面も、私は朝十時に行くと書いてあります。夜の十一時に原稿を受け取って、自宅で入力と校正をやって、この時刻に古葉君の会社のアドレス宛てに送信しました。朝、古葉君が先生のところに送ったのは、完成した教材ではなく、文字確認用のテキストだけです。先生は、手書きでなく活字になっていることを『完成した』って言ってるだけです。実際に教材が完成したのは、その後、お昼過ぎです。これで問題ないですね」
心が凍る。あんなに必死で、会社のために、講義に穴を開けないために、神経をすり減らして体力を絞り出して教材を制作しきったのに、上司にかけられる言葉がこれか。二人で会社に泊まってナンカしてたんじゃないのって、これが私たちの必死の努力への報酬か。私は古葉君といてちょっといい気分だったから完全に無罪じゃないけど、あんなにきっちりしてる彼がくだらない邪推を受けるのは許せない。
部長は、メールのプリントアウトにからくりがないことを確かめている。でも、間違いなく私の個人アドレスから古葉君の会社のアドレスに送られていて、送信時刻は朝四時過ぎで、添付ファイルのタイトルは「教材入力テキスト」で、メール本文は翌朝の出勤予定時刻を告げている。これだけ揃えば、もう十分でしょう。
「なんだ、……誤解なのか」
なんでそんなに残念そうなんだエロ部長。でも、理解はしてくれたようだ。
「誤解ですね。二十三時すぎに帰ってます。タイムカード切ってる時間の後、駅の防犯カメラでも確認してもらえれば、私たちが帰るのが間違いなく映ってます。なんだったら、探偵でも雇って捜査をどうぞ」
もういいですか、と即立ち去るつもりだったが一旦やめた。
「古葉君に聞いても答えは同じですよ。それより、小上さんが、講師の締め切りを故意に遅くしたように見えます。部長は教務出身だからわかりますよね、日曜日のお昼の講座の教材が、汚い手書きで土曜日の朝に来たらどういうことになるか」
「それじゃ、講師が予習できないじゃないか」
「実際に、ほぼその状態になりました。最終締め切りは土曜の朝の設定でした。それを催促して金曜深夜に原稿を手に入れましたが、手書きなので講師にメール送信できません。先生方の予習に間に合わせられないと思ったから、私は深夜に自宅で一部の作業をやったんです。そうやってなんとかしましたが、小上さんの依頼は土曜の朝まででした。どういうことなんでしょうか。そっちを追及してください」
しかしセクハラ部長がうちの課長を追及することはないだろう。問題は極力発生させない、事なかれ主義の馴れ合い所帯だ。課長に問題があれば部長も責任を問われる。終わったことの中から問題なんて拾い上げやしない。
それでも私がこの問いかけをする効果はある。これで話を終わりにすべく、古葉君の呼び出しはなしになるか、私を呼び出した手前の形式的なものになるだろう。
結果的に、古葉君の呼び出しはあった。彼はすぐに一旦戻ってきて私に告げた。
「……なんか部長が変なこと言ってる。俺と花房さんが仲いいから変な誤解をする人がいてね~とか。よくわかんないけど、土曜出勤はちゃんとやってたのかって聞かれてるのかな……と思って。それで、ちょっとお詫びとお願いがあるんだけど」
なんだろう。でも、部長の話はえらくトーンダウンしてるみたいだな。よしよし。
「俺、休日出勤の間、『実は働いてないんじゃないか』とか疑われたら嫌だと思って、タイムカードが勤務中になってる間だけ、ボイスレコーダー回してたの。ゴメン、特に何事もなければそのまま消すだけだし、俺と花房さんならどうせ仕事しかしないから……。そしたら、くだらないこと言われて腹立ったんで、部長に『これ聴け』って突きつけてやりたいんだけど、でもこれは花房さんが嫌なら今すぐ消すよ。不愉快にさせたらゴメン」
ひええ、手堅いな古葉君。真面目にやってた証拠、全部取ってあるんだ。これで部長は自分がどれだけ恥ずかしい質問をしたか、思い知るに違いない!
「文句なんてあるわけないじゃない。やっちゃってやっちゃって。お昼ごはんに行く行かないの話以外、全部仕事の会話だもん。どんだけ真面目にやってたかわからせてやろう。特に小上さんとセクハラ部長は、これ聴いて反省しろ! さすが古葉君だね」
私が答えると、古葉君はすぐに、パソコンの中のデータを運営部の共有フォルダにドロップした。長時間の音声データだからコピーが長いが、彼はそのまま部長と話すために学校長室に戻っていった。
戻ってきた古葉君はまだ恐縮していた。
「黙って録音取られるのとか、すごく嫌だと思うんだけど……ほんとゴメン」
いや、意図はわかるし、実際有効な証拠だよ。世の中って、何に足をすくわれるかわからないものだね。ちゃんとやってたんだから、録音があっても何も嫌じゃないよ。プライベートな会話が入るようならもっと配慮してくれてたんだろうし。
「古葉君、私の心が読めるんだから、私が怒ってないのわかるでしょ。その録音があったら、誰がどんなことを疑ったって、真実は一つだもん。ありがとう、私も助かったよ」
ただ――録音が「ない」時間の証拠にはならない。平日の残業時間の録音はないみたいだし、あったとしても二十三時に「じゃあ帰ろう」と言って録音を切り、その後で何かあったのだろうと邪推されたら無実は証明できない。自宅PCから古葉君にメールを送っていて、本当によかった。実際のところは、通信機能のあるノートPC一台あればこのくらい偽造できちゃうんだけど、どうせ部長はそんなPCの知識はないので。
まあ、いずれにせよ、私が言われた下品で屈辱的な詰問を、古葉君は向けられていないようだ。ほめてもらえないのが残念だけど、古葉君の騎士役、務めたよ!
午前中にそんな騒ぎがあって、やっと落ち着いた十二時半、古葉君が食事に出て行くと、明らかにそれを見計らった様子の暮沢さんが追っていくのがパーテーションの隙間から見えた。やれやれ執念深いこと。……と思ったら、今度は古葉君が戻ってきたぞ?
「花房さん、部長に何言われた」
うわっ、やばい、誰か告げ口……って暮沢さんしかいないか、いや、でも暮沢さんが部長の質問内容を知っているはずはないよね? 学校長室で話してたんだから。
「いいから言って。俺に気を遣う必要ないから」
せっかく古葉君を不快にさせずに済んだのに……。私がためらっていると、古葉君が痺れを切らした。
「俺と、事務所に一晩一緒にいて、何事かあったんじゃないかって言われた?」
せっかく古葉君を守るために無実を証明したのに、なんでこうなるんだ、。でも、セクハラ部長の下品で下衆な言い方で聞くことがなかったのはマシかな。
「うーん、まあ、そういう質問だったから、『泊まってません、私帰宅してますよ』って、さっきのメール見せたら納得したよ」
古葉君の表情は心底怒っていた。あんなに頑張って、しかも成果も出した古葉君に、いつまでもこんな話をさせたくないな。
「なんで古葉君が、しかも今、そんなことを聞いてくるような騒ぎになるの?」
「小上さんから、暮沢さんにメールが行ってた。暮沢さんがケータイのメール見せてくれた。金曜日の夜、二人は会社から帰らなかったらしいよって。『二人のことだから、そっとしておいてあげたい』みたいに書いてあった。『部長が連休明けに注意するって。どこかにしけこむのは自由だけど、社内はやめるようにって』って話になってたのに、俺はそういう注意をされなかった。だから花房さんが言われたんだなと思って……」
どこかにしけ込むのは自由だけど、社内でお泊まりは――
部長の不快な声が、課長のメールの中身とほぼ同じことを言っている。また落雷のように閃いた。つながったぞ。小上さんの目的は、このメールだ。
小上課長は、私と古葉君を泊まり込みで仕事する羽目に陥らせて、暮沢さんに「古葉君と花房さんはお泊まりをするような関係だよ」と、「だから古葉君はあきらめなよ」と言いたかったんだ。色恋沙汰だなんて、くだらなすぎる。……いや、あるいはプラスして、社内での古葉君の評判を落としたかったのかもしれない。
これはもはや、言うまい。古葉君を少しでも不愉快にさせないように上手く立ち回ろう。
「小上さんは、暮沢さんが古葉君のこと好きだから、古葉君が私と怪しいって誤解してうれしくなって、密告メールしちゃったんだね。大丈夫、古葉君が取っておいた録音データも、私と古葉君が仕事以上の関係じゃないって証明してくれるよ。ことごとく手堅いよね、古葉君。ありがとう」
部長、ホントに音声データ聴いてくれ。一分一秒でも長く。延々と土曜をつぶして仕事してるのを正確に、物理的に理解してくれ。そうやってわかってもらう方法が、この世界に「録音」という形で存在していることがとても救いだ……。
でも、古葉君は憤懣やるかたない様子で、じりじりと拳で机を押しつぶしていた。
「くだらねえ、恋愛がどうとかこうとか……職場に持ち込むな、めんどくせえ」
「怒らないで。不愉快なのわかるけど、でも放っておこう。仕事の面では残念だけど、私、女子としては、古葉君と変なこと言われるんだったら全然気分悪くならないし。古葉君には救いにならないかもしれないけど、私は部長に言われた時も、まいったなーって思っただけ。誤解なのも証明できたし、流しちゃって」
そこで一歩彼に近づいて、小声でもうひと言、言った。
「もう辞めるんだから、怒る分、無駄だよ」
古葉君は手元をじっと見下ろして、やるせないため息をついて、つぶやいた。
「俺たちの努力が、なんでそんな話にされるんだよ。どんだけやったと思ってるんだよ。全部無駄だったよ。こんなことを言われるためにやったわけじゃない」
そうじゃない。私は彼の横顔のすぐそばで、誇りを持って言ってあげた。
「無駄じゃないよ。私たち、ちゃんと全部やりきったよ。結果は、各校舎で出てるよ」
笑顔でじっと待っていたら、古葉君の顔もだんだんやわらいで、私のほうを向いた。
「……そうだね。受講生の人たちに迷惑かけなくて、よかったよ」
オッケー、それが正解だよ、古葉君!
それにしても暮沢さん、なんで課長に携帯電話のアドレスとか教えてんの。古葉君のセリフじゃないけど、もう結婚したら? 課長も舞い上がるわけだよね、携帯電話でメール送り合ってるわけでしょ? 暮沢さんは、ほんと、わからん。
私が食事から戻ってメールを開けると、ゴールデンウィーク教材の原稿をいの一番に送ってくれた橋上先生から私宛にメールが入っていた。
『ゴールデンウィークの講座が無事に終わりました。今年は教材スタイルがちょっと変わっていましたね。あれは花房さん仕様なのでしょうか。せっかくの新スタイルなので使い方を工夫してみました。四十字以内で答えよ、の設問で消しゴムを使用不可にして、間違えてもそのまま、下に行をずらして書き直していくよう受講生に言って、一回、試験よろしく回収してみました。生徒さんたちの間違える傾向や、思考ルートがだいたいわかりました。講義の参考になります。
生徒さんたちにも総じて解答欄は好評でした。この二十字のマスが並んでるのはいくつも解答を書いてみて比較検討するのに便利ですね。非常に講義向けです。解答欄の下にノートが取れるリーフもよかったです。工夫されていたと思います。小上さんもベテランで素晴らしいスタッフさんですが、若い人が入るとまた違いますね。』
私はただ黙ってこれを古葉君に転送した。全科目共通の用紙だから、使いづらかった講義もあるだろうけど、今回の工夫がこんなふうに評価されたよ。あと、優秀な講師って本当に優秀だよね。古葉君も素晴らしいけど、橋上先生もいい仕事してるよ。
古葉君は黙って残業して、帰る直前に『ありがとう』とだけ書いた返信を寄越した。照れるなよ!
翌々日、私と古葉君は揃って運営部長に呼び出された。私たちがピリピリしながら連れ立って行ってみると、また学校長室に通されて、部長に頭を下げられた。
「古葉君の音声データ、昨日一昨日で、けっこうあちこち拾って聴いてみた。なんか面白い話くらいしてやしないかと、覗き見気分でけっこう長く聴いた。……どこ聴いても全部仕事してて、正直、驚いた。この音声データ、全部で二十時間以上だっけか、これだけの時間、真面目に休日出勤やってくれたのが本当にわかったよ。これを変なふうに言われたら、誰だって怒るよな。花房さんすごい凍りついてたもんな。ほんとに、悪かったよ」
ええ~? このセクハラ部長、こんな気持ちいい一面があったの?
古葉君が達観した様子で部長に言った。
「花房さんに無断で録音してたんで、社会通念上はよろしくない音声データです。でもご確認いただけてよかったです。僕たち、仕事しかしてないんで、ご理解いただければ十分です」
私は、セクハラ部長が思ったよりいい奴だったのと、誤解が本当に解けたのとで、心の底からの笑顔になってお辞儀をした。
「古葉君がこっそり録音取っておいてくれてよかったです。部長も、ご確認いただいて、ありがとうございました」
課長の色ボケ状態はなんら問題解決されてないけど、とりあえず一件落着!
学校長室を出て教材二課に戻る古葉君の、笑顔じゃないけど少しうれしそうな顔を見て、私も心から満足した。




