一 ドライな奴
いい男ってなんだろう――と時々考える。
特に、この、隣に座っている男を見るとそう思う。
身長は一七〇センチを少し超えたくらい、顔にまるっきり特徴がないため印象にも残らず、落ち着き払っているせいできっと第一印象は「暗い」であろうこの彼が、多分この事務所の女性たちの中で一番人気がある。
営業部にはわりと顔のいい男が何人もいるのだが、そちらの面々を押さえて「彼、ほんと、イイよね」というのがこの男の女子会における評価だ。同じ部署の私は何度も「彼と一緒でうらやましい」と言われている。
もちろん、私も信頼しているし、彼が周囲から認められるのはわかる。でも、一般的に言うところの「いい男」の定義からは外れているはずだ。
それでもなぜか、みんなも、そして私も思っている。
彼のことを、「いい男」だと――。
朝出勤すると、まずはDTP専用のパソコンを立ち上げるところから仕事はスタートする。社内はほぼ全部が事務用のパソコンだが、社内には二台だけ、DTPやグラフィックを扱うパソコンがある。一つは主に教材制作のために私が使い、もう一つは主に宣伝用のチラシが制作されている。
私はこの各種資格教育の専門学校に勤めて二年になる。部署は教材二課。「教材課」は、「一課」が在庫管理と手配・調達、「二課」が教材の制作・改訂をしている。
二課は課長と私、そして隣の席の男の三名からなる。隣人は私に一年遅れて入ってきたが、印刷会社で印刷の現場にいた人なので、物理的な「本」を作ることについては私よりずっと詳しい。本の印刷工程やコストをわかっている彼によって、この部署の仕事が着々と改善されている。
課長は講師と教材の内容について打ち合わせをするために、三つある校舎を行き来していて部署に不在がち。結果、事務所の隅の、二メートルほどの高さのパーテーションで区切られた「開放された密室」の中で、二課の二人が閉じこもっていることになる。
課長と私は完全に編集畑の人間だ。課長は資格試験の問題集を出している大手出版社からの転職組だし、私は中高生向けの「学習ドリル」を中心に発行している小さな出版社から転職してきた。会社から要求されるコストカットの指示を実行しつつも教材の品質は維持するため、部署の一人が退職するのをきっかけに、編集ではなく印刷系の経歴がある人を求人した。それでやってきたのが彼というわけだ。
部署の出入口になっているパーテーションの切れ目にはホワイトボードがかかっている。
課長・小上至、花房ひとみ、古葉駿二。
これが教材二課の面々だ。私と彼は同い年だが、この会社では一年先輩なので私の名前が上になっている。ホワイトボードの課長の名前の横には、たいがい「外出・○○校舎」と書いてある。
「花房さん、お昼行ってくるね。お先」
十二時半になると、二課のわが相棒、古葉君がお昼ごはんに出かけていく。一時半になると彼が帰ってきて、入れ替わりに私が出ていく。他部署の女の子から「古葉さんと一緒にお昼行ったりするの?」と聞かれたが、それはない。普段二人しかいない部署なので、一緒にお昼に行ったら部署が留守になる。
職務規定上は十二時~一時の間で全職員がいっせいに食事に行っていいことになっているが、周辺の飲食店が最も混み合う時刻に行くのは愚の骨頂だ。仕事の加減で時間をずらしてもいい決まりなので、二人で話し合ってお昼の時間の割り振りを決めた。
彼が出ていくと、ここは私一人の城になる。一人は気楽。私は二十六歳になるが、大学に入学した十八歳の頃からもう八年一人暮らしをしている。ただ、それもあと残り一年の話。来年には結婚する。婚約者は今、一年間の海外勤務中。海外の現場で一年間の丁稚奉公をしないと昇進できないらしく、二か月ほど前にインドへと旅立った。帰国したら一緒に暮らしつつ式の準備などもして、折を見て入籍、その後に挙式の予定だ。
会社にはまだそのことは言っていない。結婚退職をする気もないし、仕事のうえでは名字を変える気もない。早く見積もっても、三か月前に伝えればいいだろう。
DTPの作業が終わり、いっぱしの教材らしくなった版下をプリントアウトして、専用の用紙をセットしたコピー機にかける。これはオプションのミニ講座の教材で、必要部数はたったの五十部。ちょっと立派な紙にコピーして、折って束ね、中綴じホチキスで留めれば八ページほどの教材の出来上がり。一式を封筒に入れて、事務所の隅にある各校舎行きの定期便の箱に入れて、必要な教室に届くようにすればOK。
ちょうど封筒を箱に入れて二課に戻るところで古葉君が帰ってきた。今度は私のランチタイムだ。
午後からは、秋から始まる新規資格講座で使う教材の改訂チェックをしよう。資格試験の細部が変更になったため、講師から「改定のポイント一覧」が来ている。それなりに資格試験内容や講座内容を理解してないとできないから、一年目の古葉君にはまだ任せない。
さあ、お昼は何を食べようかな。一時半になると、ランチが終わっている店もあるけれど、たいがいのお店はもうすいているから、どこにだって入れる。
古葉君が入ってきたばかりの頃は、「いけすかない奴」としか思わなかった。
我が教材二課は、授業に合わせて教材を制作する部署なので、教材が「授業に間に合わない」ということはあってはならない。イレギュラーな事態にも対応しなければならず、それなりに残業が発生している。
だが古葉君は、入社してからずっと、毎日定時で帰っていた。私はそれが気に入らなかった。打ち合わせから戻ってきた課長や私がまだ頑張っていても、定時の鐘とともに「じゃ、お疲れ様です」と爽やかに帰る。「手伝いましょうか」とか「仕事を覚えたいので、やらせてほしい」とかはないのか……と思っていた。だが上司である小上さん(社内はみんな管理職を役職名でなく、さんづけで呼んでいる)が何も言わないので黙っていた。
彼は元々あまり口数が多くないし、表情もない。クールな人、いや、淡々とした人という感じだ。必要最低限のことだけを話して、必要最低限のことだけして、定時にさっさと帰っていく。協調性もないし暗くてつまんない奴、と思っていた。
状況が変わったのは、課長が時期遅れのインフルエンザで休んだ時だった。
感染防止のため出勤禁止となった課長から電話でいろいろ指示をもらい、急ぎの課長の仕事は全部私が代行することになった。古葉君はその頃まだ入社二か月くらいで勝手がわかるはずもなく、全部私が仕切るしかなかった。
古葉君は当然、それでも定時で帰るものと思っていた。私は最初から彼を当てにしていなかったし、「自分でやるほうが早い」と割り切っていた。
そうしたら、電話での課長への私の返答をしっかり聞いていたようで、彼は私が電話を切った瞬間にすぐに声をかけてきた。
「――で、俺は何を手伝えばいいの?」
面食らったが、データ直しと手作業が入り乱れる状態だったから心底助かった。私がデータを直して、彼にコピーと製本をやってもらった。おかげで各校舎行きの定期便に教材をのせることができた。私が一人で残業して作り、翌朝各校舎に届けに行くつもりが、いい方に当てが外れた。
これで、あとはもう古葉君は帰り支度かな……と思ったら、彼は印刷所に電話をかけはじめた。日中にFAXで届いていた見積もりの問い合わせらしかった。それでやっと彼が自分の担当の仕事を後回しにして手伝ってくれたことに気付いた。
定時の鐘が鳴る時刻、彼が帰るどころか電卓を叩きはじめたので、
「もう、定時だよ」
と声をかけた。彼は即座に冷静なまなざしで私を一瞥して、
「これ、明日発注だから、小上さんに朝イチで電話して判断してもらえるように、まとめないといけないの」
と返してきた。そこには例えば「帰れなくて不服そうな気配」とか、「私に手伝わされて不満そうな様子」とか、そういう気配はまるでなく、「ああ、これ仕事なんで」という淡々とした口ぶりだった。この人普通に残業するんだ、と正直びっくりした。
しばらくして、彼が明らかに帰り支度を始めた頃、私は恐る恐る礼を言った。
「古葉君て、絶対定時に帰るんだと思ってた。ゴメン、ありがとう」
古葉君はしばらく言葉を選んでいるような気配で黙った後、
「残業したくないんじゃなくて、あくまで、無駄な時間を費やしたくないだけだから。花房さんも会社に拘束されてないで、明日できることは明日にして帰ったほうが会社のためにもいいよ」
と言った。「残業してる私を非難してるのか?」とちょっとムッとしかけたら、気遣うような、静かな優しい声が続いた。
「手伝うことあればいつだって手伝うし、実際に、今日みたいに必要なら俺の手も使うでしょ? 人に気を遣うためだけに居残っても誰も得しないから、何もないなら俺は定時で帰るよ。ただ、必要な時は必ず言ってね」
彼は決して私を非難していなかった。手伝うよと、必要なときは力になるよと、真摯な目をしていた。とても意外な気がした。
それから数日、課長が休んでいる間ずっと、古葉君はしっかり私をフォローしてくれた。定時の鐘で帰ることはなく、私が「これで終わり」と言うまで手伝ってくれた。その際に、彼が思った以上に講座や教材の内容を理解していることを知った。
「なんだ……それだけわかってるんだったら、もっと全然いろいろ頼めるよね。小上さんに言っておくよ、古葉君、デキる人だから任せて大丈夫だよって」
ちょっと持ち上げつつそんなことを言ってみたら、彼は口の端に微妙な笑みを浮かべてふうっと息をつくと、私に目をまっすぐ向けて、言った。
「小上さんは、上司として、もっとちゃんと指示出してほしいんだけどね。部署のマネジメントをする気が全然ないでしょ、あの人」
それまでまったく自分の意見を言わなかった古葉君の、思いがけない指摘。私はあっけにとられた。課長に対しては(変な意味でなく)好意的な感情を抱いていたので、古葉君を「上司の文句を言う、いけすかない奴」のように感じた。
私の表情を読んだのか、彼は穏やかな口調で続きを言った。
「気分がいいわけないでしょ、普段、一人だけさっさと先に帰ってて。男女差別はしたくないけど、同い年の女性が遅くまで居残って夜道を帰ってるかもしれない、それは決してよくないことだよね。でも、新しく入った人に何を教えて、何をさせるかを決めるのは上司だよ。まだ俺は、二か月しかいないこの時点で、上司の指示以上のことはやりようがないよ」
口調は終始落ち着いていたが、これまで彼が自分だけ定時で帰宅することに苛立ちを抱いていたのは伝わった。私は、彼が単に自分のプライベートの充実のために周囲を顧みず帰っていると思っていたので驚いた。
「課長の仕事は部署のマネジメントだよ。ヒラ社員とは責任の質が違うっていうか、ミスもロスもなく会社を運営するために部署を動かすのが課長の仕事。こういうの、全部前の会社の研修の受け売りだけど、ここに来て意味がわかったよ。うち、ミスはないけどロスは多いよね。小上さん、毎日仕事が遅くなるって自慢みたいに愚痴言ってるけど、だったらその問題を解消すればいいでしょ、管理職なんだから。急に予定が変わって発生する残業は仕方ないけど、普段、漫然と残業が続くのは、人員配置が正しくないか、効率が悪いかのどっちかだよ」
まばたきを繰り返すだけの私の様子を見て、古葉君は決まり悪そうに視線をそらした。その態度に「俺が正論だ」という意志の強さはなかった。もしこの時に古葉君が「俺が正しくて、課長が間違っている」という態度だったら、私は素直に聞いたかわからない。
マネジメントと言うとビジネス用語というか専門っぽいけど、概念はわかっている。ただ、それを自分の仕事に関係があると思っていなかった。認識が甘かった。これまで、「この課の、一番大変な仕事をやるのが課長」程度に思っていた。そうではなくて、この課じたいの「舵取り」をするのは課長なんだ……と急に理解した。
「――ゴメン、愚痴っちゃったけど、花房さんも、普段好きで居残ってるんじゃなければ定時で帰ったほうがいいと思うよ。残業代をつけてたら会社の損失だし、つけてなければ会社を甘やかすだけだし。小上さんといるのが楽しそうだからいいのかもしれないけど」
古葉君は、そう言って元のクールな人に戻って荷物をまとめ、「もう手伝うことない?」と確認してから、
「来週からは小上さん戻ってくるから、よかったね。お疲れ様」
と言って帰っていった。
私も後は帰るだけだったが、しばし呆然としていた。自分が何のために残業していたのか考えた。確かに仕事はたくさんあった――ように思うが、「必ず、今日やらないといけないこと」は常にあっただろうか。
『残業代をつけてたら会社の損失だし、つけてなければ会社を甘やかすだけ』
残業代は……「実際の残業時間マイナス30分~1時間」でつけている。残業代を正しく請求しないのは、それだけ「ちゃんとしていない」残業をしている証拠ではないのか。
『普段、漫然と残業が続くのは、人員配置が正しくないか、効率が悪いか』
多分人員は足りている。なら、残業があるのは効率が悪いだけだ。残業時間のうち、課長との不必要なおしゃべりは何割だったろう……。
課長は四十代中盤の独身男性で、頼りない笑顔がなんとも放っておけない、いじらしい人だ。それでも「編集職人」らしいベテランの腕やこだわりを見せてくれるし、前の出版社で変な教わり方をしていた私の基礎スキルをいろいろ正してくれた。課長と和気あいあいと楽しく社内で過ごしているのは楽しかった。普段、課長が不在なので秘書のような役回りになることも多く、「私が課長を支えてるんだ」みたいな優越感があった。ほのぼのした共依存関係になっていた。
なんだか急に目が覚めた。自分は職場で何を甘ったれていたのかと。課長と仲良しで楽しい、なんとなく会社にいるのが楽しい、そんな仕事の仕方になっていた。客観的に見たら私の姿はカッコ悪い。仕事が遅いせいで残業代を余計にもらっているダメなやつだ。
週が明けて課長がインフルエンザを治して出勤してきた。月曜は、課長不在時に積み上がった仕事でてんやわんやだったが、火曜は「確かにまだやるべき仕事は残っているが、明日でもいい」という状態で定時の鐘を迎えた。
私は古葉君の後を追って定時で事務所を出た。走って追いついて、声をかけた。
「古葉君、私もちゃんと定時で帰る。駅まで一緒に行こう」
彼は驚いた顔をしたが、隣を私が歩く分、少しだけ脇によけた。
「小上さん、残してきて大丈夫なの?」
彼が問いかけ、私はすぐ答えた。
「でも、病み上がりだから早く帰るって言ってたよ」
古葉君は失笑した。
「……一週間の休み明けでソレだもん、やっぱ、ホントは帰れるのに残ってたんだよね、あの人も」
多分課長も今日、その気になれば早く帰れたことだろう。そしてきっと、普段講師との打ち合わせで部署を空けているのも、必要な分より何割増しかで長いんだろう。もちろんある程度は「つきあい」的なものも必要だと思うけど、「それにしても、いないことが多いよな」と思っていた分が腑に落ちた。電話だってメールだってあるんだし。
「古葉君、私が居残ってるの、気にさせちゃってたんだね。ゴメン」
私は改めて謝った。彼はまた失笑した。
「――いや、小上さんと花房さんのハッピータイムを邪魔しちゃいけない、とかも思ってたんだけどね。花房さん、小上さんのこと好きだよね、変な意味じゃなくて」
「あ、うん。変な意味じゃなくて」
いじらしくて可愛い、というレベルでね。
「いつも楽しそうで、『相思相愛』みたいだから、俺はお邪魔かなって思ったりもしてたんだけど」
古葉君はこらえきれないように表情を崩して、とうとう声をあげて笑った。苦笑とか失笑じゃなくて、普通に笑ったの、初めて見た。こんなに楽しそうに笑う人だったんだ……と思いつつ、ちゃんとツッコミは入れた。
「そんなに笑うようなこと?」
「いや、今花房さんが完全に素で『変な意味じゃなくて』って言ったの、聞いたら小上さんガッカリするだろうなと思って。あの人独身でしょ。何か期待してたかもしれないよ」
「えーっ! 仕事上の関係だし、そんな変な感情、小上さんにもないよ」
「もちろん、それはわかるよ。でも小上さん、花房さんと雑談してる時、必要以上に浮かれてたりすることもあったから、今日あっさり定時で出てきたの、多分ガッカリしてるよ」
「そうかな……うん、でもいいや。私、うちの部署は毎日遅くて大変とか思ってたけど、甘えてたなって反省した。これから、きちんとやって、できるだけ早く帰るよ」
「俺が変なこと言ったから? ゴメン」
「なんで謝るの? 古葉君が正論だと思っただけだよ。ありがとう。それと、前の会社はちゃんとした社員教育してたんだね。課長の仕事は部署のマネジメントだよ、とか。私、ここで二社目だけど、どっちもいきなり『この仕事をやれ』って言われるだけで、そういう教育受けたことなかったな。勉強になったよ。古葉君が来てくれて、よかった」
古葉君は照れくさそうに視線をあさってのほうに向けた。私はそれを見て、なんだ、ちゃんと普通にいろいろ人間らしい感情があるんだ……と感心していた。
「花房さんが小上さんのこと、変な意味じゃなくても好きっぽいから言いづらいけど……」
「何?」
「ああいう上司、信用しないほうがいいよ。いざとなったら助けてくれないから。部署の長だっていう自覚がない人は、部署全体とか、部下の責任とか、取る気ないと思うよ。あの人多分、自分も課員のつもりだよ。三人、責任は、対等にあると思ってる」
「そうなのかなあ~」
時々ちょっと可愛く部署長ぶって威張ったりする課長は可愛いんだけどなあ。
古葉君は、やれやれ……という顔をして、それから真剣に私を見据えて言った。
「ほら、騙されてる。これまでにああいうタイプの人は何人も見てきたよ。俺を信じろとは言わないけど、用心して損はないよ」
――その時の、『俺を信じろとは言わないけど』が、なんか、すごくかっこよかった。もしかして私ってバカなんだろうか。真剣な表情で「俺を信じろ」って言われたみたいに感じちゃった。彼はそんなこと、全然言っていないのに。
私の心中などまるで察することなく、古葉君は静かに説明してくれた。主張するでもなく、説得するでもなく、本当に、静かな語り口だった。
「課長が俺に最初に教えるのは、印刷業者のリストとか、教材のリストじゃなくて、うちの会社がどんな業務をしていて、その中でうちの部署がどういう役回りをしているか、だと思うよ。それから、うちの扱ってる資格が何で、各資格についてどういう講座を設けてるか。その下に、どんな教材が揃ってるか。うちの会社全体の構造がまず大事で、教材一つ一つは末端のことなんだよね。でも、あの人の頭の中では、細かい教材がバラバラに存在してて、一個一個いじくってるだけなんだよ。要領を得ないなって思ったこともあったけど、俺が小上さんに指図するのはおかしいから今まで黙ってたし、与えられた仕事はちゃんと時間内に終えてたから、それ以上の時間を費やす必要を感じなくて帰ってたわけ」
「うん……そっか……」
私もそういう系統立てた教えは受けていない。最初の年、言われたことを漫然とやって、以降「去年はこうだったから」という経験を基にがんばってきた。でも最初に総合的なことを教わっていたら、もっと「いい仕事」ができたのかもしれない。今年、いろいろ自分で担当させてもらえるようになって、「これとこれを一緒にまとめたら早いのでは?」ということにいくつも気がついている。
「なんかゴメン、愚痴るつもりはなかったんだけど……」
古葉君は言った。いや、それ、愚痴なんかじゃないよ。しかも、二ヶ月じっと誰にも言わず、不満を顔に一切出さずに「いけすかない奴」に甘んじていたのがすごい。
「ううん、言ってくれてよかった。古葉君の考えとか気持ちとか聞けて、私の気持ち的にも、仕事的にも、すごくよかった。ありがとう」
私はちょっとばかり感動していた。仕事に対しての考え方も変わったし、古葉君が、これまで閉ざしていた心を開いてくれたみたいに感じてうれしかった。
これまで幾分マイナスのイメージだった分、なんだか反動でよく見えてきちゃった。古葉駿二、イイじゃん。楽しそうな笑顔も、照れたような顔も見ちゃった。『俺を信じろとは言わないけど』がかっこよかった。見た目は別にかっこよくないけど。でも、この感じは、間違いなくいい人そうだ。
もちろん、課長に対してと同じで「変な意味じゃないけど」、この人はちょっといいな……と、はじめて思った出来事だった。