魔王様の烏滸鳥⑧
「テオ、居ますか?」
「おう、居るぞ」
扉越しに掛けられた声にテオさんが応えると、かちゃりと扉が開く音ーーアーチェ様が隠し部屋に入って来たようだ。すぐにぱたんと扉が閉められた所で、はぁ……と疲れたような溜め息が聞こえた。
「何処に行ったのかと思ってましたら、こんな所に迷い込んでいたなんて……貴方は全く」
「悪かったな、仕事は終わったぞ。……俺がここに居るのは、あの狸爺から聞いたか?」
「ええ、態々(わざわざ)報せに来て下さいましたよ。ーー貴方がここで珍しいものと居るから行ってみると良い、と」
ぴぐむ、やはりアーチェ様を寄越した犯人はモンス司教だったのか。しかし司教様、珍しいものとは何なのだ、僕は珍獣ならぬ珍鳥ですか。
……誰も僕を人扱いしてくれないのは何故なのだろうか。虚しい。
「見たところ貴方一人のようですが……私は狸に化かされたのでしょうか」
アーチェ様は言いながらテオさんに近付いたのか、靴音がすぐ近くまで来て止まった。マントの中からちらっと覗いてみると、意外にがっしりした造りのブーツの先が見えて、慌ててマントを被り直す。
……しかしこのマント、僕の存在をしっかり隠してくれているのだな。気配に聡そうなアーチェ様が僕に全く気付いていないのだ。きっと何か不思議な力が働いているのだろうな。
「気を付けろよ、狸は毒を持つからな。まぁ、今回はこれの事を言ったんだろ」
忠告めいた言葉の後に、がさっと音がした。何だ?
「その紙袋は?」
「さっきお前の小鳥から預かった荷物だ」
「小鳥さん?もう聖堂に来ているのですか?」
「俺は偶々(たまたま)鉢合わせたんだがな。自分はアーチェに会えなくなっちまったから、これだけ渡して欲しいとよ。会えなくて残念だとも言ってたぞ」
音の出所は僕の紙袋だったようだ。
しかし上手いなテオさん!今の言い方だと嘘は言っていないのに、僕は既にここには居なくて帰った後のように聞こえた。ありがとうございますっ、助かりますのだ!
実は、さっき門衛君達から煙たがれたのが精神的に地味に尾を引いていたのだがーーこうして、僕の意志を尊重して律儀に守ってくれる人がいる事にじんわりと嬉しくなる。
頭巾の女性やモンス司教のように親切な人も居るし、聖職者も捨てたものではないなっ!無論アーチェ様は最初から綺麗で親切で慈悲深くて、完璧な王女な聖女様だけれどっ!
「折角自ら来たというのに、逃がしてしまったのですか?」
……ぴぇ?
その素敵なアーチェ様が不穏な声音を発した。そういえば、昨日の別れ際も聖女様は何だか恐い雰囲気だった事を思い出す。
ぴぴ……?僕、アーチェ様にそこまで怒られるような事しちゃったのか?聖女批難と誤解されそうな発言は、笑って許してくれたっぽかったのにな。
それともやっぱり「ユー、聖女辞めちゃいなYOU」なんて軽々しく言ったのがいけなかったのか。テオさんとの愛の逃避行の方が良いのだろうか。ーーぴむ、ロマンスなのか。
「俺は捕まえろとは言われてねぇからな」
「貴方は本当に融通が利きませんね。……まぁ、良いでしょう。それなら申し付けます。ーー小鳥さんを、私の前に連れて来なさい」
ぴえぇっ!?そ、そこまでのお叱りモードでしたか!?
やばい、ご機嫌伺いは手紙の中で一応しているけれど、本気で怒っているなら逆効果なのだ。「……面と向かって言わずに謝罪が罷り通るとでも思ってんのか、あぁ?」と更に怒りを増長させてしまいそうなのだ!
いや、アーチェ様に限ってそんな言葉遣いはないだろうけどもっ。
「……お前の前なら良いのか?」
「私の前、ですよ。どうしてそんな確認をするのです?」
「ならアーチェ、ディアンになれよ。それならすぐに連れて来てやる」
僕が脳内でスライディング土下座の練習していると、二人は何か良く分からない話をし始めていた。しかし、最後の言葉を理解して、ぎょっとする。
ぴっ!?僕を売るのかテオさん!いくら恋人の頼みだからって、先に約束したのは僕なのに蔑ろにするなんて、酷いのだ!
……所詮友情なんて、恋の前には塵も同然なのですね?裏切者っ!リア充め!!
テオさんと友情を育んだ覚えも無いのだが、約束を反故にされそうな雰囲気に慌てて心で罵ってやる。
叶うならこっそりテオさんの足を蹴っ飛ばしてやりたいが、マントからぱっと覗き見ただけではどっちのブーツなのか分からなかったので、仕方なく諦めた。
「今、ここでですか?何故そのような事が必要なのです」
「なれば教えてやるよ。結界張りゃあいけるだろ。それとも、ディアンじゃ会えねぇか?」
「そのような事はありませんが……。はぁ、仕方ないですね。後で説明を下さいよ?」
アーチェ様は渋々と何かを了承したらしい。
さっきから言ってる、ディアンとは何の事なのだろうか?
「……わたくしの神力に応えよ、空間よ閉ざせ」
すると、部屋の空気がきんっと張り詰めたような感覚があった。外界の気配が遠退いて、マントを被って机の下に隠れるのとはまた違った閉塞感が生まれる。
「歪みを正し、真の形を成せ」
瞬間、アーチェ様からぶわっと清らかな風が立ち上った。これが神力というやつだろうか、噎せ返る程のそれに当てられて、思わずぎゅっと目を瞑る。
それはすぐに消えたので、恐る恐るマントの外へ意識を向けてみる、とーー。
「ーーこれで文句ないな?さっさと説明しろ」
ぴっ……誰なのだ?
厳かな神力の余韻を冷ますような低音。アーチェ様でもテオさんでもない、第三者の声に驚く。
ーーこの声の人、一体どこから涌いて出たのだ?
「それに今更だけどな、結界張ったから鼠一匹……いや、小鳥一羽もここに入れないぞ。これでどうやって連れてくる気だよ、テオ」
「心配すんな、説明してやる……よっ」
僕が首を傾げていると、がたんっと椅子を退かすような音がして……ぐいっと襟首を掴み上げられた。その拍子に被っていたマントから頭が出てしまう。
「ぴぐむっ」
驚くと同時に首が締まって声が洩れた。テオさんに襟首を片手でぷらーんと持ち上げられている。子猫掴み状態だ。何とか爪先が床に付くから命の心配はないけど、それでも首が苦しい。
「……おいテオ。ふざけているのか」
戦慄く声に顔を上げると、目の前に引き吊った顔の男性がいた。
黄金を溶かし込んだような瞳。同じ色の髪は銀環の髪飾りで一つに纏められて、緩く波打ちながら背中に流れている。
鎧が覗くテオさんの服とは違って、こちらはモンス司教のような貫頭衣を着ていたのだが、着る人によってこうも違うのかと思わせられた。モンス司教が人々を導く伝道師とすると、こっちは人々を惹き付ける天の御遣いのようだ。男女問わず魅了され、虜になる人は数知れないだろう、そんな美貌の持ち主だった。
そして何よりーー。
ぴっ!この人、アーチェ様にそっくりなのだ!他人の空似じゃないぞこれ、アーチェ様のお兄様ですかっ!?
「何でここに小鳥が居る!?思いっきり今の見られたじゃねぇか!何してくれてんだよお前っ!?」
目を丸くしていると、金綺羅お兄様がテオさんに詰め寄ってきた。
当然、テオさんにぶら下げられてる僕にも近付く事になるのだが……それ所じゃなさそうな剣幕なのだ。
けれど、当の本人はあっけからんとしたものだった。
「お前が小鳥を連れて来いって言って、ディアンでも大丈夫だっつったんだろうが。問題ねぇんだろ?」
「大ありだ馬鹿っ!そもそも、俺がアーチェを解く必要があったのか!?小鳥の前で転換させたのが尚更大問題だっ!」
「仕方ねぇだろ、この小鳥がアーチェには会えないって言うんだからよ。だったら、お前の前に連れて行くにはディアンにするしかねぇだろうし、小鳥はここに居たから一番手っ取り早く済ましたんだろうが」
「そんな理由でか……?お前は、本っ当に変な所で律儀だなっ!?俺なら良いとか屁理屈で済むかよ!アーチェに関する事は国の重要機密だって知らなかったか!?」
「そうだっけか?ま、結界は張ったんだし、外に漏れる事はねぇだろ。気に病むな」
「お前は気に病めよっ!」
ぴっ、金の天使様が頭を掻き毟っているのだ……綺麗な髪なのに勿体無い。アーチェ様と同じ色なのに。
ーーそういえば、その聖女様はどこに行ったのだろう?さっきの神力とやらで、このお兄様と入れ替わったのだろうか。
きょろきょろ部屋を見回してみてもアーチェ様の姿はない。首を傾げる僕に二人の視線が集まった。
「……分かってないみたいだな。目の前のこれがアーチェだぞ。今はディアンだから、お前の会いたいけど会えねぇって要望も一応叶えてやったって訳だ」
くいっと顎で示されたのは、脱力感に項垂れた金色美青年だ。その憂いを帯びたお姿も大変眼福……って何だって?
ーーぴ?アーチェ様がディアンさん?どういう事なのだ?
「はあぁ。今はと言うか……そもそも初めっから、クリスティアーチェなんていう存在はいないんだよ。あれはーー俺の仮の姿、だからな」
「ぴ、ぴぇえっ!?アーチェ様、いないのですか!?仮の姿っ!?」
「あぁそうだ。あれは、民衆が望む聖女様を俺が演じてるに過ぎないんだよ。ま、今となっては俺ーークリスディアンの方が失せ者扱いなんだがな」
……ぴ?ぴぴっ?更に訳が分からないのだ!
ええっと、アーチェ様とディアンさんは同一人物?ーー確かに凄いそっくり、別人だとか言われるよりはしっくりくるのだけど、男の人が女の人になれちゃうなんてアリなのか……。
摩訶不思議だな神力、凄過ぎるのだ。
それで今は男性体だから、アーチェ様に会えないと言った僕との約束をテオさんは破っていない、という事なのか?
ーーぴぐぬ、こじつけにも程があるような、屁理屈で済むならそれでも良いような……?い、良いのか?
ぴぃーっ!?何が何だか、もう訳が分からないのだっ!
大混乱に陥る僕を見かねたのか、再びディアンさんは溜め息を吐くと机を指し示した。腰を据えて落ち着いて話そう、という事だろう。
うむ、賛成なのだ。このままじゃ僕は知恵熱出すぞ。
テオさんも僕の襟首を離して席に着いたので、僕は甲斐甲斐しく新しい三人分のクリスティーを淹れてあげた。
もののついでにーー。
「良ければ、これも食べて下さいですよ」
折角なので、持ってきた紙袋からチョコレートの蒸しケーキを出して添えてあげた。疲労感に苛まれた時には、甘い物が一番の特効薬なのだ!
しかし、二人からは何とも言えない表情を貰った。「……何だこの不吉な色の物は」と目が物語っている。
ぴむむ、やはり粉糖だけでは黒い外見は隠しようがなかったからな。けど、今ここでこの国の黒を疎む価値観にケチをつけても仕方ないし……。
味は良いのだから色には目を瞑って貰いたいのだ。
二人の向かいに腰掛けてから、率先して自分の分をもふもふ食べて見せると、すぐにテオさんも敷紙を外してぱくんと食べてくれた。さっき調べて毒はないと分かっているからこその豪胆っぷりたろうか。
それを見て、ディアンさんも蒸しケーキを恐る恐るだが、口に運んでくれた。
「……旨い。何だこれ?」
二人が目を丸くする、その様子に僕はほくそ笑んだ。
ぴふふんっ、どうだ旨かろう。ふわっとした食感と、チョコレートの甘くほろ苦い味わいが楽しめる、良い出来になって良かったのだ。
チョコレートはやっぱり最高なのだ!
ケーキはあっという間に無くなり、至福の余韻に浸りながら三人でティーカップを傾ける。
陶磁器の白にクリスティーの薄緑が映えるなぁなんてぼんやり考えていたらーー何故か、対比の色が思い出されてはっとした。
ぴっ、いかんいかん!あまりに色々突飛で、展開についてけなくて心を飛ばしてしまったのだ。
僕がここに来たのはアーチェ様にお礼するのと、魔王様への誤解を解いて貰う為なのだーー目的を遂行せねばっ。
「アーチェ様もといディアンさん。昨日は助けて頂いた上に、色々良くして下さってありがとうございました。お借りしたハンカチ、洗ってきましたのでお返ししますですよ」
また忘れる前にと勢い込んで、ハンカチと手紙の入った紙袋を男性アーチェ様に差し出した。
勢いに圧されてか少し仰け反ったものの、黄金の君は素直に受け取ってくれた。
「ややこしいから、小鳥もディアンって呼べよ。ーー昨日は周りの目があったから、仮にも女を噴水に直座りさせるのが憚られただけだ。他意はないぞ」
紳士だ、紳士が居る……!そういう気障な事をさらっとやってのけるのが凄い、感動なのだ。
しかし仮にもって何だ。僕は元から女の子だぞ、失礼な。
一言余計だし少し口悪いのが勿体無い。見た目と行動は素晴らしく紳士なのになーー残念紳士なのだ。
「……お前な、今失礼な事考えてなかったか?」
ぴぇっ!?バレた!何て勘が鋭いのだディアンさん……!それも聖女の素質なのか!?
誤魔化すように乾いた笑みを浮かべてみたが、片頬が引き吊ってしまった。ディアンさんに半眼で見詰められる。
「ーーはぁ、もう良い。どうせ説明するつもりはあったんだ、問題ないって事にしておくさ。それよりも、だ」
音を立てず優雅にカップをソーサーに置いたディアンさんは、深く椅子に腰掛けて肘を置き、お腹の前で指を組んだ。為政者のような貫禄のある姿に、こちらも思わず姿勢を正してしまう。
「まどろっこしいのは嫌いだから簡潔に言うぞ、小鳥。ーーお前、聖女にならないか?」
ーーは?
言葉の意味が理解出来ず、ぽかんとディアンさんを見詰めてしまう。理解不能と書かれていただろうその顔を見て、彼は「いいか」と続けた。
「聖女というのは、その時の最高神力者に与えられる称号のようなものだ。本来はその名の如く、女がその地位に就くものなんだがーー色々あってな。已む無く今は男の俺が形を変えてそれに就いてんだ。……民衆を導く筈の聖職者が、自ら信者を謀る矛盾だ。笑えもしないだろう?」
皮肉な笑みも様になるディアンさん。だが、話がよく見えないまま、とんでもない事になっている気がする……。
「色々って……よく分かりませんですが、それでどうして僕が聖女になるなんて話になるのです?」
「昨日街道で見掛けた時、お前から凄まじい神力を感じたからだ。一瞬だけだったが、俺に勝るとも劣らない神力だった。俺は常々、聖女の後継を探してたからお前の神力に気付けたんだよ」
ぴ?僕にはそんなに神力とやらがあるのか?へぇーードライヤー要らずになれるのだろうか?
「下らない事を考えてる場合じゃないぞ。見た所、お前の神力にはムラがある。それを直さないと聖女としてはやっていかれない。ーーま、俺が指導してやるから心配は要らないけどな。有り難く思えよ」
わぁ、それは心強いのですよー……ってそうじゃない。
「僕は聖女になんてなれないのですよ」
「何だ、東の民だから気後れしてるのか?そこも心配要らないぞ。お前の中に眠る神力が示せるようになれば、皆目の色を変えて、お前に崇拝して傾倒するだろうさ」
出会い頭に水ぶっかけられるような僕が、大した進歩を遂げるようだ。神様にでもなるような物言いなのだな。凄く有り難い話なのだろうけれど。
ーーはっきり言って、見当違いなのだ。
「そうではなく、なる気がないのですってば。今の僕の保護者も連れも、聖女様が好きではないようですし、僕自身ここで要職に就くつもりもないのです。近い内に僕は国に帰りますですからね」
勿論帰るのは、東闇の国とやらではなく日本だ。
だからこそ、僕に神力とやらの使い方を教えてくれても無駄手間になるのがオチなのだ。
ーードライヤーはちょっと惹かれるけど、魔王様達を敵に回してまで会得したいとは思わないな。
「そう言えば、お前には飼い主が居るのだったか。それにしては姿を見かけないが、どこに居るんだ?」
「何処かに居るとは思いますですよーーって、飼い主ではなく連れなのですよ!僕はれっきとした人間なのですからねっ」
なにナチュラルに鳥扱いしてるのか!こらそこっ!「あれ?違うのか」って意外そうな顔をするんじゃないですよ!あ、テオさんまで同じ顔してる……酷いのだこいつらっ!
「昨日から、あんた以外の余所者の気配なんてしねぇんだが、本当に居るのか?そいつ」
サーチ能力の高いテオさんにも気付かれてないのか。カゲヤン、一体どこに隠れているのだ?
「ぴむぅ?でも、昨日もずっと付いててくれたみたいなのですよ。アーチェ様との会話も聞かれてましたし。ーー今もきっと、どこか草葉の影から僕の事を見守ってくれてると思いますです」
「……それ、死んでんじゃねぇかよ」
ぴ?言葉を間違えたか。連れは死んではないですよとテオさんに訂正しておく。
「まぁ例え死霊だろうと、俺が結界を解かない限り、この部屋の中を見る事すら敵わないがな」
結界というのは、さっきのディアンさんになる前にアーチェ様が作り出したこの閉鎖空間の事だろう。
元々が隠し部屋であった上にこれでは、いくらカゲヤンでもこの場所を突き止める事は難しいかも知れないと、ふと思った。
ーー途端に、足元が不安定になったような錯覚に襲われた。
この見知らぬ土地で、心の支えであるカゲヤンが側に居ない?そんな、まさか……という思いが胸をざわつかせる。
心細さに体が震えそうだ。ーー耐えるように、カゲヤンの甚平擬きをぎゅっと握り締めた。
「ーーつまり小鳥、今のお前に助けは来ないって事だな」
「ぴぇっ」
更に不安を煽るような、不穏な発言をするディアンさんを非難しようと顔を向ける。そして次の瞬間ーー。
音もなくディアンさんの右手に顕現した剣によって、僕の胸は貫かれていた。
「ーーっぴ」
さぁっと全身から血の気が引いた。目の前の光景が信じられない。
刃の中程まで深々と、胸の真ん中を貫く異物を呆然と見詰めながら、僕の胸中は嵐のように荒れ狂い始めた。
ーーな、何で剣?どうして突然胸に突き刺さってるの!?嘘でしょこれ……?僕、死んじゃうの?
ーーや、やだっ!死ぬのやだ!こ、こんなの嫌なのだ!死にたくないよっ!助けてお父さん……っ!誰か、助けてっ……。
「やっぱ、効かないんだな」
混乱の境地に達しそうな僕を観察していたディアンさんは、ぞんざいな口調と共に柄を握る手をぐりっと動かした。
胸を抉るように剣が動きーー僕はあまりのおぞましさに戦慄し、びくりと全身が竦む。
「普通の人間でも、神力で成した剣を食らったら失神くらいするものなんだけどな。ーー小鳥は何ともないようだな」
ーーぴ、ぇ?何ともない……の?
恐る恐る胸元に目を遣るとーーさっきとは違う角度ではあるけど、やっぱり剣は刺さっていた。
信じたくない光景にうわぁ……と青褪めつつも、よくよく見てみると、その剣自体が普通の物じゃない事が分かった。
普通の剣は鉄とかで出来ていて鋼色に輝く物だと思うのだけど、この剣は違う輝きを放っているし、向こう側が透けて見えるのだ。
刀身も柄もきらきらと様々な色が見えて眩いのに、いつまでも見ていたくなるような神々しさを孕んでいる。まるで……ステンドグラスから降り注ぐ陽光が剣の形になったみたいだった。
それを現すかのように、ディアンさんが手を離すとその剣は光の粒子を散らしながら、さらさらと空気に溶けてしまった。
剣のあった胸の真ん中をそうっと撫でてみると、未だどくどくと早い心音が掌に伝わったが、それ以外の異常はないようだった。
「これで小鳥には神剣が効かない程の高い神力があるってのが証明されたな」
「それ元から分かってた事じゃねぇかよ。昨日、噴水前で凝視したって小鳥の中は見れなかっただろ?しかも今日なんて、色んな所で聖水攻めにあってたみたいだぞ、コイツ」
「確かに全身清らかになってんな。聖水風呂にでも突っ込まれたのか?……そう言えば、このクリスティーも聖水で育てて、聖水で淹れる物だったな。小鳥、よく平気で飲んでたな」
「けしかけた狸爺も驚いただろうな。アーチェが気に入った鳥がどんなもんか、試したつもりだったんだろうが。ーー黒羊とか呼んでたし、ありゃあ確実に目ぇ付けられたぞ」
「渡さねぇよ、この鳥は俺のだ。次の聖女にするんだからな。爺共の羊になんてさせねぇよ」
ーーテーブルの向こうで二人が何事か話し合っているのは分かるのだけれど、僕は胸に置いた手が離せないでいた。
耳鳴りのように鼓動が鼓膜を満たしていて、体は石のように動かない。背筋とか凄く寒いのに、顔や掌には無数の汗が浮かんでいた。
それらを自覚すると、今更かたかたと全身が震えてきた。
「ん?どうした、小鳥」
僕の異変に気付いたディアンさんが片手を伸ばしてくる。
先程、僕の胸を貫いた剣を握っていた右手。それが目の前にーー。
「っぴ!やだっ!!」
ぱしんっと音を立てて、僕はその手を払った。
驚いた顔をする二人を前に後ずさるが、椅子の背凭れに阻まれてそれ以上は下がれなかった。
「小鳥、どうしたいきなりーー」
「そ、それはこっちの台詞なのですよっ!」
震える喉を叱咤して声を荒げる。目の奥がちかちかして体の震えが止まらない。
堪えるようにぎゅっと胸元ーーカゲヤンの甚平擬きの襟を押さえる。
「と、突然剣で刺すなんて酷過ぎるのです!僕のチキンハート……違った、僕のガラスのハートは繊細なのですっ取り扱い注意なのですよ!それを事もあろうに串刺しってなんなのだ!?僕は焼鳥ではないのですっ!ーーハツが食べたきゃ焼鳥屋に行けなのですよっ!!」
びっと扉を指差してやるとーー何とも言えない沈黙が流れた。
ディアンさんは叩かれた手で髪を掻き上げると「あー……」とか言いながら、僕に胡乱な目付きを向ける。
「なぁ小鳥。いきなり刺して驚かせたのは悪かったがーーそこは普通、怯えるとか命乞いするとかじゃないか?何でそんなに尊大なんだ」
「俺はハツよりモモが良い。塩で」
「テオ、お前は少し空気読め」
「ぴふっ、僕はつくねが良いのです。こりこりの軟骨入りで、半熟卵のたれを付けて欲しいのですよ」
「何だそれ旨そうだな……って違うだろ!?お前ら焼鳥から離れろよっ!」
ぴっ、折角ご飯の話題で調子が戻ってきたのに。ディアンさんイケずなのだ。
しかしここにもあるのか焼鳥屋。こっちのも食べてみたいのだ。
「たくっ。何にせよこれで決まりだ。今日から小鳥は俺の後継、聖女候補だからな」
「ぴゃっ!?勝手に決めないで下さいですよ!聖女なんてやりたくないって言ってるじゃないですか!」
「嫌だろうとやって貰うぞ、小鳥なら俺の神力を凌駕しうる可能性があるからな。ーーお前以外に居ねぇんだ、四の五の言うなよ」
捕まえるかのようにまたも伸ばされる右手を、今度は力一杯引っ叩いてやった。
ばちーんっと小気味良い音が響き「っ痛ぇ!?」とディアンさんが呻く。
「やらないのですっ!聖女のせの字も知らない僕が、そんなの出来る筈ないのですよ。大体、僕じゃなくてもディアンさんがそのまま聖女やってれば良いじゃないですか!」
今だってディアンさん演じるアーチェ様は、門衛君達や町の人々にも崇められる立派な聖女じゃないか。
態々(わざわざ)無知な僕なんかにやらせようとしなくても、この国の相応しい人がやるべきだ。
ーーそう安直に、僕は考えてしまったのだ。
「見た目も華やかで、王女様っぽいアーチェ様に聖女はぴったりですよ。昨日辞めれば良いって言った事、お詫びと共に全面撤回しますですから、継続して聖女様をお務めになって下さい。僕には、聖女やれなんて理不尽な事を言われる筋合いないのですよ!」
「ーーっ!」
ばちんっーーと、先程より強い音が響いた。
何が起こったのか分からないでいると、左の頬がじんじんと痛み出した。もしかして。
ーーディアンさんに、叩かれた?
「理不尽だと?そんなの当然だろうが!誰だって辛酸を舐めて生きてるもんだろうがよ!!」
今までにない程ディアンさんは怒っていた。
僕の言葉が彼の、何かしらの逆鱗に触れてしまったのだろうか。呆然と怒りに燃える目を見返す。
「何で男の俺が聖女なんてやらなきゃいけないっ!?何が因果応報だーー横暴の間違いだろぅがよ!俺だって悪い事なんかしてねぇ……。それとも俺は、産まれた時点で罪人になったのか?聖女と王女を追いやったのはーー」
そこでディアンさんはぐっと言葉を飲み込んだ。
苦しそうに拳を固めて俯くと、仄暗い色を目に宿した顔を上げた。
「……お前だけ被害者面で何でも済む訳ねぇだろ、何様だ。一人だけ安穏としてられると思い上がるなよ、烏滸がましいーー」
「おい、もう止めろディアン。八つ当たりしてぇのは分かったが、落ち着け。ーー手ぇ上げるなんて、お前らしくねぇぞ」
テオさんがディアンさんの肩を掴んで諌めると、ディアンさんははっと我に還ったように止まった。決まり悪そうに顔を反らしてから、握った拳を開いた。
「ーー悪い、つい苛っとしちまった。大丈夫か?小鳥……」
労りと後悔が滲む声音でそうっと、また手が僕に伸ばされた。今度は手を上げる目的とかじゃなくて、純粋に叩いた僕の事を気遣っているんだろうと分かる所作だった。
ーー分かったけれど、それとこれとは話が別だ。
「っぴ」
伸ばされた手を避けるように身を捩る。もう、色々……限界だった。
じんじん熱を持つする頬に誘発されてーー諸々の砦が遂に、音を立てて決壊した。
「ぴ、ひぅーーっぴやああぁぁぁあぁあぁぁっ」
悲痛な大音声が、狭い隠し部屋を満たす。
頬が痛い。心が痛い。僕はこんなに弱いつもりなかったのにーー。
こんなに泣くのはいつ以来だろうか。お父さんが出張で半月以上居ない時だって、我慢出来た。寂しかったけど仕方ないって頑張れたのに……。
悲しいのか、悔しいのか。もうそれすら分からなくて頭の中はぐちゃぐちゃだ。ぼろぼろと目から大粒の涙が溢れてくる。
堰を切ったかのように止めどなく頬を伝うそれに、目の前の二人がぎょっとするのが分かった。
「ディアン、何とかしろ!お前が泣かしたんだろうがっ」
「お、お前他人事だと思いやがって……!おい、小鳥。俺が悪かったからそんなに泣くな、そんなに泣くと目が腫れるぞ……」
困り果てた様子でおろおろと伸ばされた手を、またも僕は力の限り引っ叩いた。もう条件反射の域だ。
「ぴっ触んなでずよ!ぴぐっ、さっきから訳分がんない……っ!優じくしようとしたり、怒ったり、ふぐっ、何なのですか貴方は!ぴ、ぐぅ……も、やだぁっ」
カゲヤンの服の袖で目元を抑えても、一向に溢れる涙は止まらない。強くごしごし擦ったら目が痛くなって、それでまた泣けてくる悪循環だった。
「誰だってとか言うぐせに、自分のが理不尽な思いしてるとかっ、ぴぐ、貴方ごそ思い上がっでるのでずよ!ーーふぐっ。僕だっで、これでも大変なんですがらぁっ!」
嗚咽が止まなくて喉が焼けるようだった。苦しくて苦しくて、更に目が熱くなった。
ーー一体どうしてこうなったのか。どこからが不遇の始まりだったろう。
教室で居眠りをしたせいだろうか。
突然のお父さんの出張に、まさかの異世界トリップ。ジェットコースターは絶対トラウマになった。
着いた先は魔王の館で、いきなり魔王様に殺されそうになった。カゲヤンには沢山いびられるし、帰る為にと食育指導をする羽目になった。ーーそこはちょっと楽しかったかも知れないと思う。
次の日には聖都の人波に揉まれて、騙されそうになった所をアーチェ様に助けて貰った。こんなに完璧なお姫様が居るのかと感動したし、嬉しかった。ーー帰った所でまた殺されそうになったけれど。
誤解を解くためにと奮起してやってくれば、門衛君達に罵られるわ水ぶっかけられるわと、散々な目に合った。
頭巾のお姉さんには怖がられたし。モンス司教にはおもてなしして貰えたと思ったら、面白がって色々試してただけらしいし。
ここではこうして次期聖女を強要されそうになって、拒絶したら叩かれた。よく分からないまま怒鳴られもした。
ーーこれ、僕だって結構理不尽な目にあってやしないか?思えば、泣くだけの事を色々やられてきてる気がする。
寧ろ、心置きなく泣いて良いんじゃないだろうか?ーーそう結論に至ると、もう開き直った。
ここで枯れるまで泣いてやるっ!
「おい!泣き止めって言ってんのに、更に泣く奴があるか!?あぁもう、ほらハンカチやるから。な、落ち着けーー」
ディアンさんは紙袋からハンカチを探り出すと、僕にそうっと差し出した。何度も叩いたからだろう、若干距離がある所で手は止まった。
ーーが、敢えて僕はそれを叩き落とした。
邪魔すんなっ!
「ふぐぅっ、優じくない似非聖女に慰められるなんで真っ平御免でずっ!ぴぐっ、酷いディアンざんなんて、もう略して似非聖女呼ばわりじでやる!敬語だって使っでやるもんかっ」
「泣くか人を貶すかどっちかにしろよ!?いや、もう好きなだけ貶して良いから、いい加減泣き止んでくれっ」
相当参ってるようだ。慰めようにも手は拒まれるし、泣きっぷりは更に酷くなるしで打つ手がないのだろう。
「ぴっ、ごれが泣かずにいられまずかっ!ぴぅっ、世を儚む乙女の涙が似非聖女なんがに止められる訳ないのだっ!ぴっあぁあぁぁぁあぁぁぅっ!!」
泣くと決めたら泣くのだ。理性の箍を外させたディアンさんになんて止めて貰いたくもない、触れて欲しくなんてないのだっ!
「っあぁぁぅうぁぁぁ!ぴっ、あふっ。ぅぐっ、ふぁぁぁぁあぁぁ!あうぅ、お父ざぁぁぁん!ぴぐっ、カゲヤン!ぴぅーー魔王様ぁぁぁぁぁっ」
どうせ慰められるなら好きな人が良い。大好きな掌の感触があれば泣き止める。ーー助けて、助けてという悲哀の声も泣き声に溶けて溢れ出る。
「小鳥……」
性懲りもなく、ディアンさんは僕に手を伸ばしてきた。
叩こうとしたけれど、泣き疲れてきたのか腕に力が入らない。
その手が叩かれた左頬に触れそうにーー。
びしぃんっ!と今までにない鋭い音が響き渡った。
「っ痛ーー!?」
「ディアンっ!?」
右手を押さえたディアンさんが間合いを取るように飛び退いた。テオさんもディアンさんを案じながら、警戒を露にこちらを見据える。
一体何ーー。
「泣くな、烏滸鳥め」
頭にぽんと乗せられた掌。それはまさに、今しがた恋い焦がれた感触の一つであった。
無骨な触り方なのに温かくて、少し硬い職人の手が心地好い。
ーーこれは、この手は、間違いない。
「カゲヤンーーっ!」